Convertirse en Hijos de Dios – Pastor David Jang

I. La ausencia de condenación y la libertad de los que están en el Espíritu Romanos 8 se considera uno de los capítulos más majestuosos y hermosos de toda la Escritura, ya que condensa el núcleo del evangelio. A lo largo de la historia, ha inspirado profundamente a muchos teólogos, pastores y creyentes. En especial, … Read more

하나님의 자녀 됨  – 장재형목사

Ⅰ. 성령 안에 있는 자의 정죄 없음과 자유 로마서 8장은 복음의 핵심을 가장 장엄하고 아름답게 그려낸 장으로, 많은 신학자와 목회자들, 그리고 수많은 성도들에게 오랫동안 깊은 영감을 주어온 말씀이다. 특별히 “그러므로 이제 그리스도 예수 안에 있는 자에게는 결코 정죄함이 없나니”(롬 8:1)라는 시작구절은, 우리의 구원이 기초하고 있는 놀라운 진리를 선포한다. 장재형목사 역시 이 본문이 주는 은혜를 자주 … Read more

Le Concile de Jérusalem – Pasteur David Jang

1. Le Concile de Jérusalem et la tradition de l’Église – « Seulement par la foi, seulement par la grâce » Le Concile de Jérusalem (Actes 15) a marqué un tournant majeur dans l’histoire de l’Église. Au cœur de cette controverse brûlante se trouvait la question suivante : les païens qui ne pratiquaient pas la … Read more

The Jerusalem Council – Pastor David Jang

1. The Jerusalem Council and Church Tradition – “By Faith Alone, By Grace Alone” The Jerusalem Council (Acts 15) marked a pivotal turning point in church history. The core issue was whether Gentile believers who did not observe the Law, or those with different cultural and traditional backgrounds, could still receive salvation by simply believing … Read more

