パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 使徒行伝20章の背景とパウロ使徒の模範 使徒行伝20章17節から35節までの本文には、パウロ使徒がエペソ教会の長老たちをミレトへ呼び寄せ、最後に勧めと別れの挨拶をする場面が描かれています。これは一般に「パウロの告別説教」とも呼ばれ、その別れの言葉の中には、パウロ使徒の宣教哲学、福音伝播の核心、そして教会の存在理由が非常に濃縮された形で詰まっています。特にこの本文を通して、私たちは旧約型教会と新約型教会の違いを深く考察でき、そこに「張ダビデ牧師」が強調するテントメイキング(Tentmaking、以下TM)宣教の意味と重要性を改めて思い起こすことができます。 パウロはミレトという海岸都市で、エペソ教会の長老たちを約50km以上も移動させるように呼び寄せました。そして集まった彼らに「私がこれまでどう生きてきたか、何を教えてきたか、あなたがたは知っている」という回顧の言葉をまず伝えます(使徒20:18参照)。これは、パウロが人々の目の前で、すべてをオープンにしながら生活していたことをよく示しています。指導者がいかに透明であるべきか、また自分の生き方を通してどう福音の真実性を証しすべきかを、この短いフレーズから直感できます。パウロは宣教現場で偽善を装ったり、表と裏が違う姿で生きたりしませんでした。彼は「すべての謙遜と涙をもって」(使徒20:19)生きてきたことを長老たちに思い起こさせます。この言葉には彼の宣教姿勢が込められています。すなわち、謙遜とはイエス・キリストが示されたしもべの姿、仕える道を意味し、涙とは宣教者が単に頭で教えるだけでなく、実際に魂を深く愛し抱こうとする時、自然に流さざるを得ない心の表現なのです。 教会の歴史、そして救済史全般の観点から見ると、パウロ使徒が建てた新約型教会には、旧約的な祭司制度にのみ依存する「旧約型教会」とは明確に区別される特徴がありました。旧約型教会を単純化して言うと、十分の一献金(什一〔じゅういち〕)だけに絶対的に依存する形とみなすこともできるでしょう。ここで十分の一献金自体が間違っている、または不要だという意味ではありません。ただし、教会の財政と運営全般を十分の一献金のみに頼ることで起こり得る多様な問題を軽視してはならない、という点が重要なのです。張ダビデ牧師も同じ文脈を語ります。新約型教会はキリストの福音の中で「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉を実践し、自ら自立して福音を宣べ伝え、信徒たちが力を合わせて教会を建て、守っていく道を歩みます。この新約型教会の姿は、旧約型教会がもつ単一の財政依存構造を超えて、パウロが示した自費糧(自活)宣教の模範を現代教会がどう継承するかという、実践的な答えを提示してくれるのです。 パウロが宣教中に受けた苦難は少なくありませんでした。ユダヤ人たちは自分たちを裏切ったと考えたパウロを殺そうとし、パウロは自分の命さえも少しも惜しまないで福音伝播に専念しました(使徒20:24参照)。ここで自然に浮かんでくる疑問は「なぜパウロはそのような態度を取れたのか?」ということです。彼はイエスが十字架で示された「罪人を救う道」の絶対的価値を悟り、これを伝えるためなら自分を完全に捧げられたのです。そしてパウロはどの町で福音を伝える時も、「悔い改めなさい。イエスがキリストなのです」というメッセージを最優先で強調しました(使徒20:21参照)。罪を指摘し、その罪をイエス様があがなってくださったと宣言すること。これこそ初代教会の使徒たちに共通する福音のメッセージでした。また、悔い改めが起こってこそ真の救いが始まることをパウロははっきりと知っていました。悔い改めなくして罪の赦しも、真の救いもあり得ないからです。 ここで、張ダビデ牧師が繰り返し説いている「教会論と終末論のつながり」という話を再考できます。キリスト論と救済論、終末論がキリスト教三大教理だとするならば、最終的に終末論が私たちに要求するのは「どのような教会を建てるのか」という問いです。つまり、イエス・キリストの再臨を待ち、天国を望みつつ生きる者たちが、この地上で果たすべき使命は教会を建て上げることにあるのです。教会はキリストが血潮によって買い取られた場所であり、信徒たちはその教会の肢として世の虚偽と誘惑に立ち向かわなければなりません。この教会を正しく守り建てることが、終末論的信仰を持つ人々の最終的な課題であり、結局は教会論に帰結するのだという説明です。 今日、多くの教会が財政問題や教勢(信徒数)の停滞によって世間に売りに出されたり、閉鎖してしまう状況をよく目にします。数百、数千にもなる教会が市場に出ているという報道もしばしば耳にします。本来、主の血の代価によって建てられた聖なる共同体が、どうして世の不動産市場に追い込まれるのか。これは信仰が弱まり、教会が旧約型教会のモデルに閉じこもったまま、変化する時代に対応できなかったからだという指摘ができるでしょう。さらに深く踏み込むなら、本文でパウロが予告した通り教会内部に「凶暴な狼」が入り込み群れを荒らし(使徒20:29)、「弟子たちを引き寄せて自分のほうに従わせようと曲がったことを語る者たち」(使徒20:30)が起こったためでもあるのです。世俗化、多元主義、物質主義、消費主義など多くの「狼」が教会内部に入り込んで福音の本質を覆い隠し、信徒たちの魂を分散させてしまいました。 張ダビデ牧師はこの現実を直視し、教会は再び使徒的伝統に立ち返らねばならないと強調します。その核心にはパウロ使徒の「テントメイキング」があります。これは、人間が生きるうえで必須の「衣食住」の問題を解決しつつ、福音を伝え、信徒を世話する二重の使命を同時に果たす方法を意味します。旧約型教会のように祭司、聖職者だけが律法に定められた什一によって生活を保証されるのではなく、教会共同体が互いに協力して自発的に献身し、必要があれば自ら働いて財源を用意することで、宣教そのものに生命力を与えるのです。 実際、パウロはコリントで天幕を作り売って自分の生計を立てながら福音を伝えました(使徒18:1-3参照)。そして必要な時には、同労者やほかの教会から送られてくる財政的支援を受け取り、教えにさらに集中することもありました(使徒18:5)。このように「自分の手で働いて、私と私と共にいる者たちの必要を賄いました」というパウロの告白(使徒20:34)は、新約型教会の自立性と健全性をよく示しています。いかなる宣教者も、働けるにもかかわらず信徒たちの物質に過度に依存したり、それを「当然の権利」と考えたりしません。むしろ自分がもつ技術や才能を活用して信徒たちの負担にならないようにし、むしろより多く与えて仕える方向にエネルギーを注ぐのです。 このような形には明らかな利点があります。 パウロが「弱い者を助け、主イエスご自身が『与えるほうが受けるより幸いである』と言われた御言葉を覚えていなさい」(使徒20:35)と述べたのは、まさにこうした文脈と直結します。 旧約型教会が間違っているのではなく、そのモデルのみを絶対化した時に生じ得る問題を警戒すべきだということを、パウロの宣教と張ダビデ牧師の教えは共に喚起します。旧約時代には確かに、祭司やレビ人が祭儀に集中するために他の部族から物質的支援を受けました。しかし新約時代に入って、イエス・キリストのあがないのわざと共に教会のかたちも変わりました。教会はもはや「神殿」という物理的空間に限定されず、聖霊によって互いに祈りつつ御言葉でつながる場所となったからです。「聖霊があなたがたの中であなたがたを監督者として立てられ、神がご自分の血をもって買い取られた教会を養うようにされたのです」(使徒20:28)という本文の宣言は、教会が主の血潮によって建てられた神聖で尊い共同体であることを明示しています。 このメッセージは、張ダビデ牧師が強調してきた点とも正確に合致します。教会は世の荒波、世俗化や資本の論理に容易く巻き込まれるべきではなく、だからこそテントメイキングという適切なオルタナティブが提示され得るのです。もちろん、だからといってすべての教会が必ずしも事業や商売をしなければならないという話ではありません。教会は基本的に福音宣教と魂の救い、信徒の育成を最優先に置きつつ、その過程で必要な財政を自発的に確保できる道を模索せよという趣旨です。さらに、宣教者やリーダーが「受けるのではなくまず与えること」を喜びとして実践せよということなのです。 今日のように多くの教会が大量に閉鎖され、借金を抱えて不動産市場に教会の建物を出さざるを得ない時代状況の中、教会が健全性を失わないためには何が必要でしょうか。パウロがエペソの長老たちに告別説教をしながら力説したのは結局ひとつ、「私が昼も夜も涙をもって一人ひとりを訓戒したことを思い起こしなさい」(使徒20:31)ということです。これは指導者の生き方がどれほど重要であるかを示しています。いくら指導者が華やかな弁舌や知識を持っていても、信徒一人ひとりに熱い愛と涙、そして責任感をもって関わらなければ、健全な教会共同体を築くことはできません。だからこそパウロは「私はすべてを教えたから、血について責任がない」とまで言います(使徒20:26-27)。教会が倒れ、世に売りに出されるのは「指導者が神の御言葉を完全に伝えなかったのではないか」という厳粛な自己反省を促すのです。 張ダビデ牧師はこのような旧約型教会と新約型教会の比較を通じて、「時代の要請」を見抜かなければならないと力説します。私たちは今、さまざまな世俗イデオロギーや相対主義、ポストモダニズム、多元主義、物質万能主義、快楽主義など、あらゆる異端的・世俗的思潮が混在する時代を生きています。だからこそ、教会がかつてのように「什一や献金だけで牧師の生活が保証される構造」に留まるよりも、むしろ世の中に打って出て、テントメイキングを通して世俗の言語を包含しつつ、変質しない福音の力を示さなければならないというのです。これこそが「神の国を宣べ伝えつつも、生計問題によって中断されることも歪められることもない道」であり、新約の精神を現代に蘇らせる教会の在り方だと言えます。 実際、これは決して新しい主張ではありません。教会史を少し振り返っても、初代教会はもちろん宗教改革以降の様々な運動においても「自費糧宣教」の精神を確認できます。マルティン・ルターは修道院的伝統を批判しつつも、信徒が自立して生活の現場で福音を実践する重要性を説きました。ジャン・カルヴァンも、教会が世俗活動や職業倫理など多面的に社会を変革する先頭に立つべきだと見なしていました。近・現代に入っては医療や教育、救護活動などを通して、教会が社会へ実質的に貢献していくことで福音の影響力を拡大する事例が数多くありました。問題は、こうした流れがいつの間にか特定の制度や建物中心の教会運営に閉ざされ、次第に生気を失い、自立精神も消えていったという点にあります。 したがって、再び使徒行伝20章の御言葉に立ち返り、パウロがエペソの長老たちに「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(使徒20:28)と警告の声を発したことを思い起こさねばなりません。群れを真に世話することは、ただ礼拝堂に集めて説教だけすれば完了するものではありません。教会の財政が貧しくても、それが原因で福音が弱まってはならず、財政が豊かだとしても世俗的な方法で過剰に使ってもいけません。結局、教会が主の血の代価で建てられたという認識を持ち、自ら霊的に目覚めて立ち上がること、そして数ある宣教方法の中でも今日最も実践的な選択肢としてテントメイキングに注目する姿勢が必要なのです。 張ダビデ牧師の教えを詳しく見ていくと、「今私はあなたがたを主とその恵みの御言葉に委ねます。この御言葉はあなたがたを強く建て上げる力があり…」(使徒20:32)という節が大きな比重を占めます。教会が建てられ維持される根本的な力は人間ではなく、御言葉と聖霊のみわざにかかっているからです。御言葉の中にとどまる教会、御言葉を実践する信徒、御言葉によって聖霊の力を体験する共同体は、財政的窮乏や外部の攻撃的非難にも揺さぶられません。反対に、御言葉が弱くなれば、いつの間にか教会が「凶暴な狼」によって侵食されたり、「自分に従わせようと曲がったことを語る」偽指導者や異端に隙を与えるのです。私たちは韓国の教会だけでなく世界の教会が経験している異端問題、指導者の倫理的堕落など数々の事例を通じてそれを学んできました。 今こそ教会は使徒行伝が示す原型的なモデル、パウロが見せた自活宣教と福音専念の姿勢に再武装する必要があります。張ダビデ牧師が長年強調してきたように、「福音に専念する」には必ず「自ら働いて生計を立てる」TM的な考え方が結び付かなければなりません。これは牧師や教会リーダーだけの問題ではなく、すべての信徒が共に担うべき教会の使命であり、「受けるより与えるほうが幸いである」というイエス様の御言葉を私たちの生活で証していく過程なのです。もちろん、牧会の現場で十分な財政的支援を受ける場合もあるでしょう。パウロがテモテやシラスのような同労者たちから支援を受けたように、ある人が福音のために惜しみなく助けることも可能です。しかしその支援が当たり前になったり、制度として固定化される時、教会の内的な躍動感は容易に失われがちです。結局、この地上で教会が存続する理由、そして教会のリーダーたちが必ず先頭に立って守り伝えねばならない核心は「私が福音を伝え、福音のゆえに自ら働く」という覚悟と実際の実践なのです。 私たちの時代に本当に必要なのは、パウロが見せてくれた「自分の手で稼ぎつつ、昼も夜も教え、涙をもって一人ひとりを訓戒した」その情熱です。そしてそれは、徐々に衰退している多くの教会を具体的に生かす解決策にもなり得ます。たとえば、張ダビデ牧師が直接「倒れかけた教会の建物を買い取り、福音の前哨基地として再活性化」する事例がそうです。建物を買うこと自体が目的ではなく、すでに建てられていながら消滅の危機にある教会資産とその地域の魂を守り、再び福音伝道の起爆剤とすることが目的なのです。財政はTMと献身によって用意し、霊的な部分は宣教者と共同体の一致した祈りで満たしていく、という仕組みです。そうして再生した地域教会が周辺でさまよっている魂を受け止め、再び健全に自立して、他の教会や宣教地を援助できるような好循環を期待しているのです。 今日の本文でパウロが「自分の走るべき行程を、そして主イエスから受けた使命、すなわち神の恵みの福音を証する務めを終えるためには、私の命さえ惜しいとは思わない」(使徒20:24)と宣言する有名な箇所は、現代の私たちにも同じように響いてきます。教会は派手なプログラムやイベントではなく、一つの魂を生かし、その福音に命を懸ける人々の涙と労苦と献身の上に建てられます。28年前からこの精神で教会を始めてきたと告白する張ダビデ牧師の姿は、まさにこうした先人たちの道を、今日の私たちがいかに受け継いでいくのかという深い問いを投げかけます。「月に一、二回はマタイ23章を読みながら、指導者が外見ばかり飾る姿にならないよう絶えず自分を点検する」という彼の姿は、宣教者も信徒も共に見習うべき態度ではないでしょうか。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教は、宣教者の姿勢、教会の本質、そして福音を伝える方法論を一つの結論へ集約します。「私はすべてを教えたから、今やあなたがたがつまずくなら、それはあなたがたの責任だ」というパウロの口調は、いかに彼が徹底して教会員を真理で武装させたかを証明しています。