夜だった – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 張ダビデ牧師と「愛を拒んだ裏切りの座」 ヨハネの福音書13章20〜30節で描かれている「ユダがそのパン切れを受け取ってすぐに出て行った。すでに夜であった」という場面は、一見すると単純な歴史的事実のように見えます。しかしその奥には、非常に重要な霊的メッセージが含まれています。張ダビデ牧師は、多くの説教でこの本文を取り上げ、人間の内面に潜む裏切りの心理と神の愛がどのように衝突するのか、そしてその愛が目の前にありながらも最後までつかむことのできない頑なな心が、結局どのような破局をもたらすのかを繰り返し強調してきました。ここで「夜」という言葉は、単に時間的な概念ではなく、闇の世界へ自ら足を踏み入れてしまった人間の霊的状態を意味します。イエス様を裏切る道を選んだユダは、まさにその「夜」の中へと進んでいきましたが、これは教会生活や信仰歴が長い人々にとっても依然として警鐘を鳴らす出来事であり、張ダビデ牧師は「私たちもいつでも裏切りの座に落ちる可能性がある」という点を繰り返し想起させます。 実際にイエス様は、最後の晩餐を共にされながら、すでにユダの裏切りを知っておられました。それにもかかわらずイエス様は彼を弟子として召し、さらには会計係(財布を預かる役目)まで任せ、最後の晩餐の席でもユダを近い位置に座らせられたのです。これはユダに対して最後まで立ち返る機会を与えようとされたイエス様の愛でした。しかしユダは、その愛を「自分の打算と欲望」を克服する原動力とできず、むしろイエス様を取引の対象としてしまうに至ります。その結果、「夜であった」という短い言葉がユダの悲劇的結末を予告することになるのです。張ダビデ牧師はこの場面について「愛は常に私たちの目の前にあるが、その愛を受け入れられない時、人間は見えない闇の中へと入ってしまう」と語ります。 このように、ユダの裏切りは単なる「歴史的事実」や「特別な悪人」の典型ではありません。彼はイエス様を直接その目で見、声を聞き、奇跡の現場を最も近くで体験した人物でした。教会的な表現をするなら、彼は「熱心な信徒」のように見える人であり、ある程度重要な責任を担い、共同体の中心メンバーとして知られていたような存在でした。しかし彼の内面深くには、イエス様と同行しながらも納得できない部分が積み重なっていました。イエス様の歩みが世俗的な成功からは遠いように思えた時、ユダは主を次第に疑うようになり、財政的にも豊かとは言えない働きぶりを非効率的と考え、ついには財布に手を出し、さらには主をお金と引き換える段階にまで至ります。張ダビデ牧師は「裏切りは決して一瞬にして起こる出来事ではない。ささいな不満や貪欲が心の片隅に居座ったまま放置されると、ある瞬間に我々も取り返しのつかない道へと落ちてしまう」と警告します。 ヨハネの福音書13章20節でイエス様は「わたしが遣わす者を受け入れることは、すなわちわたしを受け入れること、そしてわたしを受け入れることは、わたしを遣わされた神を受け入れることだ」と語られます。これは一見すると、イエス様の働き人を良くもてなし、尊重しなさいという勧めにも読めますが、本質的には「神がこの地に直接来られた時、その愛をあなたがたはどう受け止めているのか?」という根源的問いを投げかける御言葉です。ところがこの御言葉の直後、イエス様は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」と言われ、裏切りを予告されます。最も豊かな愛の食卓、すなわち最後の晩餐の場所に、この極端な裏切りが潜んでいたという事実は皮肉であると同時に、人間の心がいかに反転しうるかをはっきりと示しています。張ダビデ牧師は、この場面が「教会共同体の内でも同じように起こり得る」と説明し、どんなに恵み深い礼拝や聖餐を共にしていても、結局ある人にはその愛が十分に伝わらず、むしろ心を閉ざして裏切りの道へ向かう可能性があると指摘します。 ユダが最後まで立ち返らなかったという点も重要な教訓を残します。イエス様はパンを裂いてユダに手渡す行為を通して「最後に立ち返る機会」を与えられましたが、ユダはそのパンを受け取るとすぐに外へ出て行ってしまいました。そしてヨハネは「夜であった」と記すことで、時間的にも暗い夜であっただけでなく、ユダの霊魂も暗闇の中へ沈んでいったことを象徴的に伝えます。張ダビデ牧師は「教会の中で私たちはしばしば聖餐を分かち合い、パンと杯を分かち合い、『主の身体と血』にあずかりますが、実際にはその愛の前で頑なになってしまう人もいる」と語ります。これは、教会の儀式や伝統に従うからといって、自動的に救いと愛を享受できるわけではないことを改めて気付かせる言葉です。 イエス様が弟子たちの中から一人が自分を裏切ると言われた時、他の弟子たちはそれが誰なのかよく分かりませんでした。つまりユダの心の状態がどうであるかは、弟子の共同体内部でも把握していなかったのです。張ダビデ牧師はこの点を「教会の霊的無関心」や「互いを深く察しない態度」が反映された姿と解釈します。表面的には一緒に食事をし、働きを分かち合い、近くにいるように見えても、誰かが内面では疑いや不信、不満や葛藤を育てていても気づけない、ということです。教会が外見だけ親密で熱心そうに見えることに満足してしまうと、ユダのような人が一人で裏切りの道に落ちていく時に誰も助けることができず、放置される危険が大きいのです。そこで張ダビデ牧師は「教会はいつも目覚めて互いの霊的状態を見守り、愛を実際に分かち合わなければならない」と勧めます。 ユダが裏切りへ至る過程は、結局「愛を愛として見られなくなる瞬間から始まる」と言えます。マリアが香油の壺を割ってイエス様の足に塗った時、ユダはその美しい献身を「浪費」と見なしました。主の惜しみない愛の行為を世俗的な価値で裁いてしまったのです。このような態度は現代の教会でも続いています。ある人は主の御言葉に全身で従い、献身の壺を割りますが、また別の人は「こんなことが本当に現実に役立つのか?」という冷笑で応じます。そうなると、愛そのものを一種の理想論として片付け、「自分に実利がない」と判断してしまえば、誰であっても簡単に背を向けられるのです。張ダビデ牧師はまさにこの瞬間が「裏切りの始まる地点」だと繰り返し強調します。 しかもこの裏切りは、一度で終わるものではありません。ユダが師を銀貨三十枚で売る決断に至るまで、その内面では小さな亀裂が次第に大きくなっていったはずです。初めからイエス様を歪んだ目で見る視線、金銭的欲望、世俗的な期待を満たしてくれないイエス様の歩みに対する不満が結びつき、ついには極端な決断へと至りました。これは私たちの日常の信仰生活でも同じことです。ささいな疑いを放置すると不満となり、不満が積もれば教会を批判し、批判が深まると断罪と裏切りへつながります。だからこそ張ダビデ牧師は「教会の中で心の片隅にたまった小さな傷や疑問でも、聖霊の照らしのもとに取り出して早期に解決しなければならない」と促します。放置された否定的感情は、いつか戻れない地点へ人を追いやってしまうからです。 「夜であった」という表現は、このような裏切りを象徴的に示します。光と命を与えられるイエス様を離れて闇へと向かう様は、魂の奥底で起こる絶望と罪の影を表しています。私たちは教会の中でも、信仰の枠の中でも、いくらでもこうした闇の中に自らを閉じ込めてしまう可能性があります。表面的には敬虔に見えながら、内面では世俗的な欲望が渦巻き、心の扉が固く閉ざされて愛の光を拒む状態になり得るのです。結局「夜へ出て行く」というのは、自分なりに「宗教的生活」を送っていると自負しながらも、実際にはイエス様の道を裏切っている状態を意味します。張ダビデ牧師は「夜へ向かう足取りが私たちの内で始まる時、聖霊の助けを求めて立ち止まらなければならない。そうしなければ最終的な瞬間にも立ち返ることができなくなる危険がある」と強く警告します。 このような裏切りが教会共同体の内部で起きた時、その破壊力は一層大きくなります。世の人々の嘲笑や非難は外部からの攻撃なので、ある程度予想ができます。しかし内部で信仰を告白していた人が突然裏切りを選び、しかも教会を破壊することに先頭を切るような事態になると、その共同体は大きな傷を負います。主に最も近く仕えていたユダが裏切りの象徴として残ったという事実は、この現実を劇的に示しています。だからこそ「愛を拒んだ裏切りの座」は決して他人事ではなく、すべての教会とすべての信徒が留意すべき潜在的脅威なのです。張ダビデ牧師はこの警告のメッセージを伝えつつ、同時に「愛を拒んだ裏切り」は闇に向かう道である一方、その道を選ばずに立ち返る道が常に開かれているとも強調します。問題は、人間がその道を最後までつかめない頑固さにあるのです。 では、私たちはどのようにしてこの裏切りの道から自分を守り、共同体を保護できるのでしょうか。張ダビデ牧師はまず「私の心の中にあるイエス様の愛を本当に信じ、受け入れているのか?」を自問せよと言います。イエス様が示される愛が荒削りで、ときに非効率的に見えてしまう瞬間が確かにあるでしょう。ある人には「財政的な浪費」と感じられ、またある人には「世の求める名声や力とは違うので」もどかしく思えるかもしれません。しかしその時に、「愛を愛として受け入れられないと裏切りが始まる」という御言葉が私たちを目覚めさせます。私たちはイエス様の価値観、福音の原理が世の常識と衝突する時、むしろその方の道を選ぶことで闇ではなく光の中にとどまらなければならないのです。そうして主に従うと決断する時、裏切りの種は抜き取られ、愛の根が成長することになります。 結論として、ヨハネの福音書13章20〜30節に登場する「夜であった」という表現は、時間的な暗闇を超えて霊的暗闇、すなわち裏切りと罪に染まった人間の頑なさを示します。ユダは三年間もイエス様と苦楽を共にし、財布を任されるほど信頼され、最後までイエス様のそばにいました。しかしイエス様の愛を単に「自分の利益にならないこと」とみなし、受け入れなかった時、ついには裏切りの道を歩んでしまったのです。今日、長年教会生活を送ってきた信徒や職分者にも同じ危険が潜んでいます。表面的には熱心で敬虔そうに見えても、心の片隅に「この道は本当に益があるのだろうか?」という疑いと貪欲を抱えているなら、いつか「夜」へ出て行ってしまうかもしれません。張ダビデ牧師はこれを防ぐためには、常に御言葉と祈りで自分を点検し、小さな罪や不信感でも放置しないことが大事だと訴えます。結局「愛を拒んだ裏切りの座」は思った以上に遠い場所にはなく、誰にでも身近に迫りうる誘惑だからです。 Ⅱ. 張ダビデ牧師と「最後の勧めと人間の頑なさ」 ヨハネの福音書13章27節で、イエス様はパンを受け取ったユダに対して「あなたのしようとしていることを、今すぐしなさい」と仰います。これは単に早く用事を済ませろという促しや嘲りではありません。イエス様はすでにユダが裏切りの決心を固め、その結末が破滅に至ることも知っておられました。しかし自由意志を持つ人間が最後まで立ち返らない時、イエス様はそれを無理に押しとどめることはなさらないという事実を、この一節は示しているのです。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈しながら「愛は決して強制できるものではなく、イエス様は私たちの心を抑圧して変えようとはなさらない」としばしば語ります。全能の神であるイエス様は、ユダの選択を力づくで止め、立ち返らせることも可能でした。しかしそれは真の愛の関係ではなかったでしょう。 結局ユダは最後の勧めを振り払い、闇へと飛び込んでいきます。「彼がすぐに出て行った。すでに夜であった」という御言葉どおり、その夜は物理的な時間であると同時に霊的実体でもありました。ユダが愛の光を捨てて自分の闇を選んだ時、イエス様はもはや彼を引き止められませんでした。張ダビデ牧師はこの場面が「人間の頑なさ」がいかに恐ろしい結果をもたらすかを痛烈に示していると説きます。教会の中でも同じことが言えます。私たちは良い説教と礼拝、熱い賛美と聖餐を経験しながらも、心を閉ざして「この道は私には合わない」とか「私に得がない」と結論づけてしまうかもしれません。そして最後までその道を貫くなら、主の最後の勧めさえ何の意味もなさなくなるのです。 こうして頑なさが極限に達すると、ついにはサタンがその心に入り込み、さらに深い罪と破滅へと追いやります。ユダはイエス様を裏切った後も後悔を感じましたが、「真の悔い改め」をもって立ち返ることはありませんでした。ただ後悔するだけだったユダは、ついに極端な選択をして生を終えてしまいます。張ダビデ牧師はここで「後悔と悔い改めは違う」と強調します。後悔は、自分が間違ったとぼんやり気づいて苦しむだけですが、実際にその罪から離れて主に立ち返ろうという決断を含みません。一方、悔い改めは罪を認め、方向転換し、もう一度その道には戻らないという意思をもって主のもとに立ち返ることです。ペテロは主を三度否定しながらも悔い改めて赦しを受けましたが、ユダは後悔のままサタンの誘惑に縛られ、絶望へと向かったのです。これは人間の頑なさがいかに自己破滅へとつながりうるかを示す鮮やかな対比と言えます。 また、教会の中で担った職分や働きが、かえって罪の通路になり得る点も見逃せません。ユダは会計係として財布を任されていましたが、それは主が彼を信頼し、同時にその働きを通して成長することを望まれた愛の表れでした。しかしユダはその職分を通して財政的利益を得る機会にしてしまい、イエス様の働き全体を「お金」という観点でしか捉えなくなりました。