장재형목사 설립 올리벳대학교, 성경적 고등교육의 도전 과제 해결을 위해 ABHE 플래그십 학교 총장 회의에 참여

5월 16일부터 18일까지 조지아주 마운틴파인에 위치한 캘러웨이 가든에서 성경적 고등교육협회(ABHE)와 관련된 대표 기관의 저명한 총장들이 모였습니다. 이 모임은 생각을 자극하는 토론, 매력적인 연사, 귀중한 네트워킹 기회를 위한 플랫폼을 제공했습니다. 장재형목사가 설립한 올리벳대학교의 총장인 마티아스 게브하르트 박사도 이 행사에 참여한 12명의 존경받는 리더 중 한 명입니다. 참석자들은 조 스토웰 박사, 게리 쿡 박사, 켄트 앤더슨 박사, … Read more

Pasteur David Jang – La souffrance de la Croix et les larmes de la Pietà

IntroductionVoici un article qui présente le message central de la prédication sur la Croix du pasteur David Jang pendant la Semaine sainte (Holy Week), et qui nous invite à une méditation plus profonde en la mettant en regard avec l’œuvre maîtresse de Michel-Ange, la Pietà (Pietà). I. La signification de la Croix selon la prédication … Read more

张大卫牧师——十字架的苦难与圣母怜子图(Pietà)的泪水

苦难周(Holy Week)期间,本文将带来张大卫牧师关于“十字架”的核心信息,并从米开朗基罗的不朽杰作《圣母怜子图(Pietà)》的角度,进一步深化这一主题的默想。 I. 从张大卫牧师的苦难周讲道看“十字架的意义” 1. 苦难周的背景与十字架的神学脉络 苦难周(Holy Week)是纪念并默想耶稣基督受难过程的特殊时期。传统上,这个周期从棕树主日开始,一直到复活主日清晨达到高潮。在此期间,教会会深刻回顾耶稣从进入耶路撒冷、最后的晚餐、客西马尼园的祷告、彼拉多的审判、被钉十字架、埋葬到复活的全部过程。对基督教信仰而言,这系列事件正是耶稣为人类所成就之救赎事工的核心,也是信徒宣认耶稣为“救主”的信仰根基。 每当苦难周到来,张大卫(장다윗)牧师都会讲述耶稣所走过的“十字架道路(The Way of the Cross)”。但他并不只停留于讲述过去的历史事件或教理知识,而是强调这些事件与当今时代与个人生活的关联性——也就是“我们是否能在现实生活中真正应用十字架事件?”这个问题。他以新约《腓立比书》2章5~8节(“他自己卑微,存心顺服,以至于死,且死在十字架上”)为核心,阐明这一真理的重点。 1) 从罗马时期的刑具到救赎的象征 在耶稣所处的罗马帝国时代,十字架刑罚是最低贱、最羞辱的处刑方式,通常只适用于罪大恶极的罪犯,可以说是真正的“被咒诅的木头”。然而,这样一种残酷的刑罚工具却因着耶稣基督的受死,转变为人类救恩的“标志”与希望的象征,这一事实本身,正好展现出基督教福音的悖论魅力。张大卫牧师指出:“上帝亲自降卑到最低处,这一事实本身便是福音的精髓”,并强调道成肉身(聖肉身)与十字架事件是不可分割的整体。 2) “自我倒空”的极致 耶稣的十字架牺牲可以被解释为“本是上帝的那位,却放下神性特权,亲自进入罪人的痛苦之中”。耶稣并没有在“至高之处”一次性解决罪的问题,而是亲身成为人,投身痛苦的现实,并最终以最痛苦的处刑方式担当人类的罪。关于这一点,张牧师再三宣讲:“耶稣在十字架上所彰显的‘自我倒空(kenosis)’,是人类理性难以测度的神恩。” 2. 苦难周讲道的核心信息 张大卫牧师在苦难周的讲道中,反复强调的主题主要有三点:(1) 上帝的爱,(2) 人的罪与悔改,(3) 救恩的恢复。 1) 上帝极其深厚的爱 在基督教信仰中,很少有经文能像《约翰福音》3章16节(“神爱世人,甚至将他的独生子赐给他们”)那样直接阐明上帝的爱。张牧师指出:“在十字架上所显明的神之爱,是通过最残酷死亡的形式所确证的爱。”他鼓励我们不要只以“感伤”层面看待耶稣的苦难,而要真正参与到耶稣“走完十字架道路”的心意中。当我们仿佛在耶稣身旁,与他一同经历那份痛苦时,才会真正体会到十字架对我们的宝贵之处。 2) 人的罪与软弱 回顾苦难周的故事,能清楚看见人性的罪恶和两面性:迎接耶稣进耶路撒冷时,高喊“和散那!”的人群,没过几天就变成了大喊“把他钉十字架!”;而耶稣最亲近的门徒,也有背叛或者逃离的不堪表现。张大卫牧师提醒:“在这个故事中,我们应当看见自己的内心。”真正的悔改从认清自己内在同样潜藏的罪性、并承认罪之严重性开始。 