エルサレム会議 – 張ダビデ牧師

1.エルサレム会議と教会の伝統 – 「ただ信仰によって」「ただ恵みによって」 使徒の働き15章に描かれているエルサレム会議は、教会史において非常に重要な転換点となった。律法を守らない異邦人信者や、自分たちと異なる文化・伝統を持つ人々も、イエス・キリストを信じれば同じように救われるのかという熱い議論がその核心にあった。この会議で使徒たちは、「救いに至る唯一の道は、ただ信仰によって、ただ恵みによって」という真理を明確に宣言した。これによって教会は普遍性を帯び、地域や伝統的境界を超えて広がる土台を築いたのである。さらにこの決定は、後に世界宣教の基礎として働き、多くの民族・言語・文化の中へ福音が伝わる歴史の道を切り開くことになった。 張ダビデ牧師は、エルサレム会議で使徒たちが下した決定について「教会が信仰と職制という二つの軸を持ち、いかに同じ信仰の上で答えを出したかを示すモデル」だと強調する。教会内で意見の相違が生じた時に、ただ自分の主張や偏見だけを押し通すのではなく、使徒や長老たちの判断とともに、祈りと御言葉を中心とした分別を必ず経て、キリストと使徒たちの土台の上に建て上げられるべきだと力説する。張ダビデ牧師は、これこそが教会の美しい伝統だと見る。すなわち「信仰と恵み」という救いの基本的真理を損なうことはせず、しかし礼拝や奉仕、交わりなどにおいて生じ得る様々な問題は、祈りつつ互いに合意を重ねていく過程を経ることでこそ、教会の一致と拡大が可能になるというのである。 バルナバとパウロは、このエルサレム会議が終わった後、異邦人教会を再び訪れようと出発する(使徒の働き15:36)。彼らは第1次伝道で種をまいた異邦人教会がしっかり育っているかを「訪問」し、彼らの信仰状態を点検するために旅立つことに合意する。エルサレム会議で「異邦人信者にこれ以上重い律法のくびきを負わせない」という結論を得たとしても、それが実際に教会員たちの生活の中でどう適用されているのか確認するためには、必ず再訪問が必要だったのだ。種をまいて終わりではなく、水をやり雑草を抜くように、教会と聖徒を継続的にケアしなければならないという事実を強く想起させるのである。張ダビデ牧師が説教やセミナーで絶えず強調するのも、まさにこの「養育」と「継続的なケア」だ。 張ダビデ牧師が語る「教会成長の秘訣」は、大規模イベントや一時的な熱情だけで成し遂げられるものではなく、イエス・キリストの福音を伝えた後、その魂を最後まで責任をもってケアしようとする粘り強い牧会と霊的な保護にかかっているという考えである。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」与えられる救いを、より実感をもって享受するためには、救いの神秘を聞いた人々が試練や誘惑の中でも揺らがないよう、絶えず御言葉と祈りで育てなければならない。まさに「もう一度訪問しよう」と決意したパウロとバルナバの行動に、現代の教会成長の霊的原理が凝縮されているのだ。 エルサレム会議の核心的結論の一つである「異邦人の兄弟たちに重荷を負わせない」という決定は、教会の普遍性を拡張し、福音そのものの力を示す決定的な契機となった。同時に、この決定が実際の牧会現場で実を結ぶためには、バルナバやパウロのような指導者たちが各教会を回り、その決定内容を教え、定着させる追加のプロセスが必要だった。張ダビデ牧師が日頃から強調することも、この点と軌を一にする。つまり、総会や会議の結論がいかに素晴らしく宣言されたとしても、教会現場にそれが根付き、実を結ぶためには「訪問」と「点検」を通した地道な牧会が不可欠だというのである。 結局、エルサレム会議の意義は、教会共同体が「信仰と恵み」によって集い、教会法的あるいは神学的な問題が生じた時、共に集まって祈りと議論を通じて分別し、合意するという伝統を確立した点にある。そしてこの伝統は教会史を貫き、今日に至るまで教会が互いにつながり、共に成長し、一つの肢体として動く原動力となってきた。張ダビデ牧師は「私たちもそうあるべきだ」と挑戦し、教会が長い宣教の歴史の中で築き上げてきたこの「信仰と職制の健全なバランス」に倣わなければならないと力説する。 2.バルナバとパウロ、そしてマルコの葛藤と和解の霊性 使徒の働き15章後半で描かれる、パウロとバルナバの間に生じた葛藤は非常に興味深い主題である。バルナバは、第1次伝道旅行の途中で離脱したマルコ(ヨハネ)にももう一度チャンスを与えようとし、同行を提案した。しかしパウロは「パンフィリアで私たちを離れ、困難な働きを共にしなかった者(マルコ)を連れて行くのは正しくない」(使徒の働き15:38)と強硬に反対した。その結果、二人は「激しく対立」して別々の道を行くことになり(15:39)、バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを選び小アジア地方を回りながら教会を建てていくことになる。 張ダビデ牧師は、この場面を「教会の大きな視点で見るなら、決して破滅的な分裂ではなく、より大きな働きへ拡張するための合理的な分岐点だった」と解釈する。バルナバはマルコという「気は弱いが大切な素材」をあきらめず、もう一度立ち上がれるように世話しようとした。一方パウロは開拓者としての召命を堅く握りしめ、「臨戦無退」の姿勢で福音伝道の最前線へ突き進もうとした。どちらが正しく、どちらが間違っているという二分法的な基準ではなく、両者とも教会のための真実な熱意を持ち、それぞれ別の働きの方向を選んだと見るのが適切だろう。 その結果、バルナバとマルコはキプロスで引き続き福音伝道を行い、後にマルコはペテロの通訳者であり福音書の筆者として『マルコの福音書』を遺した人物になったと伝えられている。パウロもまた、第2次宣教旅行でシラス、そしてルステラとデルベで出会ったテモテらを同労者として迎え、小アジアを越えてヨーロッパ(マケドニア)まで福音を伝えることに成功する。教会の本質的使命をめぐって両使徒は衝突したが、その後、より広い地域へ福音が広がっていった。そして最終的に、パウロがテモテへの手紙やピレモンへの手紙でマルコを必要としている事実からも分かるように、後には再び回復された同労関係に戻っていくのだ。 張ダビデ牧師は、この出来事から「教会の働きは一様ではあり得るが、それぞれ異なることがある」という点と、「最後まで人を見捨てずに支える心」という二つの重要な教訓を見出す。第一に、パウロとバルナバが別れたことは「神の御心に背く大きな不和」ではなく、神が一方を険しく積極的な開拓現場へ、もう一方を一人の魂を丁寧にケアしながらその賜物を活かす方向へと導く摂理だったという視点である。ある人は一時的に最前線の福音の戦場を担うのが難しい場合もあるし、またある人は戦場に立つに十分な体力や決心、揺るがぬ意志が必要な時期もある。神はこうした多様な人をそれぞれの道へと導き、結局は福音を拡張していく。 第二に、バルナバが示した姿は「落胆した魂を支え続ける牧者らしさ」である。最初にパウロをエルサレム共同体に紹介し、彼を使徒として認めさせるよう助けたのもバルナバだった(使徒の働き9:27)。そして弱々しく見えるマルコを受け入れ、再びチャンスを与えて、後に福音書の筆者として成長する道を開いたのもバルナバである。誰でも長所と短所を持っているが、バルナバは相手の可能性に注目し、最後まであきらめない愛を実践した。張ダビデ牧師は、この点を現場の牧会に適用し、教会内部で葛藤が起こったり誰かが傷ついて去った場合でも、最後までその人に対する教会の責任感を手放してはならないと何度も説く。 最終的に、バルナバとパウロの葛藤を通して見えるのは、教会が「勝者と敗者」という観点で評価されるものではなく、キリストにあって役割は違っても一つの身体として完成していく構造だということだ。教会を脅かすもっと大きな葛藤は、互いの非難や分裂であり、この場面で現れた葛藤はあくまで「働きの路線の分岐」だった。そして結果的には宣教が拡大し、後の和解、さらにはマルコ福音書という驚くべき実りを結んだ。これを指して張ダビデ牧師は「キリストの身体は壊れない。葛藤はあっても、より大きな一致のための過程になり得る」と語る。そしてもし教会が互いに傷しか残さない「破滅的な分裂」へ向かうならば、それは聖霊の実ではないと断言する。