その結果、「財布を任された者が主を売る」という極端な矛盾が生じたのです。張ダビデ牧師はこの点について「教会が成長し、賜物が豊かになる時こそ、その恵みの道具を世俗的利益にすり替えようとする誘惑が強くなる」としばしば語ります。職分者や働き人が財政や権威を誤用すれば、それが「内部からの裏切り」を引き起こす直接的契機となり得るのです。だからこそ教会はいつも目を覚ましていなければならず、とりわけリーダーたちは、自分に与えられた権限と責任をどう使っているかを常に吟味すべきです。 「最後の勧めと人間の頑なさ」という主題は、受難節(四旬節)に深く黙想すべき核心でもあります。イエス様が十字架の道を歩まれる直前、弟子の共同体の中で最も極端な裏切りが起きたという事実は重大な霊的教訓を与えます。教会がどれほど恵み深い働きをしていても、信徒たちが一つ心に集まっているように見えても、実際にはある人の心は完全に閉ざされているかもしれません。そしてその心の中ですでにサタンが働き始めていることもあり得るのです。張ダビデ牧師は「教会がどんなに聖礼典と御言葉に満たされているように見えても、自ら目を覚ましていなければ、共同体の内部から最も致命的な攻撃を受ける可能性がある」と警告します。外面的には華やかな礼拝や情熱的な奉仕が行われていても、実は誰かが裏切りの心を育てているかもしれません。そしてその心が完全にサタンに明け渡される瞬間、取り返しのつかない破滅が始まるのです。 この時、主は何度も勧めを送られます。御言葉を通して、礼拝と祈りを通して、共に働く信徒たちの愛のこもった忠告を通して、「戻って来なさい、心を開きなさい、私は今もあなたを愛している」という声を絶えず届けてくださいます。問題は、その声を聞きながらも頑なさを捨てず、結局ユダのように「あなたがしようとしていることを早くしなさい」という最後の宣言を聞くしかなくなる場合があるということです。つまり主は愛によって強く迫ってはくださるものの、私たちの自由意志を踏みにじり、強制的に従わせるようなことはなさいません。私たちが最後まで心を閉ざすなら、最終的には立ち去ることを許されるのです。張ダビデ牧師はこれを「愛の痛みであり、神の尊厳性」だと言います。神はロボットのように人間を操作せず、真実な愛の交わりを望まれるがゆえに、私たちが最後まで心を閉ざせば、その選択さえ尊重されるというわけです。 しかし、その結果としてもたらされるものはあまりにも悲劇的です。教会共同体内で起こる内部からの裏切りは、他の信徒たちにも深刻な混乱と傷を与えます。まだ信仰の弱い人たちにとっては「教会とはこんなところだったのか?」という極端な失望をもたらし、場合によっては共同体そのものが分裂して裂かれる痛みを経験することにもなります。張ダビデ牧師は多くの説教で「初代教会の時代にもさまざまな裏切りや分裂の危機があったが、その度に使徒たちが目を覚まして祈り、互いをいたわることで克服した」と述べ、現代の教会もまた裏切りの種が芽生えないように、まずは互いを気遣う愛の実践が必要だと説きます。ただ「熱心に見えるから大丈夫だろう」と流してしまうのではなく、実際には誰かが疑いと不満にとらわれて倒れつつあるのか、あるいは世俗的欲望に陥って教会を利用しているのかを深く確かめなければならないというのです。 結局「最後の勧めと人間の頑なさ」は、私たちすべてが直面し得る現実的な問題です。教会が恵みに満ちていても、ある人はその恵みを「自分の望む形ではない」と言って拒むことができます。そしてその心を固守し続けるなら、いつか主が「あなたのしようとしていることを早くしなさい」と言わざるを得ないほど、もはや引き止められない段階に至るのです。その後に残るのは夜の闇だけです。恵みと愛の招きが確かにあったと知りながら、自分で背を向けた者に待ち受けるのは、実存的な破滅にほかなりません。だからこそ私たちは常に目を覚まして、自分の内に頑なさが育っていないかを点検しなければなりません。一度の礼拝や修養会、あるいは強烈な体験で全てが解決すると信じるのは安易な考えです。心の頑なさは巧みに戻ってきて、絶えず別の形で私たちを揺さぶるので、張ダビデ牧師は「絶えず御言葉と祈りで武装し、心を開いて主の愛を再び受け入れる努力が必要だ」と強調します。 さらに教会共同体の次元でも、私たちは互いに「最後の勧め」となり得る役割を担わなければなりません。疑いや不満を抱いてさまよっている肢体がいるなら、彼が完全に裏切りの道を突き進む前に引き返せるよう手助けすべきです。愛をもって忠告し、祈りによって取りなすだけでなく、実際的な関心を示して、その心がいっそう頑なにならないように気遣わなければなりません。もしこうした配慮や愛の労苦がなければ、結局共同体内部でユダのような悲劇が再び起こりかねません。張ダビデ牧師はこれを「互いの魂を預かる同労者」と呼び、教会は単に同じ建物に集まって礼拝を捧げるだけでなく、互いが互いに責任を負う愛の共同体であるべきだと力説します。 最後に、人間の頑なさの中でも神はみわざをなされるという事実を忘れてはなりません。ユダの裏切りは、確かに恐るべき罪であり、イエス様を苦難へと追いやる直接的要因でした。しかしその裏切りと苦難の中でイエス様は十字架を背負い、人類の救いを完成されたのです。これは、人間の悪すらも善へと変えられる神の主権を示す一方で、だからといって悪を行った個人の責任が消えるわけではありません。ユダは自らの罪の代価を背負い破滅し、その罪の重荷を後悔しながらも悔い改めず、みずから絶望の道を選んでしまいました。張ダビデ牧師は「神の御心はどのような形であれ成し遂げられるが、その御心に従うことで用いられるのか、拒んで裁かれるのかは私たち自身の責任だ」と語ります。これが自由意志にともなう重い責任であり、同時に私たちへの警告でもあるのです。教会はユダの例から学び、最後の勧めの時に心を頑なにしてしまうことがもたらす結果をはっきりと認識し、それ以上放置しないように目を覚ましていなければなりません。 Ⅲ. 張ダビデ牧師と「悔い改めと救いの道」 ユダの裏切りが頂点に達した時、イエス様は十字架の道を進まれます。これは逆説的なアイロニーと言えます。人間は最悪の裏切りを行い、その罪悪が極限に表された状況でしたが、まさにその時に神は救いの門を開かれるみわざをなさるのです。十字架で死なれ、復活されることによって、イエス様は死の権威を打ち破り、人類に永遠の命への道を開いてくださいました。しかし、その「最も偉大な救いの出来事」が目の前で起こっていたにもかかわらず、ユダはその実りにあずかることができませんでした。なぜならユダは裏切りの後、「真の悔い改め」をもって立ち返らなかったからです。張ダビデ牧師はここで「どれほど偉大な救いが目の前にあっても、個人が悔い改めてその道に入らなければ無意味だ」と改めて教えます。 対照的にペテロは主を否定するという大きな罪を犯したものの、泣き叫んで罪を告白し、復活された主の前で再び愛を告白したことで教会の柱へと生まれ変わりました。これは「罪がどれだけ大きくても、真の悔い改めがある時、救いの道が開かれる」という福音の真理を力強く示しています。張ダビデ牧師は悔い改めを「罪の座から立ち返ること」であると同時に「神の愛と赦しを心から受け取ること」だと定義します。つまり「私のような罪人でさえ主が赦してくださる」という事実を信じ、二度とその罪に戻らないという決意が悔い改めに含まれるのです。ペテロはイエス様を否定して絶望しましたが、その絶望を主にぶつけ、愛の中へ戻ってきたがゆえに回復の恵みにあずかりました。一方ユダは自分の罪を認めながらも「立ち返る道はない」と誤った確信に陥り、サタンの声に翻弄されて極端な選択をしてしまったのです。これは人間の頑なさがいかに自滅へつながるかを浮き彫りにする最も鮮明な対比です。 張ダビデ牧師はこの違いについて「後悔と悔い改めは本質的に異なる」と繰り返し強調します。後悔は「こんな失敗をしてしまった、しまった」という感情的反応にとどまることもありますが、悔い改めは実際にその罪から離れ、もう一度主に従うという行動の変化を伴います。したがって悔い改めは涙で終わるのではなく、生き方の方向性を根本的に転換する決断なのです。ペテロは悔い改めた後、自分の命をかけて福音を伝える使徒として生きました。もし単なる後悔だけにとどまっていたなら、「自分はもう主を否定したから弟子の資格はない」と自己嫌悪に陥り、さらに深い闇へ行っていたかもしれません。しかしペテロはイエス様の復活に出会って真の赦しを体験し、聖霊の力によって福音宣教の先頭に立ちました。つまり悔い改めは具体的な献身と従順の歩みへとつながってこそ、本当の意味があります。 教会でよく聞かれる「悔い改めなくして救いはない」という言葉は、決して律法主義的で人を断罪するためのものではなく、福音の核心原理をまとめた表現なのです。イエス様が十字架であらゆる罪の代価を支払ってくださったので、私たちがどれだけ大きな罪を犯していても赦される道は開かれています。しかしその道を実際に通るためには、悔い改めによってイエス様のもとへ行かなければなりません。もし「その愛があることは知っているが、わざわざ立ち返りたくはない」と心を閉ざしてしまうなら、どれほど大きな愛と救いがあっても自分のものにはならないのです。張ダビデ牧師はこの点について「福音は全人類のために開かれた道だが、個人が自由意志によってその扉をくぐらなければ、自分の救いにはならない」と説きます。 受難節(四旬節)はまさにこのような悔い改めのプロセスへと私たちを招く特別な季節です。イエス様の苦難と十字架を黙想する中で、私たちは自分の内に潜む罪性、そしてユダのように裏切る可能性があることを見出すようになります。いくら長く教会生活を送っていても、職分が高くても、本当に主の道をたどっていなければ、裏切りの種が育ち得るのです。しかしその事実を知ると同時に、イエス様がすでに十字架で私のために死に、復活された恵みを仰ぐ時、悔い改めの希望が生まれます。「今からでも立ち返るなら、主は私を受け入れ、再び建て直してくださる」という信仰が芽生えるのです。張ダビデ牧師は受難節に「悔い改めと救いの道」を特に黙想すべき理由がここにあると言います。 悔い改めようとする時、サタンは「もう手遅れだ」とか「お前のような罪人がどうやって戻れるのか」という絶望感を植えつけます。「ただ後悔したまま終わる方がまだ楽ではないか」という巧みなささやきもあります。しかしそれは偽りです。イエス様の十字架は、私たちのあらゆる罪と弱さを覆うのに十分なのです。一方、「悔い改めてもどうせまた罪を犯すだろうに、何の意味があるのか」という思いが湧くかもしれません。ですが悔い改めは一度で完結するものではなく、日々繰り返される信仰の旅路なのです。張ダビデ牧師は「私たちの罪性が完全に消えない限り、毎日の生活の中で悔い改め、再び主に立ち返る運動が必要だ」と語ります。ペテロも一度の悔い改めですべてが完璧になったわけではなく、その後も失敗や成長過程での試行錯誤がありました。しかし彼はその度に主の前にひれ伏し、立ち返り、聖霊の力によって変えられていったのです。 ユダの例が悲劇として残った理由は、彼が最後まで自分を手放さなかったからです。サタンは彼の心を隙に乗じて、絶望と自責の念へと追いやり、実際には悔い改めによる赦しが可能であったにもかかわらず、自分には道がないと断じさせてしまいました。これはサタンの思い通りに、自滅の道を選んだことにほかなりません。教会でも、ある人が大きな罪や失敗を犯した時、「もう帰る場所はない」と思い込んで去ってしまったり、信仰を放棄してしまう場合があります。しかし福音は、どんな罪にも立ち返る道があると語ります。「私に力を下さる方によって、私は何事でもできる」というパウロの告白は、悔い改めを通して新しい道が開かれるという確信の言葉でもあります。張ダビデ牧師は「教会が罪人を断罪して追い出すところになってはならない。むしろ悔い改めを助け、立ち返る機会を与え、赦しの恵みを分かち合う共同体であるべきだ」と力説します。 では私たちは具体的にどのように「悔い改めと救いの道」を歩むことができるでしょうか。まず、自らの罪を正直に認めて告白することが出発点です。ただ「失敗したな」という後悔レベルを超えて、「主よ、私はあなたの御心に逆らい、罪を犯しました。これからはその罪から離れます」という決断を立てなければなりません。次に、イエス様の十字架を仰ぎ、その方がすでに私のために血を流してくださったと信じることです。私の罪責感を永遠に解決できる唯一の道が十字架にあることを受け入れるのです。三つ目に、罪から解放された後は再び同じ罪に戻らないように、御言葉と祈り、共同体の助けを通して聖なる生き方を求めなければなりません。悔い改めは心の決心だけで終わらず、行動の変化を要求するからです。張ダビデ牧師は「悔い改めた人は愛を実践しようとさらに努力するようになる」と述べ、「ペテロが悔い改めた後に福音を伝えるために自分の命さえも差し出したように、真実に悔い改めた人には献身と従順の実が現れる」と言及します。 受難節(四旬節)はまさにこの道を再確認する時期です。私たちは十字架の前で何者でもない存在だと悟ると同時に、キリストの流された血潮によって何でも新しく始めることができるのだと思い起こします。ユダはその境界で自ら引き返してしまいましたが、ペテロはその境界を超えて恵みにすがりました。現代の私たち一人ひとりも、この二人の道のどちらを選ぶのかという分岐点に立っています。