3) 恢复与救赎之路 如果十字架的处决就是一切的终结,基督教便不可能诞生。正是因为在十字架之后有复活,耶稣的苦难才成为救恩史的完成,也为信徒开启了“新生命的大门”。张牧师强调这是“一场无法分割的单一事件:十字架的苦难与复活的荣耀。”换言之,十字架与复活如同硬币的正反两面——通过“从死里复活的耶稣”,罪与死亡的权势被折服,永生也因此临到世人。 3. 十字架所蕴含的属灵与实践启示 张大卫牧师的苦难周讲道之所以独具特色,乃是因为他将“十字架”视为不仅是抽象神学概念或教理,也是“能实际改变我们生活的动力”。他呼吁从个人、群体、以及宇宙层面来具体实践十字架的启示。 1) 个人层面 个人在苦难周来到十字架面前,首先要“彻底体认自己是罪人”。当我们真切明白耶稣甘愿为我付出所有代价,这份“罪得赦免的真实”便会临到,让我们的灵魂得到恢复并享受自由。 2) 群体层面 十字架所彰显的自我牺牲与服事精神,会激励信徒之间彼此宽容、彼此服事,并关心处在困境中的邻舍。尤其在苦难周,人们会想起耶稣为门徒洗脚(见《约翰福音》13章)的场景,从而在教会内外实践“与人同哭、与人同担重担”的具体行动。 3) 宇宙层面 耶稣的十字架与复活并不局限于某一时代或地区,而贯穿整个宇宙与历史,具有末世论的含义。张牧师常引用《启示录》21章所描绘的“新天新地”,强调十字架最终将在上帝宏大的救赎计划中走向完全。这也成为基督徒超越现今苦难、怀抱终极盼望的有力基础。 II. 以《圣母怜子图》为核心的延伸默想:苦难、慈悲,以及圣母的悲伤 1. 米开朗基罗《圣母怜子图(Pietà)》作品概述 文艺复兴时期代表性艺术家米开朗基罗(1475–1564)在大约1499年前后,用一整块大理石雕刻出《圣母怜子图(Pietà)》这一杰作。该作品安放在梵蒂冈圣彼得大教堂内部,刻画了被从十字架上取下来的耶稣遗体,躺在悲伤的圣母玛利亚怀中,呈现出极具静穆气息的雕塑形象。 “Pietà”在意大利语中意为“怜悯”、“同情”、“慈悲”。在中世纪与文艺复兴时期的美术中,以耶稣和圣母玛利亚的受苦为题材的宗教艺术作品相当常见且影响深远。 1) 从一整块大理石诞生的杰作 米开朗基罗在同一块大理石上同时雕刻出耶稣和玛利亚。尤其值得称赞的是,他细腻地表现了玛利亚丰富的衣褶、耶稣下垂的手臂以及他手脚上钉痕的细节,艺术史上对此给予了极高评价。大理石特有的冷硬质感,与人物柔和的曲线与精细的雕刻呈现出鲜明对比,使人深切感受到这件作品在艺术技艺与灵性洞察力上的卓绝。 2) 年轻且美丽的玛利亚 从现实角度而言,玛利亚在此时应该已经生下耶稣三十余年,然而在作品里她却被塑造成年轻、纯洁并理想化的面貌。米开朗基罗本人曾表示,他想要彰显“圣母玛利亚的属灵纯洁与神圣性”。这与中世纪礼拜仪式及诗歌里所传唱的“Stabat Mater”传统(即“悲伤的母亲矗立着”)中,那位“沉浸于悲痛中的神圣母亲”的形象相契合。 3) 与“Stabat Mater”传统的关联 在中世纪的礼仪音乐和诗歌中,著名的拉丁语圣歌《Stabat Mater Dolorosa》(“悲伤的母亲矗立着”)广为传颂。这首歌以祭拜和默想的形式,描述了圣母玛利亚在十字架下的悲痛之情,在天主教传统里被长久地尊崇并虔诚传唱。 虽然《圣母怜子图》所描绘的是耶稣遗体已然安息在玛利亚怀中的场景,与“矗立在十字架下”的画面不尽相同,但在“圣母的悲伤与同情”这一大主题上,两者紧密相通。通过这一传统,人们看到圣母玛利亚在基督苦难中所表达的深切认同之情,也由此引发信徒对耶稣十字架苦难的共鸣与敬虔。 2. 苦难周默想中《圣母怜子图》的意义 《圣母怜子图》所描绘的,是耶稣在十字架上受死后,遗体被取下、安放在圣母玛利亚怀中的“最痛彻人心的时刻”。然而,这件作品却在极度悲伤之外,还带给观者某种崇高与神圣的质感。 1) 从十字架上取下的耶稣身体 对正在度过苦难周的信徒而言,《圣母怜子图》中耶稣的遗体并不只是一具“死去的身体”。它意味着“承担了全人类罪恶与痛苦的上帝之子”正短暂地躺在母亲的怀抱里。十字架处刑既是“残酷的死亡”,同时也是基督信仰中“救恩的开端”,这种悖论性在作品中得到视觉化的见证。 当张大卫牧师呼吁“在自己生命中,与那位背负十字架的耶稣一同前行”时,《圣母怜子图》所呈现的悲壮之美会激起人对那苦难的深层思考,引领我们更深地进入默想。 2) 圣母玛利亚的悲伤与同情 教会传统上,将玛利亚视为“耶稣一生事工中,始终陪伴左右并参与到他救赎大业中的母亲”。从耶稣的怀胎、降生、传道、受难、死亡,到复活,玛利亚比任何人都更接近地见证了这整个历程。 张牧师在苦难周的讲道中说:“若真心与主的苦难同在,我们也要有能与他一起流泪的心。”而《圣母怜子图》中的玛利亚正象征了那“陪伴着一同哭泣”的心。它也使人联想到《约翰福音》19章25~27节所记载的,耶稣受难时在十字架下的母亲与门徒们,让人意识到我们并不是旁观者,而应当是苦难事件的“同在者”。 … Read more