そしてその根底には「悔い改め」という土台があります。悔い改めがなければ、教会をいくら飾り、いくら立派な説教をしても、それは本質をはずれた外面的礼拝に過ぎません。自分の罪を悟り、イエス様の十字架の血潮によって救いを得た者が、今度は世の中へ出てテントメイキングを通して福音を伝え、弱い者を助けるのです。「私と私の同行者が必要とするものを自分の手で賄った」とパウロが語るとき、彼は宣教者が世俗の誘惑に陥らず、また福音の純粋さを守るための最も根本的な仕組みを整えたと言えるでしょう。 ここまで本文からまとめてみると、パウロ使徒の告別説教は単に1世紀のエペソ教会だけに適用される教訓ではありません。今日の韓国教会、さらには世界の教会が直面している難局を切り抜ける際に、私たちが耳を傾けるべきメッセージなのです。主の血の代価で買い取られた教会がどうして捨てられ、市場に売りに出されなければならないのか。なぜ教会が借金に苦しみ、物質的窮乏とビジョンの欠如によって閉鎖しなければならないのか。教会は財政的豊かさを享受するたびに世俗化の誘惑にさらされ、財政的困窮に陥ると失望や恥辱に苦しんだりもします。しかし本文にあるように、パウロは外部・内部を問わずあらゆる困難があっても福音をやめませんでした。そして彼のチームもまた、彼と共にテントメイキングを通じて生計を立てながら、必要ならば同労者たちの支援を受け、一層教えと宣教を続けたのです。 Ⅱ. テントメイキング(TM)宣教と教会建ての実際 ここからはテントメイキング(Tentmaking、以下TM)が具体的に何であり、張ダビデ牧師が献身礼拝で強調するこの宣教の実際の価値がどのように具現されるのかを探ってみましょう。テントメイキング(TM)は、その名の通りパウロが天幕を作って売り、生計を自立しつつ福音を伝えたところに由来します。教会史の中では「自費糧宣教」とも呼ばれ、宣教地や牧会の現場で財政支援なし、もしくは最小限の支援だけで現地の人々を助けながら福音を伝達する方法論を指します。現代では職業を持ちながら海外や国内の宣教地で自立して福音を伝える、いわゆる「専門人宣教師」の形へ発展している場合もあります。 しかし張ダビデ牧師が注目するTMは、単に「世の仕事をしながら宣教も並行する」という程度にとどまりません。これは、教会が旧約型モデルにとらわれず、新約型モデルとして信徒全体が福音宣教に参加するように促す宣教的パラダイムです。教会が事業体を運営する、あるいは収益追求を目的に何かをすることを意味するのではありません。むしろ、このTMは「神の国のために自発的に働き、稼ぎ、それをもってさらに教会を建て、苦しむ人々を助ける」霊的・物質的な通路となることを意味します。 張ダビデ牧師が仕える教会共同体には、主に5つの主要な宣教があるそうです。本人の説明によると、すべての信徒はそのうちのどれかの宣教に属しているか、あるいは助けを受けているか、直接・間接的に関わりを持っているとのこと。最近はその中の最後としてTMが正式な宣教として確立され、献身礼拝を捧げるに至りました。このことが意味深いのは、教会開拓当初から既にTMの精神は根付いていたにもかかわらず、今になってようやく「公式な宣教」として位置づけられた点です。これは教会がある程度の成熟期を迎え、より体系的にTMを通して福音拡大を推進する準備が整った兆しとも見なせるでしょう。 パウロがコリントでアクラとプリスキラに出会い、同じ職業であることから共に天幕を作って生活したという事実(使徒18:1-3)は、TM宣教の古典的な例としてよく引用されます。アクラとプリスキラは、ローマ皇帝クラウディオの命でローマから追放されてきたユダヤ人夫婦でしたが、信仰が厚く知識にも優れた人物でした。彼らはパウロと共に天幕を製作・販売し、その収益で生計を立てながら同時に福音を伝え、教会を建てました。伝承によれば、プリスキラは非常に信仰が深かったため、新約聖書の数箇所では彼女の名前が夫よりも先に挙げられるとも言われます(使徒18:8、ローマ16:3など)。また、この夫婦はアポロのような知的な説教者を正しく導いてあげるほど聖書の知識と霊的分別が高かったのです(使徒18:26)。こうしたエピソードは、TMが単なる「副業」ではなく、福音宣教のための強力な武器になり得ることを示唆しています。 張ダビデ牧師はこれら初代教会の事例に基づき、TMが教会内部でどのように機能すべきかを整理します。教会のリーダーは「信徒に無条件で支援せよ、献金をもっと捧げよ」と要求する前に、むしろ自分がパウロのように働いて財源を用意し、その収益で困難な教会や信徒を支援できるようでなければならない、と語ります。そうすることで教会は単なる「消費単位」ではなく、絶えず「生産して分かち合う」共同体へと変容できるというのです。これは「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉と直接結びつき、旧約型教会の一方的な什一依存体制を超越する、新約型教会のモデルを示していると言えます。 すべての牧師、すべての信徒が必ずTMをしなければならないわけではありません。中には生活が十分に豊かで、専ら福音宣教にだけ専念しても差し支えない人もいるでしょう。また、歴史も規模も大きな教会で財政が潤沢ならば、牧師が特別に生業を持たなくても済むかもしれません。しかし問題は、こうした「支援」や「供給」に全面的に依存してしまうことで、福音伝播の本質が曖昧になったり、教会内部の霊的緊張感が緩んでしまう現象が起こりがちだという点にあります。パウロはテモテやシラスのような同労者が持ってきてくれる献金を受け取る際、一層励んで御言葉を教えました。つまり、誰から支援を受ければそれを受けていっそう福音のために献身し、その支援が途絶えれば再び自力で天幕を作って働いたのです。こうした霊的な躍動こそがパウロ宣教の実を豊かにした要素であり、彼が再びエペソの長老たちに会った時に「私はだれの銀や金、あるいは衣服を欲しがったことはなかった」と胸を張って言えた秘訣でもありました。 張ダビデ牧師が長年牧会の現場で実践してきたTM宣教も、大きな枠組みではそれと変わりません。教会が事業体を直接運営する場合もあれば、信徒たちがそれぞれの職場で収益を上げて、それを合わせて倒れかかっている教会を再建したり、宣教地を支援する方法もあります。要は「教会が借金を抱える構造」ではなく「教会が他者の借金を免除し、助ける構造」を作り上げることがポイントです。牧師が教会から給料をもらうことを全面的に否定するのではなく、「もらって当然だ」という考え方から抜け出そうという教えなのです。張ダビデ牧師は実際に、アメリカ各地はもちろん海外のあちこちで閉鎖される教会を「買い取り」、福音の前哨基地として蘇らせています。そしてこの過程でTMによる財源、信徒たちが汗水流して稼いだお金、自発的な献金などを合わせて宣教と救済、教会の運営に用いています。これは「一人の魂でも多く救いたい」という新約教会の精神と正に軌を一にするのです。 こうして教会が神の国拡張のために歩むとき、その方向を決めて実行に移す過程で、教会のリーダーシップとすべての信徒が共に熟考し祈らねばなりません。本文でパウロがエペソ教会を去った後に起こる危険—「凶暴な狼が教会に入り込み、群れを顧みないだろう」(使徒20:29)、「曲がったことを語って弟子たちを自分のほうに引き寄せようとする者が出てくる」(使徒20:30)—を事前に警告したように、教会が外へ出て宣教しようとする際には、世俗の流れや様々な異端が必ず入り込もうとします。ゆえに教会はいつも目を覚まして、「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して訓戒した」パウロの心を受け継ぐべきなのです。テントメイキングであれ、他のどのような宣教方法であれ、究極的には魂の救いと福音拡張という目的を見失ってはなりません。 TM宣教は教会の財政を丈夫にする以上に、教会の霊的体質を変える大きな役割を果たします。なぜなら、信徒一人ひとりが自分の日常の場で「職場・ビジネス・学業」を通じ「この仕事を通してキリストを証しできる」と自覚し始めるからです。教会における信仰が礼拝の時間だけに留まらず、生活全体へと染み渡っていきます。さらに、TMを通じて得た収益が地域教会や海外宣教、救済奉仕、教育宣教などに投入されるならば、「与えるほうが受けるより幸いである」という福音的生き方が共同体の中に自然と広がっていくのです。献身礼拝を捧げるのも、この精神を改めて呼び起こし「私たち皆が共に腕まくりして働きましょう。私たち自身を犠牲にしながら、困っている隣人を生かしましょう。そして何より福音を宣べ伝えましょう」という決意を新たにする儀式だと言えます。 「パウロのようにテントメイキングをせよ」というスローガンを表面的に受け止め、やみくもに経済活動へ参入したり事業拡大に熱中してしまえば、福音伝道の本質が曇るリスクもあります。しかしこの点について、張ダビデ牧師は「聖書の原則を最優先すべきだ」と何度も強調しています。テントメイキングを実践したパウロも、天幕を作ってお金を稼ぐことに先立ち、常に福音宣教を最優先に置いていました。生計がうまくいかなければ自ら働いただけであって、お金を稼ぐこと自体が究極の目的ではなかったのです。もし教会や信徒個人がTM活動によって大きな収益を得たとしても、それを自分だけのために使ったり富を誇ることに注げば、パウロ使徒が言った「銀や金や衣服を欲しがらなかった」という教えと明らかに相反します。そのような成功は福音とは全く無関係な世俗的成功でしかなく、「聖霊と御言葉に自分を委ね、神の御心をすべて伝える信仰共同体を建て上げなさい」(使徒20:27,32参照)という本来の趣旨を決して忘れてはなりません。 張ダビデ牧師が教会開拓や宣教の現場で示してきた具体例を見ると、彼がTMを実行する際に最も重視しているのは「祈りと会議、そして共同体の合意」です。本文でもパウロはエペソの長老たちを呼び出し、一種の「指導者会議」を開いた後に告別説教をしました。現在、閉鎖される教会を引き受けて再生する働きを進める際、張ダビデ牧師と教会のリーダーシップは長い時間をかけて共に祈り、議論し、決断を下すといいます。そしていったん方向が決まれば途中で揺らがずに最後まで推し進め、教会を再建する。このような方法は初代教会にもはっきり現れた特徴です。使徒たちと長老たちが一緒に集まり、聖霊の導きを仰ぎながら教会の進路や問題を解決したからです(使徒15章のエルサレム会議など)。 テントメイキング宣教は、献身礼拝をきっかけにその意義が一層明確になります。教会の中に独自にその宣教を担う部門を設置し、TMが「教会財政を自立させ、さらに困難な教会を支援し、さらには福音を地の果てまで伝える通路」となるように組織化するのです。これは旧約型教会がもつ単線的財政構造(什一献金と奉納中心)に対する補完であり、福音伝播のスペクトラムを広げられる新約型教会の成長モデルと見なせます。「市場に教会が千軒、二千軒も売りに出される時代に、私たちはどうにかして教会を守らなければならない」という危機感は、TMを単なる経済活動以上の聖なる使命として再認識させるのです。 張ダビデ牧師はこのTM献身礼拝で「私たちはこの時代に、売りに出される教会たちのために本当に最善を尽くしてきたと言えるだろうか」という問いを投げかけます。そして「イエス・キリストの福音、聖霊、そして神の国」という柱をしっかりと掴み、信徒一人ひとりが悔い改めて心を新たにし、「自分自身のため、あるいは群れ全体のために気を配りなさい」(使徒20:28)というパウロの訓戒を実践するよう強調します。世俗に染まり倒れつつある現状に対して、TMによる自立と奉仕こそが時代的要請に対する具体的回答になるというのです。 張ダビデ牧師の語るTMは新しいものではなく、むしろ教会が失ってしまった初代教会の純粋さと躍動感を取り戻す道です。その道において指導者は外見だけを飾らず、完全な福音を伝え、信徒たちはそれぞれの場で生計を立てつつも福音の証人として生きます。教会共同体はその結集した実りによって周辺の弱い教会を支え、まだ福音を知らない人々に向けて宣教資源を惜しみなく注ぎ込みます。多元主義と相対主義が激しい波を起こす時代に、「他の道はない。ただイエス・キリストのみ」とする唯一の真理をより鮮明に示すのです。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教に示される新約型教会の核心は、「テントメイキングの精神」と密接に絡み合っています。イエスが私たちに残された言葉—「与えるほうが受けるより幸いである」「道と真理はただ一つ」など—は、教会の存在様式と方向性に対して常に厳しく挑戦します。そして張ダビデ牧師もまた、この使徒的伝統を再発見し、今日の旧約型教会が直面する現実的な危機を克服するための代案としてテントメイキング宣教を強調するのです。これは教会を「万人祭司」という新約の原理に合うよう再編し、信徒一人ひとりが生活の現場で福音を実践するよう促す具体的手段でもあります。 教会の基本精神は「自ら稼いで弱い人を助け、福音のために自分の生涯を捧げよう」という決意にあります。パウロのように言えるべきです。「皆さん、私は自分の命を少しも惜しいとは思わないからこそ、神の恵みの福音を証する務めを終えるまで走り抜くことができたのです」。張ダビデ牧師はこのパウロ使徒の告白を継承しつつ、教会が建てられ宣教が拡張されても、決して物質や名誉に酔ったり、世俗的な達成感に振り回される道に陥らないよう注意を喚起します。むしろ主の血の代価で建てられた教会を守り、市場に売りに出されるしかなかった教会を再生させ、福音をさらに広く伝えるために仕えることを促すのです。 この献身礼拝でTMが正式に立ち上げられたというのは、教会が宣教の範囲をさらに拡大し、これから本格的に「与える生き方」によって「地域社会や世界の宣教現場に大きな影響力」を及ぼそうとする意思表示です。同時に「私はだれの銀や金や衣服も欲しがらなかった」というパウロの態度のように、教会の財源であれ信徒の献身であれ、そのすべてはあくまで「福音を伝え、弱き者を助ける」ための通路であるべきだということを改めて心に刻む場でもあります。つまり、TM宣教を通じて「天の商人」として正直と誠実、そして熱い愛と涙をもって働き、その収益を喜んで福音へ再投資することによって、イエス・キリストの道—すなわち「自己否定と犠牲の道」を実践していくのです。 今日、多くの教会が揺らぎ、崩れていく現実の中で、テントメイキングは単なる「一つの代案」ではなく、本質的な原理として再び注目されるようになりました。聖書が証するパウロ使徒の生涯が、すでにその道筋を示しており、張ダビデ牧師は教会開拓と世界の宣教現場でこれを現代に適用してきました。教会が旧約型パラダイムから抜け出し、新約型教会の活気と躍動感を回復したければ、パウロが言った「自分の手で働き、弱い者を助け、福音を伝える」という姿勢へ立ち返る必要があります。そして、それを教会全体が共有し体系化することで、私たちが生きる時代の魂たちに「生きた福音」を届けなければなりません。「目を覚ましていなさい」(使徒20:31)というパウロの終末論的な訴えは、テントメイキングという具体的な宣教手段を通じて現実に実を結ぶ道にほかならないのです。これこそが張ダビデ牧師が説き、テントメイキング献身礼拝の場で宣言する新約型教会のビジョンであり、教会の将来にとって最も重要な出発点となるでしょう。 www.davidjang.org