すでに教会に通っていて、多くの奉仕をしており、職分を担っているからといっても、内心ではユダのようにイエス様を「理解できない方」あるいは「私に実益をもたらしてくれない方」と見なす思いが育っていないか振り返る必要があります。もしそうした思いがあるなら、今こそ「悔い改めと救いの道」へ踏み出す絶好の機会です。張ダビデ牧師は「受難節に多くの人々が祈りと断食をし、イエス様の苦難を思い起こすが、肝心の自分の罪と貪欲を手放さないなら、それは虚しい宗教行為に終わりかねない」と警告します。 逆に、受難節に真実に自分の罪を認め、主の十字架の愛を深く黙想するなら、私たちは新たに生まれる驚くべき体験をすることができます。主の赦しがどれほど大きく、主の愛がどれほどまことのものであるかを悟る瞬間、ようやくユダの道ではなくペテロの道を歩むことができるようになるのです。「立ち返りなさい、私は今もあなたを愛している」というイエス様の声は、教会を通して、御言葉を通して、聖霊の内なる働きを通して、今日も絶えず響いています。問題は私たちがその声を拒み、夜の中へ行くのか、それともその声に応えて涙ながらに悔い改め、新しい夜明けを迎えるのかにかかっています。 このように、ユダの裏切りから得られる最も決定的な教訓は、人間はいつでも愛の前から背を向けられるが、同時にいつでも悔い改めによって救いにあずかることができるという事実です。張ダビデ牧師はこの真実を強調し、最終的に信仰生活で最も大事なのは「日々主の前に自分の罪を差し出し、その方の恵みを慕い求め、行動で従順を示すかどうか」にかかっていると語ります。教会が目指す福音の働きは、人々が悔い改めと救いの道へ入れるよう助けることにあります。信徒同士が互いに勧め合い、時には痛みを伴ってでも罪を指摘し合い、回復のために共に祈るのです。こうした共同体的な愛が生きている時、ある人が一時的につまずいたり疑いにとらわれても、再び立ち返る道が開かれます。 結局、ヨハネの福音書13章に描かれたこの裏切りのドラマは、私たち全員を試験台に乗せるようなものです。私たちは本当にイエス様の愛を信じているのか。イエス様の語られることが時に重荷に感じられ、世の期待と異なるように見えても、私は主の道を選ぶのか。それともユダのように「この道は自分の利益にならない」という判断を下して背を向けるのか。そしてもしその道で堕落したとしても、ペテロのように再び立ち返って悔い改めるのか、あるいは後悔と絶望にとどまり、さらに深い闇に落ちていくのか。張ダビデ牧師はこの問いを受難節にとりわけ繰り返し思い起こし、「十字架をつかんで悔い改める者には、いつでも救いの道が開かれている」と力を込めて語ります。 人それぞれ置かれている状況や悩み、罪の種類は異なるでしょう。ある人は金銭への欲のために、ある人は名誉や権威への渇望のために、また別の人は教会共同体で受けた傷のために、裏切りの一歩手前に立っているかもしれません。しかしその理由が何であれ、結論は同じです。「主の前に出て罪を告白し、赦しを求め、二度とその道を行かない」との悔い改めがなければ、救いの喜びにあずかることはできません。「救いは神がすでに開いてくださったが、それを実際に享受するかどうかは全面的に私たちの応答にかかっている」という張ダビデ牧師の言葉は、現代にも依然として有効です。 私たちはユダの裏切りを通して霊的警戒心を持ち、ペテロの回復を通して希望を見出します。教会は常にこの二つの道の間に立つ信徒たちを受け入れ、悔い改めを助け、立ち返りの道を指し示すような存在でなければなりません。そして受難節は、これを最も集中して行い得る時期です。イエス様の十字架の死と復活は私たちの信仰の核心であり土台ですから、その出来事を深く黙想する時、私の罪の実態と主の愛の大きさがはっきり見えてきます。その愛にすがって悔い改めの膝を折る人は誰でも、救いの道に加わることができます。張ダビデ牧師は「ユダが最後の瞬間にでも主に戻ってきたなら、ペテロのような恵みを受けただろう」という想定にまで触れ、神の愛がどこまでも尽きないことを強調します。ところがユダは結局その扉を自ら閉ざしてしまいました。私たちはその愚かさを繰り返す理由などどこにもありません。 結論として、裏切りの物語は「愛を拒んだ座」がどれほど身近に潜んでいるかを示し、「最後の勧め」ですら拒みうる人間の頑なさを警告しつつ、同時に「悔い改めと救いの道」がいつでも開かれていることを力強く説きます。張ダビデ牧師は、この三つがヨハネの福音書13章20〜30節に光のように現れていると見ています。イエス様が「わたしが遣わす者を受け入れることは、すなわちわたしを受け入れること」と言われた直後に裏切りの予告があり、実際にユダが夜へと出て行きます。しかしイエス様の十字架が完成すると、悔い改める者たちには新しい命が与えられます。教会がこの福音の真理を握って生きる時、私たちはユダの失敗から教訓を得ると同時に、ペテロの回復から希望を見出すのです。そしてその希望は「悔い改めと従順」という具体的な決断によって実を結びます。これこそ、受難節を迎える教会と信徒に突きつけられる挑戦であり、同時に約束でもあります。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「私たちはいつだってペテロにもなり得るし、ユダにもなり得る。結局どちらの道を歩むのかは、自分自身の選択次第だ」というメッセージを忘れてはなりません。そしてその選択の岐路で「主の愛を受け入れて悔い改め、救いの喜びを味わう」と決断する時、ようやく裏切りの夜ではなく復活の朝に出会うことができるのです。

Era de noche – Pastor David Jang

I. El pastor David Jang y “El lugar de la traición que rechaza el amor” En Juan 13:20-30 aparece la escena en la que “después de recibir el bocado, Judas salió inmediatamente, y ya era de noche”. A primera vista, parece un mero hecho histórico, pero en su trasfondo encierra un mensaje espiritual muy importante. … Read more

밤이러라 – 장재형(장다윗)목사

Ⅰ.  “사랑을 외면한 배반의 자리” 요한복음 13장 20-30절에서 나타나는 “유다가 그 조각을 받고 곧 나가니 밤이러라”라는 장면은 겉으로는 단순한 역사적 사실 같지만, 그 이면에는 매우 중요한 영적 메시지가 담겨 있다. 장재형목사는 여러 설교에서 이 본문을 놓고, 인간의 내면에 잠재된 배반의 심리와 하나님의 사랑이 어떻게 충돌하는지, 그리고 그 사랑이 눈앞에 있음에도 끝까지 붙들지 못하는 완악한 마음이 결국 어떤 파국을 낳는지에 대해 자주 강조한다. 여기서 “밤”이라는 단어는 … Read more

从奴仆到儿子 — 张大卫牧师

Ⅰ. 福音与律法的对比,以及成为儿子的意义阅读加拉太书时,3章23节至4章7节是一个紧密衔接的长段落。使徒保罗在其中讨论了“儿子与产业”这一核心主题,并在整个论述过程中严肃地提出了“谁来承受神的产业”这一问题。在加拉太书3章的结尾部分(3:29),保罗已经明确指出:“你们若属乎基督,就是亚伯拉罕的后裔,是照着应许承受产业的。”接着,从4章1节开始,关于成为儿子的身份与实际承受产业的说明才正式展开。保罗锋利地对比了福音与律法,强调律法扮演的是奴仆的角色,而福音则使我们成为儿子。当时,在加拉太教会里,有试图回归律法的犹太派基督徒——也就是假教师——正在得势,他们虽然已经借着福音得了救恩,却又想把教会拉回律法之下。对此,保罗质问:“你们到底想把教会带到哪里去呢?”同时大声强调,他们已经借着福音得到多么奇妙的自由。 张大卫牧师透过多次讲道与授课,详细阐明了加拉太书整体脉络,并不断说明为何对比福音与律法如此重要。他提及“福音让人成为儿子,律法却让人成为奴仆”,这句话展现了福音所带来的自由与身份恢复的核心。奴仆活在捆绑之下,不能随自己心意而行;儿子则享有自由,并拥有继承产业的权利。保罗并不只是在理论上谈论这一点,而是基于自身对福音大能的亲身经历来极力阐释。倘若转向以律法为中心,无异于重新承担“轭”的重担;因此他在加拉太书5章1节干脆利落地下结论:“基督释放了我们,为要使我们得自由。所以要站立得稳,不要再被奴仆的轭挟制。” 这种论述并不仅仅是“犹太教 vs. 基督教”的宗教对立,而更是聚焦于人类的根本性救恩问题究竟藉由什么来解决。也就是说,人究竟能否成为“儿子”,或是仍停留在“奴仆”的状态——两者的分水岭就在于“福音”与“律法”这两条道路的区别。福音在我们相信耶稣基督时,具有把我们恢复为儿子的独特大能;然而,人往往无法牢牢抓住这自由与儿子身份,重新回到律法式、宗教性的轭之下。保罗在加拉太书3章末尾宣告:“你们既属基督,就是亚伯拉罕的后裔,是照着应许承受产业的。”这也向我们显示:那应许给亚伯拉罕的丰盛救恩,到底由谁来继承?答案并非取决于血统或律法的遵行,而是经由与基督联合而成就的历史性、属灵性的产业传承。 在我们日常生活中,也常常丧失这种身份意识。当“我是神的儿子”这种自觉被动摇,就如同在摔跤或柔道场上失去重心一般,我们的人生也随之崩塌。保罗在加拉太书中不断呼吁:既然我们已经成为儿子,就再没有理由背负奴仆的轭了。我们借着基督的十字架获得了自由,若又回到律法和功劳观念里,无异于放弃了好不容易得到的自由。保罗对这一点有着深刻的警觉,为捍卫福音的真理、抵挡分裂教会的假教师,他展开了热情而强烈的辩论。 张大卫牧师在讲解加拉太书时,尤其强调:当我们有了坚定不移的儿子身份时,就会涌现灵命成长与自由,以及实质的能力。“我是神的儿子”这一自觉一旦不被动摇,无论黑暗势力如何冲击,也绝不会被击倒。正如耶稣在面对魔鬼试探时,“你若是神的儿子”这句挑战并不能使祂退缩;同样,当我们清楚自己是儿子,并据此而活,就能切实经历主里的自由与能力。耶稣在受试探时,每一次都以这坚定的信念作为根基:“我是神的儿子,所以我不仅仅靠食物活着,而是靠神的话语而活。”这种自我意识与灵里确信,也正是保罗在加拉太书整卷书信里所要向信徒紧密传达的关键。 保罗透过逻辑、历史以及神学层面的论证,表明我们在福音里并非奴仆,而是儿子。在加拉太书4章1-2节里,保罗写道:“那承受产业的,虽然是全家的主人,但在孩童时期却与奴仆毫无分别,仍在监护人和管家的约束之下。”这里指的是在律法之下的整段犹太教历史。他们如同奴仆一般,受着相当于“训蒙教师”的律法约束并成长;如今,时机成熟,理应可以以儿子的身份自由地站立。但在加拉太教会,犹太派基督徒却强迫人们再度背上律法的轭。对此,保罗满怀愤慨地说:“你们为何还要回到奴仆状态呢?”并指出这根本是在毁坏福音。 张大卫牧师在讨论这一段经文时,尤其强调“宗教习性”如何一点点蚕食我们的自由。律法化、宗教化的思维模式,看似虔诚,却往往束缚人心并消灭属灵的能力。当人们被各种宗教仪式或责任压得喘不过气,又失去“儿子身份的自由”,教会里就极易出现分裂和定罪。保罗为此在加拉太书中责备他们:“你们为何又回到那软弱无用的小学?”(加4:9),并不断提醒他们要珍惜在福音里所得的自由。加拉太书5章1节所达到的这一结论——“基督释放了我们,为要使我们得自由,所以要站立得稳,不要再被奴仆的轭挟制”——不仅适用于加拉太教会,也成为对历世历代教会的一则强烈劝勉与警示。 当我们彻底抓住“不再是奴仆,而是儿子”这一事实,就不再把自己定位成“罪的奴仆”,而确立为“在基督里已被算为义”的人。只要教会开始执着于外在的轭与规则,儿子的自由和能力就会被蒙蔽。加拉太信徒因为在律法重担下又去谨守日子、月份、节期和年份,弄得焦头烂额,这等情形可说是又回到过去拘泥宗教义务的奴仆式生活形态了。与此相对,福音宣告神的儿子耶稣基督“在律法之下降生,为要把我们从律法之下赎出来,使我们得着儿子的名分”(加4:4-5)。保罗也宣讲:“基督已经为我们成了咒诅”(加3:13),借着耶稣的恩典,我们不再停留在罪的奴仆地位,而能以儿子的身份大胆而自由地活着。 张大卫牧师也着重强调,福音的本质就是那能把“奴仆变成儿子”的力量。它摧毁人内心的罪疚与恐惧,让人得以恢复儿子与女儿的自由。耶稣卑微降世、道成肉身(Incarnation),正是最能强烈展现祂渴望以爱来拯救我们的事件。本有与神同等之位的主,却自我倒空,顺服至死、且死在十字架上——这在人看来近乎无法理解的“神的愚拙”(林前1:25),却正是“以死败坏了死权”的救赎之道。祂以人类代表的身份(参罗马书第5章的“代表”论述),粉碎了罪与死的权势。 道成肉身与十字架所完成的救恩,为我们带来了“儿子身份”之下的无比特权,也就是承继产业的资格,并且让“神儿子的灵”(基督的灵)住在我们心里,使我们得以称呼“阿爸,父”(加4:6)。从前在奴仆的地位上,连到神面前的勇气都没有,但如今,借着耶稣的宝血,我们能坦然进入至圣所(来10:19)。因此,加拉太书的信息其实涵盖了人类历史、神学以及实践层面最根本的恩典核心:当福音使我们确信“我是神的儿子”时,我们便不再受“幼稚教师”和律法的轭束缚,而能真正自由地生活。 Ⅱ. 加拉太书第4章中的“儿子与产业”核心信息让我们具体看看保罗在4章1~7节里所展开的逻辑结构:“那承受产业的,虽然是主人,却在年幼时与奴仆无异,还在监护人和管家的看管之下”(加4:1-2),指的正是3章23节以后所讲的律法时期,亦可称为“临时守护人或监护人”的时代。律法虽不完全,却在基督来到之前暂时扮演必要的角色。