장재형목사 설립 올리벳대학교, 성경적 고등교육의 도전 과제 해결을 위해 ABHE 플래그십 학교 총장 회의에 참여

5월 16일부터 18일까지 조지아주 마운틴파인에 위치한 캘러웨이 가든에서 성경적 고등교육협회(ABHE)와 관련된 대표 기관의 저명한 총장들이 모였습니다. 이 모임은 생각을 자극하는 토론, 매력적인 연사, 귀중한 네트워킹 기회를 위한 플랫폼을 제공했습니다. 장재형목사가 설립한 올리벳대학교의 총장인 마티아스 게브하르트 박사도 이 행사에 참여한 12명의 존경받는 리더 중 한 명입니다. 참석자들은 조 스토웰 박사, 게리 쿡 박사, 켄트 앤더슨 박사, … Read more

마가의 다락방에서 세상의 광장으로: 장재형 목사가 전하는 성령의 숨결

장재형(Olivet University) 목사가 전하는 사도행전 2장 강해는 ‘폐쇄된 다락방에서 열린 광장으로’ 향하는 거대한 영적 이동을 조명하며 시작됩니다. 예수가 처형된 후 예루살렘의 공기는 불신과 공포로 가득 찼고, 두려움에 사로잡힌 제자들은 스스로를 마가의 다락방이라는 좁은 공간에 고립시켰습니다. 장재형 목사는 이 다락방을 단순히 높은 곳에 위치한 방이 아니라, 숨고 싶어 하는 인간 영혼의 위축된 심리적 고도로 해석합니다. 그러나 … Read more

張ダビデ牧師、創世記3–4章に見るサタンの堕落と善悪弁別の霊的戦い

創世記3章と4章は、人類史を理解するための最も深層的な関門である。張ダビデ(Olivet University)牧師は、この二つの章を通して、創世記1–2章の「はなはだ良かった」という創造世界と正面から対比される“堕落の構造”を明らかにし、アダムとカインの罪を単なる出来事ではなく、人類全体が共有してきた霊的パターンとして読み解く。主の祈りの最後の嘆願である「わたしたちを試みに遭わせず、悪からお救いください」は、この観点から見れば、漠然とした守りの祈りではなく、まさに創世記3章の悲劇を繰り返さないようにしてほしいという切実な願いである。神が確かにおられるように、サタンもまた確かに存在する。しかし彼は決して神と対等な“もう一つの神”ではない。神が造られた存在が、自ら与えられた地位を捨てて変質した――すなわち堕落した被造物にすぎないのである。 聖書は創世記3章の蛇を曖昧にしない。ヨハネの黙示録12章は「昔の蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす者」と断言し、エデンの蛇と歴史の終末に現れる大いなる竜とを同一線上に結びつける。この“昔の蛇”の深層を照らす鏡が、イザヤ14章とエゼキエル28章である。ツロの王、バビロンの王に対する預言的風刺のうちに、張ダビデ牧師は単なる一国の暴君を超えて、その背後で歴史を動かす霊的実体――「暁の子、明けの明星」と呼ばれるルシファーの高慢と没落を読み取る。「暁の子、明けの明星よ、どうして天から落ちたのか」という嘆きは、本来、光を映すために造られた天使が、自分の座を離れ、創造主の座を奪おうとして墜落した悲劇の頂点を雄弁に物語る。ユダの手紙1章6節が「自分の地位を守らず、自分の住まいを捨てた天使たち」が永遠の鎖で闇に閉じ込められたと証言する箇所は、堕落の本質が単なる規範違反ではなく、「自分の場所を捨てたこと」だと明確に示している。 張ダビデ牧師は、天使の堕落の中に人間の罪性の原型を見る。私たちが犯すすべての罪を深く追跡していくと、結局はルシファーが先に歩んだ道を反復しているに過ぎない、というのである。ヨハネ8章44節でイエスは、宗教的には誰よりも熱心だったパリサイ人に向かって「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出たのだ」と断言された。この言葉は衝撃的だが、人間が中立的存在ではなく、根源的には“ある父”の姿に似ていく存在であることを暴く。初代教父テルトゥリアヌスやアウグスティヌスが原罪を論じたことも、結局、人間は生まれながらにサタンの偽りと欲望の構造の中に捕らえられている、という聖書的診断を神学言語で解き明かしたものだと言える。ヨハネの黙示録12章で、サタンの尾が引きずって地に投げ落とした「天の星の三分の一」は、堕落した天使たちの巨大さを象徴するが、張ダビデ牧師は、彼らが歴史と文化、権力とイデオロギーの背後でどれほど緻密に作動しているかを強調する。 ユダの手紙1章7節は、ソドムとゴモラが「みだらなことをし、異なる肉を追い求めた」ため、永遠の火の刑罰を受けたと証言する。張ダビデ牧師はこの節を、堕落した天使の欲望と、それに呼応して歪曲された人間の性的欲望の極限と結びつけて読む。彼にとって、金と性(セックス)は、サタンが最も容易に用いる二本の軸である。古代近東世界のバアルとアシェラ崇拝、子どもを火に通すモレクの人身供犠、荒野でイスラエルが最初に造った金の子牛の偶像――これらは皆、性と物質、そして生命に対する歪んだ崇拝が絡み合った事件である。本来、神に捧げられる最上級のいけにえであった雄牛の形が、モレクの偶像へと化け、幼子の血を要求するようになったように、サタンはいつも神に捧げられるべき栄光と礼拝を横取りし、自分のための俗なる崇拝へとねじ曲げる。今日のマモンとバアルは、もはや石や木で立てられた像ではなく、性的快楽を商品化し、人間の尊厳にすら値札を付ける文化と構造として存在している。 この巨大な歪みの背後にいる天使たちを、張ダビデ牧師は「知・情・意を備えた人格的存在」と理解する。天使は単なるエネルギーや力ではなく、考え、感じ、選び取る霊的な人格である。神は、愛と従順が強制ではなく自由意志による応答となることを望まれたゆえに、天使にも人格と自由を与えられた。だからこそ天使の堕落は、神の側から見れば涙が出るほど痛ましい出来事である。本来、互いに仕え合い、神の栄光を喜びをもって歌うべき存在が、「私は上ろう、私は高くされよう、いと高き者のようになろう」という高慢の中で反逆の道を選んだ事実は、単なる神話ではなく宇宙的悲劇である。 イザヤ14章は、堕落した明けの明星の心の独白を細密に記録する。「私は天に上り、神の星々の上に私の座を高くしよう…北の果ての集会の山に座ろう…いと高き者のようになろう」。繰り返される「私が」という言葉の中に、高慢の核心が凝縮されている。被造物でありながら創造主と自分を並列に置こうとする自律の極致、自分の位置を越えて神の領域を占有しようとする欲望――それが堕落の本質である。これと真っ向から対立するのが、ピリピ2章に描かれたキリストである。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しいことを固守すべきこととは思わず、かえって自分を空しくし、しもべのかたちを取り、人間と同じ者となられ…死に至るまで従順であられた」。ケノーシス、すなわち自己を空しくする道を歩まれたキリストは、神でありながら人のように低くなられ、ルシファーは被造物でありながら神のように高くなろうとした。一方は自分を高めてシェオル――穴の最底部へ落ち、他方は自分を低くされたゆえに神が彼を高く上げ、すべての名にまさる名を与えられた。 創世記3章の善悪の知識の木の事件は、この二つの道の分岐点で、人間がどちらを選んだかを示す。善と悪を規定し、いのちと死、祝福と呪いの境界線を引くことのできる主権者は、究極的には神おひとりである。「善悪を知る木」の実を食べてはならないという命令は、単なる“禁じられた果物リスト”ではなく、善悪判断の主体は神でなければならず、人間であってはならないという宣言である。ところが蛇は巧妙に神の言葉を歪める。「神は本当に、園のどの木からも食べてはならないと言われたのか」。事実ではない誇張を投げ込み、神の善良さを疑わせる戦略である。女は「食べてもならず、触れてもならない」と答え、いつの間にか不信の情緒を内面に迎え入れ始める。見ることから始まり、手を伸ばし、ついには口に入れる――この過程は欲望の成長構造を象徴する。十戒の最後が「隣人のものを欲してはならない」で終わるのは、罪が外的行動に先立って心の貪欲から出発することを示すためである。