Paul’s Farewell Sermon – Pastor David Jang

I. The Background of Acts 20 and the Example of the Apostle Paul The passage from Acts 20:17–35 portrays the scene where the Apostle Paul summons the elders of the Ephesian church to Miletus, delivers his final exhortation, and takes leave of them. Commonly referred to as Paul’s “Farewell Sermon,” this address intensely encapsulates Paul’s … Read more

El sermón de despedida de Pablo – Pastor David Jang

Ⅰ. El trasfondo de Hechos 20 y el ejemplo del apóstol Pablo El pasaje de Hechos 20:17-35 describe la escena en la que el apóstol Pablo, encontrándose en Mileto, llama a los ancianos de la iglesia de Éfeso para exhortarlos por última vez y despedirse de ellos. A menudo se le conoce como el “sermón … Read more

바울의 고별설교 – 장재형목사

Ⅰ. 사도행전 20장의 배경과 바울 사도의 모범  사도행전 20장 17절부터 35절까지의 본문은, 바울 사도가 에베소교회의 장로들을 밀레도에서 불러 모아 마지막으로 권면하고 작별하는 장면을 담고 있다. 이는 흔히 ‘바울의 고별설교’로 불리기도 하는데, 이 고별의 말씀 안에는 바울 사도의 사역 철학, 복음 전파의 핵심, 그리고 교회의 존재 이유가 매우 밀도 높게 압축되어 있다. 특히 이 본문을 통해 우리는 구약형 교회와 신약형 교회의 차이점을 심층적으로 살펴볼 수 있으며, 그 가운데 ‘장재형(장다윗)목사’가 강조하는 … Read more