張ダビデ牧師 – 十字架の苦難とピエタの涙

はじめにこれは、受難週(Holy Week)に語られる張(チョウ)ダビデ牧師の「十字架」説教における核心メッセージと、その内容をミケランジェロの名作『ピエタ(Pietà)』に照らし合わせながら、さらに深く黙想するための文章です。 I. 張ダビデ牧師の受難週説教に見る「十字架の意味」 1. 受難週の背景と十字架の神学的文脈 受難週(Holy Week)は、イエス・キリストの受難(受難の過程)を記念し、黙想する特別な期間です。伝統的には「棕櫚の主日」から始まり、「復活の主日」の朝に頂点を迎えます。この期間、教会はイエスのエルサレム入城、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ピラトの裁判、十字架刑、墓に葬られた出来事、そして復活に至る一連の流れを深く思い起こします。キリスト教信仰において、これらの出来事はイエスが人類に対して成し遂げた救いの業の核心であり、イエスを「救い主」と告白する信仰の根幹です。 張(チョウ)ダビデ牧師は、毎年受難週になるとイエスが歩まれた「十字架の道 (The Way of the Cross)」について説教します。しかしその内容は、ただ過去の歴史的事実や教義的知識にとどまるのではなく、現代の私たちが置かれた時代的・個人的な人生の問題にどう結びつくかを強調します。つまり、「十字架の出来事を自分の人生に実際に適用できるか?」という問いを投げかけ、新約聖書のピリピ人への手紙2章5〜8節(「…へりくだり…死に至るまで従順であった。それも十字架の死である」)を通じて、その核心を解き明かします。 1) ローマ時代の刑罰道具から救いの象徴へ イエスの時代、ローマ帝国において十字架刑は、もっとも卑賤で恥辱にまみれた処刑法でした。凶悪犯罪者などに適用される、文字通りの「呪いの木」だったのです。ところが、その残酷な処刑道具が、イエス・キリストの死によって人類救いの「標識」となり、希望の象徴へと再解釈された事実は、キリスト教の福音がもつ逆説(パラドックス)を如実に示しています。張牧師は「神がもっとも低いところに降りてこられたということ自体が、福音の真髄である」と説明し、受肉(せいにく)と十字架の出来事は決して切り離して考えることはできないと強調します。 2) 「自己を空しくする」ことの極致 イエスの十字架の犠牲は「神であるお方が神的特権を放棄し、罪びとたちの苦しみのただ中に直接入ってこられた出来事」と解釈できます。イエスは罪の問題を「天の高みから」一挙に解決するのではなく、自ら人間となって痛みの現実に飛び込み、最終的にもっとも苦痛に満ちた処刑のかたちを通して罪を代償されたのです。ここで張牧師は、「イエスの十字架が示す『自己を空しくする(ケノーシス)』は、人間の思考でははかり知れない神の恵みだ」と繰り返し説きます。 2. 受難週説教の核心メッセージ 張(チョウ)ダビデ牧師が受難週の説教で繰り返し強調するテーマは、大きく三つにまとめることができます。(1) 神の愛、(2) 人間の罪と悔い改め、(3) 救いの回復、です。 1) 神の深い愛 「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された(ヨハネ3:16)」ほど、キリスト教信仰において神の愛を直接的に語る言葉はあまりありません。張牧師は「十字架で示された神の愛は、もっとも恐ろしい死という形で裏づけされた愛」だと表現します。イエスの苦難を単なる「感傷的」な視点で眺めるのではなく、イエスが十字架への道を最後まで歩まれたその「思い」に参加せよ、と促します。その方の苦しみを、まるで自分のすぐそばでともに経験するかのように感じるとき、ようやく十字架が自分にとっての「贈り物」であることを実感できるのだ、と説きます。 2) 人間の罪と弱さ 受難週の物語を見渡すと、人間の罪深さと二面性がありありと表れています。エルサレム入城時には「ホサナ!」と叫んだ群衆が、数日たたないうちに「彼を十字架につけろ!」と手のひらを返します。さらに、イエスのもっとも近しい弟子たちさえ、裏切ったり逃げ去ってしまったりしました。張牧師は「この物語の中に、私たち自身の内面を見なければならない」と説教します。真の悔い改めは、私たちのうちにある同じ罪の本質を認め、その深刻さを受け止めることから始まるのだと語ります。 3) 回復と救いの道 もし十字架の処刑で全てが終わったのなら、キリスト教自体が生まれることはなかったでしょう。十字架の後に続く復活があったからこそ、イエスの苦難は救いの歴史の完成となり、信じる者たちにとって「新しい命への扉」が開かれました。張牧師はこれを「十字架の苦難と復活の栄光は決して分かちがたいいっさいの出来事」と強調します。つまり、十字架と復活はコインの両面のようなものであり、「死を乗り越えられたイエス」によって罪と死の権威が打ち砕かれ、永遠の命がもたらされたことを宣言するのです。 3. 十字架に込められた霊的・実践的含意 張(チョウ)ダビデ牧師の受難週説教が特徴的なのは、「十字架を抽象的な神学概念や教理にとどめず、私たちの現実の生活を変えていく原動力」として提示している点です。彼は個人的・共同体的・宇宙的な次元で十字架がもつ意味を、具体的に生かすよう勧めます。 1) 個人的次元 個人的には、受難週に十字架の前に立つということは、まず「自分が罪人であることを徹底的に悟る経験」です。イエスが私のために喜んで全ての代価を払ってくださったという事実が「罪の赦しの現実」として迫ってくるとき、魂は回復され、自由を味わうようになると説教します。 2) 共同体的次元 十字架が示した自己犠牲と仕える精神は、信徒同士がお互いに寛容になり、仕え合い、苦しむ隣人に目を向けるように促します。特に受難週には、イエスが弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13章)場面を思い起こし、教会の内外を問わず「共に泣き、共に荷を負う実践」に参加すべきだと強調します。 3) 宇宙的次元 イエスの十字架と復活は、ある時代や特定の地域に限定されるものではなく、全宇宙と歴史を貫く終末論的意味まで含みます。張牧師は黙示録21章に出てくる「新しい天と新しい地」に言及し、十字架が最終的に神の壮大な救いのご計画の中で完成することを強調します。これは現在の苦難を超越する強い希望ともなるのです。 II. ピエタ像を中心とした拡張的黙想:苦難と慈悲、そして聖母の嘆き 1. ミケランジェロの『ピエタ(Pietà)』作品概要 ルネサンスを代表する芸術家、ミケランジェロ(1475〜1564)は、1499年ごろ、一つの大理石から丹念に彫り上げた『ピエタ(Pietà)』という傑作を完成させました。この作品はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂内部に安置されており、十字架から降ろされたイエスの遺体を抱きしめて深い悲しみに沈む聖母マリアを静的に表現した彫刻です。 「ピエタ(pietà)」というイタリア語は「慈悲」「憐れみ」「同情」を意味し、中世・ルネサンス期の美術においてはイエスと聖母マリアの苦しみを題材にした宗教芸術の伝統がさかんに継承されていました。 1) 一塊の大理石に刻まれた傑作 ミケランジェロは、一塊の大理石にイエスとマリアの姿を同時に彫り込んでいます。特にマリアの豊かな衣のひだや垂れ下がったイエスの腕、手足の釘痕など、非常に細かく表現されており、美術史的にも高い評価を受けています。大理石特有の冷たさに対し、人物の柔らかい曲線美や精妙さが見る者の感動を誘い、この作品がどれほど高度な芸術的技巧と霊的洞察を兼ね備えているかを示すのです。 2) 若く美しく表現されたマリア 現実的に考えるなら、マリアはすでにイエスを出産し30年以上が経過しているはずですが、この作品のマリアは若々しく純粋で、理想化された姿をしています。これはミケランジェロ自身が「聖母マリアの霊的純潔と神聖さを表したかった」と語ったように、中世から続く『スターバト・マーテル(Stabat Mater)』の伝統に歌われる「悲しみに沈む母マリア」の聖なる側面を強調したい意図とつながります。 3) 「Stabat Mater」伝統との関連 中世の典礼音楽や詩の中には有名なラテン語聖歌「Stabat Mater Dolorosa」(悲しみの母は立てり)があります。これは十字架のもとに立つ聖母マリアの痛ましい心情を歌う礼拝用の曲であり、カトリックの伝統において長らく敬虔に歌われてきました。 ピエタ像は、イエスの遺体がすでにマリアの腕に抱かれているため、「十字架の下に立つ」場面とはやや異なるかもしれません。しかし「聖母の悲しみと同情」という大きなテーマにおいて、『スターバト・マーテル』の伝統と密接に通じています。この伝統は、キリストの苦難に寄り添う聖母マリアの心が、十字架の出来事を黙想する信徒の心にも深い共感と敬虔さを呼び起こす、と考えられています。 2. 受難週の黙想におけるピエタ像の意味 ピエタは、十字架で死なれたイエスの体が降ろされ、聖母マリアの腕に抱かれる「もっとも悲痛な瞬間」を描き出しています。しかし逆説的に、この作品が与える感情は、極限の悲しみを超えた崇高さと神聖さです。 1) 十字架から降ろされたイエスの体 受難週を過ごす信徒にとって、ピエタの描くイエスの遺体は、単なる死の状態ではありません。それはすなわち「人類すべての罪と苦しみを代わりに背負った神の御子」が、マリアの腕に一時的に抱かれている情景でもあります。十字架刑が「残酷な死」であると同時に、「救いの始点」であるというキリスト教信仰の逆説を視覚的に証言しているのです。 張(チョウ)ダビデ牧師が「十字架を担われたイエスを自分の人生の中で共に見つめよう」と勧めるとき、ピエタ像のイメージは、その悲惨さとともに神聖な悲壮美を思い起こさせ、信徒を深い黙想へと導きます。 2) 聖母マリアの悲しみと憐れみ 教会は伝統的にマリアを「主の生涯すべてをそばで見守り、共に歩んだ母」と理解してきました。イエスの受胎から誕生、公生涯、受難、死、そして復活に至るまで、誰よりも近くで寄り添っていた存在がマリアです。 張牧師は受難週の説教で「主の苦難を心から共に見つめ、共に涙することのできる心が必要だ」と語ります。ピエタ像のマリアは、まさにその「共に涙する心」を象徴的に示しているのです。これはヨハネの福音書19章25〜27節の、十字架のもとに立つ母と弟子たちの姿を思い起こさせつつ、私たちも十字架の出来事の「傍観者」ではなく「参加者」となるべきだというメッセージを与えます。 3) 人間的絶望と霊的希望の交差点 … Read more