結局、教会はイエス・キリストの恵みによって共にある時、どんな葛藤も神のご計画の中で回復と拡張のための通路となり得るのだ。 3.開拓、ケア、そして聖霊の導き – 宣教の未来 パウロ一行は第2次伝道旅行に出発し、シリア・キリキアなど小アジアの各地域を巡りながら教会を「強めて」(使徒の働き15:40-41)、エルサレム会議で決まった教理的・実践的な指針を伝え、信仰の上に堅く立つよう励ましていく。この過程は教会の質的成長をもたらし、日ごとに人数が増えるリバイバルの実を結んだ(使徒の働き16:5)。張ダビデ牧師は「教会が信仰と職制を正しく守るなら、教会は爆発的に成長する」と力説するが、それは初代教会が実際に経験した事実でもある。 ところが興味深いのは、パウロが小アジア(当時のトルコ西部)で御言葉を伝え続けようとしたものの、「聖霊がアジアで御言葉を語ることを許されなかった」(使徒の働き16:6)という箇所だ。さらに続けて「ムシアの辺りに来てビテニアへ行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(16:7)とも証言している。パウロは誰よりも宣教への情熱にあふれた人物だが、聖霊とイエスの御霊が阻まれるならば、そこでは立ち止まるしかなかった。結局、トロアスに下った時、「マケドニア人が渡って来て私たちを助けてくださいと願う」幻(16:9)を見て、パウロはヨーロッパ大陸(マケドニア地方)へ第一歩を踏み出すこととなる。 こうした「聖霊の導き」に従うことこそ、教会開拓と宣教の本質的エネルギーだ。張ダビデ牧師は、パウロ一行のマケドニア進出について「神が、より大きな大陸、より大きな世界へ福音が広がることを望んでおられた」と解釈する。パウロとしては人間的な熱意からいえば小アジア地域をすべて宣教したかったかもしれないが、主はそれ以上に切実な必要を抱えるヨーロッパの地へ早く渡ることを望まれたのだ。そのためパウロを「行き詰まり」という形で導き、最終的には幻を通して明確な指針を与えられた。これは今日の教会にとっても「聖霊の導きと、開かれたり閉ざされたりする扉の神の摂理に敏感に従わなければならない」という手本となる。 張ダビデ牧師はしばしば現代の教会を「使徒の働き29章を書き続けている教会」と呼ぶ。使徒の働きは28章で終わるが、教会史をよく見れば、その後もずっと聖霊が教会を導き、福音が地の果てに至るまで拡張されているからである。事実、今日を生きる教会こそが使徒の働き29章、30章を続けて書いているともいえるのだ。そう考えると、エルサレム会議に象徴される「共同体の合意と決断」、バルナバとパウロの葛藤事件に象徴される「葛藤の中でもさらに大きな拡張へと向かう恵み」、そしてマケドニアの幻に象徴される「聖霊の具体的な導き」は、いずれも使徒の働き29章の教会を建て上げる核心的な原理として作用する。 特に張ダビデ牧師は、教会が開拓の情熱だけを持って動き回るだけでは不十分だと言う。開拓した先々で、その地の信者を最後までケアし育成する計画を立てるべきであり、現地教会が自立できるように共に協力すべきだと強調する。これはパウロが「主の御言葉を伝えたすべての町々へ再び行って、兄弟たちがどうしているか訪問しよう」(使徒の働き15:36)と言ったことと一致している。もし教会を建てておいて放置すれば、親が子を産みっぱなしで世話をしないのと同じく無責任な行為となる。結局、伝道と開拓の後には必然的に「ケア」と「継続的な牧会」が伴わねばならず、そのすべての過程を聖霊が直接主宰されるのだ。 こうして聖霊の導きに従いながら教会を拡張していくと、時に思いがけない葛藤や行き詰まりに直面することがある。パウロが小アジアで道を閉ざされたように、道が閉ざされる瞬間が来るかもしれない。現代的な文脈で見れば、地域の政治的変動、国際情勢の問題、ビザの取得、現地共同体内の対立など、さまざまな要因によって妨げられることがあるだろう。だが、張ダビデ牧師は「行き詰まりがすぐ終わりを意味するのではない」と何度も言及する。そこで閉ざされた場所には、他の人々や他の教会が入っていく準備が進んでいるかもしれないし、神はもっと切実に必要としている地域への門をすでに開いておられるかもしれない。だからこそ教会開拓者たちは、行き詰まりに直面しても落胆するのではなく、どこかで開かれている新たな門を探して「Moving Forward(前進)」し続ける必要がある。 結局、信仰の共同体は「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの真理を中心軸とし、教会内で葛藤が生じた時には祈りと合意を通して互いを立て合い、聖霊の導きに従って歩んでいかなければならない。このすべての過程を通じて教会は成長し、さらに広い地域へと福音を広げる。エルサレム会議の結論に従い救いの本質に集中すれば、律法で人々を縛ることはなくなり、バルナバとパウロの葛藤の中からは、最後まで人を見捨てずに建て上げる愛の姿が現れ、最終的に聖霊に導かれる教会はどんな文化や国境も超えて主の福音を伝え得る。これが使徒の働きが私たちに語るメッセージだ。 張ダビデ牧師はこうした使徒の働き15~16章のメッセージを現代教会に適用し、「エルサレム会議のような教理的・公同教会的な決定と伝統を尊重しつつ、それを実際に実行するためには、バルナバとパウロ、そしてマルコのように多様な人材の役割がすべて必要だ。そこでは葛藤が生じうるが、決して破滅的な分裂に陥ることなく、むしろ福音の領域を広げる恵みがある。その中心には聖霊の導きに従い、従順する霊性があってこそ、教会は使徒の働き29章を書き続けることができるのだ」と力を込めて語る。教会が30周年を迎えようと、50周年を迎えようと、あるいは開拓されたばかりであろうと、この原理は変わらないというわけだ。 結局、教会とは「召された人々の集まり」であると同時に、「召された人々がさらに人々を召しに行く使命共同体」でもある。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」救われた者たちが互いをケアしつつ世に出て福音を証しするとき、その中心で聖霊の導きが働く。エルサレム会議の結論、バルナバとパウロの分岐、そしてマケドニアの幻に象徴される使徒の働き15~16章の出来事は、教会が過去の会議や決定にとどまらず、新しい状況の中で「宣教の場を絶えず広げ続ける」よう促している。 張ダビデ牧師は「今、新しい時代が来た。五つの大洋と六つの大陸が私たちの教区となった」と語り、かつてとは比較にならないほど交通や通信手段が発達し、多様な文化交流の機会が開かれている現代こそ、教会が聖霊の導きにさらに敏感になって動く時だと主張する。そして同時に、海外に派遣された多くの宣教師や開拓教会をただ孤立させておいてはならず、エルサレム会議後にバルナバとパウロが各教会を訪ねたように、絶えず訪問し、育成し、励まし合わなければならないと喚起する。そうしてこそ「最後まで愛してくださった」(ヨハネ13:1)主の御姿が教会を通して現れ、どんな場所でもくじけることのない福音の力を証しできるからである。 結局、使徒の働きの歴史と、私たちが直面している現実の間には多くの時空間的な相違があるにもかかわらず、「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの本質、「葛藤を通してより大きく拡張していく教会」という霊的原理、「聖霊の具体的な導きに従った開拓とケア」という三つの柱は変わらず有効である。張ダビデ牧師は、これらを私たちの実際の牧会や宣教、そして教会の将来ビジョンに反映させるべきだと挑戦し、「主が再臨されるその日まで、教会は前進をやめない。葛藤があってもより大きな一致へ帰結し、行き詰まっても別の門が開かれ、ついにはすべての国々が主を知る知識で満たされるようになる」と宣言する。こうしてエルサレム会議から始まった初代教会の美しい伝統は21世紀にも受け継がれ、その伝統の上に現代教会が堅く立ち、世界各地の魂へと向かっていける――それこそが、使徒の働きが「オープンエンド(開かれた結末)」のように私たちに提示する「使徒の働き29章の挑戦」なのである。