耶路撒冷会议——张大卫牧师

1. 耶路撒冷会议与教会的传统——唯靠信心、唯靠恩典 耶路撒冷会议(参见《使徒行传》第15章)在教会历史上是一个极为重要的转折点。其核心议题在于:不遵守律法的外邦信徒,或者说拥有与犹太教不同文化与传统的人,只要相信耶稣基督,是否同样能够得救?围绕这个问题,教会当时展开了激烈的讨论。最终,使徒们在此会议上明确宣告了“得救的唯一道路就是唯靠信心,也唯靠恩典”的真理。正是这一决定,使教会在保持普遍性的同时,奠定了超越地域与传统边界的基础。此后,教会也因此能够迈向世界福音化的道路,让福音在无数民族、语言与文化之中开花结果。 张大卫牧师将耶路撒冷会议使徒们所作的决议视为“教会在信仰与职事这两大支柱之下,如何在同一信仰基础上得到答案”的典范。他强调,当教会内部出现分歧时,不应只是一味坚持个人主张或偏见,而应当透过使徒和长老的判断,并在祷告与以神的话为中心的分辨中,共同在基督及使徒的根基之上建造教会。张大卫牧师认为,这正是教会美丽的传统:在不损害“唯靠信心、唯靠恩典”这一救恩核心真理的前提下,对于敬拜、服事、团契等方面出现的各种问题,都应当通过祷告和彼此协商的过程来达成共识,从而实现教会的合一与拓展。 在耶路撒冷会议结束之后,保罗和巴拿巴再次出发,去探望外邦教会(徒15:36)。他们商定要重访那些在第一次宣教旅程中撒下福音种子的外邦教会,了解那里的信徒是否健康成长。即使耶路撒冷会议已经决定“不再给外邦信徒加上繁重的律法之轭”,也依然需要实际地回访和确认这一决定在弟兄姊妹的生活中是否得到落实。就像“撒种之后并非就此结束,还要不断浇水、除草”一样,教会和信徒也需要持久的关怀与照顾。张大卫牧师在讲道或研讨会中也常常强调,“牧养”和“持续的照顾”对于教会而言是何等重要。 在张大卫牧师看来,“教会成长的秘诀”并不在于巨大的活动或一时的热情,而在于传扬耶稣基督福音之后,能否紧紧跟进、彻底负责的牧养和灵性保护。要让那些听到救恩之奥秘的人在试探和诱惑中不至动摇,就必须不断用神的话语和祷告来培养他们,才能使他们更切实地享受“唯靠信心、唯靠恩典”所带来的救恩。保罗和巴拿巴决定“再去看看他们吧”的提议,恰恰浓缩了今日教会成长的重要属灵原则。 耶路撒冷会议的核心结论之一——“不要再给外邦弟兄加上重担”,为教会普遍性的扩展以及彰显福音本身的大能,提供了决定性的契机。然而,为让这一决定在实际的牧养中结出果实,像巴拿巴、保罗这样的领袖仍需回到各地教会传扬并落实会议决议。张大卫牧师平时也一再强调这一点:不管总会或会议的结论多么美好,若要在教会现场真正扎根并结果,就必须有“造访”和“检验”的持续牧养相配合。 总而言之,耶路撒冷会议的意义在于:教会群体以“信心与恩典”为聚焦点,一旦出现教会法规或神学议题,便能一起祷告、讨论、分辨并达成合意,从而确立一种教会的传统。这个传统贯穿教会历史的进程,一直到今天,都成为教会彼此连接、共同成长、如同一个肢体般行动的动力。张大卫牧师也发出呼吁:“我们也应该如此!”他强调,教会理当效法这在漫长宣教历史中建立起来的“信仰与职事的健康平衡”。 2. 巴拿巴、保罗与马可的冲突及和解的属灵意义 《使徒行传》第15章下半部分记载了保罗与巴拿巴之间产生的冲突,这是一个非常耐人寻味的主题。巴拿巴主张再给马可(约翰马可)一个机会,即使他在第一次宣教旅程中半途离去,而保罗则强硬反对,认为“他在旁非利亚离开我们,没有与我们同工,带他去不合适”(徒15:38)。最后二人“起了极大的争执”而分开(徒15:39):巴拿巴带着马可前往居比路(塞浦路斯),保罗则挑选了西拉,前往小亚细亚地区继续建立教会。 张大卫牧师将这个场景解读为:从教会“大图景”来看,这并非毁灭性的分裂,而是为了更广阔的事工版图进行的合情合理的分歧。巴拿巴对马可这位“心志较为软弱,但极其宝贵的人才”不肯放手,希望继续培养、鼓励,使其重新站立起来;保罗则持有开拓者的呼召,坚决投身“上阵不退”的福音最前线。用二元对立的标准去论断孰对孰错并不合适;不如说,二人都怀着对教会的真挚热忱,只是选择了不同的事工方向。 其结果是,巴拿巴与马可在居比路持续传扬福音。后来,马可也成长为彼得的翻译者,并据传成为《马可福音》的作者之一。而保罗在第二次宣教旅程中,与西拉、以及在路司得与特庇所遇见的提摩太等人一同,把福音从小亚细亚传向更远的欧洲(马其顿)地区。这次冲突虽围绕着教会的核心使命展开,但最终却让福音传播的范围更为广阔。后来保罗在写给提摩太后书和腓利门书时,也再次提及需要马可的帮助,可见彼此又回到了相互和好的同工关系。 张大卫牧师认为,这件事给我们带来了两个关键的教训:第一,“教会事工可以有所不同”。这并不是说巴拿巴与保罗的分开就是悖逆神的巨大纷争,而是神分别带领,一方走向更艰险且进取的开拓现场,另一方则专注于细腻地关怀某个人灵命的成长。有时有人无法马上站在福音前线,有时则需要具备充分的体力、决心与果敢才适合迎战。神正是这样引导不同的人走上各自的道路,最终都为了拓展福音。 第二,巴拿巴所展现的“牧者之心”,在于始终不放弃那些灰心失意的灵魂。当初是他向耶路撒冷教会推荐保罗,帮助保罗被接纳为使徒(徒9:27)。后来,他又拥抱看似软弱的马可,给他再次的机会,使其最终成长为福音书的作者之一。人人都有长处与短处,而巴拿巴会留意发掘对方的潜力,不轻言放弃。张大卫牧师常常鼓励在教会服事中也要秉持这样的态度:即便在教会内部出现冲突或有人受伤离开,也要始终带着爱与责任去关怀到底。 通过巴拿巴与保罗的冲突,我们能看见:教会并非以“谁赢谁输”来衡量事情的结果,反而在基督里,每个人的角色或方向不同,却仍能组成一个完整的身体。真正威胁教会的“更大冲突”往往是相互诽谤、造成分裂,而这里所呈现的冲突则是“事工路线的分岔”,结果却是更大的宣教版图与之后的和好,以及《马可福音》的诞生。对此,张大卫牧师评价道:“基督的身体不会被击碎,冲突固然会发生,但有时是为了成就更大的合一。”