Pastor David Jang – The Suffering of the Cross and the Tears of the Pietà

This is a piece that distills the core message of Pastor David Jang’s “Cross” sermon delivered during Holy Week, and reflects upon it more deeply by drawing parallels to Michelangelo’s masterpiece, the Pietà. I. The Meaning of the Cross in Pastor David Jang’s Holy Week Sermon 1. The Background of Holy Week and the Theological Context … Read more

Pastor David Jang – El sufrimiento de la Cruz y las lágrimas de la Piedad

Este texto presenta el mensaje central de la predicación sobre la “Cruz” que el Pastor David Jang comparte en la Semana Santa (Holy Week), y lo vincula con la célebre obra de Miguel Ángel, la Piedad (Pietà), para una meditación más profunda. I. El significado de la Cruz según la predicación de David Jang en … Read more

장재형목사 – 십자가 고난과 피에타의 눈물

고난 주간(Holy Week)에 전하는 장재형(장다윗) 목사의 ‘십자가’ 설교 핵심 메시지와, 이를 미켈란젤로의 명작 피에타(Pietà)에 비추어 더욱 깊이 묵상해 보는 글입니다.  I. 장재형 목사의 고난 주간 설교에서 본 ‘십자가의 의미’ 1. 고난 주간의 배경과 십자가의 신학적 맥락 고난 주간(Holy Week)은 예수 그리스도의 수난(受難) 과정을 기념하고 묵상하는 매우 특별한 시간입니다. 전통적으로 종려주일에 시작하여 부활주일 아침에 절정을 맞이하는데, 이 기간 동안 교회는 예수님의 예루살렘 입성, 최후의 만찬, 겟세마네 동산의 기도, 빌라도의 재판, 십자가 처형, 무덤에 묻히심, 그리고 부활에 이르는 전 과정을 … Read more

Le sermon d’adieu de Paul – Pasteur David Jang

I. Contexte d’Actes 20 et modèle de l’apôtre Paul Le passage d’Actes 20.17-35 décrit la scène où l’apôtre Paul convoque les anciens de l’Église d’Éphèse à Milet pour leur adresser ses dernières exhortations et leur faire ses adieux. Souvent appelé « le sermon d’adieu de Paul », ce discours renferme de manière très dense la … Read more