イエスが「女を見て情欲を抱く者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と言われたのも、まさにこの内面の罪の構造を射抜く宣言である。 蛇の頂点にある嘘は、「あなたがたは決して死なない」という言葉である。神が「必ず死ぬ」と言われた言葉を正面から覆すこの宣言の中には、神の真実性への徹底した不信と、人間が自ら善悪の基準になれるという傲慢が潜む。「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのだ」という誘惑は、神なき道徳、神なき真理、神なき主権を約束する言葉である。張ダビデ牧師は、この言葉を今日の言語に翻訳すれば、ポストモダニズムの信条と何ら変わらないと診断する。絶対真理はなく、あらゆる価値は相対的であり、何が正しく何が間違っているかは状況と個人の選択に依存する――いわゆる状況倫理(situational ethics)は、本質的に「善悪の主体は神ではなく私だ」という蛇の言葉を哲学的に精緻化したバージョンに過ぎない。 したがって、神が「人は善悪を知ることにおいて、われわれの一人のようになった」と言われ、いのちの木への道を炎の剣で塞がれたことは、単なる報復ではなく、堕落した状態を永続化させないための慈しみである。もし神が、善悪の基準を奪い取った人間がその状態のまま永遠の命を得ることを許されたなら、宇宙は永遠の反逆と混沌の空間となってしまっただろう。裁きの中に隠された保護、呪いに聞こえながら実は救いの装置を備えられたこの場面において、張ダビデ牧師は神義論的誤解がほどける地点を見る。神は堕落を傍観する冷淡な神ではなく、「死ぬかもしれない」と震える心で人間を警告される父である。 ここで視線をヨブ記へ移すと、堕落した天使たちの運命がより鮮明になる。伝統的に旧約の中で最も早く記された書と見なされることの多いヨブ記は、この地上の苦難をめぐる天の法廷の場面を示す。サタンは神の前で人間を訴える者として登場する。「ヨブは何の理由もなく神を恐れるでしょうか」という問いの中で、彼は人間の敬虔さすら取引と条件の枠に還元しようとする。神は全能であるゆえに堕落した霊的存在を即座に滅ぼすこともできるが、公正の神は、人間の誠実とサタンの虚偽が歴史の中で露わになる過程を許される。その間、サタンは支配者や権威者、この闇の世界の支配者たちを背後から操る。エペソ6章12節が描くように、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、「支配者たち、権威者たち、この暗闇の世界の支配者たち、天上にいる悪の霊ども」に対するものである。世の王たちが時に「竜の座」に座っているかのように見えるのは、背後でサタンの霊が構造と制度を通して人を圧迫するからである。 しかし福音は、ここで決定的転換をもたらす。イエスは「強い者を縛る方」として来られた。マタイ4章の荒野の試みにおいて、イエスはルシファーが動員した方式と本質的に同じ誘惑に直面される。経済的欲望を刺激するパンの誘惑、宗教的誇示と奇跡を利用する神殿の頂の誘惑、政治的支配と栄光を約束するこの世の国々の誘惑。しかしイエスは一度たりとも自分の感情や状況を基準に判断されず、「こう書いてある」という御言葉の剣で応答される。善悪の基準は人間の欲望ではなく神の言葉にある、という事実を身をもって証しされたのである。試みが終わった後に「悪魔は去り、天使たちが来て仕えた」という箇所は、誘惑に勝利した者に与えられる霊的権威と慰めの象徴であり、ルカ10章18節の「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」という言葉は、イエスの勝利が個人的次元を超えて宇宙的秩序を組み替える出来事であることを示す。主は弟子たちに、蛇やさそりを踏み、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えられ、この権威の中で教会は“女の子孫”として蛇の頭を踏み砕く存在へと召された。 創世記4章は、エデンの堕落が人間関係と社会構造の中でどのように具体化するかを映す鏡である。カインのささげ物は、外面的には敬虔な礼拝行為に見えた。しかし神はアベルのささげ物を受け入れ、カインのささげ物を受け入れられなかった。問題は形式ではなく、心の態度と信仰――すなわち神に向けた信頼の内容であった。カインは拒まれた経験の中で、自分の内面を照らしてみよという神の招きを受け入れず、むしろ怒りと妬みを握りしめる。神は「罪は戸口で待ち伏せている…あなたはそれを治めなければならない」と警告されるが、彼はその言葉に従わない。戸口にうずくまる罪の姿は、エデンで蛇が近づく場面を想起させる。罪を治められなかったカインは、ついに弟アベルを野に誘い出して殺すことで、「初めから人殺しであった者」である悪魔の姿を再現する。アダムの堕落が神との垂直的関係を破壊したのだとすれば、カインの殺人は人と人との水平的関係を破壊した最初の事件である。人類史の悲劇的パターンが、この二章に凝縮されている。 この混乱の根底には、真理の歪曲がある。ヨハネ8章44節は悪魔を、「その中に真理がなく…偽りを語るときには自分のものを語る」存在、「偽り者、偽りの父」と規定する。今日の世界が真理と偽りの境界を失い、情報とイデオロギー、世論と感情の騒音の中で何が正しいのかさえ見分けがたい現実は、単なる技術文明の副作用ではない。善悪判断の座を神の御言葉から引き剥がし、人間の状況と嗜好へ移してしまった結果である。ポストモダニズムが「絶対はない」と言うとき、実際には「私の感覚と選択が絶対基準だ」という別の絶対を立てているに等しい。このように現代の思潮は、形を変えただけで、本質においてはエデンの蛇の言葉を繰り返している。 これに対し張ダビデ牧師は、パスカルの告白を引きながら、私たちが信じる神を「哲学者の神」ではなく「アブラハムとイサクとヤコブの神」として紹介する。この神は抽象的な第一原因ではなく、エルサレムを見て涙を流し、ラザロの墓の前で泣き、預言者を殺す都を嘆かれる人格的神である。イエスの涙は、死の悲劇ゆえだけではなく、復活と命がご自身の内にあるにもかかわらず、なお信じようとしない人間の頑なさへの悲しみでもあった。この神は今日も、堕落の轍の中にいる私たちに語りかける。「わたしが真理である。あなたが善悪の基準になろうとするのではなく、わたしの言葉とわたしの子を見つめなさい」。 結局、張ダビデ牧師が創世記3–4章と主の祈り、善悪の知識の木とルシファー、カインの殺人と現代文明の偶像までを一本の線で貫いて提示する理由は明確である。私たちはもはや霊的幼子のままでいることはできない。ヘブル5章13–14節が言うように、「乳を飲んでいる者は幼子で、義の言葉を経験していない」。堅い食物は「感覚を働かせて訓練し、善悪を見分けることのできる者たち」の分である。善悪の主体になろうとした高慢を手放し、ただ神の御言葉の内で善と悪を識別する感覚を鍛えること――それが霊的成熟の核心である。 主の祈りの「わたしたちを試みに遭わせず、悪からお救いください」は、そのように日々の存在を支える霊的呼吸となる。この祈りは、誘惑や試みそのものを完全に取り去ってほしいという願いではなく、試みの只中で悪に捕らわれないように、告発者の手に渡らないように、エデンの失敗とカインの悲劇を繰り返さないように守ってほしいという嘆願である。聖霊が私たちの内に光として臨むとき、闇は留まる場所を失う。ルシファーは光を模し、自らを明けの明星だと称したが、真の明けの明星は黙示録22章でご自身を「輝く明けの明星」と明かされたキリストである。女の子孫であるキリストの内にとどまり、その御心を抱き、主が示された謙遜と従順の道に従うとき、私たちはついに蛇の頭を踏み砕き、サタンの偽りと偶像を見分けて勝利する歩みへと進んでいく。そしてその道のただ中で、張ダビデ牧師が繰り返し勧めるように、私たちは聖書を深く知り、御言葉を昼も夜も黙想し、善悪を弁別する成熟した者へと成長しなければならない。それこそが、堕落した時代を生きる信徒に与えられた、最も現実的で、しかも栄光に満ちた召命なのである。 日本オリベットアッセンブリー教団 www.davidjang.org