若是教会只会彼此伤害,走向“毁灭性的分裂”,那就绝非圣灵的果子。教会唯有靠着耶稣基督的恩典在一起,任何的冲突都可能成为神用来带来复和与扩张的管道。 3. 开拓、关怀,以及圣灵的带领——宣教的未来 在踏上第二次宣教旅程时,保罗一行人经过叙利亚、基利家等地,“兼顾各教会”(徒15:40-41),并传达耶路撒冷会议所决定的教义与实践指引,鼓励他们在信仰上坚定不移。这个过程中,教会不仅在质上得到成长,同时每天也有人数的增加(徒16:5)。张大卫牧师强调:“当教会能够在信仰与职事上坚守正道时,往往就会经历爆发式的成长。”这也正是初代教会的亲身经历。 然而有趣的是,保罗本想在亚西亚(当时指小亚细亚,也就是今土耳其西部)继续传道,却遭到“圣灵禁止在亚西亚讲道”(徒16:6)的拦阻。接着又说,“到了每西亚的边界,想要往庇推尼去,耶稣的灵却不允许”(徒16:7)。保罗是个事工热忱无比的人,但若是圣灵与耶稣的灵阻拦,就只能停步。最终,保罗下到特罗亚,在那里看见一个马其顿人的异象,“过到马其顿来帮助我们”(徒16:9),他便因此跨出了通往欧洲大陆(马其顿地区)的第一步。 在这样的记载中,我们可以看到,“圣灵的带领”才是教会开拓与宣教事工的根本动力。张大卫牧师将保罗一行进军马其顿解读为:“神要让福音传向更广阔的大陆与更广大的世界。”保罗或许想凭自己的热心先把亚洲范围全部福音化,但神的心意或许可见更深、更迫切,他要保罗立刻前往欧洲大陆,那里的灵魂在等候救恩。所以,神用“道路关闭”的方式将保罗引向特罗亚,又借着异象给予清晰的指示。这也成为现今教会学习的榜样:当圣灵开门或关门时,我们要敏锐顺从。 张大卫牧师常常称当代教会为“正在续写《使徒行传》第29章的教会”。因为《使徒行传》虽然到第28章就结束了,但纵观教会历史,圣灵持续带领教会,福音也一直拓展至地极。换言之,当今的教会实则在续写“使徒行传29章、30章”。从这个角度看,耶路撒冷会议所展现的“群体合一与决定”、保罗与巴拿巴冲突所显明的“在冲突中实现更大拓展的恩典”,以及马其顿异象所代表的“圣灵具体带领”,都成为构建“使徒行传29章式教会”的核心原则。 特别值得注意的是,张大卫牧师提醒说,仅仅拥有教会开拓的热情并不能满足宣教需要。每在一处开拓教会,都应该规划如何长期关心、牧养当地的信徒,帮助他们走向自立。正如保罗所说:“我们再回到各城,看望弟兄如何”(徒15:36)。如果教会只是建立后就放任不管,就像父母生下孩子却不养育一样,是非常不负责任的。因而,传福音与开拓之后,必然需要“关怀”与“持续的牧养”紧随其后,而这一切也都在圣灵的主宰之中进行。 当教会在圣灵带领下不断拓展之时,难免会遇到意想不到的冲突或阻碍。就像保罗在小亚细亚被阻挡一样,今天也有可能因为政治变动、国际局势、签证问题、当地教会内部矛盾等多重原因而受阻。但张大卫牧师一再强调:“被拦阻并不意味着结束。”或许在被拦阻之处,神早已安排好他人或另一间教会继续接力;也或许神已经为我们打开了另一条更需要的道路。因此,宣教开拓者在遭遇阻碍时,不是泄气,而应当更加敏锐地寻求那些已经开启的新门,继续“勇往直前”。 综上所述,信仰群体当以“唯靠信心、唯靠恩典”的救恩真理为中心。当教会内部产生冲突时,应当透过祷告和彼此合意来彼此建造;而在教会开拓方面,更要谨遵圣灵的带领,将福音传到更广阔的地方。整个过程中,教会不断成长,也使福音能超越各种文化与国境,这正是《使徒行传》传递给我们的信息。当我们遵照耶路撒冷会议的结论,专注于救恩的本质,不用律法捆绑人心;如同巴拿巴与保罗的事迹那样,在冲突之中依旧不放弃彼此;最终顺从圣灵的带领,教会就能在各样处境中传扬主的福音。 张大卫牧师在引用《使徒行传》第15~16章的信息时,呼吁现代教会:“必须尊重像耶路撒冷会议这样具有公教会性与教义性的决定和传统,但若要真正落实在教会现场,就需要巴拿巴、保罗,以及马可这样各种不同角色的同工一起配合。即便过程中发生冲突,也不要走向毁灭性的分裂,反而可能通过冲突迎来福音疆界的拓展。关键在于教会是否拥有呼求并顺服圣灵带领的灵性,如此才能将‘使徒行传29章’继续谱写下去。”不论教会已历经30周年、50周年,还是刚刚开拓不久,这些原则始终适用。 最终,我们认识到,教会既是“被召聚的人”的群体,同时也肩负着“走出去召人归主”的使命。那群唯靠信心、唯靠恩典得救的人彼此相顾,又走向世界见证福音,在此过程中圣灵的大能与带领会不断彰显。耶路撒冷会议的结论、巴拿巴与保罗的分歧,以及马其顿异象所象征的《使徒行传》15~16章的故事,都在催促我们不要停留在过去的会议或决定上,而要在新的环境下“继续拓展宣教的疆域”。 张大卫牧师还说:“如今是一个新时代,五大洋六大洲都成为我们的教区。”在这个与以往不可同日而语的高速交通与通讯时代、文化交流机遇空前的时代,教会更要敏锐地顺从圣灵的带领,迈开脚步。同时,对于那些被派往海外的宣教士与开拓教会,也切忌让他们孤单前行;正如耶路撒冷会议之后,巴拿巴和保罗去探望各地教会一样,我们也要不断走访、教导并鼓励他们。唯有如此,主“爱他们到底”(约13:1)的心肠才能借着教会彰显,也唯有如此,教会才能在世上任何角落仍然坚守并见证福音的大能。 即使《使徒行传》的年代与我们今天身处的现实有着巨大的时空差异,但“唯靠信心、唯靠恩典”的救恩中心、“在冲突中反而带来更广阔拓展的教会”这一属灵原则,以及“顺从圣灵带领的开拓与关怀”这三大要点依旧有效。张大卫牧师向我们发出挑战,要将这些真理具体运用在牧会、宣教以及教会未来的蓝图之中。他宣告说:“直到主再来之前,教会不会停止前进。即使发生冲突,也会走向更大的合一;即使被阻挡,也会出现别的开放之门;最终必使万国万民都充满对主的认识。”这正是从耶路撒冷会议开始、延续到21世纪的初代教会美好传统。建立在此传统之上的现代教会,也必能更加坚固地迈步向前,让福音传遍世界各地众多失丧的灵魂。这就是《使徒行传》仿佛“开放式结尾”般给予我们的——“续写使徒行传29章”的挑战。