예루살렘 회의 – 장재형(장다윗)모사

1. 예루살렘 회의와 교회의 전통 – 믿음으로만, 은혜로만 예루살렘 회의(사도행전 15장)는 교회의 역사 속에서 매우 중요한 전환점이 되었다. 율법을 지키지 않는 이방신자들이나, 혹은 그와 다른 문화·전통을 가진 사람들도 예수 그리스도를 믿으면 동일하게 구원받을 수 있느냐를두고 일어난 뜨거운 논의가 그 핵심이었다. 이 회의에서 사도들은 “구원에 이르는 유일한 길은 믿음으로만, 그리고 은혜로만”이라는 진리를 분명하게 천명했고, 이 결정을 통해 교회는 보편성을 지니면서도 지역과 전통적경계를 초월할 수 있는 토대를 마련하게 되었다. 그리고 이 결정은 장차 세계 복음화의 기초로 작용하여, 수많은민족과 언어, 문화 속에 복음이 전해지는 역사의 길을 연 셈이 되었다. 장재형목사는 예루살렘 회의에서 사도들이 한 결정을 ‘교회가 신앙과 직제라는 두 축을 가지고 어떻게 하나의믿음 위에서 해답을 내렸는가’를 보여주는 모델로 강조한다. 교회 내에서 이견이 생길 때, 오로지 자기 주장이나편견만 내세우는 것이 아니라, 사도들과 장로들의 판단과 함께 기도와 말씀 중심의 분별을 반드시 거치며, 그리스도와 사도들의 터 위에서 건설되어야 한다는 점을 역설한다. 장재형 목사는 이것이 교회의 아름다운전통이라고 본다. 곧, “믿음과 은혜”라는 구원의 기본 진리를 훼손하지 않되, 그 외에 예배나 봉사, 교제 등에서생길 수 있는 여러 문제들은 기도하며 서로 합의해 나가는 과정을 거쳐야 교회의 연합과 확장이 가능하다고 본다. 바울과 바나바는 이 예루살렘 회의가 끝난 뒤, 이방 교회들을 돌보러 다시 나서게 된다(행 15:36). 그들은 1차전도를 통해 씨앗을 뿌린 이방 교회가 잘 자라고 있는지를 ‘방문’하고, 그들의 신앙 상태를 점검하기 위해 길을떠나기로 합의한다. 예루살렘 회의에서 ‘이방 신자들에게 더 이상 무거운 율법의 짐을 지우지 말자’라는 결론을얻은 뒤에도, 실제로 그것이 교인들의 삶에 적용되고 있는지를 확인하기 위해서는 반드시 재방문이 필요했다. 이는 “씨를 뿌렸으니 끝”이 아니라, 계속해서 물을 주고 잡초를 뽑아야 하는 것처럼, 교회와 성도들을 지속적으로돌보아야 한다는 사실을 강하게 일깨운다. 장재형 목사 역시 설교나 세미나를 통해 끊임없이 강조하는 부분이바로 이 ‘양육’과 ‘지속적인 돌봄’이다. 장재형 목사가 말하는 ‘교회성장의 비결’은 거대한 이벤트나 일시적인 열정만으로 되는 것이 아니라, 예수그리스도의 복음을 전한 후 그 영혼을 끝까지 책임지고 돌보려는 끈질긴 목양과 영적 보호에 달려 있다고 보는것이다. “믿음으로만, 은혜로만” 얻는 구원을 더욱 실질적으로 누리게 하려면, 구원의 신비를 들은 그들이 시험과유혹 속에서도 흔들리지 않도록 꾸준히 말씀과 기도로 양육해야 한다. 바로 그 ‘다시 방문하자’는 바울과바나바의 결의에 오늘날 교회성장의 영적 원리가 압축되어 있다. 예루살렘 회의의 핵심 결론 중 하나인 “이방의 형제들에게 무거운 짐을 지우지 말자”라는 결정은 교회의보편성을 확장하고, 복음 자체의 능력을 드러내는 결정적 계기가 되었다. 그와 동시에 이러한 결정이 실제 목회현장에서 결실을 맺으려면, 바나바와 바울 같은 지도자들이 각 교회로 돌아가서 그 결정 내용을 가르치고체화시키는 추가 과정이 필요했다. 장재형 목사가 평소 강조하는 부분도 이와 일맥상통한다. 즉, 총회나 회의의결론이 아무리 아름답게 선포되었다 해도, 교회 현장에 그것이 뿌리내리고 열매 맺기 위해서는 ‘방문’과 ‘점검’을통한 꾸준한 목양이 반드시 뒤따라야 한다는 점이다. 결국 예루살렘 회의의 의의는 교회 공동체가 ‘믿음과 은혜’로 모이고, 교회법적 혹은 신학적 이슈가 생겼을 때, 함께 모여 기도와 토론을 통해 분별하고 합의하는 전통을 확립한 데 있다. 그리고 이 전통은 교회 역사의 흐름을관통하면서, 오늘날까지 이어져 교회가 서로 연결되고, 함께 성장하며, 하나의 지체로서 움직이는 동력이 되어왔다. 장재형 목사는 “우리도 그러해야 한다”라고 도전하면서, 교회가 오랜 선교 역사에서 구축해온 이러한‘신앙과 직제의 건강한 균형’을 본받아야 한다고 역설한다. 2.바나바와 바울, 그리고 마가의 갈등과 화해의 영성 사도행전 15장 후반부에서 바울과 바나바 사이에 생긴 갈등은 매우 흥미로운 주제다. 바나바는 1차 전도여행도중 떠났던 마가(요한)도 다시 데리고 가서 기회를 주자고 주장했고, 반면 바울은 “밤빌리아에서 우리를 떠나어려운 사역을 함께하지 않았던 이(마가)를 데려가는 것은 옳지 않다”(행 15:38)라고 강경하게 반대했다. 결국둘은 ‘서로 심히 다투어’ 갈라서고(15:39), 바나바는 마가를 데리고 구브로(사이프러스)로 가고, 바울은 실라를택하여 소아시아 지역을 돌며 교회를 세운다. 장재형 목사는 이 장면을 ‘교회의 큰 그림에서 보자면, 결코 파멸적인 분열이 아니라 더 큰 사역으로 확장되기위한 합리적 분기점이었다’고 해석한다. 바나바는 마가라는 ‘심약하지만 소중한 재목’을 포기하지 않고 돌보며다시 일으켜 세우고자 했고, 바울은 개척자적 소명에 굳게 서서 “임전무퇴”의 자세로 복음 전선의 최전방을파고들고자 했다. 누가 옳고 그르다는 2분법적 기준으로 이 갈등을 재단하기보다는, 두 사람 모두 교회를 위한진실한 열심을 가지고 다른 사역 방향을 택했다고 보는 것이 적절하다. 그 결과 바나바와 마가는 구브로에서 복음 전도를 지속하며, 훗날 마가는 베드로의 통역자이자 복음서기록자로서 ‘마가복음’을 남긴 인물이 되었다고 전해진다. 바울 역시 2차 선교여행에서 실라, 그리고 루스드라와더베에서 만나게 된 디모데 등을 동역자로 삼으며 소아시아를 넘어 유럽(마케도니아)까지 복음을 전파하는 데성공한다. 교회의 본질적 사명을 놓고 두 사도가 갈등을 빚었지만, 그 갈등 이후 더 넓은 지역에 복음이퍼져나갔다. 그리고 종국에는 바울이 디모데 후서나 빌레몬서에서 마가를 필요로 할 만큼, 서로 다시 회복된 동역관계로 돌아오게 된다. 장재형 목사는 이 사건에서 ‘교회 사역이 다를 수 있다는 것’과 ‘끝까지 사람을 붙들어 주는 마음’이라는 두 가지를중요한 교훈으로 삼는다. 첫째, 바울과 바나바가 갈라선 것은 “하나님의 뜻을 거역하는 엄청난 불화”라기보다는, 하나님께서 한쪽은 험난하고도 적극적인 개척 현장으로, 다른 한쪽은 한 영혼을 세밀히 돌보며 재능을발휘하도록 하기 위한 섭리였다는 시각이다. 어떤 사람이 일시적으로 복음 전선의 최전방을 감당하기 어려울 수있고, 어떤 사람은 전장에 서기에 충분한 체력과 결심, 단호함이 필요한 시기가 있다. 하나님께서는 이처럼다양한 사람들을 각자의 길로 이끄시며 결국 복음을 확장하신다. 둘째, 바나바가 보여준 모습은 ‘낙심한 영혼을 붙들어 주는 목자다움’이다. 처음 바울을 예루살렘 공동체에소개해주고, 그를 사도로 인정받게 하는 데 도움을 준 이도 바나바였다(행 9:27). 그리고 나약해 보이는 마가를껴안고 다시 기회를 주어 훗날 복음서 기자로 성장할 수 있게끔 인도한 이도 바나바였다. 누구나 강점과 약점이있는데, 바나바는 상대방의 가능성에 주목하여 포기하지 않는 사랑을 실천했다. 장재형 목사는 이 점을 현장목회에 적용하여, 교회 내부에서 갈등이 일어나거나 누군가가 상처받고 떠난 경우에도, 끝까지 그 사람을 향한교회의 책임감을 놓지 말아야 한다고 거듭 가르친다. 마침내 바나바와 바울의 갈등을 통해, 교회는 단순히 ‘이긴 사람과 진 사람’의 패턴으로 평가되는 것이 아니라, 그리스도 안에서 각각의 역할이 달라도 하나의 몸으로 완성되는 구조임을 볼 수 있다. 교회를 위협하는 더 큰갈등은 서로의 비방과 분열이지만, 이 장면에서 드러난 갈등은 ‘사역 노선의 분기’였고, 결과적으로는 확장된선교와 훗날의 화해, 그리고 마가복음이라는 놀라운 결실을 낳았다. 이를 두고 장재형 목사는 “그리스도의 몸은부서지지 않는다. 갈등은 있지만 더 크게 하나 되기 위한 과정일 수 있다”고 말하며, 만일 교회가 서로에게 상처만주는 ‘파멸적 분열’로 가버리는 것이라면, 그것은 성령의 열매가 아니라고 단언한다. 