被带到亚那那里 —— 张大卫牧师

约翰福音第18章12-22节 vividly 展示了耶稣被捕并被捆绑后,首先被带到大祭司亚那面前的场景。这一幕在整本福音书中是预备耶稣受难与十字架事件的关键时刻。特别是约翰福音的作者相较于对观福音(马太、马可、路加)中相对简略提及的亚那,更加凸显了亚那的重要地位,藉此揭露了宗教权力如何腐败与策划阴谋,以对付耶稣。在这里,我们清楚地看到大祭司职位的世袭与堕落的宗教权力的实质,也见证了耶稣是如何被想要维持既得利益者的谎言和暴力诬陷并牺牲。每当我们阅读这段经文,就不仅回望那时代的历史,也反思在当今社会和宗教领域仍可能反复出现的权力腐败。张大卫牧师在解读本文时,特别关注“先带到亚那那里”这一事实,详细剖析其中的不公和反讽。藉着对此经文的深入默想,我们重新认识到:即使在最恶劣的环境中,耶稣依然见证神国的真理,并最终为我们敞开了救赎之路。 根据圣经记载(约18:12-14),捉拿耶稣的人包括罗马兵丁、千夫长和犹太人的差役。他们在客西马尼园逮捕耶稣之后,立即捆绑了祂,并“先带到亚那面前”。亚那是当任大祭司该亚法的岳父,同时也是一位拥有巨大神通和财富,以及强大幕后势力的人物。约翰福音18章13节虽只简要提到“亚那是当年大祭司该亚法的岳父”,但这一句话背后所隐含的,是当时犹太宗教体系如何以“亚那家族”为中心而极度腐败、纠缠不清。其实按照利未记的规定,大祭司应当是终身制,而且必须保持圣洁纯全。但当时的实际状况却大相径庭:亚那从公元6年到15年,曾正式担任大祭司长达9年之久,之后又让自己的五个儿子先后担任大祭司,并在此期间让女婿该亚法成为大祭司。这与正常的程序毫不相符,反映了当时极度堕落的宗教权力世袭体制。 在这一腐败结构之下,约翰福音的作者明确记录耶稣被捕后“先被带到亚那面前”(约18:13)。从法理上看,耶稣理应在现任大祭司该亚法面前受审,并且必须在天亮以后、在圣殿院内——也就是犹太最高议会(公会,Sanhedrin)聚集的地点——进行正式宗教审判。根据犹太教的最高决策机构公会的审判规定:至少需要两名以上证人,若发现有人作假见证,该见证即被视为无效;而且对于死刑的判决,犹太当局并无即时执行的权力,仍须罗马总督的公开审判和批准。然而,这些自诩严守律法的人,为了维持自身的既得利益,却在夜间秘密逮捕耶稣,将祂先带到亚那面前。这显然违背了律法,也是一种非法的审判程序。 为什么偏偏是亚那?难道就因为他是该亚法的岳父吗?还是因为亚那才是真正掌控一切权力与阴谋的“实权派”?不少学者、牧者,包括张大卫牧师等,认为不应将亚那仅仅视为“前任大祭司”,而是耶稣被捕并被处死的整个过程中施加决定性影响的核心人物。亚那通过与罗马结盟,“买卖”大祭司职位,积累了惊人的财富,并事实上垄断了圣殿内出售祭物的利益(即“圣殿买卖”)。结果圣殿沦为“贼窝”,成为商人谋取私利的场所(约2:13-16;太21:13)。耶稣在公开传道之初和末期,两次洁净圣殿,直接挑战了这一堕落体制。 当时在圣殿购买祭物的原则上,应选用无残缺的祭牲。然而在“圣殿内”出售的祭物却能自动通过大祭司一方的检验;而信徒若在“圣殿外”自己带来的祭物,即使无任何瑕疵,也常被故意判定有残缺。如此一来,无论贫富,每个朝圣者和敬拜者只能花高价购买“圣殿内”被官方认可的祭物。哪怕是为贫穷人预备的斋鸽等祭物,也在圣殿内被数倍地抬价出售。这些巨额利润最终落入了与亚那家族相勾结的撒都该派领袖的口袋里。并且他们与罗马掌权者也保持紧密关系,借助宗教特权和政治实力稳定地维持自己的既得利益。 因此,象征着宗教权力腐败的亚那“先行”审讯耶稣,不是单纯的程序性偶发事件,而是一场针对耶稣的“杀局”开始的关键信号。在约翰福音18章19节起,亚那开始向耶稣质问有关“祂的门徒和教训”的问题,这是一个非常有策略的盘问:看耶稣究竟收了多少门徒?看祂是否暗中传播与犹太传统格格不入的革命性教义?约翰福音作者记录了耶稣的回答:“我从来是明明地对世人说话……我所说的都曾在会堂和殿里,就是犹太人常聚集的地方,并没有在暗地里说什么。”(约18:20)事实上,耶稣一直在公开场合——会堂与圣殿——教导,并向众人宣讲神国的真理,甚至洁净圣殿也是公开行动,因此亚那试图把耶稣塑造成“秘密结社”的意图显然是站不住脚的。 面对亚那的质问,耶稣回应说:“你为什么问我呢?可以问那听见我的人,他们都知道我对他们所说的。”(约18:21)这其实正合犹太审判的惯例:若要正式指控某人,需要两个以上证人;若耶稣真的传播危险而邪恶的教训,必然会有“受害者”或“目击者”出来指证。然而亚那却尝试让耶稣自行招供,这是一种“逼供”的审问方式,正彰显出这审判之不公。哪怕耶稣做出合理且正当的答辩,旁边仍有一个差役上前打了耶稣一耳光,喝斥道:“你这样回答大祭司吗?”(约18:22)至此,所谓“审判”其实已沦为暴力横行的不义场所。 当我们深思这部分经文,就会看到主在不公与暴力面前默默走上那条路的景象。明明无罪,却被当作罪犯一般捆绑,在夜间举行的非法审讯前受羞辱。即便如此,耶稣仍然坚持真理。大祭司和审判者无视律法及审判的本意,把耶稣看作对神权的挑衅者,但真正亵渎神名、亵渎圣洁的恰恰是亚那本人。为了保卫自身特权,堕落的宗教权力可以轻易地编造假见证并动用暴力。结果圣殿成了商贩云集之地,大祭司也变成了与金钱勾连的世袭官位。 张大卫牧师在默想这段经文时,强调耶稣的受难并非单纯的个人痛苦,而是与庞大的宗教、政治腐败体系正面冲突的结果。他回顾了当时大祭司之位如何被亲罗马派系通过买卖和幕后交易垄断;也就是本该专为神所设的敬拜场所,却被利用来巩固人们的权力地位。他同时指出,这些问题在当今教会或任何信仰团体里都随时可能重演,只要我们不时刻自省,随时都有可能“亚那化”——也就是打着神的旗号,却贪图财富与权力的歪曲现象。如果我们记得耶稣洁净圣殿时的忿怒和教训,便会更加明白教会在世上当如何自处。 在这里,另一点值得注意的是彼得和“另一个门徒”的故事(约18:15-18)。约翰福音告诉我们:其他门徒都逃散后,彼得和这个门徒依然跟随耶稣,甚至进入到大祭司的院子里。当时“那与大祭司相识”的另一门徒带着彼得进去;很多传统与教会历史推测此人是使徒约翰,但也有人提出那可能是犹大,因为如果此人是犹大,他与大祭司方面早已暗中勾连,所以才有权限带彼得进入。不过,传统观点更多支持“这人”可能是约翰,与大祭司家族存在一定交情。无论如何,重点是彼得仍然坚持跟随耶稣。他虽然常常失败,但对耶稣充满热爱,并无意背叛。甚至为保卫耶稣,不惜拔刀相向(约18:10)。 然而,在大祭司的院子里烤火的彼得最终三次不认主(约18:17-18;25-27),正应验了耶稣先前所说的话(约13:38)。或许此刻的彼得原本应该站出来,在这场非法审判里作耶稣的见证——当亚那等人曲解耶稣的教导,企图把门徒群体定性为颠覆犹太教的组织时,彼得若能勇敢地说出:“主所教导的是神国福音,并未要毁坏犹太律法;祂从未叫人拆毁圣殿,反而教导要恢复真正的敬拜”——那情形又会如何?但当时那里危机四伏,彼得感到害怕,在恐惧中堕入了否认主的深渊。尽管如此,彼得的否认不仅展现了人性软弱的极致,也与主的爱与宽恕形成鲜明对照。耶稣复活后,在提比哩亚海边(约21章)再次寻找彼得,三次询问“你爱我吗?”并恢复了彼得。 耶稣的受审场景随后转至彼拉多的官邸(约18:28起),最终走向钉十字架的判决。约翰福音在叙述这个过程时,并不只是将耶稣刻画成“力量悬殊下的悲剧受害者”,反而突显祂是“为见证真理而来”的主(约18:37)。耶稣本可用神的能力来保护自己,却甘愿承担苦难与凌辱,为了拯救人类的罪而走向十字架。即便教权和政权纠结在黑暗中,耶稣也默然成就父神的旨意。那条道路,正是十字架的道路。 张大卫牧师在诠释到此处时,指出当今教会与当时情形有着高度相似之处。那时宗教领袖们说着“我们在守律法”“高举神的名”,实际却在夜间秘密开庭,要非法逮捕无辜的耶稣。表面自诩为圣洁团体,实则以武力、阴谋和不当捆绑来压制耶稣。这完全是昼伏夜出的伪善与独断。教会史上同样也有过权力与信仰相勾连,导致大量暴行的历史。例如中世纪的宗教裁判所,或教权与王权结盟而享用特权的各类情况,都与当时犹太教权势者的堕落相去不远。 那么我们如何防堵这种腐败,重新寻回耶稣所彰显的真正敬拜精神?张大卫牧师提出以下原则。第一,教会要常常将耶稣置于核心地位,成为聆听主话语的群体。哪怕我们高举“律法”或“教会传统”的名义,但若失去耶稣的教导与爱作根基,都会陷入不义和腐败。耶稣曾公开教训说,不要把圣殿变作“买卖之所”(约2:16)。同理,教会也不可被物质利益和世俗权威绑架,而应成为敬拜、祈祷并有圣徒彼此相交的共同体。 第二,圣殿或教会不可仅靠庞大的建筑或制度来宣示自身权威。耶稣曾说:“你们拆毁这殿,我三日内要再建立起来”(约2:19),其实是指祂的身体,预示祂的复活(约2:21)。这也暗示:若建筑或组织已腐败,就应将之拆毁,以合乎真敬拜和神话语为中心的方式重新建造。为了巩固既得利益而滥用圣殿的大祭司与官长,竟把神的儿子耶稣视作敌人。然而教会必须常常反省自身的腐败倾向,走向真正的敬拜之路。若我们在现代社会中,只困在“教会”这框架里谋私利,与耶稣的真理背道而驰,那无异于追随亚那之路。 第三,要记住门徒的软弱与他们得恢复的过程。彼得虽是耶稣的门徒领袖,却在最关键时刻三次否认主,十分惨烈。但耶稣仍然找回他,并将他恢复为使徒。时至今日,教会里也有自恃信仰资历或领袖地位而自负者,也有因罪疚与失败感而放弃的人。然而耶稣依然会在我们的软弱中赐下恢复。重点在于回到主面前。彼得那样带着眼泪悔改,再次向主敞开时,失败与羞耻便成为神恩典的器皿。张大卫牧师评论说:“在十字架之路上,人性的软弱一一显露,但因主的宝血,我们得以重新站立,这正是福音的大能。” 第四,我们不可忘记:教权式的暴力总是暗中进行的。亚那对耶稣的审问,表面上似乎想维持合法程序,却实际依靠伪证和暴力对祂施压。这种不义常常以“公共利益”或“维护宗教纯洁”等名义出现。古代以色列的公会审判、中世纪的宗教审判,以及近现代政权与教权勾结的种种事例,都能证明这一点。我们必须时刻警醒监督——无论在教会内外,凡握有权力之人及领导层的决策过程是否公正透明;因为有权者为了守住既得利益,随时可能私下酝酿阴谋,或以堂皇借口掩饰其暴力。 第五,耶稣在面对这种不公暴力时,并未以谎言回击,也未以暴力报复。在客西马尼园,祂制止拔刀的彼得:“收刀入鞘吧”(约18:11)。在亚那差役打祂耳光的场景里,耶稣虽然没有默不作声,却也没还手,而是说:“我若说的不是,你可以指证那不是;若是,我为什么打我呢?”(约18:23)——这是用真理之光照亮黑暗的方式。最终耶稣在十字架上宣告“成了”(约19:30),宣示了对罪恶的终极胜利。正如张大卫牧师所提醒,耶稣采用与世俗逻辑全然不同的方式得胜,这就是十字架的道路,也是我们应当顺服走上的神圣之路。 