然而,当“时候满足”(加4:4),也就是神所预备的时机到来时,神的儿子降临世上,将我们从律法之下赎出来。这“赎”(贖良)表示“代付赎价”,是耶稣在十字架上为我们担当全部罪债,并以此死来换得我们的自由。 张大卫牧师对保罗所说的“时候满足”非常注意,强调耶稣基督的道成肉身与十字架事件正是整个救赎历史的重要转折点。经上说,神让祂取了人的身体,由女人所生(加4:4),呼应了以赛亚书7章14节的预言:“必有童女怀孕生子。”并且,旧约一切应许都在耶稣基督的十字架与复活里得以最终完成。“要叫我们得着儿子的名分”(加4:5),也就是,人哪怕再想藉着律法来自我建立,依然因自身软弱而无法彻底脱离罪的束缚;唯有耶稣替我们完成律法,并替我们而死,将我们从律法咒诅中释放出来。 保罗更进一步指出,我们不只是得到罪的赦免,还得到“神的儿子”这一身份上的改变。“你们既为儿子,神就差祂儿子的灵进入你们的心,呼叫:阿爸!父!”(加4:6),这节经文表明,圣灵(基督的灵)内住于我们心中,证明我们已重生为神的孩子。奴仆是害怕主人、远远观望的角色,但儿子则能亲昵地称“爸爸”。这是儿子与奴仆最明显的差别所在:奴仆常常因“必须守规”而战战兢兢,儿子则在与父亲的爱之关联中享受自由,可以无拘束地分享父亲的所有财产。 保罗在加拉太书里,不断强调与其遵守律法而获得所谓“奴仆式的义”,不如紧紧抓住耶稣基督带来的“神的义”,那是通过信心归算给我们的。正如加拉太书2章16节:“人称义,不是因行律法,乃是因信耶稣基督。”到第4章,此信息也没有变化:那些原先是奴仆的人获得了“儿子名分”,并非因自身能力,而是全赖神的恩典。保罗同时进一步阐述,成为儿子实际上意味着什么——神赐给我们儿子的灵,住在我们心里,与我们同在,使我们产生真实的关系。这并非只是宗教地位或称谓的改变,而是整段关系的修复与更新。 加拉太书4章7节:“这样,你不再是奴仆,乃是儿子;既是儿子,就靠着神为后嗣了。”这句话展示了救恩的完成面。既是儿子,就可承受神所预备的一切属灵、历史的丰盛。福音之所以如此具有颠覆性,就在于此。从前,在律法体制之下的犹太人和外邦人无法站在同等位置上,但如今在耶稣基督里,“并不分犹太人或希利尼人,自主的或为奴的,或男或女,因为你们在基督耶稣里都成为一了”(加3:28)。这种“儿子身份的权柄”,在过去是难以想象的平等与和谐,也成为重塑教会新共同体的推动力,打破了过去社会所默认的主仆、男女、犹太人与外邦人之间的种种隔阂。 然而,加拉太教会中,律法主义者还在劝诱信徒回到“谨守日子、月分、节期、年分”的旧规里(加4:10)。保罗对此质问说:“你们为何还要回到那懦弱无用的小学,再作奴仆呢?”(加4:9)。所谓“小学”,可泛指人类凭己力或宗教哲学想要成就什么的所有尝试;但对保罗而言,福音就是因耶稣的十字架与复活而已然完成的救恩,不再需要额外加上任何人为条件。这也意味着,越是给福音附加律法式要求,福音的恩典反而越被抵消,儿子本该享有的自由也被侵蚀。 在这个脉络下,张大卫牧师总结说,加拉太书所展现的福音核心精神可归纳为:“要始终抓住我们已得的儿子身份。”不论教会在组织或文化上怎样发展,若信徒心中“儿子身份”淡化,就难免被律法习惯或世俗价值观侵蚀,以致教会紊乱。加拉太书4章后半段(加4:19-20),保罗迫切地说,他要“再为你们受生产之苦,直等到基督的形状在你们心里成形。”这显示他极度盼望教会在福音里得以真正体现,并恢复儿子所享的自由。为此,保罗愿甘冒艰辛,全心付出。 在4章中段(加4:13-15),保罗提及他曾经身体软弱,然而加拉太人当时却满怀爱心接纳他,视他如“神的使者”或“基督耶稣”一般,甚至愿意“把自己的眼睛挖出来给保罗”般地爱他。那是他们因福音而活在自由、炽热爱中的宝贵见证。但为何现今却彼此挑拨,被律法派假教师蛊惑,导致争执与仇恨?保罗对此痛心疾首,因此用了激烈的语气斥责他们。 因此,加拉太书第4章的重点并不是单纯讲“律法没用,干脆丢掉算了”这样肤浅的层面;而是指出,律法真正的功能在于让我们看清罪、引导我们投向基督这位终极拯救者。在基督来临完成这救赎之后,就不再需要继续被律法捆绑。人虽可借律法看见自己的罪,却无法凭律法除罪并成为儿子,唯有基督的赎回工作才能成就。当人成为儿子之后,实际上便跨越了“宗教围墙”,自由地亲近神,也通过基督的新诫命“彼此相爱”来体会律法的终极完成。不是靠外表行为来“遵守律法”,乃是靠在圣灵里、凭爱心行事才真正活出儿子的样式。 张大卫牧师反复提及这样的观点:基督徒的身份并非“为满足律法而努力的宗教徒”,而是“因福音得以自由的神儿女”。尝过儿子自由滋味的人,自然会在任何处境、场合去传扬神的爱,并在“我认识这位儿子,儿子也认识我”的亲密状态下活在世上。唯有这样,教会才会成为一个真正有生命力的群体,在世间作光作盐。 Ⅲ. 从奴仆转变为儿子所带来的自由与身份,以及生活应用保罗在加拉太书第4章中,结合了他个人体验和加拉太教会的实际处境,向今日教会与信徒展现何谓“自由”与“身份”。在这当中,律法与福音、奴仆与儿子、捆绑与自由,以及假教师的干扰都被鲜明地揭示出来。特别是“你们若为儿子,就必承受产业”这一宣告,堪称扭转人类命运的宏大信息。原来只是一介罪的奴仆的人,怎么可能成为全能神的继承者?唯独在基督里,这样的奇迹才真实存在,这正是福音带给我们的震撼与恩典。 在加拉太书4章里,最值得留意的是:保罗谈到“怎样成为儿子”时,完全基于“基督替我们所成就的事情”。“祂赎我们、使我们得儿子的名分,又将儿子的灵浇灌我们”,这一切都出自神。我们的角色仅仅是凭信心领受,既不包含什么功劳,也无需律法行为来弥补。作为儿子而生活,乃是借基督之灵而过的积极生活。也就是说,成为儿子的结果并非任性放纵,而是“顺着圣灵而行”,在圣灵里彰显合乎儿子身份的圣洁与爱。保罗在加拉太书5章更进一步说明此应用面:结出圣灵果子的人(仁爱、喜乐、和平、忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制),不再受律法的约束。 张大卫牧师把这些重点带到实际的牧会情景中,反复强调:“福音是有能力翻转我们人生的,根源正是在‘我是神的儿女’这一身份确立上。”教会内之所以会出现冲突、彼此定罪,或者有人被定罪而心生恐惧,多半是因为我们忘记了自己已是儿子这一事实。当我们过度强调“为了安全,必须尽到某些宗教义务”,就会让“爱神、爱人”退居次席,而使规则和形式走到前面。如此一来,难免会出现彼此比较、论断,以及制造更多捆绑的现象。加拉太教会的问题,正是如此。 然而,“我是神的儿子”这样确切的确信,就如同当年耶稣在魔鬼试探面前毫不动摇地宣告自己的身份一样,能使我们面对生活里大大小小的压力与诱惑时依旧从容。因为儿子身份是我们可以倚靠的根基,儿女深知天父是丰盛且不变的,也相信父的爱绝不会落空。此外,既然儿子的灵住在我们里面,我们也可以在对付罪时相信圣灵会施展大能。即使眼前的处境让我们感到软弱,“基督的能力在软弱的人身上才得以彰显”(林后12:9)——保罗的这番话就表明,在我们的亏欠和不足中,神的荣耀反而能更加显著。 张大卫牧师在解经加拉太书4章时,经常提及保罗自述身体软弱,却得到加拉太信徒深爱的事例(加4:13-15)。当初,保罗看似羸弱无力,但加拉太人却以“若是可能,便把自己的眼睛挖出来给他”的方式来接待他,并视他如“神的使者”、“耶稣基督”一般。这份接纳与爱,是基于福音而生,与律法式任务毫无干系。然而,当律法主义者渗透进来,这原本的美好爱心就消失了,反而变成彼此争闹和排斥,保罗怎能不痛心?而我们自己也很可能在教会中重蹈覆辙:起初彼此相遇,因福音而亲如一家,但随着时间推移,却堕入互相定罪、分裂的局面。此时,我们理当再次回到加拉太书的信息,反思:“我们是否仍在享受神儿子的自由?” 保罗严正呼吁:“你们为什么还想回到奴仆的地步呢?”这不仅是回到旧的律法制度,更涉及人性固有的弱点。我们常在内心里背负“要做好人、要守规矩才算合格”的强烈观念;但福音告诉我们,这观念本质上无法让我们成为义,只会让我们一直挣扎。真正的义来自耶稣基督,而这种信心的基础在于“儿子关系”。儿子明白父的心意,并以顺服去践行,但这顺服的力量并非出自律法的压制,而是出自爱的动力。正是这样的微妙差异,将宗教化的生活与真正的福音生活区分开来。 若我们以今天教会的视角去重新审视加拉太书第4章,就会发现教会内有形形色色的“初级学问”(所谓“小学”)在搅扰。或是引进世俗的方法论,或是打着基督教旗号却带着律法主义倾向;这些看起来“很属灵”或“很正派”,但若与十字架之恩不相合,只是强调人为的功劳或形式,它们就会沦为另一种“让人当奴仆的初级学问”。保罗对这一类东西毫不留情,指出其会让假教师乘机离间信徒、播下仇恨与不实观念,制造分裂。但离间、分裂、虚假、憎恶、定罪,恰恰与福音的爱与自由背道而驰。 那么,在实际生活中,如何坚守并活出“我是神的儿子”这一身份呢?首先,要在神的话语和祷告中,不断回顾我们所蒙的救恩——如果没有耶稣基督的救赎,我们依然是罪的奴仆。如今我们借着福音成为神的儿女,需将此事实深深刻在脑海和心灵。第二,要依靠圣灵。加拉太书4章中所说的“儿子的灵”就是圣灵。当我们住在圣灵里,就能称呼神为“阿爸,父”,并在与祂的亲密关系里,面对世界时便有信心也有勇气。第三,我们必须将这自由付诸爱心行动,而不仅仅是遵循一套宗教形式。借着主十字架的爱,我们得以去服事他人、建造教会;这时就实现了加拉太书5章14节所言:“全律法都包在‘爱人如己’这一句话之内。” 最终,保罗在加拉太书4章里说:“我为你们再受生产之苦,直等到基督的形状在你们心里成形。”(加4:19),目的是让儿子身份的真实深深植入每位信徒的内心。保罗回想起自己身体软弱时,加拉太信徒曾“像对待耶稣基督一般”去爱他,那时教会充满了福音所带来的炽热之爱。他盼望他们回到那时的状态、那份爱与自由。事实上,许多基督徒在教会久了,起初的热心已退去,转而陷入形式与习惯之中,甚至互相批评、树立自我义。这时,我们要回到加拉太书4章,认真反省:我到底是活在儿子身份的自由里,还是再次走上了奴仆之路? 张大卫牧师时常呼吁我们带着这个问题去警醒,去检视教会与个人的信仰生活。福音不是仅仅听一次就结束的教条,而是需要每天活出来的大能。此大能绝非人力所能制造,唯有当“儿子的灵”在我们里面,才会真正开花结果。基督愿意降卑、来到律法之下,为我们付上赎价;当我们凭福音而活时,所有律法的要求在圣灵里反倒得以自然成全。这就是保罗神学的精髓。当我们不忘记这点,并常常反省神为何赐下自由,教会就不会被分裂、假教导或人为规范所捆锁,而是因着爱与圣灵的果子而得以合一、成长。 综上所述,在加拉太书3章23节到4章7节的经文里,使徒保罗透过对比“奴仆”与“儿子”,极力见证了福音的大能。他所宣告的“你们是儿子”、“若是儿子,就必承受产业”,既是对那些妄图让教会回到奴仆之轭的荒谬之举发出的谴责,也在激发信徒重新树立儿子的自我意识。这显示了那位曾赐下律法的神,最终期待在耶稣基督里让全人类恢复真正的“儿子身分”。对此,张大卫牧师不断提醒:要日复一日地省察自己是否抓紧了加拉太书所含的福音精髓与恩典核心,并且将这份自由真正运用在现实生活中。我们既然成为儿子,就不再被恐惧和责任感的捆绑,而能亲切地呼喊“阿爸,父”,并承接祂的一切丰盛。这样的自由与爱的关系,理应不断在我们生命中茁壮,也应成为教会整体所彰显的见证——这正是加拉太书第4章对当代教会所发出的强烈呼吁,也是一份盛情的喜乐邀约。

De Serviteur à Fils – Pasteur David Jang

I. Le contraste entre l’Évangile et la Loi, et la signification de devenir fils Lorsque nous lisons l’Épître aux Galates, le passage qui va de Galates 3.23 jusqu’à 4.7 constitue un segment continu, un développement d’une seule traite. Dans ce texte, l’apôtre Paul traite du thème central : « le fils et l’héritage », et … Read more