결국 교회는 예수그리스도의 은혜로 함께할 때, 어느 갈등도 하나님의 계획 안에서 회복과 확장을 위한 통로가 될 수 있다는것이다. 3.개척, 돌봄, 그리고 성령의 인도 – 선교의 미래 바울 일행은 제2차 전도여행을 위해 떠나면서, 소아시아 여러 지역(수리아·길리기아 등지)을 다니며 교회를‘굳게 세운다’(행 15:40~41). 그들은 예루살렘 회의에서 결정된 교리적·실천적 지침들을 전달하고, 믿음 위에 굳게서도록 격려했다. 이러한 과정은 교회의 질적 성장을 이끌어내고, 날마다 숫자가 더해지는 부흥의 열매로이어졌다(행 16:5). 장재형 목사는 “교회가 신앙과 직제를 잘 지키면 교회는 폭발적으로 성장한다”라고역설하는데, 그것은 초대교회가 경험한 사실이기도 하다. 그런데 흥미로운 점은, 바울은 계속해서 아시아 지역(당시 소아시아, 지금의 터키 서부)에서 말씀을 전하고자했으나 “성령이 아시아에서 말씀을 전하지 못하게 하셨다”(행 16:6)라는 구절이다. 그리고 이어서 “무시아 앞에이르러 비두니아로 가고자 애썼으나 예수의 영이 허락하지 않았다”(16:7)라고 증언한다. 바울은 사역 의욕이누구보다 넘치는 인물인데도, 성령과 예수의 영이 막으시면 멈추어야 했다. 결국 드로아로 내려갔을 때, ‘마케도니아 사람 하나가 건너와 우리를 도우라’(16:9)라고 간청하는 환상을 보게 되고, 바울은 유럽대륙(마케도니아 지방)으로의 첫 발을 내딛는다. 이처럼 ‘성령의 인도’를 잘 따르는 것이야말로 교회 개척과 선교 사역의 본질적 동력이다. 장재형 목사는 바울일행의 마케도니아 진출을 두고, “하나님께서 더 큰 대륙, 더 큰 세계로 복음을 퍼뜨리길 원하셨다”고 해석한다. 바울은 인간적 열심으로는 아시아 지역을 모두 선교하고 싶은 마음이 컸을 수 있지만, 주님께서는 그보다 더시급한 영혼들이 있는 유럽 대륙으로 빨리 건너가기를 원하셨던 것이다. 그래서 바울을 ‘길 막힘’이라는 형태로이끄셨고, 결국 환상을 통해 분명한 지침을 주셨다. 이는 오늘날 교회도 “성령님의 인도하심과 문을 여시고닫으시는 섭리에 기민하게 순종해야 함”을 보여주는 본보기다. 장재형 목사는 종종 현대 교회를 ‘Acts 29를 써 내려가는 교회’라고 일컫는다. 사도행전은 28장으로 끝나지만, 교회사를 자세히 살펴보면, 그 이후에도 성령께서 계속 교회를 인도하고, 복음이 땅끝까지 확장되고 있기때문이다. 사실상 오늘을 살아가는 교회가 사도행전 29장, 30장을 이어 쓰고 있다는 의미다. 그런 점에서, 예루살렘 회의로 대표되는 ‘공동체 합의와 결단’, 바나바와 바울 갈등 사건으로 대표되는 ‘갈등 속에서도 더 큰확장으로 나아가는 은혜’, 그리고 마케도니아 환상으로 대표되는 ‘성령의 구체적 인도’ 등은 모두 Acts 29 교회를건설하는 핵심적인 원리로 작용한다. 특히 장재형 목사는 교회가 개척 열정만 갖고 열심히 움직이는 것으로 충분치 않다고 말한다. 개척지마다 성도를끝까지 돌보고 양육할 계획을 세워야 하고, 현지 교회가 자립할 수 있도록 함께 협력해야 한다고 강조한다. 이는바울이 “우리가 주의 말씀을 전한 각 성으로 다시 가서 형제들이 어떠한가 방문하자”(행 15:36)라고 한 것과일치한다. 만일 교회를 세워놓고 그대로 방치한다면, 부모가 자식을 낳아놓고 돌보지 않는 것과 똑같이 무책임한일이 된다. 결국 전도와 개척 이후에는 필연적으로 ‘돌봄’과 ‘지속적 목양’이 뒤따라야 하고, 그 모든 과정을성령께서 친히 주관하신다. 이처럼 성령의 인도를 받으며 교회를 확장해가다 보면, 때로는 예기치 못한 갈등이나 막힘에 부딪힐 때가 있다. 바울이 아시아에서 막혔던 것처럼, 길이 닫히는 순간이 찾아올 수 있다. 현대적 맥락에서 보면, 지역의 정치적변동, 국제정세 문제, 비자 발급 문제, 현지 공동체 내 갈등 등 다양한 요인으로 막힐 수 있다. 그러나 장재형목사는 “막힘이 곧 끝이 아님”을 누누이 언급한다. 막힌 곳에는 다른 사람들이나 다른 교회가 이어서 들어갈준비를 하고 있을 수도 있고, 하나님께서는 더 절박한 어느 지역으로의 문을 이미 열어두셨을 수 있다. 그러므로교회 개척자들은 막힘 앞에서 낙심하기보다, 어디선가 열려 있을 새로운 문을 찾아 “Moving Forward” 해야 한다. 결국 믿음의 공동체는 “믿음으로만, 은혜로만”이라는 구원의 진리를 중심 축으로 삼고, 교회 내 갈등이 생길 때는기도와 합의를 통해 서로를 세우며, 성령이 인도하시는 대로 나아가야 한다. 이 모든 과정을 통해 교회는자라나고, 더 넓은 지역으로 복음이 확장된다. 예루살렘 회의의 결론을 따라 구원의 본질에 집중하면 율법으로사람을 얽매지 않게 되고, 바울과 바나바 갈등 속에서 사람을 끝까지 붙들어 세워주는 사랑의 모습이 나타나며, 궁극적으로 성령의 인도를 받는 교회가 어떤 문화와 국경도 초월해 주의 복음을 전할 수 있다는 것이 사도행전이전하는 메시지다. 장재형 목사는 이처럼 사도행전 15~16장의 메시지를 현대 교회에 적용하며, “예루살렘 회의와 같은교리적·공교회적 결정과 전통을 존중하되, 이를 실제로 이행하기 위해서는 바나바와 바울, 그리고 마가와 같은다양한 인물들의 역할이 모두 필요하다. 그 속에서 갈등이 생길 수 있으나 결코 파멸적 분열로 치닫지 않고, 오히려 복음의 지경을 넓혀가는 은혜가 있다. 그 중심에 성령의 인도하심을 구하고 순종하는 영성이 있어야교회가 Acts 29를 계속 써 내려갈 수 있다”라고 힘주어 말한다. 교회가 30주년을 맞이했든, 50주년을 맞이했든, 혹은 이제 막 개척된 지 얼마 되지 않았든, 이러한 원리는 동일하다는 것이다. 결국 교회란 “부름받은 사람들의 모임”이자, 동시에 “부름받은 사람들을 부르러 가는 사명 공동체”다. 믿음으로만, 은혜로만 구원을 얻은 백성이 서로 돌보고 세상으로 나아가 복음을 증언할 때, 그 한가운데서 성령의인도가 역사한다. 예루살렘 회의의 결론, 바나바와 바울의 분기, 그리고 마케도니아 환상으로 상징되는 사도행전15~16장의 사건들은 모두, 교회가 늘 과거의 회의나 결정에만 머무르지 않고, 새로운 상황 속에서 “계속해서선교의 장을 확장해 나갈 것”을 촉구한다. 장재형 목사는 “이제 새로운 시대가 왔다. 다섯 대양과 여섯 대주가 우리의 교구가 되었다”라고 말하며, 과거와는비교할 수 없이 빠른 교통·통신 수단, 다양한 문화 교류의 기회가 열려 있는 오늘날이야말로 교회가 성령의인도하심을 더욱 민감하게 따라 움직여야 할 때라고 주장한다. 동시에, 해외에 파송된 많은 선교사와 개척교회들이 그냥 외롭게 있도록 두어서는 안 되며, 예루살렘 회의 이후 바나바와 바울이 각 교회를 찾은 것처럼, 끊임없이 방문하고 양육하고 격려해야 한다는 점도 상기시킨다. 그래야만 “끝까지 붙들고 사랑하신”(요 13:1) 주님의 모습이 교회를 통해 드러나고, 그때 교회는 세상 어느 곳에서도 꺾이지 않는 복음의 능력을 증언할 수있기 때문이다. 결국 사도행전의 역사와 지금 우리가 직면한 현실 사이에는 많은 시공간적 차이가 있음에도, “믿음으로만, 은혜로만”이라는 구원의 본질, “갈등을 통해 더 넓게 확장되는 교회”라는 영적 원리, “성령의 구체적인인도하심을 따른 개척과 돌봄”이라는 세 가지 축은 변함없이 유효하다. 장재형 목사는 이를 우리의 실제 목회와선교, 그리고 교회의 미래 로드맵 안에 녹여낼 것을 도전하며, “주님이 다시 오실 때까지 교회는 전진을 멈추지않는다. 갈등하더라도 더 큰 연합으로 귀결될 것이고, 막히더라도 다른 문이 열릴 것이며, 끝내 모든 열방이 주를아는 지식으로 충만케 될 것”이라고 선포한다. 이렇게 예루살렘 회의부터 시작된 초대교회의 아름다운 전통이21세기에도 이어지고 있으며, 그 전통 위에 현대 교회가 굳건히 서서 세계 곳곳의 영혼을 향해 나아갈 수 있다는것이, 곧 사도행전이 ‘열린 결말’처럼 우리에게 제시하는 ‘Acts 29의 도전’이다.