综上所述,约翰福音18章12-22节,特别是“先带到亚那那里”这一细节告诉我们:耶稣的受难并非源于犹太教领袖们对祂的片面误解或嫉妒,而是在深层次的宗教权力腐败体系里,一个必然的结果。耶稣在这种大环境中被带到羞辱与钉十字架的征程。祂在亚那家院子里的姿态、对非法审判和暴力的回应、门徒的软弱与失败,以及耶稣最终走向救赎的步伐,对今日的我们有着极大的启示。 张大卫牧师据此呼吁教会和基督徒重新省察:一方面,警惕我们自身是否也藏着与世俗同流的堕落宗教权力之影子,时刻防备因贪恋财富与权势而把圣殿变成“商贩洞穴”;另一方面,也当学习耶稣展现出的真理与爱的力量,面对不公平与诬陷时,要揭示谎言,却不以暴力相对,而是以牺牲自己来拯救罪人。 尤其值得深思的是,耶稣宣称“我从来没有暗地里说什么”,提醒我们教会所有侍奉与生活方式都应公开透明。福音是光明正大的信息,不是暗暗散布的危险思想。教会应大胆宣扬福音,无论在讲道、服事、宣教等所有层面,都要避免隐藏的动机和算计。在教会内部的决策也应公开且合乎公正程序。亚那的“暗中勾结、深夜审判、没有证人就指控耶稣”的做法是对光明的背弃,不应在教会里重演。 再者,彼得三次不认主的事件告诉我们:即便落入最深的绝望,也有可能重新站起来。彼得曾信誓旦旦地表示“我就是同你同死,也总不离开你”(太26:35),但最终却三次否认主,甚至咒诅发誓(可14:71),这是他最惨痛的失败。但主并没有弃绝他,在复活后于加利利(太28:10;约21章)再次呼唤彼得,“你爱我吗?”——三次发问把彼得彻底挽回。有人说,“彼得在否认主之处,正是基督的教会因他的见证而兴起,他的恢复也向所有失败者应许救恩。”神的怜悯能渗透到人最深的羞耻之处,这正是福音的奥秘。 另外,联系到约翰福音第2章里耶稣洁净圣殿时,被犹太人质疑:“你既做这些事,还显什么神迹给我们看呢?”(约2:18),耶稣回答:“你们拆毁这殿,我三日内要再建立起来”(约2:19)。约翰福音的作者解释说这是指耶稣的身体(约2:21),也预表复活。而此“洁净圣殿”事件随即引来宗教权贵们的忿恨,他们认定必须除掉耶稣。归根结底,亚那主导的阴谋实质在于恐惧耶稣“拆毁旧殿”的讯息将动摇他们的利益。耶稣的福音乃是要击溃旧有制度和罪的结构,开启更新的创造与救恩之路。对既得利益者而言,这未免太过刺激与威胁,但耶稣并未退缩,祂用十字架建立了新的救恩圣殿。教会也应当牢记这一点,永远仰望“新天新地”,在任何不义面前不妥协,保持纯正信仰。 从这段经文我们更能领悟的另一重点是:纵使人类历史最丑陋和不义的阴谋,也无法阻挡神的救赎计划。亚那、该亚法以及与他们同谋的犹太宗教领袖们利用各种诡计和假证据将耶稣推上十字架,却反倒成就了神藉此拯救罪人的伟大计划。耶稣在十字架上赦免了我们,赐给我们永生。这事实也成为教会在世遭遇苦难、遭遇仇恨与阴谋时仍能坚定不移地继续前行的根基。十字架之后是复活,神的胜利藉复活宣告全地。纵使我们也会遇到“先被带到亚那那里”的处境,只要在基督里,就能相信神的主权而坚守信心。 由此可见,约翰福音18章12-22节透过耶稣被捕和非法审问这一场景,生动地展现了腐败的宗教权力与真理之主耶稣的冲突,同时号召我们远离所有堕落与虚假的罪行,勇敢地跟随耶稣。张大卫牧师在针对该经文的讲道与教导中,特别多次提醒要警醒自己“不可成为圣殿里的商贩”。一旦教会因世俗的物质贪欲或权力纷争卷入亚那式败坏,就会重演“在亚那院里让耶稣被打耳光”的耻辱。教会领袖们若为了自己的权柄而利用耶稣,并暗中攫取利益,却在表面标榜圣洁,这种双重面孔是极其危险的。同时,无论某个肢体或领袖曾多么失败,只要真心悔改归向主,就能像彼得一样得以更新。 因此,“先被带到亚那那里”这节经文蕴含的核心,是:十字架之路即便面对世界的腐败、不义与暴力,仍不退缩,唯有藉着真理与牺牲而顺服神的道路。耶稣独自先行了这条路,也呼召我们“背起自己的十字架”来跟从。如今教会在与世俗权力对峙的过程中,要付出相应代价并不容易,但当我们仰望已经走完这条路的主,就会发现祂能在最矛盾黑暗之地成全神的旨意。那才是真正的自由与救恩之力。 这一信息穿越古今。在任何时代,当以“宗教名义”包装的各种不义盛行,我们都要反问:“这真是耶稣所期盼的模样吗?” 哪怕目睹教会和世俗权力结盟,享有巨大利益却偏离主道,也不该绝望与妥协。因为耶稣在亚那院子里、彼拉多的官邸里、并在那可怕的十字架上,早已宣告了胜利。所以教会无论何时都当守护基督福音,见证真理。纵使暴力环伺,我们仍要效法耶稣,在光明中显露真相,抵抗隐藏的罪恶,并以饶恕与牺牲来选择道路。 在此脉络中,张大卫牧师一再鼓励今日教会和信徒,要重新走进约翰福音18章的情境里省察:若我们站在那正被捕的耶稣身旁,或像彼得一样,或只当一个目睹大祭司体系堕落而冷眼旁观的人,我们究竟会作何选择?若我们因软弱而和那些诬陷耶稣的人同流,便失去了教会的根本使命。但反之,即便有彼得式的恐惧与过失,只要悔改归向主,祂必重新接纳我们。若在阴谋与假冒前始终选择沉默或甚至助纣为虐,最终必然无法逃脱神公义的审判。 约翰福音特别写道“先带到亚那面前”,正是作者约翰要让读者深刻意识到,耶稣被捕与受审全程里,亚那起了极负面且关键的主导作用。名义上的在任大祭司是该亚法,但暗地里操控一切的却是亚那,所以耶稣被“先”带到他那里受审。这样的宗教权力与家族式利益联合,公然无视合法程序与正义,为巩固既得利益而大肆使用暴力。耶稣在他们面前将“不义”暴露无遗,祂并非全然缄默,但也未逃避那条为世人背负十字架的路。正是在这里,我们看见耶稣的顺服与谦卑,以及自我舍弃的爱何等动人。 张大卫牧师在讲解约翰福音18章时,常说亚那代表了“教权主义的顶峰”,而耶稣则是“自我虚己的极致”,二者形成了鲜明对比。亚那利用金钱与权力将圣殿私有化,以神的名谋取个人的财富与名誉。耶稣则是神自己,却甘心屈尊降世,为门徒洗脚,被罪人捉拿并钉十字架以成就救恩。从此对比看,福音书最终要传达的信息非常清晰:神的国不在乎追求世俗权力和财富,而是在谦卑、服事与牺牲之中彰显。若教会忽略这一真理,便注定重蹈亚那之腐败,让世人耻笑。 约翰福音18章12-22节既是耶稣受难的开端,也是一面照亮堕落宗教权力本质的镜子。当我们目睹耶稣被捆绑、受侮辱的悲苦光景时,同时也看到祂智慧地坚持真理。耶稣是替我们接受了这不公的审判,置身假见证与污蔑之间,仍坚守真理,最终在十字架完成拯救。此事实践了“光照在黑暗里,黑暗却不能胜过光”(约1:5)。 张大卫牧师在总结这段经文时呼吁所有信徒都要参与耶稣的十字架之旅。是选择亚那的道路,还是选择耶稣的道路,这不仅是2000年前犹太人面临的抉择,也是我们今日面对的挑战。我们在教会生活和信仰活动中,随时都可能潜伏着“亚那式”倾向。应当警觉,也当记得主乐意赦免悔改者。若有人执意留在阴谋、败坏和假冒的阵营,终将面临神公义的审判。 因此,这段经文中“先带到亚那面前”的细微描述,其实暗含约翰福音作者的用意,即:要让人牢牢记住亚那在耶稣被捕与审讯中的决定性作用。名义上大祭司是该亚法,但幕后策划的正是亚那,所以耶稣先被带到那里。正如圣殿权力与宗教家族卡特尔无视法律程序,以维系私利而大施暴力,但耶稣却在这场自诩公义、实则不义的审判中,毫不妥协地揭露他们,并且顺服背起救赎十字架。正是在这交汇点,我们为耶稣的顺服与卑微,以及祂对人类的舍己之爱而深受感动。 张大卫牧师归纳说,约翰福音18章里亚那所展现的是“教权主义的极致”,耶稣则展现了“自我舍弃的极致”。前者通过金钱和权势把圣殿据为己有,假借神的名升高自我;后者本为神却降卑为人,为门徒洗脚,并以完全的牺牲来救赎世人。两者形成鲜明对照,使福音的精髓越发清晰:神的国不在乎外在的势力与财富,而在谦卑、服事和舍己里被彰显。若教会离弃这一真理,就会重蹈亚那之失,并且失去在世人面前的见证。 约翰福音18章12-22节是一场耶稣苦难的序幕,也是一场揭露宗教腐败的戏台。我们在此看到耶稣被绑并受羞辱,却也看到祂那不可征服的真理。祂为我们背负虚假控告,在假见证中保持真实,最终背负十字架为我们打开救恩之门。此事正彰显了“黑暗不能胜过光”(约1:5)的福音真理。 张大卫牧师在最后强调,所有基督徒都应与耶稣同走十字架之路。是跟随亚那,还是跟随耶稣?这个问题并非只留在2000年前,而是一再摆在我们面前。教会服事及信仰生活中常潜伏“亚那式”自利与腐败的影子,我们要有所警惕;但也切莫忘记,耶稣随时预备接纳悔改者。若有人始终坚持站在阴谋、谎言和假冒伪善的一边,最终逃不过神的公义审判。 因此,这段经文突出显示了腐败宗教权力与无辜的耶稣如何对立,以及在这冲突中摇摆不定的门徒群像。它也成为铺设十字架救恩之宏伟计划的重要一幕,呼唤我们做出抉择:要与耶稣同走受苦之路,抑或沉默甚至同流合污地背叛耶稣。这一问题在过去、现在乃至将来依然如一。 约翰福音18章12-22节的重要信息有如下要点:第一,耶稣在腐败的宗教权力体系中遭受痛苦,以亚那为首的撒都该派利用既得利益之网与耶稣对立;第二,他们口口声声“守律法”,却夜间秘密开庭、动用私刑,完全违背正义审判所需的见证原则;第三,耶稣尽管被阴谋包围,仍坚守真理,不以暴力报暴力,唯独顺服神的救恩计划走向十字架;第四,门徒虽然软弱,甚至彼得三次否认主,但主没有永远丢弃他们,最终赐下悔改与恢复之恩;第五,今日教会也要以此为鉴,防范亚那式教权主义和腐败;第六,坚持与基督同在真理中作见证之人,终将迎来十字架之后复活的荣耀。 这真理跨越时空,只要教会还存在,“先带到亚那那里”这句话就会时时刺痛我们。因为那夜里发生的暗中不义与伪善,今天依旧可能在各处重演。但耶稣已藉十字架和复活击败所有不义之势,并赐圣灵引导我们,使我们无论在何等艰难中,仍能刚强不屈地宣扬福音。这也正是基督赐给我们盼望与使命的根基。张大卫牧师一直强调:教会若要效法基督,就须放弃与教权主义、政治势力相勾结的野心,毫不保留地将自己献给“神国福音”的缘故。如此,主的生命与爱必将继续扩张,世人也将通过教会看见真正的“圣殿”究竟何在。 被带到亚那那里的耶稣,在最堕落的宗教权力中心,“宣告新的圣殿”,并且以自己的十字架牺牲为罪人开辟救恩之路。这正是福音的核心:十字架既揭示了人性所有的罪与败坏,也同时成就了神藉爱与救恩而展现的智慧。故此,当我们默想约翰福音18章12-22节时,要仰望那背负十字架的耶稣,检视自己是否也正站在亚那的阵营;也要学习彼得即便软弱失败,也能再次回到耶稣面前并得赦免的盼望。并且谨记,教会要随时净化自己,不要与不义的宗教权力妥协,却要遵循耶稣所启示的“神国”与“新圣殿”的异象,常常改革和持守圣洁。 盼望所有默想“先被带到亚那那里”这段经文的基督徒都能再次体会:耶稣的十字架与复活是何等伟大而决定性的救恩事件。虽有种种不合理的审判、暴力和背叛,但作为真理的耶稣从不动摇。教会同样当在这黑暗世界中坚守,追随耶稣的脚踪,终必在光中得胜。这便是约翰福音18章12-22节,及张大卫牧师反复强调的核心教训。愿我们都能谨记、践行这份宝贵的信息。 www.davidjang.org