奴隷から子へ – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 福音と律法の対比、そして子となることの意味 ガラテヤ書を読むとき、3章23節から4章7節までは一つの流れとしてつながる長い段落です。パウロはこの箇所で「子と相続」という核心的テーマを扱いながら、「いったい誰が神の相続を受けるのか」という問いを真摯に投げかけます。すでに3章の結論部分(3:29)で「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と明言し、その流れを受けて4章1節以降で子となるアイデンティティと実際の相続に関する説明が本格的に展開されるのです。パウロは福音と律法を鋭く対比し、律法は奴隷の役割を果たし、福音はわたしたちを子にするという点を力強く主張します。 当時のガラテヤ教会では、ユダヤ主義的クリスチャン、つまり偽教師たちが台頭していました。彼らは「福音によってすでに救われたのに、再び教会を律法へと引き戻そう」としていたのです。この動きに対しパウロは「いったいあなたがたは今、教会をどこへ連れて行こうとしているのか」と声を上げ、わたしたちが受けた福音がどれほど驚くべき自由をもたらすかを強調しました。 張ダビデ牧師は、さまざまな説教や講義を通してガラテヤ書のこの流れに注目し、福音と律法の対比がなぜこれほど重要なのかを繰り返し説き明かしてきました。福音はわたしたちを子にし、律法は奴隷として仕えさせるという表現は、福音がもたらす自由とアイデンティティの回復の核心をよく示しています。奴隷は拘束の下にあり、自分の思いどおりに生きられませんが、子は自由を享受し、相続の権利を持ちます。パウロはこの事実を単なる理論として語るのではなく、自身が直接体験した福音の力に基づいて力説するのです。律法中心に戻ることは「くびき」を再び負うのと同じであり、ガラテヤ書5章1節で「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由の身にしてくださったのですから、また奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」(新改訳を参照)と明確に結論づけています。 この論理は単に「ユダヤ教 vs. キリスト教」という宗教的対立構図にとどまらず、人間の本質的な救いの問題が何によって解決されるのかという焦点を持ちます。人が「子」となるのか、それとも「奴隷」の状態にとどまるのかという分岐点が、「福音」と「律法」という二つの道によって分かれるのです。福音はイエス・キリストを信じるとき、わたしたちを子として回復させる特別な力を備えています。それにもかかわらず、人々はしばしばこの自由と子となる身分をしっかりと握れず、再び律法的・宗教的なくびきの中へと入ってしまうのです。 パウロはガラテヤ書3章の終わりで「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(3:29)と宣言し、まさにそのアブラハムに約束された救いの豊かさが誰によって継承されるのかを示しています。それは単に血統や律法遵守の有無ではなく、キリストとの連合によって成し遂げられる歴史的・霊的な相続であることを、はっきりと打ち出す場面なのです。 わたしたちも日常生活のなかで、このアイデンティティを見失うときがあります。「わたしは神の子だ」という自覚が揺らぐとき、まるで相撲や柔道の試合で重心が崩れるように、わたしたちの人生全体も崩れてしまいます。パウロがガラテヤ書で力強く叫ぶように、わたしたちはすでに子とされたのですから、もはや奴隷のくびきを負う必要はありません。キリストの十字架によって自由を得たのに、再び律法や功績にもどろうとするなら、それはせっかく得た自由を捨て去るも同然です。パウロはこれを非常に深刻な問題として捉え、教会を分裂へ導く偽教師たちに対抗し、福音の真理を守るため熱心に論争を繰り広げます。 張ダビデ牧師はガラテヤ書の講解の中でこの部分をとりわけ強調し、わたしたちの内に「子とされた」確固たるアイデンティティがあるとき、霊的成長と自由、そして実際的な力が流れ出ると教えています。「わたしは神の子だ」という自覚が揺るがなければ、どんなに闇の勢力が揺さぶろうとしても決して倒れないのです。ちょうどイエス様が「もしお前が神の子なら」という悪魔の試みにも動じずに勝利されたように、わたしたちが自分が子であることを自覚し、それにふさわしく生きるとき、主の内にある自由と力を体験できます。イエス様は試みに遭われたとき、一貫して底流に「わたしは神の子だ。だからただのパンだけで生きる存在ではなく、むしろ神の言葉によって生きる」という確信をお持ちでした。このような自覚と霊的確信をわたしたちも持つべきだということが、パウロのガラテヤ書全体の文脈とも緊密にかかわっているのです。 パウロはこの福音の中で、わたしたちが奴隷ではなく子であることを、論理的・歴史的・神学的に証明していきます。ガラテヤ書4章1~2節では「相続人であっても、まだ幼い間は奴隷と変わらず、後見人や家令の下にある」と説明します。これは、律法のもとにあったユダヤ教全体の歴史を想起させるものです。彼らは奴隷として、子どもを導く「家庭教師(モンハクセンセイ)」のような役割をする律法を通して成長し、やがて時が満ちたときに子として自由に立つことができるようになりました。しかしガラテヤ教会の中で問題を起こしたユダヤ主義的クリスチャンたちは、律法のくびきへと戻ることを強要していたのです。パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と憤慨し、それは福音を根本的に損なう行為だと指摘します。 張ダビデ牧師は、この箇所で「宗教の習性」がわたしたちの自由をいかに蝕むかを説きます。律法的・宗教的な思考は見かけは敬虔そうに見えながらも、実際には人間を束縛し霊的な力を消滅させる傾向が強いのです。そうして宗教的行為や義務に縛られ疲弊し、「子としての自由」を失ってしまうと、結局、教会の中で分裂や互いの罪定めが起こってしまいます。パウロはガラテヤ書で、このような状況を「どうして再び弱くて貧しいelemental spirits(初歩的教え)に戻り、奴隷になろうとするのか」と叱責し、福音がもたらす自由がいかに尊いものであるかを覚えさせるのです。ガラテヤ書5章1節に至るこの宣言――「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由にしてくださったのです。だからもう一度奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」――は、当時のガラテヤ教会だけでなく、すべての時代の教会に向けた力強い勧告であり警告でもあります。 わたしたちが奴隷ではなく子であることをしっかりと把握するとき、自分を「罪の奴隷」とは定義せず、「キリストにあってすでに義と認められた者」として確立していけます。教会がほかのくびきや規則にこだわり始めると、子としての自由と力が覆い隠されてしまうのです。ガラテヤ人たちが律法的な重荷に囚われ、日や月、季節や年を守ることに気を取られている様子は、結局のところ初歩的教えに縛られ、宗教的義務を果たす生活形態に逆戻りしたのと同じです。しかし福音は、神の御子イエス・キリストが「律法の下に生まれ、わたしたちをあがない、子としての身分を得させてくださった」(ガラテヤ4:4-5)と語ります。パウロは「わたしたちのために律法の呪いとなってくださった」(ガラテヤ3:13)イエスの恵みによって、わたしたちはもはや罪の奴隷としてとどまるのではなく、子として大胆に生きられるのだと宣言しているのです。 張ダビデ牧師が強調するように、福音の本質は「奴隷を子に変える力」にあります。人の心にある罪悪感や恐れを打ち破り、子としての自由を回復させることこそ福音の力なのです。イエスがへりくだってこの地に来られた受肉(インカーネーション)は、神がどれほどわたしたちを愛し、救おうとしてくださるかを最も劇的に示す出来事です。神と等しくあられる方がご自分を空しくして十字架の死にまで従順になられたことは、人間の理性では到底理解し難い「神の愚かさ」(コリント第一1:25)といえます。しかし、この「愚かな方法」こそ「死によって死に打ち勝たれた」贖いの道であり、キリストがローマ書5章の代表論で示されるように、わたしたちの代表として罪と死の力を打ち砕いてくださいました。 このように受肉と十字架の出来事によって完成された救いは、子に与えられる驚くべき特権をわたしたちに贈り届けます。それがすなわち相続のことであり、子の御霊(キリストの霊)がわたしたちの内に住んで「アバ、父よ」と叫ばせるのです(ガラテヤ4:6)。かつては奴隷の身分で、とても神の前に出る勇気など持てなかったわたしたちが、イエスの血潮によって聖所に入ることを許されました(ヘブル10:19)。このようにガラテヤ書のメッセージは、人類の歴史・神学、そして実際の生活を貫く最も根本的な恵みの核心と言えます。福音がわたしたちの内に「わたしは神の子だ」という揺るぎないアイデンティティを植えつけるとき、もはや初歩的教えや律法のくびきに縛られずに生きられるのです。 Ⅱ. ガラテヤ書4章における子と相続の核心メッセージ パウロはガラテヤ書4章1~7節で展開する論理構造を見てみましょう。「相続人がすべてのものの主人であっても、子どもの間は奴隷と変わらず、後見人や管理人の下にある」(ガラテヤ4:1-2)というのは、先に3章23節以下で述べたように、律法の時代を「一時的保護者あるいは後見人」にたとえたものです。律法は不完全ながらも、キリストが来られるまで一時的に必要な役割を担いました。ところが「時が満ちた」(ガラテヤ4:4)、すなわち神が定められた時に、神の御子がこの地に来られてわたしたちを律法の下から贖い出されました。この「贖い」は「代価を支払って買い戻す」ことを意味し、イエス様がわたしたちの代表としてすべての罪の代価を負い、十字架で死なれることで成就されたのです。 張ダビデ牧師は、この「時が満ちた」というパウロの表現に注目し、救いの歴史における重要な転換点がイエス・キリストの受肉と十字架の出来事であることを強調します。神が人として生まれ、女性から生まれさせた(ガラテヤ4:4)のは、イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」という予言の成就であり、旧約のすべての約束がイエス・キリストの十字架と復活において完結したのです。その目的は「わたしたちに子としての身分を得させるため」(ガラテヤ4:5)でした。つまり、人間はどれほど律法を守ろうとしても弱さゆえに罪から完全に自由にはなれませんが、イエスが律法を全うし、わたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって律法の呪いから解放してくださった、ということです。 パウロはさらに一歩進んで、わたしたちには単に罪の赦しが与えられただけでなく、神の子となるという身分の変化が贈られたのだと言います。「あなたがたが子であるゆえに、神はその御子の霊をわたしたちの心に遣わして、『アバ、父よ』と叫ばせてくださるのです」(ガラテヤ4:6)という言葉は、聖霊(キリストの御霊)の臨在によって神の子となったことを証する場面です。奴隷は主人を恐れ、遠くから仰ぎ見るだけですが、子は「お父さん」と親しく呼びかけられます。これこそが子と奴隷を決定的に分ける点です。奴隷は常に「律法を守らなければ」という緊張と恐怖に囚われていますが、子は愛の絆の中で親のすべてを享受できる自由を持ちます。 パウロはガラテヤ書全体を通して、律法を守ることで得られる「奴隷としての義」ではなく、イエス・キリストを信じることによって転嫁される「神の義」を掴むべきだと力説します。これはガラテヤ書2章16節「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのです」という言葉と直接結びつきます。そして今、4章でも同様に、奴隷であった者に子としての身分を与えたのはわたしたちの力ではなく、全面的に神の恵みであることを再確認させています。その子となることが具体的にどういう意味を持つか――すなわち神が御子の御霊を送ってわたしたちと共にいてくださることで可能になる実際的な交わりの関係――を補足説明しているのです。これは単なる宗教的地位の上昇や呼称の変化ではなく、関係そのものの回復なのです。 一方、ガラテヤ書4章7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく子です。そして子であるなら、神によって相続人でもあるのです」という宣言は救いの完成点を示しています。子である以上、神が用意されたすべての霊的・歴史的祝福を継承することができる。それが福音が主張する驚くべき急進性なのです。律法のもとでは、ユダヤ人と異邦人が同等になりえなかった時代が終わり、キリスト・イエスにあって「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女もなく、あなたがたは皆ひとつなのです」(ガラテヤ3:28)という状態になりました。その子としての権威は、伝統的社会秩序が当然視してきた主人と奴隷の区別、男女の区別、ユダヤ人と異邦人の区別などを打ち壊し、教会を新しい共同体として生まれ変わらせる原動力となったのです。 しかしガラテヤ教会の内部では、律法主義者が「日や月、季節や年をうかがって守る」という古いやり方に戻るように人々を誘惑していました(ガラテヤ4:10)。パウロはそれについて「どうしてまた弱くて貧しい初歩的教えに戻って奴隷になろうとするのか」と叱責します。初歩的教えとは、人間が自力の功績や努力によって何かを成し遂げようとする宗教的・哲学的試みをすべて指すともいえます。しかしパウロにとって福音は、イエスの十字架と復活によってすでに完全に成し遂げられた救いであり、そこに人間的な条件を付け足す必要はまったくない恵みの世界です。律法的要求や義務を加えれば加えるほど、かえって福音の恵みは無力化され、子が享受するはずの自由が損なわれてしまうのだ、とパウロは主張するのです。 この文脈で張ダビデ牧師は、ガラテヤ書が示す福音の核心精神を「わたしたちに与えられた子としてのアイデンティティを最後まで握りしめよ」という一言でまとめます。いかに教会が組織的・文化的に成熟したとしても、もし教会員の心の中に「子としてのアイデンティティ」が薄れてしまえば、最終的には律法的な習慣や世俗的価値観が入り込んで教会が混乱してしまうからです。ガラテヤ書4章後半(ガラテヤ4:19-20)でパウロはそのことを痛切に吐露しています。「あなたがたのうちにキリストのかたちができるまで再び産みの苦しみをしよう」と言うほど、パウロは教会の中で福音が完全に体現され、子としての自由が回復されるまで、絶えず熱い思いで尽力するのだと強調します。 