Entre les larmes et la vérité – Pasteur David Jang

Introduction : Une perspective sur la Deuxième Épître aux Corinthiens et le parcours théologique du pasteur David JangAu fil de plusieurs décennies de ministère pastoral et de recherche théologique, le pasteur David Jang a su approfondir la compréhension de la Deuxième Épître aux Corinthiens, texte parfois complexe, pour en dégager un message pertinent à l’adresse … Read more

在泪水与真理之间 —— 张大卫牧师与《哥林多后书》的深层解读

引言:从解读哥林多后书的视角看张大卫牧师的神学旅程在当代华人教会与神学语境中,张大卫牧师以数十年的牧会经验与神学研究,为信徒提供了对《哥林多后书》的深入诠释。尽管《哥林多后书》诞生于公元一世纪特殊的历史、文化与宗教处境之中,这封书信却仍对今日教会与信徒的信仰生活产生丰富影响。在张牧师看来,这卷书并非只是保罗与哥林多教会冲突的历史记录,更是带有炽热情感、真理捍卫以及灵性实践的“活的文献”。 保罗并未在该书中构筑抽象的神学体系,而是在面临教会内部混乱、外来虚假教导、跨文化争议以及宣教艰难处境之下,将神学、牧会、属灵实践融为一体,以应对现实问题。张大卫牧师认为,《哥林多后书》深刻体现了福音真理的坚守、恩典为本的救恩论核心、在患难中仰望神的信仰气质、以及对虚假教导的分辨与拒斥。这一切,不仅对一世纪的哥林多教会意义非凡,对于二十一世纪的教会同样是宝贵的资源。 在下文的六个子主题中,我们将更全面地分析《哥林多后书》的核心信息,并探讨其对于张牧师的牧会哲学和当代华人教会的启示意义。透过对历史背景、文本神学、牧会实践以及现代应用的全方位考察,我们期望展现《哥林多后书》那既深沉痛苦、又光芒四射的属灵财富。 1. 哥林多教会的背景与保罗的牧会历程 要深刻理解《哥林多后书》,首先必须回到一世纪的地中海世界,看清保罗与哥林多教会复杂的互动。哥林多是罗马帝国的一座重要商业都市,它坐落在连接希腊本土南北通道的要塞位置,充满多元文化和宗教氛围。这里既有希腊哲学的传统智慧与修辞学传统,也有罗马帝国统治带来的社会结构与法律秩序,更有各式异教崇拜、东方神秘宗教、犹太侨民社区和本地希腊人的生活方式。多元主义和相对主义盛行的哥林多,为刚刚扎根的教会带来了相当的张力与挑战。 保罗在第二次宣教旅程中(约主后50年左右)建立了哥林多教会,这个教会由犹太人、外邦人、社会精英以及下层民众组成。这种多元化使得教会在福音真理的接纳、教会纪律的执行以及属灵恩赐的理解等问题上呈现高度复杂性。正因为如此,保罗在离开哥林多后,不得不不断透过书信、使者以及口头报告关注这间教会的发展。 张大卫牧师通过细致的历史与经文研究,强调保罗并不是在真空中写信,他的牧会历程横跨以弗所、马其顿、亚该亚与耶路撒冷。保罗心系多个教会网络:耶路撒冷母会的贫乏需要、以弗所作为宣教枢纽的挑战、马其顿教会的慷慨榜样、以及外邦宣教拓展时遭遇的政治、宗教迫害。这一立体的图景使我们理解到,《哥林多后书》并非针对孤立事件的理论性回应,而是保罗在错综复杂的处境中,为坚立福音、建造教会、维护真理而作出的“现场性神学反思”。 在这一维度上,张牧师特别指出,当代教会领袖同样面临多元文化、社会思潮冲击与异端渗透的问题。正如保罗需要在跨区域教会网络中为福音原则而战,今日牧者也必须在全球化、数字化以及社会价值观快速变迁的环境中寻求智慧。透过诠释《哥林多后书》,我们看到牧会与宣教的有机交织:既要正视教会内部的纷争与虚假教导,又要回应时代呼声,守护信仰传统。 2. 捍卫福音真理与恩典为中心的救恩论核心 在《哥林多后书》中,保罗坚持的核心信念之一是福音的纯净与真理的不可妥协。福音关乎基督的死与复活这一独特而绝对性的历史事件,这救恩并非来自人类的功德或律法守则,而是出于神单方面的恩典与慈爱。保罗在与割礼派(犹太背景的基督徒团体)以及其他受希腊化思想影响的教师们对话中,时常需要捍卫这一点。当有人试图在福音上加添特定文化、民族或律法条件时,保罗绝不让步。 张大卫牧师强调,保罗在《哥林多后书》中虽然没有像《加拉太书》那样集中讨论律法之役,但仍可见其对福音真理的坚守。不论是犹太律法主义倾向,还是希腊哲学与修辞技巧对福音的影响,都不能使神恩典的本质受到稀释。今日教会或信徒可能不会面对割礼的问题,但却会遇到其他试图“附加条件”的势力,如以特定传统、制度、文化习俗或灵恩经验取代福音中心。张牧师呼吁,任何形式的“加添”都会稀释福音的纯度,将焦点从神的恩典移向人的成就或文化标记。 此外,保罗在《哥林多后书》展现出的恩典神学,不只是一个抽象命题,更是他个人生命经历的体现。在书信中,保罗多次谈到他自身经历患难、软弱、逼迫,却在此过程中更加深刻地体会到神的恩典够用。他在12章谈及自己的“肉中之刺”时,更是将福音的本质与自身软弱关联起来:人的软弱正是彰显神大能与恩典的时机。这意味着福音并非使人夸耀自身的属灵成就或理性能力,而是引领信徒在卑微中仰望基督的全备。 这种以恩典为中心的救恩论在今天的教会语境中尤为重要。当世俗成功学、消费主义、民族主义、教派主义、教会扩张主义不断侵入教会思维时,我们必须回归保罗的核心宣告:唯独恩典、唯独信心、唯独基督。这使得教会在快速变迁的时代背景下,仍能保持对福音本质的忠诚。 3. 患难与安慰的神学,以及群体责任 《哥林多后书》以对“赐各样安慰之神”的颂赞为开端(1:3-11)。这里的“安慰”在原文中不仅指心理层面的抚慰,更是一种神所赐之内在力量与存在勇气。