张大卫牧师:从创世记 3–4 章看撒但的堕落与分辨善恶的属灵争战

元描述:张大卫牧师以创世记 3–4 章为根基,缜密解读撒但的堕落与人类原罪、分别善恶树的神学意涵、该隐之罪与属灵谱系;并将路西弗的骄傲与基督的“虚己(kenosis)”作鲜明对照,批判性照亮当代偶像与后现代相对主义的迷雾,呈现一篇高阶神学与灵修并进的深度随笔。 搜索关键词:张大卫牧师, 张大卫 牧师 讲道, 创世记3章 释经, 创世记4章 该隐, 亚当的堕落, 分别善恶树 意义, 路西弗 启明星, 撒但 堕落, 堕落的天使, 原罪 教义, 启示录12章, 犹大书1章, 约伯记 神义论, 巴力 偶像, 摩洛 人祭, 玛门 偶像, 批判 后现代主义, 情境伦理, 虚己, 腓立比书2章, 约翰福音8章, 希伯来书5章 分辨善恶, 属灵争战 讲道, 主祷文 不叫我们遇见试探 创世记第 3 章与第 4 章,是理解人类历史最深层的入口。张大卫(Olivet University)牧师借着这两章,揭示出与创世记1–2 章“甚好”的受造世界正面相对的堕落结构;并将亚当与该隐的罪,不当作孤立的事件,而是当作全人类共享的属灵模式来阅读。主祷文最后的祈求——“不叫我们遇见试探,救我们脱离凶恶”——从这个角度看,就不只是笼统的保护祷告,而是恳切求神使我们不再重演创世记第 3 章的悲剧。神真实存在,撒但也真实存在;但撒但绝不是与神对等的另一位“神”。他不过是神所造的受造物,自己弃绝所赐的地位而变质,成为堕落的受造者而已。 圣经并不让创世记第 3 章的蛇保持模糊。启示录第 12 章明确钉死这身份,说那是“古蛇,又叫魔鬼,也叫撒但,是迷惑普天下的”。藉此,伊甸园中的蛇与历史终局出现的大龙被放在同一条线上。照亮这“古蛇”深处的镜子,就是以赛亚书第 14 章与以西结书第 28 章。它们在对推罗王、巴比伦王的预言性讽刺里,张大卫牧师读出的不只是地上暴君,更是其背后运作的属灵实体——被称作“明亮之星、早晨之子(启明星)”的路西弗之骄傲与倾覆。“明亮之星,早晨之子啊,你何竟从天坠落!”这句哀叹,雄辩地诉说:原本受造为要照耀的天使,竟离开自己的位分,妄图逾越造物主的宝座,最终坠落的悲剧顶点。犹大书 1 章 6 节说:“不守本位、离开自己住处的天使”,被拘留在幽暗里,等候大日的审判——这段经文把堕落的本质说得清清楚楚:它不仅是“违反规条”,更是“离开本位、弃绝自己受造的位置”。 张大卫牧师在天使的堕落里,看见人类罪性的原型。他认为:若把我们所犯的各样罪一路追溯到底,终究不过是在重复路西弗先走过的道路。耶稣在约翰福音 8 章 44 节对宗教上极其热心的法利赛人说:“你们是出于你们的父魔鬼。”这话令人震惊,却揭示人并非中立的存在——人在根本上会越来越像某一位“父”,在其形象里被塑造。初代教父特土良与奥古斯丁论述原罪,也可以说是在说同一件事:人自出生起就被捆在撒但的谎言与私欲结构里,而这圣经诊断被他们用神学语言加以展开。启示录 12 章里,“龙的尾巴拖拉天上星辰的三分之一摔在地上”的意象,象征堕落天使规模之巨大;张大卫牧师强调,这些堕落者在历史、文化、权力与意识形态背后,如何细密而深刻地运作。 犹大书 1 章 7 节又说:所多玛、蛾摩拉“随从逆性的情欲”,受永火的刑罚。张大卫牧师把这段经文与堕落天使的欲望相连,理解为人类被扭曲的性欲在极端处的爆发。对他而言,金钱与性(sex)是撒但最顺手操弄的两条诱惑轴线。古代近东的巴力、亚舍拉崇拜,把子女经火献给摩洛的人祭,以及以色列在旷野最先铸造的金牛犊偶像——这些事件都把性、物质与生命的扭曲崇拜纠缠在一起。正如原本该献给神的上等祭牲“牛”的形象,竟被偷换成摩洛偶像,转而向孩童之血索取;撒但总是夺取本该归给神的荣耀与敬拜,把它扭曲成卑贱、污秽、以己为中心的崇拜。今日的玛门与巴力,不再以石头木头的神像出现,却以一种文化与结构存在:将性快感商品化,甚至给人的尊严贴上价格标签。 在这一巨大扭曲背后,张大卫牧师把那些天使理解为“具有知情意的位格性存在”。天使不是抽象能量或无人格的力量,而是会思考、会感受、会选择的属灵位格。神盼望爱与顺服不是被迫,而是自由意志的回应,因此也赐给天使位格与自由。正因如此,天使的堕落在神看来是令人泪下的悲痛事件:原本应当彼此服事、欢然歌颂神荣耀的存在,竟在“我要上升、我要被高举、我要与至高者同等”的骄傲里,选择了背叛之路——这不是神话,而是宇宙性的悲剧。 以赛亚书第 14 章细致记录了堕落启明星心里的独白:“我要升到天上;我要高举我的宝座在神众星以上……我要坐在聚会的山上,在北方的极处……我要升到高云之上;我要与至上者同等。”这不断重复的“我要”,把骄傲的核心压缩到极致:受造物却要与造物主并列,企图以自律代替顺服;越过受造的边界,占据神的领域。与此完全相反的,是腓立比书第 2 章所描绘的基督:“他本有神的形像,不以自己与神同等为强夺的;反倒虚己,取了奴仆的形像,成为人的样式……存心顺服,以至于死。”凯诺西斯(kenosis),即“虚己、倒空自我”的道路:基督是神,却甘愿降卑如人;而路西弗是受造,却妄图升高如神。一方自抬而坠入示奥尔、坟坑深处;另一方自卑而被神升为至高,得着超乎万名之上的名。 创世记第 3 章“分别善恶树”的事件,正显明人在这两条道路的分岔口所作的选择。界定善恶、划出生死与祝福咒诅边界的主权者,终究只有神一位。“分别善恶树”的果子不可吃,这并非“禁吃果物清单”,而是宣告:善恶判断的主体必须是神,不可由人取代。然而,蛇狡猾地扭曲神的话:“神岂是真说不许你们吃园中所有树上的果子吗?”它抛出并非事实的夸张,使人开始怀疑神的良善。女人回答说:“也不可摸。”在不知不觉间,不信的情绪已经渗入内心。从“看见”开始,到“伸手触碰”,最后“入口吃下”,这一连串过程象征欲望的生长结构。十诫最后一条以“不可贪恋”收束,是因为罪在外在行为之前,先从内心的贪欲发动。耶稣说“看见妇女就动淫念的,这人心里已经与她犯奸淫了”,正是直击这内在罪的结构。 蛇的谎言在顶点处达到最尖锐的逆转:“你们不一定死。”这话正面推翻神“你必定死”的宣告,里面藏着对神信实的彻底不信,以及人可以成为善恶标准的狂妄。“神知道,你们吃的日子眼睛就明亮了,你们便如神能知道善恶。”这是一个承诺:没有神的道德、没有神的真理、没有神的主权。张大卫牧师指出:若把这话翻译成今日的语言,它与后现代主义的信条几乎无异——绝对真理不存在,一切价值都是相对的;是非对错取决于处境与个人选择。所谓情境伦理(situational ethics),本质上就是把蛇的话用更精致的哲学语言包装:善恶的主体不再是神,而是“我”。 因此,当神说“那人已经与我们相似,能知道善恶”,并用发火焰的剑把守生命树的道路时,这并非单纯的报复,反倒是怜悯:神不容许堕落状态被永恒化。若神任凭人夺走善恶标准之位,又在那状态里获得永生,宇宙将成为永恒的反叛与混沌。审判里隐藏着保护,咒诅之声中其实埋着救恩装置——张大卫牧师在这里看见神义论误解被松开的关键:神不是冷淡旁观堕落的神,而是以父亲的心颤抖警告“免得你死”的神。 把视线转向约伯记,堕落天使的命运更为清晰。传统上常被认为是旧约中最早成书的约伯记,把地上苦难背后的天上法庭呈现出来:撒但站在神面前,作为控告人的者出现。“约伯敬畏神,岂是无故呢?”这问题里,他试图把人的敬虔也还原成交易与条件。神固然全能,可以立刻灭绝堕落的灵;但公义的神容许一个过程,使人的忠信与撒但的谎言在历史中被显明。在此期间,撒但在背后操纵执政的、掌权的。正如以弗所书 6 章 12 节所言:我们的争战不是与属血气的争战,乃是与“那些执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔”争战。世上君王有时像坐在“龙的座位”上,并非偶然——是因为撒但的灵借着结构与制度,使人受压迫、受辖制。 然而福音在此带来决定性的转折:耶稣以“捆绑壮士的那一位”而来。马太福音第 4 章的旷野试探里,耶稣面对的诱惑,与路西弗惯用的方式在本质上是一致的:以饼满足经济欲望的试探;以圣殿顶端的表演性神迹催动宗教虚荣;以天下万国的荣耀诱使政治支配。可是耶稣一次也不以情绪或处境为判断标准,而是以“经上记着说”的话语之剑回应。祂亲身见证:善恶的标准不在人的欲望,而在神的话语。试探结束后,“魔鬼离了他,有天使来伺候他”,象征胜过诱惑者所领受的属灵权柄与安慰;路加福音 10 章 18 节“我曾看见撒但从天上坠落,像闪电一样”,则表明耶稣的得胜不仅是个人层面,更是重整宇宙秩序的事件。祂赐门徒权柄践踏蛇和蝎子,胜过仇敌一切的能力;在这权柄里,教会作为“女人的后裔”蒙召,去践踏蛇的头。 创世记第 4 章是另一面镜子:伊甸的堕落如何在人的关系与社会结构里具体化。该隐的献祭,从外表看似敬虔的敬拜行动;但神悦纳亚伯的祭,却不悦纳该隐的祭。问题不在形式,而在内心的态度与信心,也就是对神的信赖内容。该隐在被拒绝的经验中,本该接受神邀请:回到内里省察;但他反倒抱住愤怒与嫉妒。神警告他说:“罪伏在门前……你却要制伏它。”然而他不听。“伏在门前”的罪像是蹲伏的兽影,让人想起伊甸里蛇靠近的场景。不能制伏罪的该隐,最终把弟弟亚伯引到田间杀害,重演那“从起初就是杀人的”者——魔鬼——的形像。亚当的堕落撕裂人与神的垂直关系;该隐的杀人则是摧毁人与人之间水平关系的首次事件。这两章把人类历史的悲剧模式压缩其中。 这一切混乱的根部,是对真理的扭曲。约翰福音 8 章 44 节定义魔鬼:“他心里没有真理……他说谎是出于自己;因他本来是说谎的,也是说谎之人的父。”今日世界在真与假的边界上失去辨识,在资讯、意识形态、舆论与情绪噪音中,甚至不知何为正确——这并不只是科技文明的副作用,而是把善恶判断从神的话语挪到人的处境与偏好之后的必然结果。后现代主义说“没有绝对”,但实际上往往是在树立另一种绝对:把“我的感觉与选择”当作终极标准。换言之,当代思潮只是改了外形,本质仍在重复伊甸的蛇所说的话。 与之相对,张大卫牧师引用帕斯卡尔的告白,强调我们所信的不是“哲学家的神”,而是“亚伯拉罕、以撒、雅各的神”。这位神不是抽象的第一因,而是会望着耶路撒冷流泪、会在拉撒路坟前哭泣、会为杀害先知的城而忧伤的位格之神。耶稣的眼泪,不只是为死亡悲剧而流,更是为人类在复活与生命就在祂里面时仍不信的刚硬而流。今天,这位神仍对活在堕落枷锁中的我们说:“我就是真理。不要让你成为善恶的标准;转向我的话语,仰望我的儿子。” 因此,张大卫牧师把创世记 3–4 章与主祷文、分别善恶树与路西弗、该隐的杀人以及现代文明的偶像串成一条线来呈现,其用意十分清楚:我们不能再停留在属灵的幼年。希伯来书 5 章 13–14 节说:“凡只能吃奶的,都不熟练仁义的道理,因为他是婴孩;惟独长大成人的才能吃干粮;他们的心窍习练得通达,就能分辨好歹(善恶)。”把自己当作善恶主体的骄傲必须放下;在神的话语里受训练、养成分辨善恶的属灵感官,才是成熟的核心。 主祷文的“不要叫我们遇见试探,救我们脱离凶恶”,于是成为每天托住我们存在的属灵呼吸。这祷告并非求神把一切诱惑与试炼完全挪去,而是求神使我们在试炼中不被恶者掳去、不落入控告者之手,不再重演伊甸的失败与该隐的悲剧。当圣灵以光进入我们里面,黑暗就失去立足之地。路西弗曾模仿光,自称启明星;但真正的晨星,是启示录 22 章里宣告自己为“明亮的晨星”的基督。我们住在这位“女人的后裔”基督里,怀祂的心,走祂所示范的谦卑与顺服之路,就必在生命中学会践踏蛇头,分辨并胜过撒但的谎言与偶像。也正是在这条路的中心,张大卫牧师一再劝勉:要深知圣经,昼夜思想神的话,长成能分辨善恶的成熟之人——这是堕落时代里的信徒最真实、也最荣耀的呼召。 www.davidjang.org