ガラテヤ書4章の中ほどで示されるパウロの個人的な告白(ガラテヤ4:13-15)は、パウロがいかに肉体的に弱かったのか、それでもガラテヤ人が彼を愛をもって受け入れた恵みの時代があったことを回想させます。ガラテヤの人々はパウロを神の使いのように、あるいはキリスト・イエスのように迎え入れ、目でさえも与えかねないほど犠牲的な愛を示しました。それは福音の中で彼らがいかに自由で、熱い愛に満ち溢れていたかを物語る歴史的な場面です。なのに、どうして今は互いに仲違いし、律法主義の偽教師に惑わされて分裂し、憎しみ合っているのか。パウロにとってこれほど悲痛なことはなく、だからこそ激しい口調で彼らを戒めているのです。 結局ガラテヤ書4章のメッセージは、単に「律法はいらないから完全に捨ててしまえ」という表面的な話ではありません。むしろ律法が本来持っていた目的――わたしたちに罪を自覚させ、キリストへと導く保護者的役割――が成し遂げられたあとは、それに束縛される必要がなくなるという大いなる自由の宣言なのです。人間は律法を通して罪を悟る段階には至りますが、その罪を解決して子となるのは、律法をもっと守ることによってではなく、キリストの贖いの働きによってのみ可能です。そして子となった後は、本質的に宗教の垣根を越えて神の心を自由に享受する者となり、「互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒めのうちに、律法の完成が何であるかを体験していくのです。律法を守って生きるのではなく、愛によって御霊に従って歩む生き方こそ、子にふさわしい歩みです。 張ダビデ牧師は、こうした点を繰り返し強調し、キリスト者のアイデンティティは「律法を満たす宗教人」ではなく「福音によって自由にされた子」であることを忘れないようにと訴え続けます。子としての自由を味わった人なら、どこにあっても神の愛を伝え、「わたしは子を知り、子であるわたしを神もご存じだ」という親密さのもと、この世の中を生き抜くのです。そうなるとき、はじめて教会は生命力あふれる共同体となり、世に対して光と塩の役割を果たせる――これが福音のダイナミックな力です。 Ⅲ. 奴隷から子へと転換する自由とアイデンティティ、そして生活への適用 パウロの個人的体験とガラテヤ教会の状況が複合的に示されるガラテヤ書4章は、今日の教会と聖徒たちが「自由」と「アイデンティティ」の問題をどう理解すべきかをよく教えてくれます。律法と福音、奴隷と子、束縛と自由、そしてそれを妨げる偽教師の問題などが生々しく絡み合っているからです。特に「あなたがたが子であるなら、相続人でもある」という驚くべき宣言は、人間の運命を根底から変える偉大なメッセージと言えます。罪の奴隷にすぎなかった人間が、どうして全能の神の相続人となれるでしょうか。それはただキリストにあってのみ可能な奇跡であり、福音がもたらす衝撃的な恵みです。 ガラテヤ書4章で注目したいのは、パウロが「どうすれば子になれるのか」を語るとき、徹底的に「キリストがわたしたちのためになさったこと」に基づいているという点です。「あがなってくださり、子としての身分を得させ、子の御霊を注いでくださった」のは神ご自身です。わたしたちがしたことといえば、それを信仰によって受け取るだけです。ここにわたしたちの功績や律法的行いが介入する余地はありません。子として生きるとは、キリストの御霊によって可能となる能動的な歩みです。つまり、子だからといって好き勝手に放縦に生きるのではなく、「御霊に従って歩むこと」によって子としての聖さと愛を実践するのです。パウロはガラテヤ書5章でこの適用点を詳しく解き明かします。御霊の実を結ぶ生き方、すなわち愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制があふれる人には、律法に反するものなど何もないのだ、と宣言します。 張ダビデ牧師は、この点をさらに現場の牧会において繰り返し強調します。「福音はわたしたちの生き方を根本から変える力を備えており、その変化は本質的に『わたしは神の子だ』というアイデンティティから始まる」というのです。教会の中で信徒同士が対立し、互いを罪定めしたり、あるいは自分自身が罪定めされて恐れに陥ってしまう理由の多くは、「自分が子である」ことを忘れてしまうからです。「宗教的な務めを果たしていればこそ安心だ」という思いが強まると、神や他者への愛よりも規則遵守や形式が先行してしまいます。そうなると自然に互いを比較し合い、裁き合い、さらには別のくびきを作り出してしまいがちです。まさにガラテヤ教会が直面していた問題がこれでした。 しかし「わたしは神の子だ」と確信するとき、イエスが悪魔の試みの前でもご自分の身分を決して揺るがなかったように、わたしたちも人生のさまざまな圧迫や誘惑に対して堂々と立ち向かえます。子であるアイデンティティが中心をしっかりと支えてくれるからです。子どもは父の豊かさを知っており、父の愛を疑いません。さらに子の御霊がわたしたちの内におられることを知るとき、罪と戦うときにも聖霊が働かれるという確信を持って力強く生きられます。目の前の状況がどれほど苦しく弱く見えても、「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)というパウロの告白のように、かえってわたしたちの弱さのなかで神の栄光が示されるのです。 張ダビデ牧師はガラテヤ書4章を説教するとき、パウロが自分の肉体的弱さをさらけ出し、それでもガラテヤの信徒たちから大きな愛を受けた場面(ガラテヤ4:13-15)をしばしば引き合いに出します。パウロがあれほど弱々しく見えた存在であったにもかかわらず、ガラテヤの人々は目さえも与えたいと思うほど熱く歓迎してくれました。それは律法的義務ではなく、福音的愛に基づく態度でした。その美しい姿が後に律法主義者たちの侵入によって失われてしまったのですから、パウロの胸中はどれほど痛んだことでしょう。わたしたちも教会生活の中で、ある兄弟と初めて出会ったころには福音の中で熱い愛を分かち合っていたのに、時が経つにつれ互いを罪定めし、分裂してしまう姿を目にすることがあります。まさにそのような状況で、再びガラテヤ書のメッセージに立ち戻り、「ほんとうにわたしたちは神の子としての自由を味わっているのか?」と自問する必要があるのです。 パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と必死に訴えます。これは単に旧い律法制度に戻る話だけでなく、人間の本性の弱点とも深く関わります。わたしたちは心のどこかに常に「善くあらねば、正しくあらねば、律法を守らねば」という強迫観念を抱えて生きています。しかしそれが究極的にわたしたちを義とすることはできない、という事実を福音がはっきり示しているのです。義はイエス・キリストにあって信仰によって与えられるのであって、その信仰は「子としての関係」の中で花開きます。子は父の望まれる心を知り、それを従順によって実践しつつも、律法的抑圧ではなく愛の動力によって動きます。この微妙な違いこそが、宗教的生活と福音的生活を分けるのです。 今日の教会の視点でガラテヤ書4章を読み直せば、教会の中にいかに多くの「初歩的教え」的要素が入り込んでいるかに気づくでしょう。世の方法論や「キリスト教」を名乗る律法主義的な教えでさえ、ときには初歩的教えになりえます。外見上は立派で善良そうに見えても、それが十字架の恵みの福音に立脚しておらず、人間的な義務と達成だけを強調するものならば、それもわたしたちを奴隷にする初歩的教えです。パウロはそうしたものを容赦なく「再び奴隷の身分に逆戻りするのか」と非難し、偽教師たちが信徒たちをそそのかし、憎しみの火種をまき散らす現実を直視します。そそのかしと分裂、偽り、憎悪、罪定めは、福音が目指す愛と自由とは正反対のものだからです。 では具体的に、「わたしは神の子だ」というアイデンティティをどのように守り実践できるでしょうか。まずは、御言葉と祈りを通して絶えず自分が受けた救いを思い起こすことが重要です。イエス・キリストによる贖いがなければ、わたしたちは今なお罪の奴隷であったはずです。にもかかわらず、福音によって神の子とされていることを、頭だけでなく心の底にまで刻み込むのです。次に、聖霊に頼ることが大切です。ガラテヤ書4章で言う「子の御霊」とはまさに聖霊です。わたしたちが御霊にとどまるとき、わたしたちは神を「アバ、父よ」と呼び、親密な交わりの中でこの世に対しても大胆になります。さらに、わたしたちの自由は愛として実践されなければなりません。宗教的義務に従って形式を守るのではなく、十字架の愛がわたしたちのうちに注がれたとおりに隣人を仕え、教会を建て上げるのです。そうするとガラテヤ書5章14節の「律法の全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉に尽きるのです」という御言葉が成就されるのです。 結局、パウロがガラテヤ書4章で「あなたがたのうちにキリストの姿が形造られるまで、再び産みの苦しみをする」と語ったのは、子としての現実が信徒一人ひとりの心の奥深くに刻まれるようにするためでした。パウロが肉体的な弱さを抱えながらも、ガラテヤの人々が彼を「イエス・キリストに対するように」迎え、火のように燃える愛で包んでくれた日々を思い出させるのは、その頃の愛と自由へともう一度帰ってきてほしいという招きでもあります。わたしたちも教会生活をする中で、初心が薄れ、形式と習慣に縛られ、他者を批判したり、自分の義を掲げようとする姿を見せるときがあります。そうしたとき、ガラテヤ書4章のメッセージを再び思い起こすべきです。はたしてわたしは子として自由に生きているのか、それともまた奴隷の道へと逆戻りしているのか、と。 張ダビデ牧師はこの問いを常に胸に刻み、教会の共同体や個人の信仰生活を省みるよう勧めています。福音は一度信じて終わる教理ではなく、日々生き抜くべき力だからです。その力は人間の力で作り出せるものではなく、子の御霊がわたしたちのうちに宿らなければ花開きません。だからこそ、キリストは律法の下に生まれ、わたしたちを贖い出され、わたしたちが福音によって生きるとき、かえって律法のすべての要求は御霊のうちで自然に成就されるのです。これこそパウロ神学の神髄であり、わたしたちがこのことを忘れずに「わたしたちに自由を与えられた理由」を常に省みるとき、教会内の分裂や偽りの教え、人間的な規範への執着ではなく、むしろ愛と御霊の実が満ちる共同体が築かれていくのです。 まとめると、ガラテヤ書3章23節から4章7節に至る本文でパウロは、「奴隷」と「子」の鮮明な対比を通して福音の力を証言します。「あなたがたは子である」「子ならば相続人である」という彼の宣言は、教会が再び奴隷のくびきへ戻ろうとする愚かさを糾弾し、新しく打ち立てられる子としての自己認識を奨励するものです。これは旧約の歴史の中で律法をお与えになった神が、最終的にイエス・キリストを通じて人類が真の子としての身分を回復することを望まれたことを示します。これについて張ダビデ牧師は、ガラテヤ書に込められた福音的エッセンスと恵みの核心を見失わないように、日々自分を省みつつ、信徒たちがこの自由を実際の生活に適用すべきだと強く説いています。子とされたわたしたちは、もはや恐れや義務感に縛られることなく、神をアバ、父よと呼び、そのすべてを相続できる驚くべき特権に立っています。その自由と愛の関係を日々味わい、証しすることこそ、ガラテヤ書4章が現代の教会に突きつける力強い呼びかけであり、喜びの招きなのです。

From Servant to Son – Pastor David Jang

I. The Contrast Between Gospel and Law, and the Meaning of Becoming a Son When reading Galatians, we should note that Galatians 3:23 through 4:7 forms a continuous passage, a single flowing section. In this portion, the Apostle Paul addresses the key theme of “sons and heirs,” earnestly asking the question, “Who receives the inheritance … Read more

종에서 아들로 – 장재형(장다윗)목사