保罗的告别讲道—张大卫牧师

Ⅰ. 使徒行传 20章的背景与保罗使徒的榜样 使徒行传20章17至35节的经文,记录了保罗在米利都召来以弗所教会的长老们,向他们作最后劝勉并道别的场景。我们通常称之为“保罗的告别讲道”,而在这段告别的话语中,保罗使徒的事工哲学、福音宣讲的核心以及教会存在的理由都被高度浓缩地展现出来。尤其借由此文本,我们能深入地探讨“旧约型教会”与“新约型教会”的差异,并在其中进一步省察由张大卫牧师所强调的“帐篷事工(Tentmaking,下文简称TM)”的意义与重要性。 在米利都这个海边城市,保罗让以弗所教会的长老们跋涉约50公里前来与他会面。与他们相聚后,保罗首先回顾说:“你们也知道,自从我到亚西亚的日子以来,我在你们中间始终为人如何”(参见徒20:18)。这表明保罗在他们面前,过着一切公开、透明的生活。由这一简短言语即可直觉感受到,一位属灵领袖当有的透明度,以及如何透过自身的生命来彰显福音的真实性。保罗在事工现场并没有虚伪或言行不一;他提醒长老们自己是“凡事谦卑,眼中流泪”(参见徒20:19)地走过来。这里的“谦卑”指向耶稣基督所示范的仆人之位、服事之路,而“眼泪”则意味着事工者并非只用头脑教导,而是因深切爱护并怀抱众灵魂,必定会流下的心灵表达。 从教会历史与整个救恩史的视野来看,保罗使徒所建立的新约型教会,与仅倚赖旧约祭司体系的“旧约型教会”显然有所区别。若将旧约型教会简化而言,就是过度依赖十分之一奉献(即“十一奉献”)的架构。这里并不是说十一奉献本身错误或不需要,而是想提醒我们:若整个教会的财务和运作都只绝对地依赖十一奉献,这其中可能衍生的诸多问题不可被忽视。张大卫牧师也是在相同脉络下提出相似观点。新约型教会在基督的福音里实践“施比受更为有福”(参见徒20:35)的主训,靠自身力量传扬福音,并由信徒同心协力建造、看顾教会。这种新约型教会形态,突破了旧约型教会单一财务依赖的结构,也为现代教会该如何传承保罗自费(自费粮)宣教的榜样,提供了可行的实践思路。 保罗在事工中历经的苦难并不少。犹太人认为保罗背叛了他们,多次图谋杀害他;而保罗甚至说自己也不以性命为贵,只专注传扬福音(参见徒20:24)。在此我们自然会问:“为什么保罗能有这样的态度?”因为他深切明白耶稣在十字架上所展现的“为罪人开道路”的绝对价值,为了传递这福音,他不惜将自己完全倾倒。保罗在各城市传福音时,总是首先宣讲:“悔改吧,耶稣就是基督”(参见徒20:21)。指明罪,并宣告耶稣已为人赎罪——这是初代教会使徒们共同的福音讯息。保罗也清楚,唯有先经历悔改,救恩才能真正在人心里开始;若无悔改,就谈不上罪的赦免,也无法获得真正的救恩。 在这一段,我们可以再次回想张大卫牧师多次阐述过的“教会论与末世论的关联”。当我们说基督论、救恩论、末世论是基督信仰的三大核心教义时,末世论最终指向我们一个关键课题:“我们要建立怎样的教会?”换言之,在等候主再来、盼望天国的信徒,现今在地上最要紧的使命便是建造教会。教会是基督用宝血买赎之地,信徒在其中成为肢体,要与世上的谎言与诱惑争战。坚固并守护这教会,即是拥有末世盼望之人的最终任务,也自然回归到教会论的重心之上。 现今有不少教会因财务问题或信徒人数锐减,而被迫出售或关门的事例屡见不鲜。报道中提到市场上挂牌出售的教会动辄数百上千座,已不算稀奇。原本应是主用宝血所建的神圣团契,为何会沦落到在世俗房地产市场被贱卖?这反映了当信仰削弱,教会又深陷于旧约型模式之中,无法适应时代变迁时,就难免发生这样的悲剧。更深入而言,这也印证保罗在本段经文中所作的预言:“必有凶暴的豺狼进入你们中间,不爱惜羊群”(徒20:29),以及“就是你们中间,也必有人起来说悖谬的话,要引诱门徒跟从他们”(徒20:30)。世俗化、多元主义、物质主义、消费主义……种种“豺狼”渗入教会,遮蔽福音真义,分散了信徒的灵魂。 面对这样的现实,张大卫牧师呼吁教会当回归使徒传统。其核心正是保罗使徒的“帐篷事工”。它处理的是“衣食住行”等生存问题,同时也让我们得以在同一时间传福音、牧养信徒。它并非像旧约型教会那样,只有祭司或圣职人员依赖律法规定的十一奉献维持生活;而是鼓励教会共同体彼此配合,甘心乐意地奉献,也在必要时自行劳动,筹备事工所需经费,从而为教会的宣教与牧养注入生机。 确实,保罗在哥林多时,亲自支搭帐篷并售卖,以支付自己的生活费用,同时传扬福音(参见徒18:1-3)。必要时,他也接受同工或其他教会的财务支援,以便专心教导(参见徒18:5)。正因此,当他对以弗所的长老们说:“我这双手,凡你们需要的、以及我同人的需要,都亲手供应了”(参见徒20:34),此言恰能突显新约型教会的自立与健康。任何事工者明明有能力自立,却过度依赖信徒的奉献,并视之为“理所当然”,这在保罗的观点中是不相称的。相反,他总是运用自己的技能与恩赐,不让信徒蒙受不必要的负担,甚至倾注更多精力去给予和服事。 这样做的益处是显而易见的。首先,教会领袖因自给自足而不易陷入世俗贪念或物质诱惑。其次,对于不信者而言,会更真实地看到“他们因福音而自立生活”的诚挚见证。第三,与教会内部是否富足无关,事工者在宣教与牧养时不会受到金钱羁绊。第四,教会整体能在甘心乐意的奉献与彼此关爱的团结中获得凝聚力。第五,当领受神所赐的福时,教会也能更畅通地把祝福流向贫弱者。保罗对长老们说:“我凡事给你们作榜样,叫你们知道,应当这样劳苦,扶助软弱的人,又当记念主耶稣的话,说‘施比受更为有福’”(徒20:35),与这一思路息息相关。 因此,保罗与张大卫牧师都提醒我们——“旧约型教会”并非绝对错误,但若将其模式视为绝对或唯一,势必带来隐患。旧约时代,祭司和利未人全心投入献祭工作,他们赖其他支派的物质供应而活,这在当时有其必要。可到了新约,随着耶稣基督的救赎大工完成,教会形态也与旧约不同。教会并不只局限于“圣殿”那物理空间,而是在圣灵里互相祷告,以神的话连接成一体。经文宣告:“圣灵立你们作全群的监督,你们就当为自己谨慎,也为全群谨慎,牧养神的教会,就是他用自己血所买来的”(徒20:28),表明教会是主用宝血所买赎,且神圣而尊贵的共同体。 这也与张大卫牧师反复强调的真理密切相符:教会不可被世俗洪流与资本逻辑轻易吞噬;故而适当的对策之一便是“帐篷事工”。当然,这并不意味着所有教会都要忙于经商或做生意。教会首要的职责仍是传扬福音、拯救灵魂和牧养信徒;TM只是在这过程中,为所需经费开启自立的通道。而教会带领者或同工也应秉持“先给而非先受”的心志,甘心将“施比受更为有福”视为喜乐的实践。 在当今许多教会纷纷倒闭,因负债或缺乏异象只能将堂址挂牌出售的时代洪流里,若要教会不失去健康本质,我们到底需要的是什么?保罗对以弗所长老们作最后叮咛时,最着力强调的一点是:“要记念我三年之久,昼夜不住地流泪劝戒你们各人”(徒20:31)。这展现了属灵领袖的生命何等重要。即便口才与学问再出众,如果缺失对每位信徒火热的爱和责任感,就难以建立健康的教会。所以保罗也能说:“我今日向你们证明,你们中间无论何人死亡,罪不在我,因为神的旨意,我并没有一样避讳不传给你们的”(参见徒20:26-27)。