アンナスのもとへ連行される―張ダビデ牧師

ヨハネの福音書18章12節から22節は、イエス様が捕縛され、縛られたまま大祭司アンナスのもとへまず連れて行かれる場面を非常に生々しく描写しています。本福音書全体の中でも、イエス様の受難と十字架の出来事に決定的な準備をもたらす重要な瞬間です。特にヨハネの福音書の記者は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では比較的あっさり扱われているアンナスの存在を明確に際立たせることで、当時の宗教的権力の腐敗と陰謀がいかにイエス様に向かって動いていたかを告発しています。ここには、大祭司職の世襲と堕落した宗教権力の実態がはっきりと示され、イエス様が既得権を守ろうとする者たちの偽りと暴力によっていかに陥れられ、犠牲になったのかが証明されます。この箇所に触れるたびに、私たちは当時の歴史を超えて、現代においても繰り返され得る宗教的・社会的権力の腐敗を省みるよう促されるのです。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かす中で、特に「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という事実に着目し、その不当性と逆説を詳しく指摘します。そして本文を中心とした深い黙想を通じ、イエス様がどのような状況下でも神の国の真理を証しし、ついには贖いの道を開いてくださったことを再認識したいと説いています。 1. アンナスへ「まず」連れて行かれたイエス様 聖書本文(ヨハネ18:12-14)によると、イエス様を捕らえに来た者たちは、兵隊と千夫長、そしてユダヤ人の下役たちで構成されていました。彼らはゲッセマネの園でイエス様を逮捕した直後、すぐにイエス様を縛り、まずアンナスのもとへ連行します。アンナスは現職大祭司カヤパのしゅうとで、すでに相当な影響力と財産、そして強力な背後権力を誇る人物でした。ヨハネ18章13節は簡潔に「アンナスはその年の大祭司カヤパのしゅうとであった」と記すだけですが、そのひと言の背後には、当時のユダヤ教の宗教制度がいかにアンナス一族を中心として腐敗し、深く絡み合っていたかが暗示されています。 本来、大祭司の職分はレビ記の規定により終身職であるべきで、何より聖く純潔に保たれるべき位置づけでした。ところが実際にはそうではありませんでした。アンナスは紀元6年から15年まで、実に9年にわたって公式に大祭司を務め、その後は彼の5人の息子たちが次々と大祭司の座を継承しました。そしてその合間に娘婿であるカヤパを大祭司として据えたのです。これは正当な手続きをまったく踏まない、極度に堕落した宗教権力の世襲体制でした。 こうした腐敗した構造を背景に、ヨハネの福音書の記者は、主が捕縛された直後に「まずアンナスのもとへ」引き立てられたことを明確に記録します(ヨハネ18:13)。法的観点から言えば、現職の大祭司カヤパの前でも裁判が行われるべきでしたし、正式な宗教裁判は日の出を待って、必ず神殿の庭、すなわちサンヘドリンが集まる場所で行うのが本来の手順でした。ユダヤ教の最高意思決定機関であるサンヘドリンの裁判手続きは極めて厳格で、最低でも二人以上の証人が必要であり、偽証が発覚した場合その証言は無効となりました。さらに死刑判決を即執行する権限はユダヤ当局にはなく、ローマの承認を経る必要がありました。つまりイエス様を十字架刑に処するためには、ローマ総督による公の裁きが付け加わらねばなりません。 にもかかわらず、彼らは「律法を厳守している」と自称しつつ、実際は自分たちの既得権を守るために夜中にイエス様をこっそり捕らえ、アンナスのもとへ最初に引っ立てて行きました。これは明らかに律法違反であり、不法な裁判の進め方でした。 2. なぜアンナスだったのか? なぜわざわざアンナスのもとへ行ったのでしょうか。ただカヤパのしゅうとだからという理由だけで訪れたのでしょうか。それともあらゆる権力と陰謀の背後で実際の影響力を行使していた“実力者”こそアンナスだったのでしょうか。多くの学者や牧師、そして張ダビデ牧師のような人々も、アンナスという存在を単なる「前職の大祭司」と見るのではなく、実際にイエス様の逮捕および処刑の過程で決定的な影響力を行使した中心人物と捉えます。 アンナスはすでにローマと結託し、大祭司職を売買しながら莫大な富を蓄え、神殿で売られる捧げ物(「神殿商売」)を事実上独占していました。その結果、神殿は「強盗の巣」であり、商人たちの貪欲を実現する場所と化してしまいます(ヨハネ2:13-16、マタイ21:13など)。イエス様は公生涯の初期と最後に二度も神殿を清められ、この腐敗した構造を正面から批判されました。 当時、神殿で捧げ物を買う際は、本来なら傷のない生贄を選ばなければなりませんでした。しかし「神殿内部」で売られている捧げ物は、大祭司側の検査官が自動的に“合格”を出し、「神殿の外」から持ち込まれた生贄は、いくら欠点が全くないように見えても、意図的に傷物と判定されがちでした。結局、巡礼者や礼拝者は高価で不当な値段を払ってでも、神殿内で公式に認められた捧げ物を買わざるを得ませんでした。鳩のような貧しい人々向けの捧げ物でさえ、神殿内では数倍以上の高額で販売されていたのです。このようにして蓄積された莫大な利益は、アンナス一族と結びついたサドカイ派の指導層に還元されました。さらに彼らはローマの権力者とも緊密に結びついていたため、宗教的特権と政治力を利用し、安定的に既得権を保持できたのです。 こうして宗教権力の腐敗を象徴するアンナスが「まず」イエス様を尋問したことは、単なる手続き上のハプニングではなく、本格的な「イエス抹殺」陰謀の始まりだったのです。ヨハネ18章19節以下でアンナスはイエス様に「その弟子たちや教えについて」問いただします。これは非常に策略的な問いで、イエス様にどれほど多くの弟子がいるのか、あるいはイエス様がユダヤ教の伝統とは全く違う革命的教えを密かに広めているのではないか、といった追及の仕方でした。ヨハネの福音書の記者は、「私はひそかに何も語りませんでした」と仰せになるイエス様の答え(ヨハネ18:20)を伝えています。実際イエス様は公の場所である会堂や神殿でいつも教えを述べられ、大勢の人々の前でも大胆に神の国を宣べ伝えられました。しかも神殿を清められた事件も公開の場で行なわれていますから、「秘密結社」のようなイメージをかぶせようとするアンナスの意図がいかに空虚なものであるかが示されています。 イエス様はアンナスの直接の尋問に対して、「なぜ私に尋ねるのか。私の話を聞いた人々に尋ねてみなさい。彼らは私が話してきたことを知っています」(ヨハネ18:21)と答えられます。これはユダヤの裁判慣習にも適った、極めて合法的で正当な返答です。なぜなら、誰かを正式に告発しようとするなら、二人以上の証人が必要であり、もしイエス様が本当に危険で悪質な教えを広めていたならば、その「被害者」や「目撃者」が当然名乗り出るはずだからです。それでもアンナスはイエス様に自ら罪を自白させようとする、一種の自白強要的尋問を試みます。この箇所で不正な裁判の実態が一層はっきりと示されます。イエス様が合理的で正当な弁明を述べられたにもかかわらず、そばにいた下役の一人はイエス様の頬を打ち、「大祭司にそのような答え方があるか」(ヨハネ18:22)と侮辱するのです。裁判というより、暴力が横行する不義の場であることが明らかになる瞬間です。 3. イエス様の沈黙と真理の証言 この部分を深く黙想するとき、私たちは主が不当な暴力の前にも黙々とその道を歩まれる姿を見出します。罪のない方が罪人扱いをされ、縛られたまま、夜中に行なわれる違法な尋問の場に立たされている。それでもイエス様は最後まで真理の言葉を守られます。裁判の手続きや律法本来の精神を正面から無視するアンナスは、イエス様を神の権威への挑戦者として追い詰めようとしますが、実際は神を冒涜し神の御名を汚したのはアンナス自身でした。堕落した宗教権力は自らを防衛するためなら、いくらでも偽りや暴力を用います。その結果、神殿は商人であふれた場所となり、大祭司の座は金と結びついた世襲職に堕落してしまいます。 張ダビデ牧師はこの本文を黙想しながら、イエス様の受難が単なる個人的な苦痛の問題ではなく、巨大な宗教的・政治的腐敗構造と衝突した事件であることを強調します。当時の大祭司職がいかに親ローマ派の者たちによって買収や裏取引によって独占されていたのか、すなわち神に捧げるはずの礼拝が権力維持の手段に変質していたのか、改めて振り返るのです。そして張ダビデ牧師は、これを現代にも適用し得る洞察として提示します。今日の教会やいかなる信仰共同体も、自分たちを絶えず省みなければ、いつでも「アンナス化」してしまう可能性があるからです。つまり神の御名を掲げながら、実際には富や権力をむさぼる歪んだ姿を示しかねないということです。かつてイエス様が神殿を清められたときの憤りと御言葉を思い起こすなら、教会が世の中でどのような姿勢をとるべきか、一層明確になるはずです。 4. ベドロと「もう一人の弟子」の物語 ここでもう一つ注目すべき点は、ベドロと「もう一人の弟子」の話です(ヨハネ18:15-18)。ヨハネの福音書は、すべての弟子が散り散りに逃げた状況でも、ベドロともう一人の弟子が最後までイエス様について大祭司の屋敷の庭に入ったと伝えます。その際、「大祭司に顔見知り」であったこのもう一人の弟子が、ベドロを連れて門を通れるように取り計らいました。本書の文脈や教会史的・伝統的解釈において、この人物を使徒ヨハネと推測する説が多いですが、中にはユダだった可能性を唱える者もいます。もし彼がユダであれば、大祭司側と内通していたため、ベドロを通せたのかもしれません。とはいえ伝統的には、ヨハネが大祭司の家系と何らかの縁があったと見なすことが多いでしょう。 重要なのは、ともかくベドロがイエス様を最後まで追いかけてきたという事実です。彼は失敗が多く、つまずきやすい性格だったものの、誰よりもイエス様を愛していましたし、裏切るつもりもありませんでした。むしろイエス様を守ろうとして剣を抜くほど熱心だったのです(ヨハネ18:10)。 ところが大祭司の屋敷で焚火にあたっていたベドロは、とうとうイエス様を三度否認してしまいます(ヨハネ18:17-18、25-27)。これはイエス様がすでに予告しておられた(ヨハネ13:38)とおりの成り行きでした。もしかするとこの瞬間、ベドロが本当にすべきだったのは、その不法な裁判の現場でイエス様を弁護することだったかもしれません。アンナス側がイエス様の教えを歪曲し、弟子の集まりを反体制的陰謀集団に仕立て上げようとする中で、もしベドロが立ち上がり「主がお語りになったのは神の国の福音であり、ユダヤ律法を破壊しようとなさったことはない。神殿を壊せと仰ったこともなく、むしろ真の礼拝の回復を説かれたのだ」と証言していたらどうなったでしょうか。しかしその場は命の危険が伴う状況だったため、ベドロは恐れに震えざるを得なかったのです。 とはいえ、この場面はベドロの否認を通して、人間の弱さがどこまで極まるかを示すと同時に、主の愛と赦しがいかに大きいかを対比させます。後に復活されたイエス様はティベリアの湖畔でベドロを探し求め(ヨハネ21章)、「あなたは私を愛するか」と三度問いかけて彼を回復させました。 5. 十字架への道と真理の証し イエス様への尋問の場面は、その後ピラトへ移される裁判手続き(ヨハネ18:28以降)へと続き、十字架刑が最終的に決定されていきます。この過程を通じてヨハネの福音書は、イエス様が単に「権力に屈して捕えられた悲劇的犠牲者」ではなく、むしろ「真理を証しするために世に来られたお方」であることを示そうとしているのです(ヨハネ18:37)。すなわちイエス様は力ある神であられ、いくらでも自分を守ることがおできになったにもかかわらず、私たち人類の罪を代わりに背負うため、自ら苦難と恥辱を引き受けられました。宗教権力と政治権力が結託するこの暗闇の中で、イエス様は黙々と父なる神の御旨を成就する道を選ばれたのです。その道こそが十字架の道でした。 張ダビデ牧師は、この箇所を解釈する際、今日の教会が置かれている状況と非常に似通っている点を指摘します。当時の人々も「律法を守っている」「神の御名を高く掲げる」と口で言いながら、実際は夜中にこっそりと裁判を開き、無実のイエス様を捕縛する不正が行なわれていました。自分たちを聖なる集団と装いつつ、実際には武力と陰謀、そして不当な拘束でイエス様を押さえつけようとしたのです。決して白昼に堂々と裁判をせず、大祭司の屋敷の内で密かに悪事を行う姿こそ、偽善と独善の典型です。 教会の歴史の中でも、不正な権力がキリスト教信仰と結託し、多くの暴力を振るった事例が存在します。中世の宗教裁判や、教権が王権と結びついて権勢を誇った様々な歴史的状況には、当時のユダヤ教権者たちと大差ない堕落と誤りがありました。 6. 不正な権力と教会の在り方 では、どのようにして私たちはこの腐敗を食い止め、イエス様が示してくださった真の礼拝の精神を回復できるのでしょうか。張ダビデ牧師は次のような原則を強調します。 第一に、教会はいつもイエス様を中心に据え、イエス様の御言葉に聴く共同体として立たねばならないこと。 いかに「律法を守る」「教会の伝統を重んじる」と言っても、その本質にイエス様の教えと愛がなければ不義や腐敗に陥り得ます。イエス様は常に真理をはっきりと語り、神殿を「商売の家」にしてはならないと仰せられました(ヨハネ2:16)。教会もまた、物質的利益や世俗的権威を追求する場所ではなく、礼拝と祈り、そして信徒の交わりが行われる共同体であるべきです。 第二に、神殿や教会が、巨大な建物や制度そのものとしての権威を主張してはならないこと。 イエス様は「この神殿を壊してみよ。