エルサレム会議 – 張ダビデ牧師

1.エルサレム会議と教会の伝統 – 「ただ信仰によって」「ただ恵みによって」 使徒の働き15章に描かれているエルサレム会議は、教会史において非常に重要な転換点となった。律法を守らない異邦人信者や、自分たちと異なる文化・伝統を持つ人々も、イエス・キリストを信じれば同じように救われるのかという熱い議論がその核心にあった。この会議で使徒たちは、「救いに至る唯一の道は、ただ信仰によって、ただ恵みによって」という真理を明確に宣言した。これによって教会は普遍性を帯び、地域や伝統的境界を超えて広がる土台を築いたのである。さらにこの決定は、後に世界宣教の基礎として働き、多くの民族・言語・文化の中へ福音が伝わる歴史の道を切り開くことになった。 張ダビデ牧師は、エルサレム会議で使徒たちが下した決定について「教会が信仰と職制という二つの軸を持ち、いかに同じ信仰の上で答えを出したかを示すモデル」だと強調する。教会内で意見の相違が生じた時に、ただ自分の主張や偏見だけを押し通すのではなく、使徒や長老たちの判断とともに、祈りと御言葉を中心とした分別を必ず経て、キリストと使徒たちの土台の上に建て上げられるべきだと力説する。張ダビデ牧師は、これこそが教会の美しい伝統だと見る。すなわち「信仰と恵み」という救いの基本的真理を損なうことはせず、しかし礼拝や奉仕、交わりなどにおいて生じ得る様々な問題は、祈りつつ互いに合意を重ねていく過程を経ることでこそ、教会の一致と拡大が可能になるというのである。 バルナバとパウロは、このエルサレム会議が終わった後、異邦人教会を再び訪れようと出発する(使徒の働き15:36)。彼らは第1次伝道で種をまいた異邦人教会がしっかり育っているかを「訪問」し、彼らの信仰状態を点検するために旅立つことに合意する。エルサレム会議で「異邦人信者にこれ以上重い律法のくびきを負わせない」という結論を得たとしても、それが実際に教会員たちの生活の中でどう適用されているのか確認するためには、必ず再訪問が必要だったのだ。種をまいて終わりではなく、水をやり雑草を抜くように、教会と聖徒を継続的にケアしなければならないという事実を強く想起させるのである。張ダビデ牧師が説教やセミナーで絶えず強調するのも、まさにこの「養育」と「継続的なケア」だ。 張ダビデ牧師が語る「教会成長の秘訣」は、大規模イベントや一時的な熱情だけで成し遂げられるものではなく、イエス・キリストの福音を伝えた後、その魂を最後まで責任をもってケアしようとする粘り強い牧会と霊的な保護にかかっているという考えである。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」与えられる救いを、より実感をもって享受するためには、救いの神秘を聞いた人々が試練や誘惑の中でも揺らがないよう、絶えず御言葉と祈りで育てなければならない。まさに「もう一度訪問しよう」と決意したパウロとバルナバの行動に、現代の教会成長の霊的原理が凝縮されているのだ。 エルサレム会議の核心的結論の一つである「異邦人の兄弟たちに重荷を負わせない」という決定は、教会の普遍性を拡張し、福音そのものの力を示す決定的な契機となった。同時に、この決定が実際の牧会現場で実を結ぶためには、バルナバやパウロのような指導者たちが各教会を回り、その決定内容を教え、定着させる追加のプロセスが必要だった。張ダビデ牧師が日頃から強調することも、この点と軌を一にする。つまり、総会や会議の結論がいかに素晴らしく宣言されたとしても、教会現場にそれが根付き、実を結ぶためには「訪問」と「点検」を通した地道な牧会が不可欠だというのである。 結局、エルサレム会議の意義は、教会共同体が「信仰と恵み」によって集い、教会法的あるいは神学的な問題が生じた時、共に集まって祈りと議論を通じて分別し、合意するという伝統を確立した点にある。そしてこの伝統は教会史を貫き、今日に至るまで教会が互いにつながり、共に成長し、一つの肢体として動く原動力となってきた。張ダビデ牧師は「私たちもそうあるべきだ」と挑戦し、教会が長い宣教の歴史の中で築き上げてきたこの「信仰と職制の健全なバランス」に倣わなければならないと力説する。 2.バルナバとパウロ、そしてマルコの葛藤と和解の霊性 使徒の働き15章後半で描かれる、パウロとバルナバの間に生じた葛藤は非常に興味深い主題である。バルナバは、第1次伝道旅行の途中で離脱したマルコ(ヨハネ)にももう一度チャンスを与えようとし、同行を提案した。しかしパウロは「パンフィリアで私たちを離れ、困難な働きを共にしなかった者(マルコ)を連れて行くのは正しくない」(使徒の働き15:38)と強硬に反対した。その結果、二人は「激しく対立」して別々の道を行くことになり(15:39)、バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを選び小アジア地方を回りながら教会を建てていくことになる。 張ダビデ牧師は、この場面を「教会の大きな視点で見るなら、決して破滅的な分裂ではなく、より大きな働きへ拡張するための合理的な分岐点だった」と解釈する。バルナバはマルコという「気は弱いが大切な素材」をあきらめず、もう一度立ち上がれるように世話しようとした。一方パウロは開拓者としての召命を堅く握りしめ、「臨戦無退」の姿勢で福音伝道の最前線へ突き進もうとした。どちらが正しく、どちらが間違っているという二分法的な基準ではなく、両者とも教会のための真実な熱意を持ち、それぞれ別の働きの方向を選んだと見るのが適切だろう。 その結果、バルナバとマルコはキプロスで引き続き福音伝道を行い、後にマルコはペテロの通訳者であり福音書の筆者として『マルコの福音書』を遺した人物になったと伝えられている。パウロもまた、第2次宣教旅行でシラス、そしてルステラとデルベで出会ったテモテらを同労者として迎え、小アジアを越えてヨーロッパ(マケドニア)まで福音を伝えることに成功する。教会の本質的使命をめぐって両使徒は衝突したが、その後、より広い地域へ福音が広がっていった。そして最終的に、パウロがテモテへの手紙やピレモンへの手紙でマルコを必要としている事実からも分かるように、後には再び回復された同労関係に戻っていくのだ。 張ダビデ牧師は、この出来事から「教会の働きは一様ではあり得るが、それぞれ異なることがある」という点と、「最後まで人を見捨てずに支える心」という二つの重要な教訓を見出す。第一に、パウロとバルナバが別れたことは「神の御心に背く大きな不和」ではなく、神が一方を険しく積極的な開拓現場へ、もう一方を一人の魂を丁寧にケアしながらその賜物を活かす方向へと導く摂理だったという視点である。ある人は一時的に最前線の福音の戦場を担うのが難しい場合もあるし、またある人は戦場に立つに十分な体力や決心、揺るがぬ意志が必要な時期もある。神はこうした多様な人をそれぞれの道へと導き、結局は福音を拡張していく。 第二に、バルナバが示した姿は「落胆した魂を支え続ける牧者らしさ」である。最初にパウロをエルサレム共同体に紹介し、彼を使徒として認めさせるよう助けたのもバルナバだった(使徒の働き9:27)。そして弱々しく見えるマルコを受け入れ、再びチャンスを与えて、後に福音書の筆者として成長する道を開いたのもバルナバである。誰でも長所と短所を持っているが、バルナバは相手の可能性に注目し、最後まであきらめない愛を実践した。張ダビデ牧師は、この点を現場の牧会に適用し、教会内部で葛藤が起こったり誰かが傷ついて去った場合でも、最後までその人に対する教会の責任感を手放してはならないと何度も説く。 最終的に、バルナバとパウロの葛藤を通して見えるのは、教会が「勝者と敗者」という観点で評価されるものではなく、キリストにあって役割は違っても一つの身体として完成していく構造だということだ。教会を脅かすもっと大きな葛藤は、互いの非難や分裂であり、この場面で現れた葛藤はあくまで「働きの路線の分岐」だった。そして結果的には宣教が拡大し、後の和解、さらにはマルコ福音書という驚くべき実りを結んだ。これを指して張ダビデ牧師は「キリストの身体は壊れない。葛藤はあっても、より大きな一致のための過程になり得る」と語る。そしてもし教会が互いに傷しか残さない「破滅的な分裂」へ向かうならば、それは聖霊の実ではないと断言する。