Ⅰ. 복음과 율법의 대비, 그리고 아들 됨의 의미 갈라디아서를 읽을 때 갈라디아서 3장 23절부터 4장 7절까지는 하나로 연결되는 긴 호흡의 단락이다. 사도 바울은 이 단락 속에서 “아들과 유업”이라는 핵심 주제를 다루는데, 그 모든 과정에서 “누가 하나님의 유업을 받느냐”라는 물음을 진지하게 제기한다. 갈라디아서 3장의 결론 부분(3:29)에서 이미 “너희가 그리스도께 속한 자면 곧 아브라함의 자손이요 약속대로 유업을 이을 자니라”고 밝히고, 그 흐름이 이어지면서 4장 1절 이후로 아들 됨의 정체성과 실제 상속에 관한 설명이 본격적으로 전개된다. 바울은 복음과 율법을 날카롭게 대조하며, 율법은 종의 역할을 했고 복음은 우리를 아들로 세운다는 점을 강하게 주장한다. 당시 갈라디아 교회 안에서는 율법으로 회귀하려는 유대주의 크리스천, 곧 거짓 교사들이 득세하고 있었는데, 그들은 “복음으로말미암아 이미 구원을 받았음에도 교회를 다시 율법으로 끌고 가려” 하고 있었다. 이러한 움직임 앞에서 바울은 “도대체 너희가지금 교회를 어디로 끌고 가려 하느냐?”라고 외치며, 우리가 받은 복음이 얼마나 놀라운 자유를 가져왔는지를 강조했다. 장재형(장다윗)목사는 여러 설교와 강의를 통해서 갈라디아서의 이러한 흐름을 조명하며, 복음과 율법의 대조가 왜 그렇게 중요한지를지속적으로 설명해왔다. 복음은 아들이 되게 하고, 율법은 종 노릇을 하게 하는 것이라는 말은 복음이 가져다주는 자유와 정체성 회복의 핵심을 잘 드러낸다. 종은 구속 아래 있으며 자기 뜻대로 살 수 없지만, 아들은 자유를 누리고 상속의 권리를 가진다. 바울은 이 사실을 단순히 사변적으로 말하지 않고, 자신이 직접 체험한 복음의 능력 안에서 역설한다. 율법 중심으로 돌아가는것은 ‘멍에’를 다시 메는 것과 같으며, 갈라디아서 5장 1절에서 “그리스도께서 우리로 자유케 하려고 자유를 주셨으니 그러므로굳세게 서서 다시는 종의 멍에를 메지 말라”고 명백히 결론짓는다. 이러한 논리는 단순히 ‘유대교 vs. 기독교’라는 종교적 대립 구도를 넘어, 인간의 본질적 구원 문제가 무엇으로 해결되느냐 하는초점에 맞춰진다. 인간이 ‘아들’이 되느냐, 아니면 ‘종’인 상태로 머무느냐의 분기점이 바로 ‘복음’과 ‘율법’이라는 두 길에 의해갈린다는 것이다. 복음은 우리가 예수 그리스도를 믿을 때, 우리를 아들로 회복시키는 특별한 능력을 지닌다. 그럼에도 사람들은 종종 이 자유와 아들 됨을 붙들지 못하고, 다시 율법적이고 종교적인 멍에 안으로 들어가곤 한다. 바울은 갈라디아서 3장 말미에 “너희가 그리스도께 속한 자라면 아브라함의 자손이요 약속대로 유업을 이을 자”라고 선언하며, 바로 그 아브라함에게 약속하신 구원의 풍성함이 누구를 통해 계승되느냐를 보여준다. 이는 단순히 혈통이나 율법 준수 여부가 아니라, 그리스도와의 연합으로 말미암아 이루어지는 역사적·영적 상속임을 뚜렷하게 천명하는 대목이다. 우리도 일상에서 이 정체성을 잃어버릴 때가 많다. “나는 하나님의 아들이다”라는 자의식이 흔들릴 때, 마치 씨름이나 유도 경기에서 중심이 무너지는 것처럼 우리의 삶이 함께 무너진다. 바울이 갈라디아서에서 외치듯, 우리가 이미 아들이 된 이상 더 이상종의 멍에를 맬 필요가 없다. 그리스도의 십자가로 말미암아 자유를 얻었는데, 다시 율법과 공로로 돌아간다면 그것은 애써 얻은 자유를 포기하는 것과 다름없다. 바울은 이 점을 매우 심각하게 인식하고, 교회를 분열시키는 거짓 교사들에 맞서 복음의 진리를 지키기 위해 열정적으로 논박한다. 장재형목사는 갈라디아서 강해에서 이 부분을 특히 강조하며, 우리 안에 확고한 아들 됨의 정체성이 있을 때, 영적 성장과 자유, 그리고 실제적 능력이 흘러나온다고 가르친다. “나는 하나님의 아들이다”라는 자의식이 흔들리지 않으면, 아무리 어둠의 세력이흔들어도 결코 넘어지지 않는다. 마치 예수님께서 “네가 하나님의 아들이어든”이라는 마귀의 시험 앞에서도 담대히 이기셨듯이, 우리가 자신이 아들이라는 사실을 인식하고 그에 합당하게 살아갈 때, 주님 안에 있는 자유와 능력을 경험할 수 있다. 예수님은시험을 받으실 때마다, 그 밑바탕에 흐르는 확신으로 “나는 하나님의 아들이고, 그러므로 나는 떡만으로 사는 존재가 아니며, 오직 하나님의 말씀으로 산다”라고 응수하셨다. 이러한 자의식과 영적 확신이 우리에게도 있어야 한다는 것이 바울의 갈라디아서전체 맥락과도 긴밀히 맞닿아 있다. 바울은 이 복음 안에서 우리가 종이 아니라 아들이라는 점을 논리적, 역사적, 신학적으로 증명해낸다. 갈라디아서 4장 1~2절에서 “유업을 이을 자가 모든 것의 주인이나 어렸을 동안에는 종과 다름이 없어서 후견인과 청지기 아래 있다”고 설명한다. 이것은율법 아래 있던 유대교 역사 전체를 상기시키는 것이다. 그들은 종으로서 몽학선생과 같이 역할하는 율법을 통해서 성장하였고, 이제 때가 차매 아들로 자유롭게 설 수 있게 되었다. 하지만 갈라디아 교회 안에서 문제를 일으킨 유대주의 크리스천들은 율법의 멍에로 다시 돌아갈 것을 강요했다. 바울은 “너희가 어찌 다시 종으로 돌아가려 하느냐?”고 분개하며, 이것이 복음을 근본적으로 훼손하는 것이라고 지적한다. 장재형목사는 이 대목에서 “종교의 습성”이 얼마나 우리의 자유를 갉아먹는지 설파한다. 율법적·종교적인 사고는 겉보기에 경건해 보이지만, 실상은 인간을 속박하고 영적 능력을 소멸시키는 경향이 크다. 그래서 종교적 행위나 의무에 매달려 힘들어하다가‘아들로서의 자유’를 놓치면, 결국 교회 내에서 분열과 정죄가 일어나게 된다. 바울은 갈라디아서에서 이러한 상황을 “어찌하여다시 약하고 천한 초등학문으로 돌아가려 하느냐?”라고 질책하며, 복음의 자유가 얼마나 소중한 것인지를 주지시킨다. 갈라디아서 5장 1절에서 절정을 이루는 이 선언—“그리스도께서 우리로 자유케 하려고 자유를 주셨으니 다시는 종의 멍에를 메지 말라”—은 갈라디아 교회의 상황을 넘어서 모든 시대 교회에 주는 강력한 권면이자 경고다. 우리가 종이 아니라 아들임을 완전히 붙들 때, 우리는 스스로를 ‘죄의 종’으로 규정하지 않고, ‘그리스도 안에서 이미 의롭다 여김받은 자’로 확립해 간다. 교회가 다른 멍에와 규칙에 집착하는 순간, 아들의 자유와 능력이 가려져버린다. 갈라디아 교인들이율법적 부담을 지고 날과 달, 절기와 해를 지키느라 정신이 없는 모습은 결국 초등학문에 매여 종교적 의무를 수행하는 삶의 형태로 되돌아간 것과 같다. 반면 복음은, 하나님의 아들이신 예수 그리스도께서 “율법 아래 나심으로 우리를 속량하시고, 우리를아들의 명분을 얻게 하신 것”(갈 4:4-5)이라고 말한다. 바울은 “우리를 위하여 율법의 저주가 되어주신”(갈 3:13) 예수님의 은혜를 통해, 더 이상 죄의 종으로 머무르지 않고 아들로서 담대히 살아갈 수 있음을 선포한다. 장재형목사가 강조하듯, 복음의 본질은 ‘종을 아들로 바꾸는 능력’에 있다. 사람의 마음속에 있는 죄책감과 두려움을 무너뜨리고, 아들과 딸로서의 자유함을 회복시키는 것이 복음의 힘이다. 예수께서 자신을 낮추셔서 이 땅에 오신 성육신(Incarnation)은, 우리에게 그분이 얼마나 사랑으로 구원하기 원하시는지를 가장 극적으로 보여주는 사건이다. 하나님과 동등됨을 취할 수 있는 분이 자기를 비우고 십자가 죽음에까지 복종하셨다는 것은, 인간의 생각으로는 도무지 이해하기 어려운 “하나님의 어리석음”(고전 1:25)이다. 하지만 이 어리석은 방식이야말로 “죽음으로 죽음을 이기신” 구속의 길이었고, 그리스도께서 우리의 대표(로마서 5장의 대표이론)로서 죄와 사망의 권세를 깨뜨려 주셨다. 이렇게 성육신과 십자가의 사건으로 완성된 구원은, 아들에게 주어지는 놀라운 특권을 우리에게 선물한다. 그것이 곧 유업 상속이며, 아들의 영(그리스도의 영)이 우리 안에 내주하여 “아바 아버지”라고 부르게 한다(갈 4:6). 과거에는 종의 신분이라 감히하나님 앞에 나아갈 담력을 얻을 수 없었는데, 예수의 피를 힘입어 성소에 들어갈 수 있게 된 것이다(히 10:19). 이처럼 갈라디아서의 메시지는 인간의 역사와 신학, 그리고 실제 삶을 가로지르는 가장 근본적인 은혜의 핵심이라고 볼 수 있다. 복음이 우리안에서 “내가 하나님의 아들이다”라는 확고한 정체성을 심어줄 때, 우리는 더 이상 초등학문과 율법의 멍에에 얽매이지 않고 살아갈 수 있다. Ⅱ. 갈라디아서 4장 속 아들과 유업의 핵심 메시지 바울 사도가 갈라디아서 4장 1~7절에서 중점적으로 풀어가는 논리 구조를 살펴보자. “유업을 이을 자가 모든 것의 주인이나 어렸을 동안에는 종과 다름이 없어서 후견인과 청지기 아래 있다”(갈 4:1-2)는 것은, 앞서 3장 23절 이하에서 말한 바와 같이 율법의 시기를 ‘잠정적 보호자 혹은 후견인’의 시대에 빗댄 것이다. 율법은 불완전하지만, 그리스도가 오시기까지 한시적으로 필요한 역할을 담당했다. 그러나 ‘때가 차매’(갈 4:4), 곧 하나님의 예비하신 때가 이르렀을 때, 하나님의 아들이 이 땅에 오셔서 우리를 율법 아래에서 속량하셨다. 이 속량(贖良)은 “대신 값을 치름”을 의미하며, 예수님이 우리를 대표해 모든 죄값을 담당하시고 십자가에서 죽으심으로써 이루어졌다. 장재형목사는 이 ‘때가 찼다’는 바울의 표현을 주목하며, 구원 역사의 중요한 전환점이 곧 예수 그리스도의 성육신과 십자가 사건임을 강조한다. 하나님께서 사람의 몸을 입고 여자에게서 낳게 하신 것(갈 4:4)은 이사야 7장 14절의 예언 “보라 처녀가 잉태하여 아들을 낳을 것이요”가 성취된 것이고, 구약의 모든 약속이 예수 그리스도의 십자가와 부활에서 완결을 맞이한다. 그 목적은 “우리로 아들의 명분을 얻게 하려 하심이라”(갈 4:5). 즉, 인간이 자신을 아무리 율법으로 세우려 해도 연약함 때문에 온전히죄에서 자유로울 수 없는데, 예수님께서 법을 완성하시고 우리를 대신해 죽으심으로써 율법의 저주에서 해방하셨다는 것이다. 바울은 한 걸음 더 나아가, 우리에게 단순히 죄 사함만 주어진 것이 아니라 하나님의 아들 됨이라는 신분 변화가 선물로 주어졌다고 말한다. “너희가 아들인고로 하나님이 그 아들의 영을 우리 마음 가운데 보내사 아바 아버지라 부르게 하셨느니라”(갈 4:6)는 말씀은, 성령(그리스도의 영)이 임함으로써 하나님의 자녀로 거듭났음을 증언해주는 장면이다. 종은 주인을 두려워하고 멀리떨어진 존재로 바라보지만, 아들은 ‘아빠’라고 다정히 부를 수 있다. 이것이 아들과 종이 결정적으로 구별되는 점이다. 종은 시종일관 ‘법을 지켜야 함’이라는 긴장과 두려움 속에 있지만, 아들은 사랑의 유대관계 속에서 부모의 모든 것을 누릴 수 있는 자유를지닌다. 바울은 갈라디아서 전체에서, 우리가 율법을 지켜야만 얻을 수 있는 ‘종의 의’가 아니라, 예수 그리스도를 믿음으로 인해 전가된‘하나님의 의’를 붙들어야 한다고 역설한다. 이는 갈라디아서 2장 16절 “사람이 의롭게 되는 것은 율법의 행위로 말미암음이 아니요 오직 예수 그리스도를 믿음으로 말미암음이라”는 말씀과 직결된다. 지금 4장에서도 동일하게, 종 노릇하던 사람들에게 아들의 명분을 주신 것은 우리 힘이 아니라 전적인 하나님의 은혜임을 재확인시킨다. 그리고 그 아들 됨이 실제로 무엇을 의미하는지—곧 하나님께서 아들의 영을 보내시어 우리 안에 함께하심으로 가능한 실제적 교제 관계—를 부연 설명한다. 종교적 지위상승이나 단순한 호칭상의 변화가 아니라, 관계 자체가 회복된 것이다. 한편 갈라디아서 4장 7절 “그러므로 네가 이후로는 종이 아니요 아들이니 아들이면 하나님으로 말미암아 유업을 이을 자니라”라는 선언은 구원의 완결점을 보여준다. 아들인 이상 하나님께서 예비하신 모든 영적·역사적 축복을 상속받을 수 있다. 이것이복음이 주장하는 엄청난 급진성이다. 유대인과 이방인이 율법 아래에서 같은 조건이 될 수 없었던 시대가 끝나고, 그리스도 예수 안에서는 “유대인이나 헬라인이나 종이나 자유자나 남자나 여자나 다 그리스도 예수 안에서 하나”가 되었다(갈 3:28). 그 아들ship의 권세는, 과거에는 상상조차 할 수 없는 대등함과 평등함을 이루는 계기가 된다. 이는 전통적 사회질서가 인정하던 종과 주인의 구분, 남녀의 구분, 유대인과 이방인의 구분 등을 무너뜨리며, 교회를 새로운 공동체로 재탄생시키는 추진력으로 작용했다. 그러나 갈라디아 교회 내에서 율법주의자들은 “날과 달과 절기와 해를 삼가 지키는” 옛 방식으로 돌아가도록 교인들을 꾀었다(갈 4:10). 바울은 그것을 두고 “다시 약하고 천한 초등학문으로 돌아가 종노릇하려 하느냐”고 질책한다. 초등학문은 인간이 스스로의 공로나 노력으로 무엇을 이루려고 하는 종교적·철학적 시도 전부를 지칭할 수 있다. 