保罗提到自己在亚西亚遭遇巨大的困苦,甚至“断绝了生的指望”,这不是比喻性的夸张,而可能是真实生死存亡的边缘体验。在此极限境遇中,他不靠自己的智慧、力量或人际关系,而是单单仰望叫死人复活的上帝。 张大卫牧师深入探讨这种“患难神学”。在古代世界,患难与苦难常被视为神之审判或人之失败。但保罗却从福音角度为患难重新定位:它成为使徒和信徒更加依靠神、更加明白福音实质的途径。患难引领信徒看到生命的有限与脆弱,从而更全面地理解救恩的恩典。在这个过程中,上帝的安慰并非只是让人逃避苦难,更是让人在苦难中经历神的同在与更新。 与此相关的是《哥林多后书》8-9章中关于奉献与群体互助的教导。保罗呼吁哥林多教会为耶路撒冷贫困的信徒捐献。这不仅是道德性的号召,更是体现福音群体真理的实践:蒙恩者彼此分享恩典,从受赐者转变为施予者。张大卫牧师强调,这一原则可以转化为当代教会的社关行动(社会关怀)与跨文化宣教的推动力。当教会不再只为自身利益而存在,而是为全球教会的需要、为社会弱势群体的利益以及为处境艰难的宣教工场而行动时,就体现了福音的真正力量。 今日,无论是经济衰退、疫病肆虐、社会不公、环境危机、教会内讧或外界敌意,信徒都可从《哥林多后书》的患难神学中汲取养分。教会在患难中若能保持对神的依靠,并以彼此相爱的奉献回应,就能成为将安慰传递给世界的管道。张牧师指出,患难与安慰交织的属灵经验,使教会不只停留在教义宣称上,而是成为活的见证群体。 4. 应对假教师与确立使徒性权威:真理与谦卑的张力 《哥林多后书》后半部(尤其10-13章)中,保罗面临来自“超级使徒”或“假使徒”的挑战。这些人或许拥有出众的修辞才能、哲学知识、属灵经历甚至经济资源,以此获取教会的认可。与他们相比,保罗显得卑微、朴素、无足挂齿,甚至他的外貌、口才、经济独立性都在质疑中。面对这种处境,保罗并未诉诸世俗的权威标准,而是强调使徒权威的基础在于福音的真理与神的呼召。 张大卫牧师认为,这里凸显了教会领袖当如何在面对异端与虚假教导时持守真理的紧要性。保罗既不向世俗标准妥协,也不在虚假教导面前沉默。他在《哥林多后书》中采用一种独特的“愚昧之谈”(愚人自夸)的修辞策略,反语性地与假使徒较量,强调自己的软弱、苦难经历与服侍的真诚。这种方法旨在颠覆当时流行的功利化宗教观念,反转教会对权威与成功的定义。 在当代华人教会中,类似的挑战依然存在。有些教会领袖可能以个人魅力、社会关系、财务实力或人气指标来证明自己,却忽略了灵性深度、真理扎根与服侍牺牲的重要性。张牧师借鉴保罗经验指出:真正的属灵权威并不靠外在条件,而是源于对真理的忠诚、对群体的牺牲与对基督的追随。当假教师或异端试图以似是而非的教导、灵验神迹、名利诱惑影响教会时,牧者与信徒需像保罗一样站立稳固,坚持福音核心,不被蛊惑。 这种权威的确立也关乎谦卑与分辨。保罗并非以居高临下的姿态压制对手,而是透过自我卑微来彰显神的力量。张牧师指出,这给今日教会领袖提供了极为现实的榜样:在坚持真理时不能缺乏爱与谦卑,在捍卫教会纯正时也不可滥用权力。教会领袖需在刚毅与温柔之间保持平衡,以福音为镜,衡量自己与他人的教导与行为。 5. 对今日教会与信徒的实践应用:从文本到生活的转化 张大卫牧师并不满足于将《哥林多后书》当作历史文献或神学教材来阅读。他主张,这卷书应直接影响今日教会的结构、事工策略与信徒的日常生活。通过提炼书信中的原则与精神,教会可在复杂多变的时代里保持灵性方向。 首先,对于牧者与教会领袖而言,《哥林多后书》是一面清晰的镜子: 对于信徒个人而言,《哥林多后书》的实践应用包含多重层面: 张大卫牧师也建议,当代教会应将《哥林多后书》的精神延伸到社会公义与全球宣教层面。在当下的国际局势、贫富差距、环境危机与宗教迫害的阴影下,教会应不只是内部互助,更应超越地域与民族界限,为处境艰难的群体送去实际帮助与福音关怀。这正是保罗所倡导的超文化爱心奉献精神的现代再现。 6. 结论:为灵性“越冬”而预备的教会与成长之路 张大卫牧师在结束对《哥林多后书》的诠释时,常提及保罗在提摩太后书中那句意味深长的话:“你来时要把马可带来,也要将那皮卷带来”(参提后4:11-13)。这象征着在面对漫长寒冬、逼迫、黑暗与不确定性之前,教会与信徒需要以神的话语与福音真理作为灵性储备。就如同农夫在寒冬前储备粮食、木柴与工具,教会也需在属灵寒冬来临之前,藉由深入研读并实践《哥林多后书》来蓄积属灵能量。 《哥林多后书》呈现的不是一个完美无瑕的教会图景,而是一个被争议、矛盾、痛苦、流泪与不解包围的真实现场。在此现场中,保罗并未放弃真理,反而在苦难中更深领会到神的恩典与力量;并未向假教师低头,反而通过卑微与愚拙的方式颠覆世界的权威标准;并未允许教会陷入冷漠,而是通过奉献与爱的行动使福音在现实世界中落地生根。 张大卫牧师深信,今日教会若能效法保罗的精神,以《哥林多后书》为楷模,就能在多元文化与社会变迁中保持福音的纯净与生命力。这样的教会不必惧怕灵性寒冬,因为早已为越冬做好准备:有福音真理作为根基,有相互关怀的群体作为后盾,有面对虚假教导的勇气与智慧作为武装。 在这漫长的旅程中,每位信徒也将经历内在的蜕变。从遭遇患难到接受安慰,从软弱中体现神的恩典,从文化与制度的夹缝中坚守福音真理,从彼此相爱的奉献中活出群体信仰的实质。这些生命经验汇聚成当代教会灵性成长的史诗篇章。 正因如此,张大卫牧师呼吁教会与信徒积极拥抱《哥林多后书》所传递的属灵资源。无论是深冬严寒般的苦境,还是真假难辨的教导,抑或群体凝聚力的挑战,这卷书都可提供方向与安慰。当教会踏着保罗的脚踪,将泪水化为对真理更深的理解,将痛苦转为实践爱的动力,将恩典理念化为生活行动时,《哥林多后书》的精神就不再只是历史档案,而是活泼跳动的灵性心脏,为整个群体提供血液与氧气。 在神的引领下,当教会与信徒借着《哥林多后书》不断反思、悔改、更新与行动,我们将共同走向更丰富、更深沉、更有使命感的灵性季节。如此,这一源于泪水与真理之间的书信,将继续指引教会穿越时代风暴,在恩典与真理的磐石上建立自己,最终成为传扬神爱与安慰的荣耀见证。