Pasteur David Jang, la chute de Satan et la guerre spirituelle du discernement du bien et du mal à la lumière de Genèse 3–4

Genèse 3 et 4 constitue l’un des passages les plus profonds pour comprendre l’histoire humaine. À travers ces deux chapitres, le pasteur David Jang (Olivet University) met en évidence la structure même de la chute, en contraste frontal avec le monde créé de Genèse 1–2, qualifié de « très bon ». Il lit le péché … Read more

Pastor David Jang: la caída de Satanás y la guerra espiritual del discernimiento del bien y del mal en Génesis 3–4

Génesis 3 y 4 constituyen el umbral más profundo para comprender la historia humana. El pastor David Jang (Olivet University) lee estos dos capítulos como la revelación de la arquitectura de la caída, en contraste frontal con el mundo creado de Génesis 1–2, donde Dios declara que todo era “muy bueno”. Para él, el pecado … Read more

Pastor David Jang — The Fall of Satan and the Spiritual War of Discerning Good and Evil in Genesis 3–4

Genesis 3 and 4 function as the deepest gateway for understanding human history. Through these two chapters, Pastor David Jang (Olivet University) exposes the structure of the Fall as a direct counterpoint to the creation world of Genesis 1–2, where God declared everything “very good.” For him, Adam’s sin and Cain’s sin are not isolated … Read more