私は三日でこれを建て直す」(ヨハネ2:19)と仰せられましたが、これはご自身の体、すなわち復活を指し示す宣言でした(ヨハネ2:21)。もし建物や組織が腐敗しているなら、それを壊して、真の礼拝と御言葉中心の共同体として再建すべきだという霊的原則がここに示唆されています。既得権を守るために神殿を悪用したアンナスと大祭司たちは、神の御子であるイエス様を自分たちの敵と見なしました。しかし教会共同体は常に自らの腐敗を省み、真の礼拝に立ち返る必要があります。もしも私たちが現代社会で、教会という枠に閉じこもり、独自の既得権を守ろうとしながらイエス様の真理から遠ざかった行動をとるならば、それはアンナスの道を踏襲するのと変わりありません。 第三に、弟子たちの弱さとその回復過程を忘れてはならないこと。 ベドロはイエス様の筆頭弟子でありながら、最も悲惨な形で主を否認しました。しかし主は再び彼を訪ね、使徒として回復されました。今日の教会でも、自分が長く信仰生活をしているとか、リーダーだからという理由で高ぶったり、あるいは罪悪感や失敗感に囚われて自暴自棄に陥る者がいます。しかしイエス様は私たち一人ひとりの弱さにもかかわらず、いつでも回復を与えてくださる方です。大切なのはイエス様のもとへ立ち返ることです。ベドロのように涙をもって悔い改め、再び主に心を開くとき、私たちの失敗や恥は神の恵みの道具へと変えられます。張ダビデ牧師はこれを「十字架の道において人間の弱さがことごとく露呈するが、主の血潮によって完全に新しく建て直されるのが福音の力である」と解釈しています。 第四に、教権的暴力は常に隠密に行われることを忘れないこと。 イエス様を尋問したアンナスの姿勢は、表向きは合法的な手続きに見せかけ、実際にはでたらめな証言や暴力でイエス様を追い詰めるものでした。この手の不義は往々にして「公共の善」や「宗教の純潔」といった名目で行われます。古代イスラエルのサンヘドリン裁判や、中世の宗教裁判、近現代史における政治権力と教権の癒着など、いずれも同じことを物語ります。私たちが教会内外を問わず、権力を持つ者、指導者たちの決定過程とその進め方に常に目を光らせる必要があるのはこのためです。権力を持つ者が自分の既得権を守るため、水面下で陰謀を企てたり、表向きもっともらしい大義名分を掲げて暴力性を覆い隠すことは、いつでも起こり得るからです。 第五に、イエス様はこうした不当な暴力の前でも、偽りで対抗したり暴力で報復したりされなかったこと。 ゲッセマネの園で剣を抜いたベドロに対しても、「剣をさやに納めなさい」(ヨハネ18:11)と命じられました。そしてアンナスの下役に頬を打たれる場面でも(ヨハネ18:22)、主は不義に沈黙しきったわけではありませんが(ヨハネ18:23)、暴力による応酬はなさらなかったのです。むしろ「もしわたしが悪いことを言ったなら、その悪いところを証明しなさい」(ヨハネ18:23)とおっしゃり、真理の光によって闇を暴く道を選ばれました。結局イエス様は十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と宣言され、悪の最終的な終わりを決定づけられたのです。このようにイエス様の応答の仕方は、暴力の悪循環を断ち切り、真理と愛の力によって世界を贖われる神の方法を示しています。張ダビデ牧師はここに注目し、「イエス様は世の論理とは全く異なるやり方で勝利なさった。これこそ十字架の道であり、私たちにも求められる聖なる従順の道なのである」と強調しています。 7. 「アンナスのもとへ最初に連れて行かれた」という意味 結局、ヨハネ18章12-22節、とりわけ「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という箇所は、イエス様の受難が単にユダヤ教指導者たちの誤解や嫉妬の産物ではなく、彼らの根深い腐敗した宗教権力構造の中で必然的に起こった出来事であることを私たちに思い起こさせます。またイエス様がそのただ中に進まれ、罪なきにもかかわらず恥辱を受け、十字架を負い始められたことを示すのです。アンナスの屋敷の庭でイエス様が取られた態度、不法な裁判と暴力に対抗する方法、弟子たちの失敗と弱さ、そして最終的には救いへの道を歩まれるキリストの足取りが、現代の私たちに投げかける教訓はきわめて大きいといえます。 この本文を通じ、張ダビデ牧師は、教会とキリスト者たちが世の中でどのような姿勢で存在すべきか、より深く考えようと提案しています。一方では、世の論理と手を結んだ堕落した宗教権力の様子が、私たちの内側にも潜んでいないかを日々点検しなければなりません。物質的利益や名誉、権力に対する欲望が神殿を「商人の巣」へと変えてしまわないよう、警戒すべきです。他方、イエス様が示された真理と愛の力を学ばねばなりません。不当な攻撃や誣告に直面しても、偽りを暴きながら、最終的には暴力で返さず、自らのいのちを差し出す犠牲によって罪人を救われるイエス様の道を私たちも選ぶべきだからです。 特に「わたしはひそかに語ったことはない」と宣言されるイエス様の姿は、教会の宣教と生き方が常に透明かつ公開された形で行われるべきことを教えています。イエス様の福音は光そのものであって、闇の中でこっそり広める危険思想ではありません。したがって教会は福音を公然と宣べ伝えねばなりません。説教にせよ、奉仕にせよ、宣教にせよ、あらゆる行為において不純な動機や陰謀があってはなりません。教会内の意思決定も公開の場で、公正な手続きを踏んで進められるべきです。アンナスが密かに謀り、夜に裁判を開き、証人の証言もなくイエス様を追い詰めたようなことは、断じて教会の中で繰り返されてはならない闇のやり方です。 さらに、ベドロの否認事件は、私たちにどんな絶望の淵に陥ろうとも、再び立ち上がる希望があることを示唆します。ベドロはイエス様の前で「たとえ死ぬとしても主を否むことはあり得ない」(マタイ26:35)とまで誓った人物でした。ところが危険に直面すると三度主を知らないと言い、さらには呪いさえ口にした(マルコ14:71)。これは非常につらい敗北でしたが、主は彼を見捨てませんでした。後に復活されたイエス様が弟子たちをガリラヤへ呼び寄せられたとき(マタイ28:10、ヨハネ21章)、ベドロに向かって「あなたはわたしを愛するか」と三度尋ね、彼を回復に導かれたのです。この出来事は、イエス様を心から愛する者がいかにして使徒として生まれ変われるのかを示しています。張ダビデ牧師は、これについて「ベドロが主を否認したその場所からキリストの教会が復活したのであり、彼の回復こそすべての失敗した者への救いの約束となる」と語り、神の憐れみは最も深い恥の場にこそ臨むのだという福音の神秘を強調します。 8. 神殿の清めと「新しい神殿」の宣言 さらにヨハネ2章でイエス様が神殿を清められた際、ユダヤ人たちは「あなたはどんな権威でこれらのことをするのか」(ヨハネ2:18)と反発しました。そこでイエス様は「この神殿を壊してみよ。私は三日でこれを建て直す」(ヨハネ2:19)と答えられます。ヨハネの福音書の記者は、これはイエス様の体、つまり復活を指していると解釈します(ヨハネ2:21)。しかしこの「神殿清め」の出来事こそ、宗教権力層の怒りを買い、彼らがイエス様を排除すべき対象と見なす決定打となりました。結局アンナスが主導した陰謀の本質は、イエス様が「古い神殿を壊せ」と仰せになったことで、既得権を失うことを恐れた点にありました。このようにイエス様の福音は、古い制度や罪の構造を打ち砕き、新しい創造と救いの道を開くものなのです。その道は既得権者にとってしばしば不愉快であり、脅威となることもあります。しかしイエス様はためらわれず、ついに十字架を通して新たな救いの神殿を建て直してくださいました。教会はこの事実を忘れず、常に「新天新地」を見据え、不義と妥協しない純粋な信仰を守るべきなのです。 この本文を通して私たちがさらに深く悟るべき教訓の一つは、人間の歴史の中で最も醜く不当な陰謀でさえ、神の救済計画を阻むことはできないという点です。アンナスとカヤパ、そして彼らと手を組んだユダヤ教指導者たちが、どれほど多くの謀略や偽証を駆使してイエス様を十字架へ追いやったとしても、神のご計画はむしろこの十字架を通して完成しました。つまり罪人である私たちが赦され、永遠のいのちを得る出来事がそこで成し遂げられたのです。この事実は、今日の教会が苦難を受けたり世の憎しみや陰謀と対峙するときも、決して挫けずに信仰をもって歩み続ける根拠となります。十字架の後には復活があり、その復活を通して神の勝利が全宇宙に宣言されたのです。たとえ「まずアンナスのもとへ連れて行かれる」状況が起ころうとも、キリストの内にある者は神の摂理を信頼し、最後まで信仰を守り抜くことができます。 このようにヨハネ18章12-22節は、イエス様の逮捕と違法な尋問の場面を通して、腐敗した宗教権力と真理なるイエス様との対立を鮮やかに示しています。そして私たちみんなに「腐敗と偽りの罪悪を遠ざけ、イエス様の道を恐れずに追い求めよ」と促しているのです。張ダビデ牧師は現実の教会にこれを適用する説教や教えの中で、特に「神殿の中の商人」にならないよう目を覚ましていなければならないと何度も説いてきました。教会が世の物質的野心や権力争いに巻き込まれれば、アンナスの屋敷の庭で頬を打たれるイエス様を再び侮辱することになりかねません。教会の指導者たちは自分の権威のためにイエス様を利用したり、密かな利益を得つつも表向きは聖なる姿を取り繕う二重の態度を、極度に警戒すべきです。同時に、既に失敗した弟子であっても、真実に悔い改め主のもとに戻れば、ベドロのように使徒として回復される希望をもたねばなりません。 9. 十字架の道とイエス様の招き 結局、「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という本文が示唆する核心は、十字架の道とは、腐敗した世の不義や暴力の前でも屈せず、真理と犠牲をもって全うする道であるということです。イエス様はその道を一人で歩まれ、私たちにも「自分の十字架を負ってついて来るように」と招かれます。現実的に教会が世の権力と対決し、不利益を被ることは容易ではないでしょう。しかし主が既に歩まれた道、一見矛盾と暗闇だらけの場所でも神の計画を成し遂げられるその道を握るとき、私たちは初めて真の自由と救いの力を体験するのです。 このメッセージは、すべての時代の信徒たちに有効です。宗教的名分で覆われた不義が横行するとき、私たちは「本当にこれがイエス様の望まれる姿なのか」と深く問いかける必要があります。もし教会が世俗の権力と癒着し、富と権勢を謳歌するうちに、いつのまにかイエス様の教えとは全く別の道を歩んでいるのを見ても、そこに絶望したり諦観したりしてはなりません。イエス様はすでにアンナスの屋敷の庭で、そしてピラトの官邸で、そして残酷な十字架上で勝利を宣言されたのです。ゆえに教会はどんな状況下でもイエス・キリストの福音を守り、真理を証言すべきです。たとえ暴力が渦巻く現場であっても、イエス様のように光の中であらゆることを明るみに出し、密かな悪に立ち向かい、赦しと犠牲の道を選ばねばなりません。 この全体の流れの中で、張ダビデ牧師は今日の教会と信徒たちが改めてヨハネ18章の現場に入り込んでみるべきだと勧めます。捕らえられたイエス様のそばで、あるいはベドロの立場で、または堕落した大祭司体制を見ている傍観者の立場で、私たちはいったいどのような態度を取るのか、と問うのです。もし私たちがイエス様を裏切り、虚偽の証言をする人々の側に立つなら、それは教会が本来いるべき場所ではありません。一方、人間的恐怖や弱さから失敗してしまうことがあっても、ベドロのように主のもとへ帰り、悔い改めと赦しを願うなら、主は私たちを新たに用いてくださいます。それでも陰謀と不正、偽善と暴力の側に立ち続けるなら、いつか神の正しい裁きを免れられないでしょう。 「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」と記したヨハネの福音書の微妙な表現には、記者ヨハネの意図が隠されています。つまり、イエス様の捕縛から尋問に至る全過程にわたって、アンナスがどれほど決定的かつ否定的な役割を果たしたのかを読者にはっきり印象づけようとしたのです。実際に現職大祭司はカヤパでしたが、その背後で全てを主導していたのはアンナスであり、イエス様をここへ「先に」連れ込ませて尋問させました。こうして神殿権力と世襲された宗教カルテルは法手続きを無視し、自分たちの既得権を守るため、容赦ない暴力を振るったのです。イエス様はその前で宗教的・司法的・政治的「違法性」をことごとく明るみに出され、決して沈黙だけで終わらず、しかしご自身が背負うべき救いの十字架を拒まれませんでした。そしてまさにこの点で、私たちはイエス様の従順とへりくだり、そして自らをささげる愛にもう一度感動させられます。 張ダビデ牧師はヨハネ18章の説教をする際、「教権主義の極み」を見せたアンナスと、「自己卑下の極み」を示されたイエス様とが鮮やかに対照を成していると語ります。教権主義者アンナスは、金と権力を利用して神殿を私物化し、神の御名を悪用して富と名声を追い求めました。一方、イエス様は神であられながらご自分を低くして人々のただ中に来られ、弟子たちの足を洗い、罪人たちの手に渡されて十字架にかかり、全人類の救いを成し遂げられました。この対比を通じ、福音書が最終的に伝えたいメッセージはいっそう明確になります。神の国は世の権力や富を志向する精神ではなく、下り下りと仕える姿勢、そして犠牲を通してあらわされるのだということです。教会がこの真理を堅く握らなければ、アンナスが見せた腐敗を繰り返すだけで、世の人々から非難と嘲笑を浴びることになるでしょう。 … Read more