結局、教会はイエス・キリストの恵みによって共にある時、どんな葛藤も神のご計画の中で回復と拡張のための通路となり得るのだ。 3.開拓、ケア、そして聖霊の導き – 宣教の未来 パウロ一行は第2次伝道旅行に出発し、シリア・キリキアなど小アジアの各地域を巡りながら教会を「強めて」(使徒の働き15:40-41)、エルサレム会議で決まった教理的・実践的な指針を伝え、信仰の上に堅く立つよう励ましていく。この過程は教会の質的成長をもたらし、日ごとに人数が増えるリバイバルの実を結んだ(使徒の働き16:5)。張ダビデ牧師は「教会が信仰と職制を正しく守るなら、教会は爆発的に成長する」と力説するが、それは初代教会が実際に経験した事実でもある。 ところが興味深いのは、パウロが小アジア(当時のトルコ西部)で御言葉を伝え続けようとしたものの、「聖霊がアジアで御言葉を語ることを許されなかった」(使徒の働き16:6)という箇所だ。さらに続けて「ムシアの辺りに来てビテニアへ行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(16:7)とも証言している。パウロは誰よりも宣教への情熱にあふれた人物だが、聖霊とイエスの御霊が阻まれるならば、そこでは立ち止まるしかなかった。結局、トロアスに下った時、「マケドニア人が渡って来て私たちを助けてくださいと願う」幻(16:9)を見て、パウロはヨーロッパ大陸(マケドニア地方)へ第一歩を踏み出すこととなる。 こうした「聖霊の導き」に従うことこそ、教会開拓と宣教の本質的エネルギーだ。張ダビデ牧師は、パウロ一行のマケドニア進出について「神が、より大きな大陸、より大きな世界へ福音が広がることを望んでおられた」と解釈する。パウロとしては人間的な熱意からいえば小アジア地域をすべて宣教したかったかもしれないが、主はそれ以上に切実な必要を抱えるヨーロッパの地へ早く渡ることを望まれたのだ。そのためパウロを「行き詰まり」という形で導き、最終的には幻を通して明確な指針を与えられた。これは今日の教会にとっても「聖霊の導きと、開かれたり閉ざされたりする扉の神の摂理に敏感に従わなければならない」という手本となる。 張ダビデ牧師はしばしば現代の教会を「使徒の働き29章を書き続けている教会」と呼ぶ。使徒の働きは28章で終わるが、教会史をよく見れば、その後もずっと聖霊が教会を導き、福音が地の果てに至るまで拡張されているからである。事実、今日を生きる教会こそが使徒の働き29章、30章を続けて書いているともいえるのだ。そう考えると、エルサレム会議に象徴される「共同体の合意と決断」、バルナバとパウロの葛藤事件に象徴される「葛藤の中でもさらに大きな拡張へと向かう恵み」、そしてマケドニアの幻に象徴される「聖霊の具体的な導き」は、いずれも使徒の働き29章の教会を建て上げる核心的な原理として作用する。 特に張ダビデ牧師は、教会が開拓の情熱だけを持って動き回るだけでは不十分だと言う。開拓した先々で、その地の信者を最後までケアし育成する計画を立てるべきであり、現地教会が自立できるように共に協力すべきだと強調する。これはパウロが「主の御言葉を伝えたすべての町々へ再び行って、兄弟たちがどうしているか訪問しよう」(使徒の働き15:36)と言ったことと一致している。もし教会を建てておいて放置すれば、親が子を産みっぱなしで世話をしないのと同じく無責任な行為となる。結局、伝道と開拓の後には必然的に「ケア」と「継続的な牧会」が伴わねばならず、そのすべての過程を聖霊が直接主宰されるのだ。 こうして聖霊の導きに従いながら教会を拡張していくと、時に思いがけない葛藤や行き詰まりに直面することがある。パウロが小アジアで道を閉ざされたように、道が閉ざされる瞬間が来るかもしれない。現代的な文脈で見れば、地域の政治的変動、国際情勢の問題、ビザの取得、現地共同体内の対立など、さまざまな要因によって妨げられることがあるだろう。だが、張ダビデ牧師は「行き詰まりがすぐ終わりを意味するのではない」と何度も言及する。そこで閉ざされた場所には、他の人々や他の教会が入っていく準備が進んでいるかもしれないし、神はもっと切実に必要としている地域への門をすでに開いておられるかもしれない。だからこそ教会開拓者たちは、行き詰まりに直面しても落胆するのではなく、どこかで開かれている新たな門を探して「Moving Forward(前進)」し続ける必要がある。 結局、信仰の共同体は「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの真理を中心軸とし、教会内で葛藤が生じた時には祈りと合意を通して互いを立て合い、聖霊の導きに従って歩んでいかなければならない。このすべての過程を通じて教会は成長し、さらに広い地域へと福音を広げる。エルサレム会議の結論に従い救いの本質に集中すれば、律法で人々を縛ることはなくなり、バルナバとパウロの葛藤の中からは、最後まで人を見捨てずに建て上げる愛の姿が現れ、最終的に聖霊に導かれる教会はどんな文化や国境も超えて主の福音を伝え得る。これが使徒の働きが私たちに語るメッセージだ。 張ダビデ牧師はこうした使徒の働き15~16章のメッセージを現代教会に適用し、「エルサレム会議のような教理的・公同教会的な決定と伝統を尊重しつつ、それを実際に実行するためには、バルナバとパウロ、そしてマルコのように多様な人材の役割がすべて必要だ。そこでは葛藤が生じうるが、決して破滅的な分裂に陥ることなく、むしろ福音の領域を広げる恵みがある。その中心には聖霊の導きに従い、従順する霊性があってこそ、教会は使徒の働き29章を書き続けることができるのだ」と力を込めて語る。教会が30周年を迎えようと、50周年を迎えようと、あるいは開拓されたばかりであろうと、この原理は変わらないというわけだ。 結局、教会とは「召された人々の集まり」であると同時に、「召された人々がさらに人々を召しに行く使命共同体」でもある。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」救われた者たちが互いをケアしつつ世に出て福音を証しするとき、その中心で聖霊の導きが働く。エルサレム会議の結論、バルナバとパウロの分岐、そしてマケドニアの幻に象徴される使徒の働き15~16章の出来事は、教会が過去の会議や決定にとどまらず、新しい状況の中で「宣教の場を絶えず広げ続ける」よう促している。 張ダビデ牧師は「今、新しい時代が来た。五つの大洋と六つの大陸が私たちの教区となった」と語り、かつてとは比較にならないほど交通や通信手段が発達し、多様な文化交流の機会が開かれている現代こそ、教会が聖霊の導きにさらに敏感になって動く時だと主張する。そして同時に、海外に派遣された多くの宣教師や開拓教会をただ孤立させておいてはならず、エルサレム会議後にバルナバとパウロが各教会を訪ねたように、絶えず訪問し、育成し、励まし合わなければならないと喚起する。そうしてこそ「最後まで愛してくださった」(ヨハネ13:1)主の御姿が教会を通して現れ、どんな場所でもくじけることのない福音の力を証しできるからである。 結局、使徒の働きの歴史と、私たちが直面している現実の間には多くの時空間的な相違があるにもかかわらず、「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの本質、「葛藤を通してより大きく拡張していく教会」という霊的原理、「聖霊の具体的な導きに従った開拓とケア」という三つの柱は変わらず有効である。張ダビデ牧師は、これらを私たちの実際の牧会や宣教、そして教会の将来ビジョンに反映させるべきだと挑戦し、「主が再臨されるその日まで、教会は前進をやめない。葛藤があってもより大きな一致へ帰結し、行き詰まっても別の門が開かれ、ついにはすべての国々が主を知る知識で満たされるようになる」と宣言する。こうしてエルサレム会議から始まった初代教会の美しい伝統は21世紀にも受け継がれ、その伝統の上に現代教会が堅く立ち、世界各地の魂へと向かっていける――それこそが、使徒の働きが「オープンエンド(開かれた結末)」のように私たちに提示する「使徒の働き29章の挑戦」なのである。