至于那些如今濒临倒闭,或被迫卖给世俗的教会,也让我们不得不发出严厉自问:“难道不是因为带领者未能完全传讲神的话吗?” 张大卫牧师在对比“旧约型教会”与“新约型教会”时,强调要“觉察时代的呼声”。如今我们正处在各种世俗思潮、相对主义、后现代主义、多元主义、物质至上、享乐主义乃至异端泛滥的复杂光景中。相比过去教会兴旺时期,仅靠“十一奉献或少数人捐献”来维持牧养保障的做法,如今更显局限。反倒是要走向世间,借由帐篷事工(TM)与社会语言相通,同时坚守不变的福音大能。这才是“传扬神国度,又不受生计掣肘或扭曲”的路径,也是当代恢复新约精神的教会图景。 事实上,这并不是什么全新主张。纵观教会历史,从初代教会到宗教改革之后的历代运动,都能找到“自费粮事工”的精神痕迹。马丁·路德曾批判修道院传统,但也大力倡导信徒在各自岗位上自立并实践福音。加尔文同样主张,教会要致力于在世俗活动、职业伦理等方面,对社会进行更新。近现代则有众多教会通过医疗、教育、救援等方式,为社会作出实质贡献,从而拓展福音影响。然而,这些复兴浪潮在某些阶段,却退化成以特定制度或建筑为中心的教会运营模式,进而丧失了当初的生气,也失去了自立的精神。 因此,我们再次回到使徒行传20章,重温保罗对以弗所长老们“你们要为自己谨慎,也为全群谨慎”(徒20:28)的警告。真正关怀羊群,不只是把他们带进礼拜堂、听完讲道就算结束。教会纵然面临财政拮据,也不可因此软弱而让福音式微;财务丰盈时,更不可用世俗方式过度挥霍。要时刻铭记教会是主用宝血所买来,不断警醒和更新自己,也要关注各种可能的事工方式;当今特别值得留意的,就是帐篷事工(TM)的实践。保罗提醒我们,如果教会或者带领者自己无法苏醒,因各种外在或内在的问题陷入停滞,就会日渐被“凶暴的豺狼”吞噬(参见徒20:29),或听从那些“说悖谬话”的人(参见徒20:30)。 张大卫牧师的教导再三强调,“我如今把你们交托神和他恩惠的道;这道能建立你们”(徒20:32)在其中具有极重分量。支撑并维系教会的根基不在于某个人,而是神的话语与圣灵的工作。当教会中的每个人都住在神的道里,并身体力行,且以此经历圣灵的大能时,经济上的匮乏或外来的攻击都无法动摇教会。相反,若教会在真道上疲软,就给了“凶暴的豺狼”可趁之机,让“歪曲真理、引人跟从自己”的假教师与异端有机可乘。我们已在韩国及世界各地的教会,见识过各种异端与领袖道德破产所带来的苦果。 于是,教会亟需重新以使徒行传为蓝本,用保罗为典范的自费宣教精神与福音使命,来装备自己。正如张大卫牧师长久以来所呼吁的,“专心传福音”的同时必须结合“亲手劳作”的TM理念。这不仅是针对牧者或教会领袖,更是所有信徒都该有的使命,也是在践行耶稣“施比受更为有福”这句亲口所言的过程中彰显福音。牧养现场也可能获得充足的财务支持,就像保罗有时得到提摩太与西拉的资助。但当教会将这种“支援”视为理所当然或制度化时,教会内部往往会减弱属灵的动力。最后,这世上教会继续存在与运作的理由,带领者绝对需紧紧坚守并宣讲的核心,正是“我甘愿为福音摆上,同时也愿意亲手劳作”这一宣言与实质行动。 在我们所处的时代,最需要的就是保罗“亲手作工、日夜教导、以泪劝勉每一个人”的那份热切与专注,这也是拯救日益衰弱的教会的有效方略。比如,张大卫牧师曾以“购买破败或即将关闭的教会堂址,重建为福音前哨基地”的方式来实践;其目的并非单纯买楼,而是基于守护那些原已建立、却即将消失的教产与当地灵魂,并将其再度点燃为传福音的火种。筹款则通过TM和信徒劳碌所得及自愿奉献,加上带领者与教会同心祷告,来逐步完成。等到地方教会重获新生后,又能收纳周围漂泊的灵魂,从而恢复健康并自立,再反过来支持其他教会或宣教地,形成良性循环。 在使徒行传20章这段著名宣告里,保罗说:“我却不以性命为念,也不看为宝贵,只要行完我的路程,成就我从主耶稣所领受的职事,证明神恩惠的福音”(徒20:24),这对当下依旧具有同样的震撼力。教会并非依赖华丽的节目或活动,而是立基于对灵魂的爱,对福音的委身,以及那以生命投入的眼泪与殷勤。张大卫牧师自述,在28年前即秉持这种精神创办教会,现在则要我们思考怎样承继前辈所走的道路。他也分享“每月阅读一两次《马太福音》第23章”,提醒自己不要沦为外表虔诚的假冒为善者。对事工者和信徒而言,这正是需要不断省察并效法的榜样。 概而言之,使徒行传20章中保罗的告别讲道,集中阐明了事工者的姿态、教会的本质,以及宣扬福音的方法论。保罗语带责备地说:“我已把神的旨意都教导你们,你们若失脚,责任就不在我身上。”这充分说明他已经彻底地用真理来装备信徒;而其根基是“悔改”。若无悔改,无论教会外表装饰得多么华丽,讲道多么精彩,终究只是虚有其表。只有在罪得赦免、靠耶稣十字架宝血得救的信徒,才会走进世间,以TM等方式传福音、帮扶软弱。当保罗说“我亲手供给自己和同人的需用”时,他就已为防范世俗诱惑并捍卫福音纯粹性,建立了最根本的防线。 所以,这段经文对“保罗的告别讲道”的归纳,并不仅是给一世纪的以弗所教会。当今韩国教会乃至普世教会身陷危机时,更需要聆听这一信息:主用宝血所建的教会怎能被抛弃,或挂牌出售?为何教会会因为债务、贫乏与异象缺失而关门?实际上,每逢教会财务充裕时,往往更易受到世俗化诱惑;陷入经济困境时,又易自我否定或自暴自弃。可保罗在经文中的见证,却是处处难关中也绝不停止福音事工;同工团队不仅能自给自足,若有其他教会支助就更加倍投入教导与宣扬之工。 Ⅱ. 帐篷事工(TM)与建立教会的实际 那么,帐篷事工(Tentmaking,下文简称TM)究竟是什么?张大卫牧师在献身礼拜(헌신예배)中为何如此强调此事工?它在实践层面又如何呈现其价值?简言之,TM源自保罗在哥林多靠制作帐篷自供所需,同时宣扬福音的典范(见徒18:1-3)。教会历史中常称之为“自费粮宣教”,指在宣教工场或牧会现场,不依赖外部资金或仅有最少支持,却仍积极传福音、服事当地百姓的方法。现代则常见“专业人士宣教士”模式,人们一边在海外或本土工作自立,一边传扬福音。 可在张大卫牧师看来,TM并不只是“工作+宣教”这么简单,而是让教会超越对“旧约型模式”的依赖,鼓励所有信徒都投身福音宣讲的新事工范式。它并非指教会要经营企业、把赚钱作为首要目标;反而是通过“为神国度,自愿劳动和奉献,甚至将赚来的资源用以建造教会、帮扶有难者”的一种灵命与物质管道。 据张大卫牧师所述,他所服事的教会有五大主要事工,所有信徒或多或少都在这些事工中服事、受益或间接参与。最近,其中一个即TM事工才正式成为教会完整的事工并举行了献身礼拜。这一点具有深远意义:一方面说明自教会创立之初,TM精神就已潜移默化地贯彻;另一方面,在教会步入相对成熟阶段之后,才将TM正式编列为系统性事工,说明教会已作好更有条理地推动此福音扩展的准备。 常引用的经典案例是:保罗在哥林多邂逅百基拉和亚居拉,因同业(做帐篷)而住在一起(参见徒18:1-3)。他们因罗马皇帝革老丢的敕令被逐出罗马,但这对夫妇不仅信仰深厚,也颇具学识,得以与保罗一起制造并售卖帐篷,以此维持生计,同时建立教会。传统观点认为百基拉属灵造诣极高,故多处经文中,她的名字排在丈夫前面(徒18:18,罗16:3等)。