On l’emmena d’abord chez Anne – Pasteur David Jang

Le passage de Jean 18.12-22 décrit de manière très vivante la scène où Jésus est arrêté, lié et emmené d’abord chez le grand-prêtre Anne. Cet épisode constitue un moment clé qui prépare de manière décisive la Passion et l’événement de la Croix dans l’ensemble du récit évangélique. En particulier, l’auteur de l’évangile de Jean met … Read more

Llevándolo ante Anás – Pastor David Jang

El pasaje de Juan 18:12-22 nos muestra vívidamente la escena en la que Jesús es arrestado y atado para ser llevado primero ante el sumo sacerdote Anás. Este momento constituye un punto clave que prepara de manera decisiva la pasión y el evento de la cruz en todo el relato evangélico. De manera particular, el … Read more

Leading Him to Annas First – Pastor David Jang

John 18:12–22 vividly depicts the moment when Jesus is arrested, bound, and first taken to Annas. This scene is pivotal in preparing the Passion and crucifixion of Jesus throughout the Gospel narrative. Particularly, the writer of the Gospel of John highlights the presence of Annas, an aspect relatively less elaborated in the Synoptic Gospels (Matthew, … Read more

안나스에게로 끌고 가니 – 장재형목사

요한복음 18장 12-22절은 예수님께서 체포되시고, 결박당하여 대제사장 안나스에게로 먼저 끌려가시는 장면을 매우 생생하게 보여준다. 이 장면은 복음서 전체에서 예수님의 수난과 십자가 사건을 결정적으로 준비하는 핵심적인 순간이다. 특히 요한복음 기자는 공관복음(마태, 마가, 누가)에서 상대적으로 간략하게 다루어진 안나스의 존재를 분명하게 부각함으로써, 종교 권력의 부패와 음모가 어떤 식으로 예수님을 향해 작동했는지 고발한다. 여기에는 대제사장직의 세습과 타락한 종교 권력의 실체가 분명히 드러나며, 예수님께서 기득권을 지키려는 자들의 거짓과 폭력에 의해 … Read more