예루살렘 회의 – 장재형(장다윗)모사

1. 예루살렘 회의와 교회의 전통 – 믿음으로만, 은혜로만 예루살렘 회의(사도행전 15장)는 교회의 역사 속에서 매우 중요한 전환점이 되었다. 율법을 지키지 않는 이방신자들이나, 혹은 그와 다른 문화·전통을 가진 사람들도 예수 그리스도를 믿으면 동일하게 구원받을 수 있느냐를두고 일어난 뜨거운 논의가 그 핵심이었다. 이 회의에서 사도들은 “구원에 이르는 유일한 길은 믿음으로만, 그리고 은혜로만”이라는 진리를 분명하게 천명했고, 이 결정을 통해 교회는 보편성을 지니면서도 지역과 전통적경계를 초월할 수 있는 토대를 마련하게 되었다. 그리고 이 결정은 장차 세계 복음화의 기초로 작용하여, 수많은민족과 언어, 문화 속에 복음이 전해지는 역사의 길을 연 셈이 되었다. 장재형목사는 예루살렘 회의에서 사도들이 한 결정을 ‘교회가 신앙과 직제라는 두 축을 가지고 어떻게 하나의믿음 위에서 해답을 내렸는가’를 보여주는 모델로 강조한다. 교회 내에서 이견이 생길 때, 오로지 자기 주장이나편견만 내세우는 것이 아니라, 사도들과 장로들의 판단과 함께 기도와 말씀 중심의 분별을 반드시 거치며, 그리스도와 사도들의 터 위에서 건설되어야 한다는 점을 역설한다. 장재형 목사는 이것이 교회의 아름다운전통이라고 본다. 곧, “믿음과 은혜”라는 구원의 기본 진리를 훼손하지 않되, 그 외에 예배나 봉사, 교제 등에서생길 수 있는 여러 문제들은 기도하며 서로 합의해 나가는 과정을 거쳐야 교회의 연합과 확장이 가능하다고 본다. 바울과 바나바는 이 예루살렘 회의가 끝난 뒤, 이방 교회들을 돌보러 다시 나서게 된다(행 15:36). 그들은 1차전도를 통해 씨앗을 뿌린 이방 교회가 잘 자라고 있는지를 ‘방문’하고, 그들의 신앙 상태를 점검하기 위해 길을떠나기로 합의한다. 예루살렘 회의에서 ‘이방 신자들에게 더 이상 무거운 율법의 짐을 지우지 말자’라는 결론을얻은 뒤에도, 실제로 그것이 교인들의 삶에 적용되고 있는지를 확인하기 위해서는 반드시 재방문이 필요했다. 이는 “씨를 뿌렸으니 끝”이 아니라, 계속해서 물을 주고 잡초를 뽑아야 하는 것처럼, 교회와 성도들을 지속적으로돌보아야 한다는 사실을 강하게 일깨운다. 장재형 목사 역시 설교나 세미나를 통해 끊임없이 강조하는 부분이바로 이 ‘양육’과 ‘지속적인 돌봄’이다. 장재형 목사가 말하는 ‘교회성장의 비결’은 거대한 이벤트나 일시적인 열정만으로 되는 것이 아니라, 예수그리스도의 복음을 전한 후 그 영혼을 끝까지 책임지고 돌보려는 끈질긴 목양과 영적 보호에 달려 있다고 보는것이다. “믿음으로만, 은혜로만” 얻는 구원을 더욱 실질적으로 누리게 하려면, 구원의 신비를 들은 그들이 시험과유혹 속에서도 흔들리지 않도록 꾸준히 말씀과 기도로 양육해야 한다. 바로 그 ‘다시 방문하자’는 바울과바나바의 결의에 오늘날 교회성장의 영적 원리가 압축되어 있다. 예루살렘 회의의 핵심 결론 중 하나인 “이방의 형제들에게 무거운 짐을 지우지 말자”라는 결정은 교회의보편성을 확장하고, 복음 자체의 능력을 드러내는 결정적 계기가 되었다. 그와 동시에 이러한 결정이 실제 목회현장에서 결실을 맺으려면, 바나바와 바울 같은 지도자들이 각 교회로 돌아가서 그 결정 내용을 가르치고체화시키는 추가 과정이 필요했다. 장재형 목사가 평소 강조하는 부분도 이와 일맥상통한다. 즉, 총회나 회의의결론이 아무리 아름답게 선포되었다 해도, 교회 현장에 그것이 뿌리내리고 열매 맺기 위해서는 ‘방문’과 ‘점검’을통한 꾸준한 목양이 반드시 뒤따라야 한다는 점이다. 결국 예루살렘 회의의 의의는 교회 공동체가 ‘믿음과 은혜’로 모이고, 교회법적 혹은 신학적 이슈가 생겼을 때, 함께 모여 기도와 토론을 통해 분별하고 합의하는 전통을 확립한 데 있다. 그리고 이 전통은 교회 역사의 흐름을관통하면서, 오늘날까지 이어져 교회가 서로 연결되고, 함께 성장하며, 하나의 지체로서 움직이는 동력이 되어왔다. 장재형 목사는 “우리도 그러해야 한다”라고 도전하면서, 교회가 오랜 선교 역사에서 구축해온 이러한‘신앙과 직제의 건강한 균형’을 본받아야 한다고 역설한다. 2.바나바와 바울, 그리고 마가의 갈등과 화해의 영성 사도행전 15장 후반부에서 바울과 바나바 사이에 생긴 갈등은 매우 흥미로운 주제다. 바나바는 1차 전도여행도중 떠났던 마가(요한)도 다시 데리고 가서 기회를 주자고 주장했고, 반면 바울은 “밤빌리아에서 우리를 떠나어려운 사역을 함께하지 않았던 이(마가)를 데려가는 것은 옳지 않다”(행 15:38)라고 강경하게 반대했다. 결국둘은 ‘서로 심히 다투어’ 갈라서고(15:39), 바나바는 마가를 데리고 구브로(사이프러스)로 가고, 바울은 실라를택하여 소아시아 지역을 돌며 교회를 세운다. 장재형 목사는 이 장면을 ‘교회의 큰 그림에서 보자면, 결코 파멸적인 분열이 아니라 더 큰 사역으로 확장되기위한 합리적 분기점이었다’고 해석한다. 바나바는 마가라는 ‘심약하지만 소중한 재목’을 포기하지 않고 돌보며다시 일으켜 세우고자 했고, 바울은 개척자적 소명에 굳게 서서 “임전무퇴”의 자세로 복음 전선의 최전방을파고들고자 했다. 누가 옳고 그르다는 2분법적 기준으로 이 갈등을 재단하기보다는, 두 사람 모두 교회를 위한진실한 열심을 가지고 다른 사역 방향을 택했다고 보는 것이 적절하다. 그 결과 바나바와 마가는 구브로에서 복음 전도를 지속하며, 훗날 마가는 베드로의 통역자이자 복음서기록자로서 ‘마가복음’을 남긴 인물이 되었다고 전해진다. 바울 역시 2차 선교여행에서 실라, 그리고 루스드라와더베에서 만나게 된 디모데 등을 동역자로 삼으며 소아시아를 넘어 유럽(마케도니아)까지 복음을 전파하는 데성공한다. 교회의 본질적 사명을 놓고 두 사도가 갈등을 빚었지만, 그 갈등 이후 더 넓은 지역에 복음이퍼져나갔다. 그리고 종국에는 바울이 디모데 후서나 빌레몬서에서 마가를 필요로 할 만큼, 서로 다시 회복된 동역관계로 돌아오게 된다. 장재형 목사는 이 사건에서 ‘교회 사역이 다를 수 있다는 것’과 ‘끝까지 사람을 붙들어 주는 마음’이라는 두 가지를중요한 교훈으로 삼는다. 첫째, 바울과 바나바가 갈라선 것은 “하나님의 뜻을 거역하는 엄청난 불화”라기보다는, 하나님께서 한쪽은 험난하고도 적극적인 개척 현장으로, 다른 한쪽은 한 영혼을 세밀히 돌보며 재능을발휘하도록 하기 위한 섭리였다는 시각이다. 어떤 사람이 일시적으로 복음 전선의 최전방을 감당하기 어려울 수있고, 어떤 사람은 전장에 서기에 충분한 체력과 결심, 단호함이 필요한 시기가 있다. 하나님께서는 이처럼다양한 사람들을 각자의 길로 이끄시며 결국 복음을 확장하신다. 둘째, 바나바가 보여준 모습은 ‘낙심한 영혼을 붙들어 주는 목자다움’이다. 처음 바울을 예루살렘 공동체에소개해주고, 그를 사도로 인정받게 하는 데 도움을 준 이도 바나바였다(행 9:27). 그리고 나약해 보이는 마가를껴안고 다시 기회를 주어 훗날 복음서 기자로 성장할 수 있게끔 인도한 이도 바나바였다. 누구나 강점과 약점이있는데, 바나바는 상대방의 가능성에 주목하여 포기하지 않는 사랑을 실천했다. 장재형 목사는 이 점을 현장목회에 적용하여, 교회 내부에서 갈등이 일어나거나 누군가가 상처받고 떠난 경우에도, 끝까지 그 사람을 향한교회의 책임감을 놓지 말아야 한다고 거듭 가르친다. 마침내 바나바와 바울의 갈등을 통해, 교회는 단순히 ‘이긴 사람과 진 사람’의 패턴으로 평가되는 것이 아니라, 그리스도 안에서 각각의 역할이 달라도 하나의 몸으로 완성되는 구조임을 볼 수 있다. 교회를 위협하는 더 큰갈등은 서로의 비방과 분열이지만, 이 장면에서 드러난 갈등은 ‘사역 노선의 분기’였고, 결과적으로는 확장된선교와 훗날의 화해, 그리고 마가복음이라는 놀라운 결실을 낳았다. 이를 두고 장재형 목사는 “그리스도의 몸은부서지지 않는다. 갈등은 있지만 더 크게 하나 되기 위한 과정일 수 있다”고 말하며, 만일 교회가 서로에게 상처만주는 ‘파멸적 분열’로 가버리는 것이라면, 그것은 성령의 열매가 아니라고 단언한다. 