从张大卫牧师对《哥林多前书》第10章的讲解中学习属灵成熟与安息

旷野并不只是由沙与石构成的地貌,它更像一座巨大的舞台,赤裸裸地显明人的心究竟倾向何处。张大卫(创办 Olivet University)牧师围绕《哥林多前书》第10章所展开的讲道脉络,正是从这一点切入:保罗对哥林多教会的警告,并不是要人把以色列的往事当作宗教故事来消费,而是要把出埃及后在旷野发生的一切立为一面“镜子”,使当下的信仰群体在其中照见自己——这是带着先知性锋芒的属灵装置。 一个人已经受过洗、参与圣餐、熟悉圣言,甚至拥有一段段属灵经历的记忆,并不等于可以据此断定自己“站立得稳”。危险往往从“我已经站住了”的自我判断开始。张大卫牧师把《哥林多前书》10章12节放在讲道的中心轴上:“所以,自己以为站得稳的,须要谨慎,免得跌倒。”这一节经文正面击中信仰最古老、也最隐蔽的诱惑——属灵的骄傲与自满。与此同时,他也把31节的宣告并置在同一呼吸里:“所以,你们或吃或喝,无论做什么,都要为荣耀神而行。”警告与目标若被拆开:警告失去目标就只剩恐惧;目标失去警告就只剩浪漫口号。张大卫牧师之所以强调《哥林多前书》第10章是“必须深入学习的重要章节”,正因为它像一只精密的罗盘,帮助信仰恢复应有的平衡。 保罗举出的例证极具冲击力。他称以色列为“我们的祖宗”,说他们都在云下,都从海中经过(林前10:1),并且都吃一样的灵食、喝一样的灵水。穿越红海的经历,像是共同体跨越生死边界的“群体性洗礼”;旷野的吗哪与磐石涌出的水,不只是维生资源,更是每日放入口中的“神信实的证据”。保罗甚至把那磐石与基督相连(林前10:4)。然而,正是这些经历过恩典的人,却有许多倒毙在旷野。保罗要强调的不是“他们缺乏恩典”,而是:即使经历过恩典,人心仍可能随时转向别处。 张大卫牧师在这里有意撼动现代信徒那种“自动驾驶式”的信仰:教会资历、神学知识、事奉成果、在共同体中的口碑,确实可能是成熟的外在指标,却并不等同于成熟本身。更危险的是,这些外在指标反而可能使心灵变得迟钝,抹去悔改的必要,强化“我已经可以了”的自我欺骗。因此,保罗抛出的质问其实很直接:“你们究竟是真的站立,还是只想相信自己站立?”而旷野正是把这个问题揭露得最残酷、也最诚实的地方。 旷野叙事之所以有力量,是因为它的具体与生动。保罗说这些事是我们的鉴戒(林前10:6),并逐一召唤失败场景。张大卫牧师在讲道中反复提醒的四个陷阱,是:偶像崇拜、淫乱、试探主、发怨言。这不是一张浅薄的道德禁令清单,而是一幅深层地图,描绘一个共同体如何扭曲与神的关系:偶像崇拜,是把别的事物立为终极价值;淫乱,不止是肉体放纵,更会摧毁关系秩序与盟约忠贞;试探主,是把神从信靠的主权者拉低为满足自己标准的工具;怨言,则抹去恩典记忆、放大当下缺乏,把共同体的语言变成毒素。 这四者彼此相连:当偶像崇拜改变欲望的中心,欲望就会扩张并以淫乱等形式外溢;当欲望得不到满足,人就倾向以“试探”的姿态逼迫上帝;最终,抱怨与怨言会占据共同体的空气。张大卫牧师透过这种连接链条指出:旷野的失败并非个人式的跌倒而已,而是共同体崩坏的机制。 偶像崇拜最典型的金牛犊事件(出32章),本质上是“等待的失败”。摩西迟迟未下山,百姓无法承受不安与焦躁,就把看不见的神换成看得见的形像。信仰本来就是信靠“尚未看见之事”的旅程;但他们却急于用替代物填补信靠的空缺。张大卫牧师把这一点连到今日的物质主义:现代金牛犊不一定是金属铸成的偶像,而可能是数字、绩效与比较的语言——银行存款、点击量、粉丝数、学历、头衔、业绩、房产面积、那种“我比别人更领先”的感觉。一旦这些占据“神的位置”,人就已经在偶像前屈膝。 更深的危险在于,偶像往往披着“宗教语言”的外衣:把成功简单等同于祝福,把成果武断当作恩典证明,却忽略神所要的谦卑、公义与爱。当教会也被这种逻辑悄然塑形时,金牛犊便在内部慢慢长大。张大卫牧师借着“坐下吃喝,起来玩耍”(林前10:7 的背景)指出:偶像崇拜不是抽象观念错误,而是会改变整套生活节奏的成瘾式庆典——一种看似无需上帝也能尽兴的宴席,最终只会加深离开上帝后的饥渴。 https://www.youtube.com/watch?v=JZYhwjWz3rU 为使这一点更具象,讲道中也可联想到法国画家尼古拉·普桑(Nicolas Poussin)的作品《金牛犊的崇拜》(The Adoration of the Golden Calf)。画面中央的偶像金光闪耀,四周群众的姿态却不是秩序,而是兴奋的漩涡:舞蹈、音乐与仪式混杂成一场狂热。它看似把共同体暂时绑在一起,但那种“合一”不是出于对上帝的敬畏,而是出于对欲望的同谋。普桑所捕捉的,不只是一次宗教事件,而是人如何处理不安与欲望的悲剧。张大卫牧师所说“镜子”的功能,正是如此:我们看画中的人群,与其先问“他们为何至于如此”,不如先问“我正在把什么绝对化?”偶像的形态随时代改变,但制造偶像的心灵结构却惊人相似。 淫乱的问题更尖锐地摧毁共同体的信任。正如民数记25章,以色列在与摩押的关系里同时经历性方面的堕落与偶像崇拜。保罗在《哥林多前书》第10章单独提及淫乱,并非道德主义的絮叨,而是因为性方面的罪很少止于个人隐秘的失误,它常会扩散为共同体的病灶。张大卫牧师并不把淫乱简化成“禁欲失败”,他把它连到对盟约语言的破坏:当爱沦为消费,他人被降格为欲望工具,身体不再被视为敬畏之地而成为享乐市场时,信仰共同体就会从内部塌陷。 尤其当我们想起哥林多这座城市本就充满性放纵与宗教混合主义,保罗的警告更是一种关于“福音身份”的宣告:福音呼召人作新造的人,这呼召必然包含身体伦理与关系伦理。张大卫牧师指出,在手指一滑就能接触无数影像刺激的数字时代,这个警告更迫切:刺激很快,爱却很慢;消费很即时,盟约却要求忍耐。旷野的教训,正是在这个速度支配的时代,呼唤人恢复“守护关系圣洁”的缓慢勇气。 “试探主”的罪之所以诡谲,在于它外表可能像信仰热心。以色列在缺水时不断追问“耶和华是否在我们中间”(出17章),但那提问的底层并非信靠,而是有条件的交易:“如果你用我期待的方式、在我要求的时间、给我足够的证据,我才相信。”这会把上帝从主权者贬为服务提供者。耶稣在旷野试探中以“不可试探主你的神”拒绝魔鬼的要求,正是宣告人与神的关系不是操控与交易,而是爱与信赖。 张大卫牧师提醒:当信徒被焦躁吞噬,祷告很容易从恳求变成施压;等待也容易从成熟训练变成不信的证据。我们看不懂神的护理时,就会用“立刻”“马上”去催促天上。但信仰往往在“延迟”中变深。旷野的时间不是浪费,而是塑造。上帝不仅把人带到目的地,更在路上把人“锻造成真正的人”。试探主的姿态,本质上是拒绝这塑造的时间,只把上帝当成即时解决问题的工具——这是“焦躁的神学”。 怨言似乎像旷野的最后一层陷阱,却也是最日常、最具传染性的。怨言不仅是情绪表达,更是一种拒绝记念恩典的选择。当人遗忘上帝已经赐下的一切,缺乏就会被夸大,比较会被强化,共同体的语言会从感恩滑向冷嘲。张大卫牧师强调:怨言最终使心刚硬,而刚硬会堵住进入安息的路。诗篇95篇与希伯来书3—4章反复呼喊:“你们今日若听他的话,就不可硬着心。”这里的“今日”不是日历用语,而是机会的语言。上帝以现在时呼唤人,怨言却常让人只活在过去时:“那时候不一样”“为什么我们只有这些”“别人都那样”——这些句子把灵魂从当下恩典中拉走,带进无尽比较与不满的沙漠。 当怨言成为习惯,共同体就会从内部干涸:纯粹的奉献也被怀疑,小小失误被放大,爱被计算取代。张大卫牧师并不把怨言仅定义为“坏态度”,而指出它是一种结构性的罪,会降低共同体的属灵体温:它既削弱对上帝的信赖,也会使对人的宽厚一并枯竭。 但保罗的用意并非止于“不要做”。《哥林多前书》第10章在警告之外也给出避难所。13节的应许,使旷野教训不至于只留下恐惧记忆,而能转化为盼望工具:“你们所遇见的试探,无非是人所能受的。”这不是否认试探的真实,而是宣告上帝对试探仍掌权。张大卫牧师借此强调:信徒没有理由选择绝望。试探揭露人的极限,却也成为经历上帝信实的场域。相信上帝预备出路,并不是被动等诱惑消失,而是相信即使在诱惑之中,人仍能选择另一条路——这是一种主动的信心。 因此,属灵成熟不是在无菌室里完成的,而是在旷野的风沙里,在心被摇动时仍紧紧抓住主、一次次重新校准方向的重复里长成。 