涙と真理のはざまで ― 張ダビデ牧師

序論:コリント人への第二の手紙を読む視点と張ダビデ牧師の神学的歩み張ダビデ牧師は数十年にわたる牧会活動と神学研究を通し、しばしば複雑で理解しにくいとされるコリント人への第二の手紙(以下、コリント後書)を、現代のキリスト者へと深く説き明かしてきた牧者である。この手紙は1世紀のコリント教会という特定の歴史的状況の中で生まれた文書であるが、彼はこれを、今日の教会と信徒が依然として学び、実践すべき真理の宝庫として捉えている。コリント後書は、単にパウロが対立する教会に宛てて書いた手紙ではない。むしろ、真理と恵みの福音を守るため全力を尽くした使徒の内面の苦闘、教会への切なる愛、そして苦難の中で得た神の慰めが詰まっている。 張牧師は、コリント後書にある難解さや激情を、むしろ真実な牧会的告白として解釈する。そこには、理想的な神学体系を提示するのではなく、目の前の現実問題――教会内の紛争、偽りの教え、エルサレム教会の貧困、宣教現場の苦難――に対処しようとするパウロの熱い心がある。この観点から張牧師は、コリント後書を通して教会指導者と信徒が共に、真理の上に堅く立ち、苦難の中で神の慰めを経験し、共同体的責任と分かち合いを実践し、偽教師との霊的戦いをいとわない信仰の歩みを発見するのである。 本論では、コリント後書の多面的な教えを6つの小テーマに整理し、その核心的メッセージが張ダビデ牧師の牧会哲学と信仰共同体にいかなる意義を持つかを深く考察する。 1. コリント教会の背景とパウロの牧会的歩みコリント後書を正しく理解するためには、1世紀地中海世界、とりわけヘレニズム文化が蔓延していたコリント市の背景を把握することが不可欠である。ヘレニズム的風潮とローマ帝国の狭間にあったコリントは、貿易で繁栄する港湾都市として、多様な宗教・哲学・文化が混在する多元主義的環境であった。そのような土壌で成立したコリント教会は、当然のごとく複雑な問題に直面し、パウロがエペソを拠点に宣教する際にも絶えず彼を悩ませていた。 張牧師はパウロの宣教経路を辿り、コリント、エペソ、マケドニア、エルサレムを結ぶ複雑な教会ネットワークを分析する。パウロはコリント教会が福音の真理の上に確固として立つことを願い、彼らの問いに答えるべくコリント前書を通して教義を正そうとした。しかし教会内部に割拠する割礼派、偽教師の侵入によって状況はさらに複雑化し、パウロはテモテやテトスといった同労者を派遣し、書簡をもって彼らの反応を見守った。 こうした文脈の中で、コリント後書は機械的な神学論文ではなく、「生きた」牧会書簡として登場する。張牧師はこの点に注目する。すなわち、パウロはコリント教会という具体的現実の中で真理を守り教会を建て上げるために奮闘した。その生々しい奮闘は、今日の牧会者にとっても模範となる。福音を伝える者、教会指導者、信徒は皆、自らの歴史的文脈を認識し、複雑な状況の中でも真理を打ち立てるための努力を続けなければならない。 2. 福音真理の守護と恵みに基づく救済論の核心パウロがコリント後書で絶対に譲らなかった核心は「福音の真理」である。福音とは、イエス・キリストの死と復活による救いであり、行いや律法遵守によらず、ただ恵みと信仰によって与えられる神からの一方的な賜物である。ところがコリント教会にはエルサレムから来た割礼派教師が侵入し、この単純で純粋な福音に条件を付けようとしていた。彼らは異邦人信徒も割礼を受け、律法を守らなければ完全な救いに達しないと主張したのである。 張牧師はこの点でパウロの断固たる態度を強調する。パウロは律法的義務によって福音を歪めようとする試みに毅然と立ち向かった。この問題はガラテヤ書とも類似する背景を持つが、コリント後書でも暗示的に示されている。福音の真理はあらゆる民族と文化に普遍的であり、民族的・文化的障壁や律法的条件を付すことは福音を霞ませる行為となる。 ここで張牧師は、今日の教会と信徒が反芻すべき問いを投げかける。我々は本当に福音中心なのか。習慣、制度、文化的要素を福音真理より優先したり混同したりしていないか。パウロが命懸けで守ろうとした福音の純粋性を、我々も守り抜くべきである。これによって、教会は真理に根ざした共同体として成長し、信徒は救いの本質に対して確固たる確信を得ることができる。 3. 苦難と慰めの神学、そして共同体的責任コリント後書の冒頭(1:3-11)でパウロは「すべての慰めの神」を賛美し、自身がアジアで受けた苦難について言及する。パウロは生きる望みを失うほどの過酷な苦しみを通じて「死者をよみがえらせる神」への完全な依存を学んだ。つまり、極限状態の中で、人間的よりどころから離れ、唯一神のみを頼みとする信仰の真髄を悟ったのである。 張牧師は、この「苦難と慰め」というコリント後書の中心テーマが現代にも生きた意味を持つと説く。教会は常に挑戦に直面している。財政的困難、宣教の停滞、社会的反発、信仰の揺らぎなど、様々な「苦難」がある。だがその苦難は、神が教会を練り鍛え、主だけに頼る信仰へと導く過程である。苦難の中で信徒と教会は真の慰めと勇気、すなわち「存在の勇気」を得る。 さらにコリント後書8-9章でパウロはエルサレム教会への献金について詳述している。これは苦難にある兄弟姉妹を助ける具体的な愛の実践である。張牧師はこのエピソードから共同体的責任と分かち合いの重要性を強調する。福音を受けた共同体は、実際の行為によってその福音を証明しなければならず、それは貧しい兄弟姉妹を顧みる献身的な愛として顕現する。 このように、苦難を通して慰めを経験した教会は、その慰めを他者へと伝える通路となるべきである。それは共同体が孤立せず、互いに励まし合い仕え合うことで、豊かな霊的生態系を形成する道である。張牧師は、このような連帯と責任を回復することが、今日の教会に求められると主張する。 4. 偽教師への対処と使徒的権威の確立コリント後書後半部(10-13章)でパウロは使徒としての自らの権威を強く弁護する。彼は「光の天使」を装う偽教師たちが福音を損なおうとすることを容認しない。その偽教師たちへの断固たる態度は、真理を守るために不可避な構えである。愛や忍耐という牧会的徳目は必要だが、真理を揺るがす混乱に対しては譲歩しない。 張牧師はここに、牧会者や教会指導者が学ぶべき原則を見出す。福音を歪める勢力、異端や偽りの教え、世俗的価値観が教会内部に忍び込むとき、指導者はパウロのように声を上げ、これを排除せねばならない。それは単なる個人の信仰傾向ではなく、共同体全体を真理の上に立たせる責任である。 使徒的権威は権力乱用や統制ではなく、福音を守り、教会が正しき道へ向かうよう導く霊的リーダーシップである。張牧師は、現代のリーダーシップモデルをコリント後書に見いだす。指導者は真理にしっかり立ち、必要なときは決然と対処して偽りを識別・除去する。それが教会を建て上げ、福音本来の力を保持する礎となる。 5. 今日の教会と信徒への実践的適用張牧師は、コリント後書を単なる古代文献として留めず、今日の教会共同体と信徒に直接適用する。パウロの激情と苦悩、涙と嘆きが込められたこの書簡は、牧会者の心構えと宣教パラダイムに深い影響を与える。 まず、牧会者にとってコリント後書は「福音中心性」という旗印を新たに立て直す。教会運営、宣教戦略、財政管理、人間関係、どの領域にも福音より優先されるべきものはない。張牧師はあらゆる決断が真理に基づいてなされねばならないことを強調する。 また、慰めとケアの牧会原理は、信徒一人ひとりの生活にも応用される。信徒たちは苦難にある隣人を見捨てず、与えられた慰めを分かち合い、互いを建て上げる責任がある。かくして教会は、単なる宗教団体でなく、霊的家族として、一つの身体で結ばれた共同体であることをコリント後書は重ねて思い起こさせる。 さらに教会は財政的・物質的な分かち合いによって、福音の実践的な結実を示さねばならない。張牧師は、教会が地域社会や世界中に点在する困窮した兄弟姉妹を顧み、宣教地を支援し、文化と境界を超えた愛を実践するとき、コリント後書の精神を体現すると説く。このような実践は、信徒個々人にとっても信仰成熟の重要な契機となる。 究極的に、信徒はコリント後書から「分別ある信仰」を学ぶ。偽りの教えや世俗的誘惑の前で揺らがず、福音真理に根付くこと、苦難の中でも神への依頼と希望を失わないこと、そして愛と分かち合いによって福音を生活化することを習得するのである。張牧師は、このプロセスを通じて現代の教会が真の福音共同体へと成長できると確信している。 6. 結論:冬越えする教会と霊的成長への道張牧師は、コリント後書を読むたびに、パウロがテモテへ「マルコを伴い、革袋に入った書物を持って来てほしい」と頼んだ言葉(Ⅱテモテ4:11-13)を思い起こす。それは長い冬に備え、御言葉によって越冬し、霊的糧を蓄える象徴的意味をもつ。コリント後書はまさに、その冬越えのための御言葉の糧である。教会と信徒は、過酷な冬のような苦難に遭遇することがあるが、そのたびに福音真理を懐に抱き、神の慰めと勇気を魂に刻んで耐え抜くことができる。 それは単なる個人的な慰めにとどまらず、教会共同体が互いを建て上げ、真理の上に立ち、偽教師を退け、苦難の中でもエルサレムの兄弟たち(現代で言えば苦しむ隣人)に喜んで分かち合う過程を経て獲得される霊的成長である。コリント後書は、パウロが痛みと混乱に満ちた状況下でも決して真理を手放さず、むしろ苦難を通して魂の深みを増していった歴史的手本なのだ。 張牧師は、教会がこの手本に倣うべきだと訴える。信仰共同体は、福音に根差した苦難克服の経験を通して、ますます強固になり、最終的には神の慰めを世界へ伝える器となりうる。コリント後書は、真理、苦難、慰め、愛の実践が一体となり、教会を成熟へと導く羅針盤であり、張牧師は、この羅針盤に従って教会と信徒が堅実に歩むよう勧める。 今、長い冬に備えるかのように、コリント後書を深く黙想し、福音の真理に己を照らし、苦難の中でも希望を握りしめ、分かち合う生を実践する教会と信徒となることを張牧師は願っている。そうすることで、我々はパウロの切なる思いが宿るこの書簡を通して、より豊かな霊的季節へと進んでいくことができるのである。