결국 교회는 예수그리스도의 은혜로 함께할 때, 어느 갈등도 하나님의 계획 안에서 회복과 확장을 위한 통로가 될 수 있다는것이다. 3.개척, 돌봄, 그리고 성령의 인도 – 선교의 미래 바울 일행은 제2차 전도여행을 위해 떠나면서, 소아시아 여러 지역(수리아·길리기아 등지)을 다니며 교회를‘굳게 세운다’(행 15:40~41). 그들은 예루살렘 회의에서 결정된 교리적·실천적 지침들을 전달하고, 믿음 위에 굳게서도록 격려했다. 이러한 과정은 교회의 질적 성장을 이끌어내고, 날마다 숫자가 더해지는 부흥의 열매로이어졌다(행 16:5). 장재형 목사는 “교회가 신앙과 직제를 잘 지키면 교회는 폭발적으로 성장한다”라고역설하는데, 그것은 초대교회가 경험한 사실이기도 하다. 그런데 흥미로운 점은, 바울은 계속해서 아시아 지역(당시 소아시아, 지금의 터키 서부)에서 말씀을 전하고자했으나 “성령이 아시아에서 말씀을 전하지 못하게 하셨다”(행 16:6)라는 구절이다. 그리고 이어서 “무시아 앞에이르러 비두니아로 가고자 애썼으나 예수의 영이 허락하지 않았다”(16:7)라고 증언한다. 바울은 사역 의욕이누구보다 넘치는 인물인데도, 성령과 예수의 영이 막으시면 멈추어야 했다. 결국 드로아로 내려갔을 때, ‘마케도니아 사람 하나가 건너와 우리를 도우라’(16:9)라고 간청하는 환상을 보게 되고, 바울은 유럽대륙(마케도니아 지방)으로의 첫 발을 내딛는다. 이처럼 ‘성령의 인도’를 잘 따르는 것이야말로 교회 개척과 선교 사역의 본질적 동력이다. 장재형 목사는 바울일행의 마케도니아 진출을 두고, “하나님께서 더 큰 대륙, 더 큰 세계로 복음을 퍼뜨리길 원하셨다”고 해석한다. 바울은 인간적 열심으로는 아시아 지역을 모두 선교하고 싶은 마음이 컸을 수 있지만, 주님께서는 그보다 더시급한 영혼들이 있는 유럽 대륙으로 빨리 건너가기를 원하셨던 것이다. 그래서 바울을 ‘길 막힘’이라는 형태로이끄셨고, 결국 환상을 통해 분명한 지침을 주셨다. 이는 오늘날 교회도 “성령님의 인도하심과 문을 여시고닫으시는 섭리에 기민하게 순종해야 함”을 보여주는 본보기다. 장재형 목사는 종종 현대 교회를 ‘Acts 29를 써 내려가는 교회’라고 일컫는다. 사도행전은 28장으로 끝나지만, 교회사를 자세히 살펴보면, 그 이후에도 성령께서 계속 교회를 인도하고, 복음이 땅끝까지 확장되고 있기때문이다. 사실상 오늘을 살아가는 교회가 사도행전 29장, 30장을 이어 쓰고 있다는 의미다. 그런 점에서, 예루살렘 회의로 대표되는 ‘공동체 합의와 결단’, 바나바와 바울 갈등 사건으로 대표되는 ‘갈등 속에서도 더 큰확장으로 나아가는 은혜’, 그리고 마케도니아 환상으로 대표되는 ‘성령의 구체적 인도’ 등은 모두 Acts 29 교회를건설하는 핵심적인 원리로 작용한다. 특히 장재형 목사는 교회가 개척 열정만 갖고 열심히 움직이는 것으로 충분치 않다고 말한다. 개척지마다 성도를끝까지 돌보고 양육할 계획을 세워야 하고, 현지 교회가 자립할 수 있도록 함께 협력해야 한다고 강조한다. 이는바울이 “우리가 주의 말씀을 전한 각 성으로 다시 가서 형제들이 어떠한가 방문하자”(행 15:36)라고 한 것과일치한다. 만일 교회를 세워놓고 그대로 방치한다면, 부모가 자식을 낳아놓고 돌보지 않는 것과 똑같이 무책임한일이 된다. 결국 전도와 개척 이후에는 필연적으로 ‘돌봄’과 ‘지속적 목양’이 뒤따라야 하고, 그 모든 과정을성령께서 친히 주관하신다. 이처럼 성령의 인도를 받으며 교회를 확장해가다 보면, 때로는 예기치 못한 갈등이나 막힘에 부딪힐 때가 있다. 바울이 아시아에서 막혔던 것처럼, 길이 닫히는 순간이 찾아올 수 있다. 현대적 맥락에서 보면, 지역의 정치적변동, 국제정세 문제, 비자 발급 문제, 현지 공동체 내 갈등 등 다양한 요인으로 막힐 수 있다. 그러나 장재형목사는 “막힘이 곧 끝이 아님”을 누누이 언급한다. 막힌 곳에는 다른 사람들이나 다른 교회가 이어서 들어갈준비를 하고 있을 수도 있고, 하나님께서는 더 절박한 어느 지역으로의 문을 이미 열어두셨을 수 있다. 그러므로교회 개척자들은 막힘 앞에서 낙심하기보다, 어디선가 열려 있을 새로운 문을 찾아 “Moving Forward” 해야 한다. 결국 믿음의 공동체는 “믿음으로만, 은혜로만”이라는 구원의 진리를 중심 축으로 삼고, 교회 내 갈등이 생길 때는기도와 합의를 통해 서로를 세우며, 성령이 인도하시는 대로 나아가야 한다. 이 모든 과정을 통해 교회는자라나고, 더 넓은 지역으로 복음이 확장된다. 예루살렘 회의의 결론을 따라 구원의 본질에 집중하면 율법으로사람을 얽매지 않게 되고, 바울과 바나바 갈등 속에서 사람을 끝까지 붙들어 세워주는 사랑의 모습이 나타나며, 궁극적으로 성령의 인도를 받는 교회가 어떤 문화와 국경도 초월해 주의 복음을 전할 수 있다는 것이 사도행전이전하는 메시지다. 장재형 목사는 이처럼 사도행전 15~16장의 메시지를 현대 교회에 적용하며, “예루살렘 회의와 같은교리적·공교회적 결정과 전통을 존중하되, 이를 실제로 이행하기 위해서는 바나바와 바울, 그리고 마가와 같은다양한 인물들의 역할이 모두 필요하다. 그 속에서 갈등이 생길 수 있으나 결코 파멸적 분열로 치닫지 않고, 오히려 복음의 지경을 넓혀가는 은혜가 있다. 그 중심에 성령의 인도하심을 구하고 순종하는 영성이 있어야교회가 Acts 29를 계속 써 내려갈 수 있다”라고 힘주어 말한다. 교회가 30주년을 맞이했든, 50주년을 맞이했든, 혹은 이제 막 개척된 지 얼마 되지 않았든, 이러한 원리는 동일하다는 것이다. 결국 교회란 “부름받은 사람들의 모임”이자, 동시에 “부름받은 사람들을 부르러 가는 사명 공동체”다. 믿음으로만, 은혜로만 구원을 얻은 백성이 서로 돌보고 세상으로 나아가 복음을 증언할 때, 그 한가운데서 성령의인도가 역사한다. 예루살렘 회의의 결론, 바나바와 바울의 분기, 그리고 마케도니아 환상으로 상징되는 사도행전15~16장의 사건들은 모두, 교회가 늘 과거의 회의나 결정에만 머무르지 않고, 새로운 상황 속에서 “계속해서선교의 장을 확장해 나갈 것”을 촉구한다. 장재형 목사는 “이제 새로운 시대가 왔다. 다섯 대양과 여섯 대주가 우리의 교구가 되었다”라고 말하며, 과거와는비교할 수 없이 빠른 교통·통신 수단, 다양한 문화 교류의 기회가 열려 있는 오늘날이야말로 교회가 성령의인도하심을 더욱 민감하게 따라 움직여야 할 때라고 주장한다. 동시에, 해외에 파송된 많은 선교사와 개척교회들이 그냥 외롭게 있도록 두어서는 안 되며, 예루살렘 회의 이후 바나바와 바울이 각 교회를 찾은 것처럼, 끊임없이 방문하고 양육하고 격려해야 한다는 점도 상기시킨다. 그래야만 “끝까지 붙들고 사랑하신”(요 13:1) 주님의 모습이 교회를 통해 드러나고, 그때 교회는 세상 어느 곳에서도 꺾이지 않는 복음의 능력을 증언할 수있기 때문이다. 결국 사도행전의 역사와 지금 우리가 직면한 현실 사이에는 많은 시공간적 차이가 있음에도, “믿음으로만, 은혜로만”이라는 구원의 본질, “갈등을 통해 더 넓게 확장되는 교회”라는 영적 원리, “성령의 구체적인인도하심을 따른 개척과 돌봄”이라는 세 가지 축은 변함없이 유효하다. 장재형 목사는 이를 우리의 실제 목회와선교, 그리고 교회의 미래 로드맵 안에 녹여낼 것을 도전하며, “주님이 다시 오실 때까지 교회는 전진을 멈추지않는다. 갈등하더라도 더 큰 연합으로 귀결될 것이고, 막히더라도 다른 문이 열릴 것이며, 끝내 모든 열방이 주를아는 지식으로 충만케 될 것”이라고 선포한다. 이렇게 예루살렘 회의부터 시작된 초대교회의 아름다운 전통이21세기에도 이어지고 있으며, 그 전통 위에 현대 교회가 굳건히 서서 세계 곳곳의 영혼을 향해 나아갈 수 있다는것이, 곧 사도행전이 ‘열린 결말’처럼 우리에게 제시하는 ‘Acts 29의 도전’이다.