하지만 바울에게 복음은, 예수의 십자가와 부활로 인해 이미 다 이루어진 구원이며, 거기에 어떤 인간적 조건을 추가할 필요가 전혀 없는 은혜의 세계다. 율법적 요구나 의무를 자꾸 더하면 더할수록, 오히려 복음의 은혜는 무력화되고, 아들이 누려야 할 자유가 훼손된다는 것이 바울의 주장이다. 이 맥락에서 장재형목사는 갈라디아서가 보여주는 복음의 핵심 정신을 “우리에게 주어진 아들의 정체성을 끝까지 붙들라”는 한마디로 요약한다. 아무리 교회가 조직적으로 혹은 문화적으로 성숙해진다 해도, 만약 교인들의 마음속에 “아들로서의 정체성”이희미해지면, 결국 율법적 습관이나 세상적 가치관이 들어와 교회를 어지럽히기 때문이다. 갈라디아서 4장 후반부(갈 4:19-20)에서 바울은 그 사실을 절절히 토로한다. “너희 속에 그리스도의 형상이 이루기까지 다시 해산하는 수고를 하겠다”고 말할 정도로, 바울은 교회 안에서 복음이 온전히 구현되고 아들 된 자유가 회복되기까지 끊임없이 간절한 마음으로 수고하겠다고 강조한다. 갈라디아서 4장 중간 부분에서 등장하는 바울의 개인적 고백(갈 4:13-15)은, 바울이 얼마나 육체적으로 연약했는지, 그럼에도갈라디아인들이 그를 사랑으로 받아준 은혜로운 시절이 있었음을 회상한다. 갈라디아 교인들은 바울을 하나님의 천사와 같이, 혹은 그리스도 예수와 같이 영접했고, 심지어 눈이라도 빼줄 듯이 바울을 향해 헌신적 사랑을 보였다. 이는 복음 안에서 그들이얼마나 자유롭고 뜨거운 사랑으로 충만했는지를 말해주는 역사적 장면이기도 하다. 그런데 왜 지금 와서 서로 이간질하고 율법주의 거짓 교사들에게 현혹되어 분열하고 미워하는가? 바울은 이 점이 너무나 안타까웠고, 그래서 거친 어조로 그들을 책망하고 있다. 결국 갈라디아서 4장의 메시지는, 단지 “율법은 필요 없으니 완전히 버려라”는 피상적인 이야기가 아니다. 오히려 율법이 지닌본래 목적—우리를 죄로부터 깨닫게 하고, 그리스도에게로 인도하는 보호자적 역할—을 성취하게 만든 뒤에는, 더 이상 그것에묶일 필요가 없다는 매우 큰 자유 선언이다. 인간은 율법을 통해 죄를 깨닫는 단계에 이르나, 그 죄를 해결하고 아들이 되는 것은 율법을 더 지켜서 되는 것이 아니라, 그리스도의 속량 사역을 통해서만 가능하다. 아들이 된 이후에는, 본질적으로 종교의 울타리를 넘어서 하나님의 마음을 자유롭게 누리는 자가 되며, 서로를 사랑하라는 그리스도의 새 계명을 통해 율법의 완성이 무엇인지를 체험해가야 한다. 율법을 지키는 삶이 아니라, 사랑으로 성령을 좇아 행하는 삶이야말로 아들다운 삶이다. 장재형목사는 이러한 점을 자주 강조하며, 그리스도인의 정체성이 “율법을 충족하는 종교인”이 아닌 “복음으로 자유케 된 아들”임을 잊지 말 것을 거듭 당부한다. 아들로서의 자유를 맛본 사람이라면, 언제 어디서든 하나님의 사랑을 전하며, “내가 아들을알고 아들이 나를 아신다”는 친밀함으로 이 세상 속에서 살아간다. 그렇게 될 때 비로소 교회는 생명력 있는 공동체가 되고, 세상에 대한 빛과 소금의 역할을 감당할 수 있다는 것이 복음의 역동성이다. Ⅲ. 종에서 아들로 전환되는 자유와 정체성, 그리고 삶의 적용 바울의 개인적 체험과 갈라디아 교회 상황이 복합되어 나타나는 갈라디아서 4장은, 오늘날 교회와 성도들이 ‘자유’와 ‘정체성’이라는 문제를 어떻게 이해해야 하는지를 잘 보여준다. 율법과 복음, 종과 아들, 속박과 자유, 또 이를 방해하는 거짓 교사들의 문제 등이 생생하게 엮여 있기 때문이다. 특히 “너희가 아들이면 유업을 받을 자”라는 그 놀라운 선언은 인간의 운명을 송두리째바꾸는 위대한 메시지다. 한갓 죄의 종에 불과하던 인간이 어찌 전능하신 하나님의 상속자가 될 수 있는가? 이것은 오직 그리스도 안에서만 가능한 기적이며, 복음이 주는 충격적인 은혜다. 갈라디아서 4장에서 눈여겨볼 점은, 바울이 “어떻게 아들이 될 수 있는가”를 말할 때 철저히 “그리스도께서 우리를 위하여 하신일”에 근거를 둔다는 것이다. “속량하시고, 아들의 명분을 얻게 하시고, 아들의 영을 부어주신” 분은 하나님이다. 우리가 한 것은그저 그 사실을 믿음으로 받아들이는 일뿐이다. 여기에는 우리의 공로나 율법적 행위가 끼어들 자리가 없다. 아들로 살아가는삶은 그리스도의 영에 의해 가능해지는 능동적 삶이다. 즉, 아들은 이제 마음대로 방탕하게 사는 것이 아니라, “성령을 따라 행함으로써” 아들다운 거룩과 사랑을 나타낸다. 바울은 갈라디아서 5장에서 이 적용점을 자세히 풀어간다. 성령의 열매가 맺히는삶, 곧 사랑과 희락, 화평과 오래 참음, 자비와 양선, 충성과 온유, 절제가 흘러나오는 사람은 율법 아래 있지 않다고 선언한다. 장재형목사는 이 점을 더욱 실제적인 목회 현장에서 반복하여 강조한다. “복음은 우리의 삶을 완전히 변화시키는 힘을 지녔고, 그 변화는 본질적으로 ‘나는 하나님의 자녀다’라는 정체성에서부터 시작된다”는 것이다. 교회 내 성도들이 갈등을 일으키고, 누군가를 정죄하거나 혹은 스스로 정죄받아 두려움에 빠지는 이유는, 많은 경우 “내가 아들”이라는 사실을 잊었기 때문이다. “종교적 의무를 다 해야만 안전하다”는 마음이 강해지면, 하나님과 다른 사람들을 향한 사랑보다 규칙 준수와 형식이 앞서게 된다. 그렇게 되면 자연스럽게 서로를 비교하고, 서로를 판단하며, 또 다른 멍에를 만들어내기 쉽다. 갈라디아 교회가 직면했던 문제가정확히 이것이다. 하지만 “나는 하나님의 아들이다”라고 확신할 때, 마치 예수께서 마귀의 시험 앞에서도 자신의 신분을 흔들리지 않고 선언하셨듯, 우리는 삶의 수많은 압박과 유혹 앞에서도 당당히 서게 된다. 그 정체성이 중심을 잡아주기 때문이다. 자녀는 아버지의 풍성함을 알고 있고, 아버지의 사랑을 의심하지 않는다. 또한 아들의 영이 우리 안에 거하시므로, 죄와 싸울 때도 성령께서 역사하신다는 확신을 품고 힘있게 살아간다. 당장의 상황이 힘들고 연약해 보여도, “그리스도의 능력이 약한 데서 온전하여진다”(고후12:9)는 바울의 고백처럼 오히려 우리의 약함 속에서 하나님 영광이 드러난다. 장재형목사는 갈라디아서 4장을 설교할 때, 바울이 자신의 육체적 연약함을 노출하고 갈라디아 교인들로부터 큰 사랑을 받았던장면(갈 4:13-15)을 자주 언급한다. 바울이 그처럼 약해 보이는 존재였음에도, 갈라디아 사람들은 눈이라도 빼어주려 할 정도로 뜨겁게 환대했다. 그것은 율법적 의무가 아닌 복음적 사랑에 근거한 태도였다. 그 아름다운 모습이 나중에 율법주의자들의침투로 인해 사라지고 말았으니, 바울의 가슴이 얼마나 아팠을까? 우리도 교회 안에서 어떤 형제를 처음 만났을 때 복음 안에서누렸던 뜨거운 사랑이, 시간이 지나면서 서로를 정죄하고 분열하는 모습으로 바뀔 때가 있다. 바로 그 지점에서 갈라디아서 메시지를 다시금 붙들고, “정말 우리는 하나님의 아들로서 자유를 누리고 있는가?”를 자문해봐야 한다. 바울은 “너희가 어찌하여 다시 종으로 돌아가려 하느냐”고 간곡히 호소한다. 이것은 단지 옛 율법 체제로 돌아가는 문제만이 아니라, 인간 본성의 약점과도 직결된다. 우리는 마음 한편에 늘 “착하게, 바르게, 법을 지켜야”라는 강박관념을 가지고 살아가는데, 그것이 궁극적으로 우리를 의롭게 만들 수 없다는 사실을 복음이 분명히 밝힌다. 의는 그리스도 예수 안에서 믿음으로 주어지는 것이며, 그 믿음은 ‘아들의 관계’ 속에서 꽃피운다. 아들은 아버지가 원하시는 마음을 알고, 그것을 순종으로 실천하면서도율법적 억압이 아닌 사랑의 동력으로 움직인다. 이 미묘한 차이가 종교적 삶과 복음적 삶을 가른다. 갈라디아서 4장을 오늘날 교회의 관점에서 새롭게 조명하면, 교회 안에 숱하게 들어온 “초등학문”적 요소들을 발견할 수 있다. 세상의 방법론이나 심지어 기독교를 표방하는 율법주의적 가르침도 때로는 초등학문이 될 수 있다. 겉으로 볼 때 훌륭하고 선해보여도, 만일 그것이 십자가 은혜의 복음 위에 서 있지 않고, 인간적 의무와 성취만을 강조한다면 그 역시 우리를 종으로 만드는초등학문이다. 바울은 이런 것들을 가차 없이 “다시 종노릇하려 하느냐”고 비판하며, 거짓 교사들이 교인들을 이간질하고 미움의 불씨를 퍼뜨리는 현실을 직시한다. 이간질과 분열, 거짓, 미움, 정죄는 복음이 지향하는 사랑과 자유와 정반대에 있는 것들이기 때문이다. 그렇다면 실제 삶에서 “나는 하나님의 아들이다”라는 정체성을 어떻게 지키고 구현할 수 있을까? 먼저, 말씀과 기도로 늘 자신이 받은 구원을 되새기는 것이 중요하다. 예수 그리스도를 통한 구속이 없었다면, 우리는 여전히 죄의 종으로 살아가고 있을 것이다. 그러나 복음으로 말미암아 하나님의 아들로 회복되었으니, 그 사실을 머리로만이 아니라 마음으로까지 깊이 새겨야 한다. 둘째로, 성령을 의지해야 한다. 갈라디아서 4장에서 말하는 “아들의 영”은 바로 성령이시다. 우리가 성령 안에 거할 때, 우리는하나님을 아바 아버지라 부르고, 그 친밀한 교제 속에서 세상에 대해 담대해진다. 셋째로, 우리의 자유가 곧 사랑으로 실천되어야 한다. 종교적 의무에 따라 형식을 지키는 것이 아니라, 십자가의 사랑이 우리 안에 부어진 대로 이웃을 섬기고 교회를 세워가는 것이다. 그럴 때 갈라디아서 5장 14절에서 말하는 “온 율법은 네 이웃 사랑하기를 네 자신 같이 하라 하신 말씀에서 이루어졌나니”라는 말씀이 실현된다. 결국 바울이 갈라디아서 4장에서 “너희 속에 그리스도의 형상이 이루기까지 다시 해산하는 수고를 하겠다”라고 한 데는, 아들됨의 실제가 성도 개개인 마음속에 깊이 새겨지도록 하기 위함이었다. 바울의 육체적 약점에도 불구하고, 갈라디아 교인들이 그를 “예수 그리스도 대하듯” 여기며 폭발적인 사랑을 보여주었던 때를 회상시키며, 그 시절의 사랑과 자유로 다시 돌아오라는 초대이기도 했다. 우리도 교회 생활을 하다 보면, 초심이 사라지고 형식과 습관에 길들여져 다른 사람을 비판하거나, 자기 의를 세우려는 모습을 보일 때가 있다. 그럴 때마다 갈라디아서 4장의 메시지를 붙들어야 한다. 과연 나는 아들로서 자유하고 있는가, 아니면 다시 종의 길로 퇴보하고 있는가? 장재형목사는 이 질문을 늘 가슴에 새기고, 교회 공동체와 개인의 신앙생활을 돌아보라고 권면한다. 복음은 한 번 믿고 끝나는교리가 아니라, 날마다 살아내야 하는 능력이기 때문이다. 그 능력이란, 인간의 힘으로는 만들어낼 수 없는 것이며, 아들의 영이우리 안에 거해야만 비로소 꽃을 피운다. 그래서 그리스도께서 율법 아래 오셔서 우리를 속량하셨고, 우리가 복음으로 살아갈때 모든 율법의 요구가 오히려 자연스럽게 성령 안에서 완성된다는 것이 바울 신학의 정수다. 우리가 이를 잊지 않고 ‘자유함을주신 이유’가 무엇인지를 늘 성찰할 때, 교회 안의 분열과 거짓 가르침, 인간적 규범에 대한 집착 대신, 오히려 사랑과 성령의 열매가 충만한 공동체가 형성될 수 있다. 정리하자면, 갈라디아서 3장 23절부터 4장 7절까지 이어지는 본문에서 사도 바울은 ‘종’과 ‘아들’의 극명한 대조를 통해 복음의능력을 증언한다. “너희는 아들이다”, “아들이면 유업을 이을 자다”라는 그의 선언은, 교회가 다시 종의 멍에로 돌아가려는 어리석음을 꾸짖고, 한편으로는 새롭게 세워지는 아들로서의 자의식을 고취한다. 이것은 구약 역사 속에서 율법을 주셨던 하나님께서, 최종적으로 예수 그리스도를 통해 인류가 진정한 아들ship을 회복하기를 원하셨음을 보여준다. 이에 대해 장재형목사는, 갈라디아서가 내포하는 복음적 정수와 은혜의 핵심을 놓치지 않도록 날마다 자신을 돌아보며, 성도들이 이 자유를 실제 삶에 적용해야 한다는 점을 역설한다. 아들 된 우리는 더 이상 두려움이나 의무감에 얽매이지 않고, 하나님을 아바 아버지라 부르면서 그분의 모든 것을 상속받을 수 있는 놀라운 자리에 서 있다. 그 자유와 사랑의 관계를 날마다 누리고 증거하는 것이, 갈라디아서 4장이 오늘의 교회에 던지는 강력한 호소이자 기쁨의 초대다.