Between Tears and Truth – Rev. David Jang

Introduction: Perspectives on Second Corinthians and the Theological Journey of Rev. David JangOver the course of decades in pastoral ministry and theological scholarship, Rev. David Jang has engaged deeply with the complexities and challenges of Second Corinthians, offering it to modern Christians as a resource of profound relevance. Although this letter emerged from the unique … Read more

Entre lágrimas y verdad – Pastor David Jang

Introducción: La perspectiva sobre la Segunda Carta a los Corintios y el camino teológico del Pastor David JangA lo largo de décadas de ministerio pastoral y reflexión teológica, el Pastor David Jang ha profundizado en la compleja y a menudo difícil Segunda Carta a los Corintios, ofreciéndola a los cristianos contemporáneos como una riqueza inagotable … Read more

올바른 믿음 – 장재형목사

전체 구조 1. 올바른 신앙의 역사적·교리적 중요성 삼위일체(Trinity) 교리는 기독교 신학의 중심이자 근간이며, 교회가 2천 년에 걸쳐 공통적으로 고백해 온 핵심 신앙이다. 장재형(장다윗)목사의 설교 맥락 속에서 올바른 신앙이 강조되는 이유는, 이것이 결코 추상적이거나 철학적 사변에 불과한 것이 아니라, 신앙 공동체의 형성과 성장 과정 속에서 생명력 있게 자리 잡은 진리의 표현이기 때문이다. 삼위일체 교리는 세상에 신이 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 미디어 커뮤니케이션 학생들이 탐구하는 편집: 기술 그룹만큼 태도

오늘날 장재형목사가 세운 올리벳대학교 OSMC(Olivet School of Media and Communication)의 저널리즘 학생들은 편집 및 뉴스 판단 수업에서 뉴스룸에서 편집자의 역할에 대해 깊이 있는 토론을 진행했습니다. 이들은 편집자가 뉴스룸에서 매우 중요한 역할을 한다는 사실을 강조하며 “큰 힘에는 큰 책임이 따른다”는 말을 떠올렸습니다. 편집자는 기사가 발행되기 전에 내용의 정확성, 공정성, 윤리성을 유지하기 위해 핵심적인 역할을 수행합니다. 특히 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 ESL 학생들은 가을 분기에 영어 능력 요건을 충족합니다

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 ESL 가을 분기 학생들이 TOEFL iBT 시험을 통과하고 원하는 학위 프로그램에서 요구하는 점수를 달성했습니다. “이번 분기에 영어 능력 요건을 충족할 수 있어서 매우 기쁩니다. Lisa Bare 선생님의 수업과 지도에 정말 감사합니다. 도전적이면서도 흥미진진한 여정이었습니다.”라고 Meiling Lai가 말했습니다. “Lisa 선생님은 우리에게 어휘, 읽기, 듣기를 집중적으로 훈련시켜 주셨습니다. 저는 많은 책을 읽음으로써 어휘력을 확장할 … Read more