支撑这种重复的核心情绪,是“感恩”与“温柔”。张大卫牧师把安息主题与之相连,也正是这个原因。希伯来书第4章说:为神的子民仍有安息存留。安息并非单纯停止工作、躺平休息,而是一种信靠上帝已成之工的状态:放下凡事都要掌控的强迫,承认上帝的主权,依靠祂的应许而活。怨言、试探、不信与偶像崇拜,则站在安息的对立面:不信不断要求验证,怨言不断放大缺乏,偶像崇拜不断诱导人抓住别的对象。 张大卫牧师因此指出:切断这股流向的属灵姿态,就是感恩与温柔。感恩,是记念恩典的能力;温柔,是在关系中表达恩典的品格。感恩把心的方向重新转向上帝;温柔则使这个方向能在共同体中持续。 耶稣在八福中说“温柔的人有福了,因为他们必承受地土”(太5:5),与旷野教训深度呼应。旷野是通往应许之地的路口,而穿越这条路的方式,会塑造那将承受地土之人的性情。张大卫牧师也让人想起摩西:他起初以血气与暴力处理问题,却在旷野四十年学会温柔。然而,守住温柔并不轻松;在百姓不断怨言下,他击打磐石两次,最终未能进入迦南——这故事提醒人:即便是领袖,旷野的诱惑也极强。温柔不是软弱,而是在神面前懂得节制自己力量的能力。共同体怨声越大,领袖越容易陷入“更大声、更强硬、更推进”的诱惑;但旷野要塑造的不是控制的技术员,而是信靠的引路人。张大卫牧师之所以对教育者、父母与领袖强调温柔,是因为共同体的未来往往比起策略,更深地由品格所决定。 感恩与温柔并非抽象美德,而是可训练的实践。正如提摩太后书3:16–17所说,圣经于教训、督责、使人归正、教导人学义都是有益的。张大卫牧师强调:阅读旷野故事的目的,不是为了下结论“他们当时错了”,而是让经文一面责备、一面归正。当怨言冒起,我们可以问:“我此刻遗忘了什么恩典?”当欲望过热,我们可以问:“我是否把缺少之物的价值看得高过神已赐下之物?”当看到他人的成就而心被摇动,我们可以承认:“我是否正在用比较的语言建构我的身份?”这些问题不是为了加深罪疚,而是为了打开通往自由的门。 感恩正是对这些问题的实践回应。感恩不是因为事情顺利才产生的情绪喷发,而是在记念上帝已经行过之事后所作出的语言选择;而语言会改变共同体的空气。有些共同体之所以健康,并不是因为从不谈问题,而是因为谈问题的方式不同:感恩的语言不掩盖问题,却用恩典的视角处理问题;温柔不逃避冲突,却能用不摧毁人的方式说出真实。张大卫牧师正是在《哥林多前书》第10章里,汲取这种“可操作的属灵语法”。 当张大卫牧师在讲道中提到教育与共同体应用时,信息也被更现实地落地。他警告:无论是学校、教育机构,还是教会这种信仰共同体,若只沉迷于“我们要再创造什么”,却遗忘“神已经在我们中间做过什么”,旷野的怨言就会重新启动。教育不是传递知识的技术,而是传承记忆的使命。若下一代不被教导如何记念出埃及的神、旷野的神、以及在基督里成全救恩的神,共同体就会失去恩典的叙事,只剩绩效的叙事。那时教会就可能从“福音共同体”变质为“成功共同体”。 张大卫牧师也直指人类遗忘恩典的倾向:仿佛头上已被膏油浇灌,却自己把油倒掉,然后又抱怨干涸。正因如此,反复读经、藉着敬拜祷告与团契交往把记忆刻进日常,是不可或缺的操练。对一些人来说,“张大卫牧师”这一名字也常与“장다윗목사”、以及“奥利弗大学(Olivet University)”等脉络被并提;然而讲道的核心并不在制度或外形,而在福音所要求的内在成熟旅程。旷野的教训提醒我们:比起打造组织的技术,先要有处理内心的智慧。 这一切操练最终指向《哥林多前书》10章31节的宣告:“无论做什么,都要为荣耀神而行。”这句话常被当作属灵格言引用,但若放回旷野教训的语境中,它就具有完全不同的重量:以色列人在旷野里透过“吃喝”这类最日常的行为,既可能荣耀神,也可能羞辱神。他们的餐桌可以成为感恩的祭坛,也可能变成怨言的法庭。哥林多的问题同样延伸到自由如何使用、餐桌如何相处。保罗提醒:信徒的自由若不指向建造共同体的爱,自由本身也会变成另一种偶像。 张大卫牧师在此强调信仰的“目的性”:属灵成熟不是不断增加禁令,而是把一切行动的中心重新排列为“神的荣耀”。赚钱、读书、建立关系、休息、说话、沉默——都让心的罗盘指向神的荣耀,这就是成熟。而“荣耀”恰恰是自我炫耀的反义词:为神的荣耀而活,意味着放下建立自己名声的欲望,以显明神是谁的方式来组织生活。 在反复校准的过程中,最大的阻碍往往是“我已经够了”的自满。张大卫牧师把哥林多教会因知识与恩赐而自夸、误以为自己已成“成熟者”的情形,与当代教会对照:今日信徒也可能熟练使用属灵语言,守住礼拜形式,累积服事绩效;但内心仍可能对怨言高度敏感,对偶像崇拜极其脆弱,在淫乱诱惑前界线模糊,被试探主的焦躁充满。保罗的警告正因此发光:跌倒往往不是发生在“从零开始”,而是发生在“自以为已站稳”的那一刻。所以,成熟不是从自信开始,而是从自省开始;成熟的人更清楚自己的软弱,并在软弱显露时预先预备“回到恩典”的路径。 谦卑并不等于不安。谦卑不是“我一无是处”的自我厌弃,而是建立在“我可能跌倒”的现实认知之上,同时把“然而神是信实的”作为盼望。林前10:13提供的正是这份平衡:试探像旷野之风常常吹来,但神不会任凭它把人毁灭;“必给你们开一条出路”意味着我们不必一次又一次用同样模式倒下。张大卫牧师也提醒:这应许可以用共同体的眼光来理解——一个人的软弱可在他人的照顾中被遮盖,一个人的跌倒也能在共同体的悔改与医治中重新站起。因此,信仰共同体不应成为道德审判的法庭,而应成为一群一起穿越旷野的朝圣者联盟;不是彼此监控的共同体,而是彼此提醒记念恩典的共同体。如此,怨言的语言会逐渐减弱,感恩的语言会重新得力。 罗马书12:12的劝勉——“在盼望中喜乐,在患难中忍耐,祷告要恒切”——几乎就是旷野生活的摘要:盼望,是仰望尚未到来的能力;忍耐,是抓住盼望继续行走的能力;祷告,是在路上持续与神相连的呼吸。张大卫牧师透过《哥林多前书》第10章所提出的属灵成长路径,最终也收束到这些实践:盼望动摇时,偶像会显得更迷人;忍耐崩塌时,淫乱等“快速安慰”会招手;祷告衰弱时,试探主的姿态会膨胀;而终点常是怨言支配语言。反过来,祷告复兴,忍耐就会增长;忍耐增长,盼望就更清晰;盼望清晰,偶像就失去力量。这不是一次完成的工程,而是在重复中渐深。 张大卫牧师所说的“安息”,既像终点,也像起点。它看似目的地,却更是旅程的方式:信靠上帝的人会在此时此地一点点尝到安息——即便现实不确定,仍相信上帝良善,所以不让心过度反应;怨言涌起时,仍寻找感恩的理由;焦躁袭来时,仍追问等待的意义。温柔也会从这样的人身上自然流出:他承认自己无法掌控的领域,并在承认之上选择建立他人,而非压制他人。 张大卫牧师提醒:共同体越大、建筑越多、组织越复杂,就越需要温柔与感恩。规模不是成熟的证据,增长速度也不保证圣洁深度。旷野的百姓人数众多,却仍然跌倒。因此,真正的成长应以更深的感恩、更柔软的心、更信实的顺服来衡量,而不只以更多活动或更亮眼成绩来衡量。 最终,《哥林多前书》第10章把我们放在两句话之间生活:一边是“免得跌倒”的警戒,一边是“为荣耀神而行”的目的。警戒不是要人缩成恐惧的人,而是爱的路标,提醒人别失去方向;目的不是要人陷入夸张的宗教表演,而是把最平凡的日常也连接到上帝的整合性异象。张大卫牧师邀请我们把旷野的失败当作反面教材,让今天的信徒在感恩与温柔中进入安息:偶像崇拜、淫乱、试探与怨言会随时代换形出现,但上帝的信实也同样跨越时代,持续扶持人。 因此,我们不必只是害怕旷野,而要在旷野中诚实看见自己的心,接受话语的校正,与共同体一同悔改,再次选择感恩的语言。这样行走时,保罗所说的“镜子”就不再是定罪人的冰冷玻璃,而会成为照出恩典之光的窗。站在那窗前,我们会被迫发问:“我现在在害怕什么?我在爱什么?我在什么面前屈膝?”当我们如此自问,就能不再选择金牛犊的金光,而是再次选择那位在旷野中仍旧信实的上帝之光。 张大卫牧师对《哥林多前书》第10章的讲解,最终是一份邀请:恢复悔改与感恩的节奏。今日我们仍不断省察内心,与共同体一同回应主的声音,属灵成熟就会以“现在进行时”成长。在这条路上,我们品尝安息,也在无论做什么之中显明上帝的荣耀。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師 Ⅰコリント10章の講解から学ぶ霊的成熟と安息