Entre les larmes et la vérité – Pasteur David Jang

Introduction : Une perspective sur la Deuxième Épître aux Corinthiens et le parcours théologique du pasteur David JangAu fil de plusieurs décennies de ministère pastoral et de recherche théologique, le pasteur David Jang a su approfondir la compréhension de la Deuxième Épître aux Corinthiens, texte parfois complexe, pour en dégager un message pertinent à l’adresse … Read more

在泪水与真理之间 —— 张大卫牧师与《哥林多后书》的深层解读

引言:从解读哥林多后书的视角看张大卫牧师的神学旅程在当代华人教会与神学语境中,张大卫牧师以数十年的牧会经验与神学研究,为信徒提供了对《哥林多后书》的深入诠释。尽管《哥林多后书》诞生于公元一世纪特殊的历史、文化与宗教处境之中,这封书信却仍对今日教会与信徒的信仰生活产生丰富影响。在张牧师看来,这卷书并非只是保罗与哥林多教会冲突的历史记录,更是带有炽热情感、真理捍卫以及灵性实践的“活的文献”。 保罗并未在该书中构筑抽象的神学体系,而是在面临教会内部混乱、外来虚假教导、跨文化争议以及宣教艰难处境之下,将神学、牧会、属灵实践融为一体,以应对现实问题。张大卫牧师认为,《哥林多后书》深刻体现了福音真理的坚守、恩典为本的救恩论核心、在患难中仰望神的信仰气质、以及对虚假教导的分辨与拒斥。这一切,不仅对一世纪的哥林多教会意义非凡,对于二十一世纪的教会同样是宝贵的资源。 在下文的六个子主题中,我们将更全面地分析《哥林多后书》的核心信息,并探讨其对于张牧师的牧会哲学和当代华人教会的启示意义。透过对历史背景、文本神学、牧会实践以及现代应用的全方位考察,我们期望展现《哥林多后书》那既深沉痛苦、又光芒四射的属灵财富。 1. 哥林多教会的背景与保罗的牧会历程 要深刻理解《哥林多后书》,首先必须回到一世纪的地中海世界,看清保罗与哥林多教会复杂的互动。哥林多是罗马帝国的一座重要商业都市,它坐落在连接希腊本土南北通道的要塞位置,充满多元文化和宗教氛围。这里既有希腊哲学的传统智慧与修辞学传统,也有罗马帝国统治带来的社会结构与法律秩序,更有各式异教崇拜、东方神秘宗教、犹太侨民社区和本地希腊人的生活方式。多元主义和相对主义盛行的哥林多,为刚刚扎根的教会带来了相当的张力与挑战。 保罗在第二次宣教旅程中(约主后50年左右)建立了哥林多教会,这个教会由犹太人、外邦人、社会精英以及下层民众组成。这种多元化使得教会在福音真理的接纳、教会纪律的执行以及属灵恩赐的理解等问题上呈现高度复杂性。正因为如此,保罗在离开哥林多后,不得不不断透过书信、使者以及口头报告关注这间教会的发展。 张大卫牧师通过细致的历史与经文研究,强调保罗并不是在真空中写信,他的牧会历程横跨以弗所、马其顿、亚该亚与耶路撒冷。保罗心系多个教会网络:耶路撒冷母会的贫乏需要、以弗所作为宣教枢纽的挑战、马其顿教会的慷慨榜样、以及外邦宣教拓展时遭遇的政治、宗教迫害。这一立体的图景使我们理解到,《哥林多后书》并非针对孤立事件的理论性回应,而是保罗在错综复杂的处境中,为坚立福音、建造教会、维护真理而作出的“现场性神学反思”。 在这一维度上,张牧师特别指出,当代教会领袖同样面临多元文化、社会思潮冲击与异端渗透的问题。正如保罗需要在跨区域教会网络中为福音原则而战,今日牧者也必须在全球化、数字化以及社会价值观快速变迁的环境中寻求智慧。透过诠释《哥林多后书》,我们看到牧会与宣教的有机交织:既要正视教会内部的纷争与虚假教导,又要回应时代呼声,守护信仰传统。 2. 捍卫福音真理与恩典为中心的救恩论核心 在《哥林多后书》中,保罗坚持的核心信念之一是福音的纯净与真理的不可妥协。福音关乎基督的死与复活这一独特而绝对性的历史事件,这救恩并非来自人类的功德或律法守则,而是出于神单方面的恩典与慈爱。保罗在与割礼派(犹太背景的基督徒团体)以及其他受希腊化思想影响的教师们对话中,时常需要捍卫这一点。当有人试图在福音上加添特定文化、民族或律法条件时,保罗绝不让步。 张大卫牧师强调,保罗在《哥林多后书》中虽然没有像《加拉太书》那样集中讨论律法之役,但仍可见其对福音真理的坚守。不论是犹太律法主义倾向,还是希腊哲学与修辞技巧对福音的影响,都不能使神恩典的本质受到稀释。今日教会或信徒可能不会面对割礼的问题,但却会遇到其他试图“附加条件”的势力,如以特定传统、制度、文化习俗或灵恩经验取代福音中心。张牧师呼吁,任何形式的“加添”都会稀释福音的纯度,将焦点从神的恩典移向人的成就或文化标记。 此外,保罗在《哥林多后书》展现出的恩典神学,不只是一个抽象命题,更是他个人生命经历的体现。在书信中,保罗多次谈到他自身经历患难、软弱、逼迫,却在此过程中更加深刻地体会到神的恩典够用。他在12章谈及自己的“肉中之刺”时,更是将福音的本质与自身软弱关联起来:人的软弱正是彰显神大能与恩典的时机。这意味着福音并非使人夸耀自身的属灵成就或理性能力,而是引领信徒在卑微中仰望基督的全备。 这种以恩典为中心的救恩论在今天的教会语境中尤为重要。当世俗成功学、消费主义、民族主义、教派主义、教会扩张主义不断侵入教会思维时,我们必须回归保罗的核心宣告:唯独恩典、唯独信心、唯独基督。这使得教会在快速变迁的时代背景下,仍能保持对福音本质的忠诚。 3. 患难与安慰的神学,以及群体责任 《哥林多后书》以对“赐各样安慰之神”的颂赞为开端(1:3-11)。这里的“安慰”在原文中不仅指心理层面的抚慰,更是一种神所赐之内在力量与存在勇气。保罗提到自己在亚西亚遭遇巨大的困苦,甚至“断绝了生的指望”,这不是比喻性的夸张,而可能是真实生死存亡的边缘体验。在此极限境遇中,他不靠自己的智慧、力量或人际关系,而是单单仰望叫死人复活的上帝。 张大卫牧师深入探讨这种“患难神学”。在古代世界,患难与苦难常被视为神之审判或人之失败。但保罗却从福音角度为患难重新定位:它成为使徒和信徒更加依靠神、更加明白福音实质的途径。患难引领信徒看到生命的有限与脆弱,从而更全面地理解救恩的恩典。在这个过程中,上帝的安慰并非只是让人逃避苦难,更是让人在苦难中经历神的同在与更新。 与此相关的是《哥林多后书》8-9章中关于奉献与群体互助的教导。保罗呼吁哥林多教会为耶路撒冷贫困的信徒捐献。这不仅是道德性的号召,更是体现福音群体真理的实践:蒙恩者彼此分享恩典,从受赐者转变为施予者。张大卫牧师强调,这一原则可以转化为当代教会的社关行动(社会关怀)与跨文化宣教的推动力。当教会不再只为自身利益而存在,而是为全球教会的需要、为社会弱势群体的利益以及为处境艰难的宣教工场而行动时,就体现了福音的真正力量。 今日,无论是经济衰退、疫病肆虐、社会不公、环境危机、教会内讧或外界敌意,信徒都可从《哥林多后书》的患难神学中汲取养分。教会在患难中若能保持对神的依靠,并以彼此相爱的奉献回应,就能成为将安慰传递给世界的管道。张牧师指出,患难与安慰交织的属灵经验,使教会不只停留在教义宣称上,而是成为活的见证群体。 4. 应对假教师与确立使徒性权威:真理与谦卑的张力 《哥林多后书》后半部(尤其10-13章)中,保罗面临来自“超级使徒”或“假使徒”的挑战。这些人或许拥有出众的修辞才能、哲学知识、属灵经历甚至经济资源,以此获取教会的认可。与他们相比,保罗显得卑微、朴素、无足挂齿,甚至他的外貌、口才、经济独立性都在质疑中。面对这种处境,保罗并未诉诸世俗的权威标准,而是强调使徒权威的基础在于福音的真理与神的呼召。 张大卫牧师认为,这里凸显了教会领袖当如何在面对异端与虚假教导时持守真理的紧要性。保罗既不向世俗标准妥协,也不在虚假教导面前沉默。他在《哥林多后书》中采用一种独特的“愚昧之谈”(愚人自夸)的修辞策略,反语性地与假使徒较量,强调自己的软弱、苦难经历与服侍的真诚。这种方法旨在颠覆当时流行的功利化宗教观念,反转教会对权威与成功的定义。 在当代华人教会中,类似的挑战依然存在。有些教会领袖可能以个人魅力、社会关系、财务实力或人气指标来证明自己,却忽略了灵性深度、真理扎根与服侍牺牲的重要性。张牧师借鉴保罗经验指出:真正的属灵权威并不靠外在条件,而是源于对真理的忠诚、对群体的牺牲与对基督的追随。当假教师或异端试图以似是而非的教导、灵验神迹、名利诱惑影响教会时,牧者与信徒需像保罗一样站立稳固,坚持福音核心,不被蛊惑。 这种权威的确立也关乎谦卑与分辨。保罗并非以居高临下的姿态压制对手,而是透过自我卑微来彰显神的力量。张牧师指出,这给今日教会领袖提供了极为现实的榜样:在坚持真理时不能缺乏爱与谦卑,在捍卫教会纯正时也不可滥用权力。教会领袖需在刚毅与温柔之间保持平衡,以福音为镜,衡量自己与他人的教导与行为。 5. 对今日教会与信徒的实践应用:从文本到生活的转化 张大卫牧师并不满足于将《哥林多后书》当作历史文献或神学教材来阅读。他主张,这卷书应直接影响今日教会的结构、事工策略与信徒的日常生活。通过提炼书信中的原则与精神,教会可在复杂多变的时代里保持灵性方向。 首先,对于牧者与教会领袖而言,《哥林多后书》是一面清晰的镜子: 对于信徒个人而言,《哥林多后书》的实践应用包含多重层面: 张大卫牧师也建议,当代教会应将《哥林多后书》的精神延伸到社会公义与全球宣教层面。在当下的国际局势、贫富差距、环境危机与宗教迫害的阴影下,教会应不只是内部互助,更应超越地域与民族界限,为处境艰难的群体送去实际帮助与福音关怀。这正是保罗所倡导的超文化爱心奉献精神的现代再现。 6. 结论:为灵性“越冬”而预备的教会与成长之路 张大卫牧师在结束对《哥林多后书》的诠释时,常提及保罗在提摩太后书中那句意味深长的话:“你来时要把马可带来,也要将那皮卷带来”(参提后4:11-13)。这象征着在面对漫长寒冬、逼迫、黑暗与不确定性之前,教会与信徒需要以神的话语与福音真理作为灵性储备。就如同农夫在寒冬前储备粮食、木柴与工具,教会也需在属灵寒冬来临之前,藉由深入研读并实践《哥林多后书》来蓄积属灵能量。 《哥林多后书》呈现的不是一个完美无瑕的教会图景,而是一个被争议、矛盾、痛苦、流泪与不解包围的真实现场。在此现场中,保罗并未放弃真理,反而在苦难中更深领会到神的恩典与力量;并未向假教师低头,反而通过卑微与愚拙的方式颠覆世界的权威标准;并未允许教会陷入冷漠,而是通过奉献与爱的行动使福音在现实世界中落地生根。 张大卫牧师深信,今日教会若能效法保罗的精神,以《哥林多后书》为楷模,就能在多元文化与社会变迁中保持福音的纯净与生命力。这样的教会不必惧怕灵性寒冬,因为早已为越冬做好准备:有福音真理作为根基,有相互关怀的群体作为后盾,有面对虚假教导的勇气与智慧作为武装。 在这漫长的旅程中,每位信徒也将经历内在的蜕变。从遭遇患难到接受安慰,从软弱中体现神的恩典,从文化与制度的夹缝中坚守福音真理,从彼此相爱的奉献中活出群体信仰的实质。这些生命经验汇聚成当代教会灵性成长的史诗篇章。 正因如此,张大卫牧师呼吁教会与信徒积极拥抱《哥林多后书》所传递的属灵资源。无论是深冬严寒般的苦境,还是真假难辨的教导,抑或群体凝聚力的挑战,这卷书都可提供方向与安慰。当教会踏着保罗的脚踪,将泪水化为对真理更深的理解,将痛苦转为实践爱的动力,将恩典理念化为生活行动时,《哥林多后书》的精神就不再只是历史档案,而是活泼跳动的灵性心脏,为整个群体提供血液与氧气。 在神的引领下,当教会与信徒借着《哥林多后书》不断反思、悔改、更新与行动,我们将共同走向更丰富、更深沉、更有使命感的灵性季节。如此,这一源于泪水与真理之间的书信,将继续指引教会穿越时代风暴,在恩典与真理的磐石上建立自己,最终成为传扬神爱与安慰的荣耀见证。