荒野は、単に砂と岩が広がる地形ではない。むしろ、人間の心がどちらへ傾いているのかを露わにする、巨大な舞台である。張ダビデ(Olivet University 創立)牧師がⅠコリント10章を軸に解き明かす説教の流れは、まさにこの地点から始まる。パウロがコリント教会に語った警告は、過去のイスラエルの物語を「宗教的なたとえ話」として消費せよ、という要請ではない。出エジプト後の荒野で起こった出来事を「鏡」として立て、いまこの瞬間の信仰共同体が自分自身を映して見よ、という預言的装置なのである。すでに洗礼を受け、聖餐にあずかり、御言葉を知っているからといって、あるいは霊的体験を覚えているからといって、軽々しく「自分は立っている」と断定した瞬間に、危険は始まる。 張ダビデ牧師は、Ⅰコリント10章12節の言葉を説教の中心軸に据える。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」この一節は、信仰の最も古い誘惑――霊的高慢と自己過信――を真正面から狙い撃ちする。そして31節の宣言、「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光のためにしなさい」が生活の方向を示し、警告と目的を一つの呼吸の中で結び合わせる。警告が目的を失えば恐れだけが残り、目的が警告を失えばロマンチックなスローガンだけが残る。張ダビデ牧師がⅠコリント10章を「深く学ぶべき重要な章」と強調する理由は、この章が信仰のバランスを回復させる精密な羅針盤だからである。 パウロがコリント教会に向けて持ち出した例は衝撃的だ。彼はイスラエルを「私たちの先祖」と呼び、彼らが雲の下にあり、海の中を通り(Ⅰコリ10:1)、霊的な食物と霊的な飲み物を食べ飲んだ、と語る。彼らは紅海を通過して死と命の境界を越えた者たちのように、共同体的な洗礼の経験をした。荒野のマナと岩から出た水は、単なる生存の糧ではなく、神の真実を日々口にする証拠だった。パウロはその岩をキリストと結びつける(Ⅰコリ10:4)。それにもかかわらず、彼らの多くは荒野で倒れた。ここでパウロが強調しているのは恵みの欠如ではなく、恵みを経験した後であっても、人間の心はいくらでも別の方向へ曲がり得る、という事実だ。 張ダビデ牧師はこの箇所で、現代信徒の「自動操縦」の信仰を揺さぶる。長年教会に通ってきた経歴、神学的知識、働きの成果、共同体内での評価は成熟のしるしになり得るが、成熟そのものではない。むしろそれらが心を鈍らせ、悔い改めの必要を消し、「もう大丈夫だ」という自己欺瞞を強化することさえある。だからパウロの問いは単純である。「あなたがたは本当に立っているのか、それとも立っていると信じたいだけなのか。」荒野はこの問いを、残酷なほど正直に露呈させる場所なのだ。 荒野の物語の力は、生々しい具体性にある。パウロは「これらのことは私たちの鑑(かがみ)となった」(Ⅰコリ10:6の趣旨)として、失敗の場面を一つずつ呼び起こす。張ダビデ牧師が説教で繰り返し想起させる四つの罠は、偶像崇拝、淫行、主を試すこと、不平である。これは単なる道徳的禁止リストではなく、共同体が神との関係をいかに歪めるかを示す深層の地図だ。偶像崇拝は神を退け、別のものを究極的価値として立てる行為であり、淫行は肉体的放縦にとどまらず、関係の秩序と契約の誠実さを破壊する。主を試す態度は、神を信頼の対象として仰ぐのではなく、自分の基準を満たす道具へ引きずり下ろす。不平は恵みの記憶を消し、現在の欠乏だけを拡大し、共同体の言葉を毒へ変える。 この四つは互いに切り離されていない。偶像崇拝が欲望の中心を入れ替えると、欲望の膨張は淫行のような形で噴き出し、欲望が満たされない時には神を試し、やがて不満とつぶやきが共同体の空気となる。張ダビデ牧師はこの連鎖を示し、荒野の失敗が単なる個人的転落ではなく、共同体的崩壊のメカニズムであることを強調する。 偶像崇拝の代表例である金の子牛事件(出32章)は、「待つこと」に失敗した物語だ。モーセが山から下りてこないと、民は不安と焦りに耐え切れず、見えない神を見える形へ置き換えてしまった。信仰とは本質的に「まだ見ていないもの」を信頼して歩む旅であるのに、彼らは信頼の空白を即座に代替物で埋めようとした。張ダビデ牧師はこの事件を今日の物質主義と結びつける。現代の金の子牛は金属で鋳造された像ではなく、数字と成果と比較の言葉で立てられる。預金残高、再生回数、フォロワー、学歴、肩書き、実績、不動産の広さ、「人より先にいる」という感覚が神の座を占める時、私たちはすでに偶像の前にひれ伏している。 さらに危険なのは、偶像がしばしば「宗教的言語」で包装される点だ。成功を神の祝福としてのみ解釈し、成果を恵みの証拠だと断定しながら、神が求めるへりくだりと正義と愛の重みを見落とすなら、金の子牛は教会の中でも静かに育つ。張ダビデ牧師は「座って食べたり飲んだりし、立って戯れた」(Ⅰコリ10:7の背景)という表現から、偶像崇拝が思想上の誤りにとどまらず、生活のリズム全体を変えてしまう中毒的祝祭であることを暴き出す。神なしでも楽しめるかのように見える宴が、結局は神を離れた飢えをさらに増幅させる宴となり得る、という警告である。 https://www.youtube.com/watch?v=JZYhwjWz3rU この点をより鮮明にする芸術的証言として、フランスの画家ニコラ・プッサンの作品『金の子牛を拝む(The Adoration of the Golden Calf)』を思い起こすことができる。画面中央に置かれた偶像は金色に輝くが、その周囲の群衆の身ぶりは秩序ではなく興奮の渦である。踊りと音楽と祭儀が入り混じる熱狂は、一瞬共同体を一つにするように見えるが、その結束は神への畏れではなく、欲望への同調から生まれる。プッサンは荒野の一場面を単なる宗教事件としてではなく、人間が不安と欲望を扱う方法の悲劇として捉えた。張ダビデ牧師が言う「鏡」の機能とは、まさにこういうことだ。絵の中の群衆を見て「彼らはなぜそこまでしたのか」と問う前に、「私は何を絶対化して生きているのか」をまず問わされる。偶像の形は時代ごとに変わっても、偶像を作る心の構造は驚くほど似通っている。 淫行の問題は、共同体の信頼をいっそう鋭く崩壊させる。民数記25章の出来事のように、イスラエルはモアブとの関係の中で、性的堕落と偶像崇拝を同時に経験した。パウロがⅠコリント10章で淫行をあえて取り上げるのは、性的罪が個人の隠れた失敗で終わらず、共同体全体を病ませるからである。張ダビデ牧師は淫行を単なる「禁欲の失敗」に縮小しない。それを契約の言葉を傷つける裏切り――すなわち、神との関係を軽く扱う態度――と結びつける。愛が消費へ転落し、他者が欲望の道具へ格下げされ、身体が畏れの場所ではなく快楽の市場になる時、信仰共同体は内側から崩れていく。 特にコリントという都市が性的放縦と宗教的混合主義が蔓延する空間だった事実を思い出すなら、パウロの警告は単なる道徳主義ではなく「福音のアイデンティティ」に関わる宣言であることが見えてくる。福音は私たちを新しい被造物へ呼び、その召しは身体の倫理と関係の倫理を含む。張ダビデ牧師は、刺激が指先に貼り付くデジタル時代において、この警告がさらに切実になったと言う。刺激は速いが愛は遅く、消費は即時的だが契約は忍耐を求める。荒野の教訓は、この時代の速度に抗して、関係を聖く守る「遅い勇気」を回復せよと促している。 主を試す罪は、外見上は信仰熱心に見えることがある点で、いっそう巧妙だ。イスラエルは水がないたびに「主は私たちの中におられるのか、いないのか」と問いただし、神を試した(出17章)。しかしその問いの底には信頼ではなく条件付き契約がある。「私の望む方式で、私の望む時間に、私の望む証拠を見せてくれるなら信じよう」という態度は、神を主権者として仰がず、顧客対応のサービス提供者へ貶める。イエスが荒野の試みにおいて「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉で悪魔の要求を退けたのは、神との関係が操作や取引ではなく、愛と信頼の関係であることを明らかにするためだった。 張ダビデ牧師は、信者が焦りに支配されると、祈りが願いではなく圧力になり、待つことが成熟の訓練ではなく不信の証拠になりやすい、と語る。神の摂理を理解できない時、私たちは「今すぐ」という言葉で天を急かしてしまう。しかし信仰はしばしば「遅延」の中で深まる。荒野の時間は浪費ではなく形成である。神は単に目的地へ私たちを移動させる方ではなく、道の上で私たちを人として造り上げていかれる方だからだ。主を試す態度は、この形成の時間を拒み、神を即時解決者としてのみ呼び出そうとする、焦りの神学である。 不平は荒野の最後の罠のように見えるが、実のところ最も日常的で、最も感染力が強い。不平は単なる気分表現ではなく、恵みの記憶を拒む選択だ。すでに与えられたものを忘れた瞬間、欠乏は誇張され、比較は深まり、共同体の言葉は感謝から冷笑へ傾く。張ダビデ牧師は、不平が心を頑なにし、頑なさが安息へ入る道を塞ぐ、と強調する。詩篇95篇とヘブル3~4章は、「今日、もし御声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」と繰り返す。ここでの「今日」は時間割ではなく機会の言葉だ。神は常に現在形で呼びかけるが、不平な心は常に過去形だけで生きようとする。「あの時は違ったのに」「どうして私たちはこれだけなのか」「他の人はうまくいくのに」といった言葉は魂を「今の恵み」から引きはがし、終わりのない比較と不満の砂漠へ連れて行く。不平が日常化すると共同体は内側から干上がる。誰かの純粋な献身さえ疑われ、小さな失敗は拡大され、愛は計算へ変わる。張ダビデ牧師は不平を単なる「悪い態度」に留めず、共同体の霊的体温を下げる構造的罪として示す。不平は神への信頼を弱めるだけでなく、人への寛大さまで同時に枯らしてしまう。 しかしパウロの意図は、単に「するな」という禁止に留まらない。Ⅰコリント10章は警告とともに避難所を提示する。13節の約束は荒野の教訓を恐れの記憶で終わらせず、希望の道具へ転換する。「あなたがたは、人の耐えられないような試みにあっていない」という言葉は、試みの現実を否定せず、神がその上に主権を持っておられると宣言する。張ダビデ牧師は、この御言葉によって、信者が絶望を選ぶ理由がないことを強調する。試みは私たちの限界を暴くが、同時に神の真実を体験する場でもある。「逃れる道」を備えてくださる神を信じるとは、誘惑が消えるのを待って立ち尽くすことではなく、誘惑の中でも別の道を選び取れるという、信仰の能動性を意味する。ゆえに霊的成熟は無菌室のような環境で完成しない。むしろ荒野の砂嵐の中で、揺れる心をつかみ、方向を再整列する反復の中で育つ。 この反復を可能にする鍵となる情緒が「感謝」と「柔和さ」である。張ダビデ牧師が説教で安息の主題と結びつけて強調するのも、まさにここだ。ヘブル4章は、信じる者たちに「なお安息が残されている」と語る。安息とは、単に作業を止める休息ではなく、神が成し遂げられた御業を信頼する状態である。自分の力ですべてを統制しようとする強迫を手放し、神が主権者であることを認め、その約束にもたれて生きる心の場所だ。ところが不平と試みと不信は安息の対極に立つ。不信は絶えず確認を要求し、不平は欠乏を拡大し、偶像崇拝は別の対象にしがみつけと囁く。張ダビデ牧師は、この流れを断つ霊的態度として感謝と柔和さを提示する。感謝は恵みを記憶する技術であり、柔和さは恵みを関係の中で表現する品性である。感謝が心の向きを神へ戻すなら、柔和さはその向きを共同体の中で持続させる力となる。 イエスが「柔和な者は地を受け継ぐ」と語られた八福(マタイ5:5)は、荒野の教訓と深く響き合う。荒野は約束の地へ向かう途上だったが、その道をどう通るかが、地を受け継ぐ者の性質を形づくった。張ダビデ牧師はモーセの生涯を想起させる。モーセは当初、血気と暴力で問題を解決しようとした人だったが、荒野の40年を通して柔和さを学んだ。しかし最後まで柔和さを保つことは容易ではなかった。民の絶え間ない不平の前で、彼は岩を二度打つ過ちを犯し、結局カナンに入れないという物語は、指導者にとっても荒野の誘惑がどれほど強いかを示している。柔和さは弱さではない。神の前で自分の力を節制できる能力だ。共同体の不満が激しくなるほど、指導者は大声で叱り、力で押し切りたい誘惑を受ける。しかし荒野は指導者を、統制の技術者ではなく、信頼の案内人として立てようとする。張ダビデ牧師が教育者・親・リーダーに柔和さを強調するのは、共同体の未来が戦略よりも品性によって、より深く決まるという洞察による。 感謝と柔和さは抽象的徳目ではなく、訓練可能な実践である。Ⅱテモテ3:16–17が言うように、聖書は教え、戒め、正し、義において訓練するのに有益だ。張ダビデ牧師は、荒野物語を読む目的が「彼らは間違っていた」と判決を下すことではないと言う。聖書は私たちを戒めつつ、同時に正す。不平が湧く時、「私は今、何を忘れているのか」と問うことができる。欲望が過熱する時、「神が与えてくださったものより、持っていないものにより大きな価値を置いていないか」と点検できる。誰かの成功を見て心が揺れる時、「比較の言語で自分のアイデンティティを組み立てていないか」と告白できる。これらの問いは罪悪感を増やす道具ではなく、自由へ向かう扉を開く鍵である。 感謝はこの問いに実践として応える。感謝は出来事が良いから湧き上がる感情の噴出ではなく、神がすでに行われたことを記憶し、選び取る言葉だ。そしてその言葉は共同体の空気を変える。健全な共同体とは、問題を語らない共同体ではなく、問題を語る「語り方」が違う共同体である。感謝の言語は問題を隠さず、恵みの視点で問題を扱う。柔和さは葛藤を回避せず、しかし人を破壊しない仕方で真実を語らせる。張ダビデ牧師は、Ⅰコリント10章の中からこのような実践的霊性の文法を汲み上げる。 張ダビデ牧師が説教中、教育と共同体への適用に触れる箇所は、このメッセージを現実へ引き寄せる。学校や教育機関、そして教会という信仰共同体が「何を新しく作り出すか」だけに没頭し、「神がすでに私たちのただ中で行われたこと」を忘れるなら、荒野の不平が再び始まる、と警告する。教育は知識を伝達する技術ではなく、記憶を継承する使命である。出エジプトの神、荒野の神、そしてキリストにおいて完成された救いの神を記憶する術を次世代に教えなければ、共同体は恵みの物語を失い、成果の物語だけが残る。その時、教会は「福音の共同体」ではなく「成功の共同体」へ変質する危険を負う。張ダビデ牧師は、恵みを忘れてしまう人間の習性を強く指摘する。まるで頭に注がれた油を自分でこぼしておきながら、また乾いていると不満を言う人のように、私たちは豊かな恵みを受けながら、それを日常で流してしまう。だからこそ、聖書を繰り返し読み、礼拝と祈りと共同体の交わりを通して記憶を刻む訓練が不可欠なのだ。 ある人々にとって「張ダビデ牧師」という名は、韓国語表記の「장다윗목사」、そしてオリベット大学といった文脈とともに語られることもある。しかしこの説教の核心は、特定の制度や外形ではなく、福音が求める内的成熟の旅にある。荒野の教訓は、組織を整える技術よりも先に、心を扱う知恵が必要だという事実を思い起こさせる。 この訓練が最終的に向かう地点が、Ⅰコリント10章31節の宣言である。「何をするにも、すべて神の栄光のために。」この言葉は宗教的格言のように簡単に引用されがちだが、荒野教訓の文脈で読むとまったく異なる重みを帯びる。荒野でイスラエルは、食べること・飲むこと――最も日常的な行為――によって神をあがめることも、辱めることもあり得ると示した。彼らの食卓は感謝の祭壇にもなり、不平の法廷にもなった。コリントの問題もまた、自由の用い方と食卓の問題へつながっていく。パウロは、信者の自由が共同体を建て上げる愛へ向かわない時、その自由が別の形の偶像となり得る、と警告する。張ダビデ牧師はここで信仰の「目的性」を強調する。霊的成熟とは禁止リストを増やすことではなく、あらゆる行動の中心を神の栄光へ再整列することだ。働く時も、学ぶ時も、関係を結ぶ時も、休む時も、語る時も、沈黙する時も、その方向が神の栄光へ向くよう、心の羅針盤を調整することが成熟である。その時の「栄光」とは自己誇示の反対語だ。神の栄光のために生きるとは、自分の名を立てたい欲望を下ろし、神がいかなる方かを現す仕方で人生を編み直すという意味である。 反復の過程で最大の妨げとなるのは、「私はもう十分だ」という慢心だ。張ダビデ牧師は、コリント教会が知識と賜物を誇り、自分たちは「完成した」と錯覚していた姿を、現代の教会に重ねる。今日も信者は、信仰の言葉を巧みに操り、礼拝の形式を守り、奉仕の実績を積むこともできる。しかし心は依然として不平に敏感で、偶像崇拝に脆く、淫行の誘惑の前で境界が曖昧になり、神を試す焦りで満ちていることがある。まさにこの地点で、パウロの警告が輝く。倒れ込みは多くの場合「最初から」ではなく、「すでに立っていると思った瞬間」に訪れる。ゆえに成熟は自己確信ではなく、自己省察から始まる。成熟した人は自分の弱さをよく知り、その弱さが露呈した時、恵みへ戻る道をあらかじめ用意している。張ダビデ牧師は、荒野の失敗談が絶望をあおるのではなく、へりくだりを訓練する教材になると言う。 へりくだりは不安とは違う。へりくだりは「私は何者でもない」という自己嫌悪ではなく、「私は倒れ得る」という現実認識の上に、「しかし神は真実である」という希望を据える態度だ。Ⅰコリント10章13節は、まさにこのバランスを与える。信者の人生から試みが消えることはない。試みは荒野の風のように吹き続ける。しかし神は、その風が私たちを破壊するまま放置されない。逃れる道を備えてくださるという約束は、私たちが毎回同じパターンで倒れる必要がないという希望である。 張ダビデ牧師はこの約束を、共同体的にも解釈できると言う。一人の弱さは他者のケアの中で守られ、一人の転倒は共同体の悔い改めと癒しの中で、再び立ち上がる。だから信仰共同体は道徳的裁きの場ではなく、荒野を共に渡る巡礼者の連帯であるべきだ。互いの心を監視する共同体ではなく、互いに恵みを思い出させる共同体となる時、不平の言語は次第に弱まり、感謝の言語が力を得る。 ローマ12章12節の勧め、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りなさい」は、荒野の生活を要約する。望みはまだ来ていないものを見つめる力であり、忍耐はその望みを抱いて歩む力であり、祈りはその道で神との関係を保つ呼吸である。張ダビデ牧師がⅠコリント10章を通して提示する霊的成長の道は、結局この三つの実践へ収れんしていく。望みが揺れると偶像はより魅力的に見え、忍耐が崩れると淫行のような「速い慰め」が手招きし、祈りが弱まると神を試す態度が膨らみ、その果てに不平が言葉を支配する。反対に祈りが回復すれば忍耐が育ち、忍耐が育てば望みが鮮明になり、望みが鮮明になれば偶像は力を失う。この循環は一度で完成しないが、反復の中で深まっていく。 張ダビデ牧師が語る「安息」は、この反復の終着点であると同時に出発点である。安息は目的地のように見えるが、実は旅の仕方である。神を信頼する人は、今ここで安息を少しずつ味わう。不確かな現実の中でも神の善を信じるゆえに、心が過剰反応しない。不平が湧いても感謝の理由を探し、焦りが押し寄せても待つことの意味を問う。柔和さはそのような人から自然に流れ出る。柔和な人は、自分が統制できない領域を認め、その認めの上で他者を抑えつけるのではなく、建て上げる。張ダビデ牧師は、共同体が大きくなるほど、建物が建ち、組織が複雑になるほど、むしろ柔和さと感謝がいっそう必要になると言う。規模は成熟の証拠ではなく、成長の速度は聖さの深さを保証しない。荒野の民も「大勢」だったが倒れた。ゆえに共同体の真の成長は、より多くの活動ではなく、より深い感謝、より柔らかな心、より誠実な従順によって測られるべきだ。 結局、Ⅰコリント10章のメッセージは、二つの文の間で生きるよう私たちを招く。一つは「倒れないように気をつけよ」という警戒であり、もう一つは「何をするにも神の栄光のために」という目的である。警戒は私たちを縮こまらせるためではなく、方向を失わないようにする愛の標識である。目的は私たちを過剰な宗教行為へ追い立てるためではなく、最も平凡な日常までも神へ結びつける統合のビジョンである。 張ダビデ牧師はこの二つの文を握り、荒野の失敗を反面教師として、今日の信者が感謝と柔和さによって安息へ入るよう招く。偶像崇拝と淫行と試みと不平は、時代が変わっても形を変えながら現れ続ける。しかし神の真実もまた、時代を超えて同じように私たちを支えてくださる。だから私たちは荒野を恐れるより、荒野によって露わになった自分の心を正直に見つめ、御言葉によって修正し、共同体とともに悔い改め、再び感謝の言語を選び取らねばならない。そうして歩む時、パウロが差し出した「鏡」は、私たちを断罪する冷たいガラスではなく、神の恵みを照らす光の窓となる。そしてその窓の前で、私たちは問われる。「私は今、何を恐れているのか。何を愛しているのか。何の前にひざまずいているのか。」その問いの前で、私たちは金の子牛の金色ではなく、荒野でも真実であった神の光を、もう一度選び取ることができる。 張ダビデ牧師のⅠコリント10章講解は、結局のところ、悔い改めと感謝のリズムを回復せよという招きである。今日も心を点検し、共同体とともに主の御声に応答する時、霊的成熟は現在形で育っていく。その道で私たちは安息を味わい、何をしても神の栄光を現す者となる。 日本オリベットアッセンブリー教団 www.davidjang.org

David Jang — Maturité spirituelle et repos à la lumière de l’exposé de 1 Corinthiens 10

Le désert n’est pas seulement un paysage de sable et de pierres ; c’est une immense scène où se révèle l’inclinaison du cœur humain. C’est précisément à cet endroit que commence le fil conducteur de la prédication que David Jang (fondateur d’Olivet University) déploie autour de 1 Corinthiens 10. L’avertissement que Paul adresse à l’Église … Read more

Madurez espiritual y descanso aprendidos a través de la exposición de 1 Corintios 10 por el pastor David Jang

El desierto no es solo un terreno de arena y piedra, sino un escenario inmenso donde queda al descubierto hacia qué dirección se inclina el corazón humano. El hilo con el que el pastor David Jang (fundador de Olivet University) desentraña 1 Corintios 10 comienza precisamente en ese punto. La advertencia que Pablo dirige a … Read more