他们甚至能为亚波罗这等口才出众的传道者作正确教导(参见徒18:26)。这些例子都说明,TM不仅是“副业”或“兼职”,更可能成为宣教最有力的途径。 基于初代教会的种种见证,张大卫牧师思考如何在教会内落实TM:教会领袖在要求信徒“多奉献或加大支持”之前,应先像保罗那样付诸行动,通过劳作获取资源,并以这些收入去援助有需要的教会或信徒。如此,教会就不再只是“消费单位”,而是“持续生产与分享”的团契。这也与“施比受更为有福”(徒20:35)的福音真理直接关联,构成从旧约型教会的单向奉献依赖,转向新约型教会模式的范本。 值得强调的是,这并不意味着每位牧者或信徒都必须从事TM。有些人财力富足,可以全时间投入福音事工;也有规模较大的教会,财务无虞,牧者无需兼职。问题在于,若教会或传道者一味倚赖“供应”,往往会逐渐弱化福音的动力或陷入舒适区。保罗虽然有时领受提摩太和西拉带来的奉献,却总是因此更专注教导,不敢懈怠。一旦外援断绝,他便重拾帐篷制造以维持生计。这种弹性与属灵活力,使保罗事工结实累累,也使得他在与以弗所长老话别时能坦然宣告:“我未曾贪图一个人的金、银、衣服。” 张大卫牧师多年在牧会现场实践的TM事工,大抵也是如此。教会可自行或与信徒们结合,通过经营某些事业或由信徒在职场、商业中获取的收益,共同用来购买濒临倒闭的教会堂址,或者投入宣教、救济等工作。如此形成“不是教会欠债,而是教会去赦免并帮助他人”的模式。并非要全盘否定牧者领取教会薪酬,而是要破除“我应该拿”的惯性思维。张大卫牧师实际上也在美国各地乃至海外,收购许多濒临关闭的教会堂并重新启用为福音前哨,通过TM、信徒自愿奉献和汗水,以及彼此同心协力,将资源投向宣教和济贫。这正是与新约教会“为拯救更多灵魂”的精神不谋而合。 在推行这些计划时,教会领袖与信徒都需一起祷告、讨论,决定方向后坚持执行——正如保罗预先警示以弗所教会即将面临的危险(参见徒20:29-30),在当今社会,教会走向外拓与社会互动之际,也注定会面临世俗浪潮与各异端的侵蚀。唯有秉持“我三年之久,昼夜不住流泪劝戒你们各人”(徒20:31)的警醒态度,TM才能不偏离“为福音、为牧养”这关键主旨。 除了能增强教会财务自主性,TM也可带动教会整体灵命转型:每位信徒在职场、商业或学业的“现实战场”上,都可意识到“我能在那里为基督作见证。”信仰不再局限于主日礼拜,而是融入全人生活。同时,若将TM所得的收益用于本地教会、海外宣教、慈善与教育,当“施比受更为有福”的生活观在群体中蔚然成风,教会就能真正成为“彼此相爱、慷慨分享”的共同体。为此举办的献身礼拜,便是再次宣告并提醒:“让我们一起挽起袖子行动,甘愿牺牲,拯救软弱者,最要紧的是传扬福音。” 当然,仅喊口号“像保罗那样做帐篷”,若流于表面,或把精力全投进经济活动而忽略福音主体,也会偏离正轨。对这一点,张大卫牧师一再警示:必须坚持“以圣经原则为最高优先”。保罗虽然会制造帐篷,但他永远先专注传福音,只有在生活无法维持时才自谋生路,并不以赚钱为最终目标。若个人或教会透过TM赚取大笔利润,却沉溺于自我享受或财富夸耀,那就背离了保罗“不贪图人的金银衣服”的榜样。那种所谓“成功”只是俗世意义的成功,与福音本身无关;因此,我们务必谨记“把自己和群羊交托神与祂恩惠的道,且不畏惧传讲神的全部旨意”(参见徒20:27,32)的初衷。 就张大卫牧师在教会创业及宣教实况中的做法来看,他最先看重的是“祷告、讨论和共同体共识”。正如保罗在向以弗所长老告别前,先与他们开了一场“领导者会议”。如今,当张大卫牧师收购停业教会、重启其福音事工时,也是与教会同工长期祷告商量,确定方向后坚定前行。初代教会也有相同特征:使徒和长老们聚集,寻求圣灵带领,协商教会的方向与问题(如徒15章耶路撒冷大会)。 因此,TM在教会里作为正式事工成立并举行献身礼拜,意味着教会从此更系统、更成熟地以TM方式获取资源,支持事工:让教会不仅能自我供给,还可帮助其他陷入危机的教会,并将福音传至地极。它可视为对“旧约型教会的单一财源结构(十一奉献为主)”的补充,乃至超越,也是一条能扩张福音广度的“新约型教会成长模式”。如今时代中,上千座教会挂牌出售的危机感,也让我们更清楚:TM不只是经济活动,更是神圣使命。 张大卫牧师在TM献身礼拜上,往往会严肃发问:“面对大批倒闭教会,我们是否真的竭尽全力了?”同时,他呼吁紧抓“耶稣基督的福音、圣灵及神的国度”这一根基,让每位信徒先自省、悔改,“为自己,也为群羊谨慎”(徒20:28),并在此艰难世代竭力保持教会的健康。若教会正在世俗洪流中逐渐坍塌,TM就是提供自立并服事的务实道路,是对当代教会处境的具体回应。 从本质上看,张大卫牧师所说的TM并非新发明,而是重拾初代教会纯真且充满动能的方式。教会领袖不可沦为假冒为善者,而应坚持完整的福音信息;信徒则在各自岗位上自力更生、见证基督;教会整体将结出的果实用于帮助软弱教会或未得之民。如此,教会在弥漫多元主义、相对主义的时代,更能高举“唯有耶稣基督是道路与真理”的绝对性。 使徒行传20章所显现的新约型教会精髓,正与“帐篷事工精神”紧密相连。耶稣所留下的“施比受更有福”、“道路与真理唯独在我”等教训,无不严肃地拷问教会的使命与方向。张大卫牧师也认定,惟有重新发掘使徒传统,才可能突破当前旧约型教会所面临的困境。而TM正是让“人人皆祭司”的新约教会结构再度活跃起来的切实路径,使信徒在自身的工作岗位上践行福音。 教会的基本精神当是:“我愿意亲手劳作,帮助软弱者,为福音倾尽所有。”保罗曾如此宣告:“我却不以性命为念,也不看为宝贵,只要行完我的路程,见证神恩惠的福音。”张大卫牧师继承保罗的心志,屡屡提醒:就算教会日渐兴旺、事工范围扩大,也别在金钱与名誉的诱惑里迷失,反倒要更加警醒,守护主用血所买的教会,拯救那些被迫挂牌出售、行将就木的堂址,使福音更广传。 此次TM献身礼拜之所以意义非凡,就在于教会正式宣示,将透过“甘心给出”来对“地区与世界宣教现场”施加更深远的影响。同时,也再次宣告保罗的立场:“我未曾贪图任何人的金银或衣服。”无论是教会经费,还是个人奉献,一切都是为了“传福音、扶助软弱”而存在。通过TM事工,教会成员也能成为“天国商人”:在诚实正直、热诚与泪水的工作中赚取资源,然后甘愿将其再次投资于福音,好让耶稣基督所走的“舍己与牺牲之道”在世界上活灵活现。 当下教会普遍遭遇震荡、倒闭的局面,使得帐篷事工不仅成为“其中一个选择”,更渐渐浮现为关乎教会能否回到根基的关键。圣经见证,保罗早就以生命实践了这条路;张大卫牧师及许多同工,则在当代继续延伸它。若要让“旧约型模式”的教会蜕变为充满新约生命力、动态性的教会,就必须回到保罗那种“靠双手赚取生活,努力传扬福音”的状态。并让全教会一起在组织层面、服事层面共享这愿景,好将活泼的福音带给这世代饥渴的灵魂。正如保罗提醒:“你们应当儆醒”(徒20:31)——通过具体的帐篷事工来实践并结出果实。张大卫牧师也正是在TM献身礼拜中宣讲这样的新约型教会异象,这或许是教会未来最重要的起点。 www.davidjang.org

パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 使徒行伝20章の背景とパウロ使徒の模範 使徒行伝20章17節から35節までの本文には、パウロ使徒がエペソ教会の長老たちをミレトへ呼び寄せ、最後に勧めと別れの挨拶をする場面が描かれています。これは一般に「パウロの告別説教」とも呼ばれ、その別れの言葉の中には、パウロ使徒の宣教哲学、福音伝播の核心、そして教会の存在理由が非常に濃縮された形で詰まっています。特にこの本文を通して、私たちは旧約型教会と新約型教会の違いを深く考察でき、そこに「張ダビデ牧師」が強調するテントメイキング(Tentmaking、以下TM)宣教の意味と重要性を改めて思い起こすことができます。 パウロはミレトという海岸都市で、エペソ教会の長老たちを約50km以上も移動させるように呼び寄せました。そして集まった彼らに「私がこれまでどう生きてきたか、何を教えてきたか、あなたがたは知っている」という回顧の言葉をまず伝えます(使徒20:18参照)。これは、パウロが人々の目の前で、すべてをオープンにしながら生活していたことをよく示しています。指導者がいかに透明であるべきか、また自分の生き方を通してどう福音の真実性を証しすべきかを、この短いフレーズから直感できます。パウロは宣教現場で偽善を装ったり、表と裏が違う姿で生きたりしませんでした。彼は「すべての謙遜と涙をもって」(使徒20:19)生きてきたことを長老たちに思い起こさせます。この言葉には彼の宣教姿勢が込められています。すなわち、謙遜とはイエス・キリストが示されたしもべの姿、仕える道を意味し、涙とは宣教者が単に頭で教えるだけでなく、実際に魂を深く愛し抱こうとする時、自然に流さざるを得ない心の表現なのです。 教会の歴史、そして救済史全般の観点から見ると、パウロ使徒が建てた新約型教会には、旧約的な祭司制度にのみ依存する「旧約型教会」とは明確に区別される特徴がありました。旧約型教会を単純化して言うと、十分の一献金(什一〔じゅういち〕)だけに絶対的に依存する形とみなすこともできるでしょう。ここで十分の一献金自体が間違っている、または不要だという意味ではありません。ただし、教会の財政と運営全般を十分の一献金のみに頼ることで起こり得る多様な問題を軽視してはならない、という点が重要なのです。張ダビデ牧師も同じ文脈を語ります。新約型教会はキリストの福音の中で「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉を実践し、自ら自立して福音を宣べ伝え、信徒たちが力を合わせて教会を建て、守っていく道を歩みます。この新約型教会の姿は、旧約型教会がもつ単一の財政依存構造を超えて、パウロが示した自費糧(自活)宣教の模範を現代教会がどう継承するかという、実践的な答えを提示してくれるのです。 パウロが宣教中に受けた苦難は少なくありませんでした。ユダヤ人たちは自分たちを裏切ったと考えたパウロを殺そうとし、パウロは自分の命さえも少しも惜しまないで福音伝播に専念しました(使徒20:24参照)。ここで自然に浮かんでくる疑問は「なぜパウロはそのような態度を取れたのか?」ということです。彼はイエスが十字架で示された「罪人を救う道」の絶対的価値を悟り、これを伝えるためなら自分を完全に捧げられたのです。そしてパウロはどの町で福音を伝える時も、「悔い改めなさい。イエスがキリストなのです」というメッセージを最優先で強調しました(使徒20:21参照)。罪を指摘し、その罪をイエス様があがなってくださったと宣言すること。これこそ初代教会の使徒たちに共通する福音のメッセージでした。また、悔い改めが起こってこそ真の救いが始まることをパウロははっきりと知っていました。悔い改めなくして罪の赦しも、真の救いもあり得ないからです。 ここで、張ダビデ牧師が繰り返し説いている「教会論と終末論のつながり」という話を再考できます。キリスト論と救済論、終末論がキリスト教三大教理だとするならば、最終的に終末論が私たちに要求するのは「どのような教会を建てるのか」という問いです。つまり、イエス・キリストの再臨を待ち、天国を望みつつ生きる者たちが、この地上で果たすべき使命は教会を建て上げることにあるのです。教会はキリストが血潮によって買い取られた場所であり、信徒たちはその教会の肢として世の虚偽と誘惑に立ち向かわなければなりません。この教会を正しく守り建てることが、終末論的信仰を持つ人々の最終的な課題であり、結局は教会論に帰結するのだという説明です。 今日、多くの教会が財政問題や教勢(信徒数)の停滞によって世間に売りに出されたり、閉鎖してしまう状況をよく目にします。数百、数千にもなる教会が市場に出ているという報道もしばしば耳にします。本来、主の血の代価によって建てられた聖なる共同体が、どうして世の不動産市場に追い込まれるのか。これは信仰が弱まり、教会が旧約型教会のモデルに閉じこもったまま、変化する時代に対応できなかったからだという指摘ができるでしょう。さらに深く踏み込むなら、本文でパウロが予告した通り教会内部に「凶暴な狼」が入り込み群れを荒らし(使徒20:29)、「弟子たちを引き寄せて自分のほうに従わせようと曲がったことを語る者たち」(使徒20:30)が起こったためでもあるのです。世俗化、多元主義、物質主義、消費主義など多くの「狼」が教会内部に入り込んで福音の本質を覆い隠し、信徒たちの魂を分散させてしまいました。 張ダビデ牧師はこの現実を直視し、教会は再び使徒的伝統に立ち返らねばならないと強調します。その核心にはパウロ使徒の「テントメイキング」があります。これは、人間が生きるうえで必須の「衣食住」の問題を解決しつつ、福音を伝え、信徒を世話する二重の使命を同時に果たす方法を意味します。旧約型教会のように祭司、聖職者だけが律法に定められた什一によって生活を保証されるのではなく、教会共同体が互いに協力して自発的に献身し、必要があれば自ら働いて財源を用意することで、宣教そのものに生命力を与えるのです。 実際、パウロはコリントで天幕を作り売って自分の生計を立てながら福音を伝えました(使徒18:1-3参照)。そして必要な時には、同労者やほかの教会から送られてくる財政的支援を受け取り、教えにさらに集中することもありました(使徒18:5)。このように「自分の手で働いて、私と私と共にいる者たちの必要を賄いました」というパウロの告白(使徒20:34)は、新約型教会の自立性と健全性をよく示しています。いかなる宣教者も、働けるにもかかわらず信徒たちの物質に過度に依存したり、それを「当然の権利」と考えたりしません。むしろ自分がもつ技術や才能を活用して信徒たちの負担にならないようにし、むしろより多く与えて仕える方向にエネルギーを注ぐのです。 このような形には明らかな利点があります。 パウロが「弱い者を助け、主イエスご自身が『与えるほうが受けるより幸いである』と言われた御言葉を覚えていなさい」(使徒20:35)と述べたのは、まさにこうした文脈と直結します。 旧約型教会が間違っているのではなく、そのモデルのみを絶対化した時に生じ得る問題を警戒すべきだということを、パウロの宣教と張ダビデ牧師の教えは共に喚起します。旧約時代には確かに、祭司やレビ人が祭儀に集中するために他の部族から物質的支援を受けました。しかし新約時代に入って、イエス・キリストのあがないのわざと共に教会のかたちも変わりました。教会はもはや「神殿」という物理的空間に限定されず、聖霊によって互いに祈りつつ御言葉でつながる場所となったからです。「聖霊があなたがたの中であなたがたを監督者として立てられ、神がご自分の血をもって買い取られた教会を養うようにされたのです」(使徒20:28)という本文の宣言は、教会が主の血潮によって建てられた神聖で尊い共同体であることを明示しています。 このメッセージは、張ダビデ牧師が強調してきた点とも正確に合致します。教会は世の荒波、世俗化や資本の論理に容易く巻き込まれるべきではなく、だからこそテントメイキングという適切なオルタナティブが提示され得るのです。もちろん、だからといってすべての教会が必ずしも事業や商売をしなければならないという話ではありません。教会は基本的に福音宣教と魂の救い、信徒の育成を最優先に置きつつ、その過程で必要な財政を自発的に確保できる道を模索せよという趣旨です。さらに、宣教者やリーダーが「受けるのではなくまず与えること」を喜びとして実践せよということなのです。 今日のように多くの教会が大量に閉鎖され、借金を抱えて不動産市場に教会の建物を出さざるを得ない時代状況の中、教会が健全性を失わないためには何が必要でしょうか。パウロがエペソの長老たちに告別説教をしながら力説したのは結局ひとつ、「私が昼も夜も涙をもって一人ひとりを訓戒したことを思い起こしなさい」(使徒20:31)ということです。これは指導者の生き方がどれほど重要であるかを示しています。いくら指導者が華やかな弁舌や知識を持っていても、信徒一人ひとりに熱い愛と涙、そして責任感をもって関わらなければ、健全な教会共同体を築くことはできません。だからこそパウロは「私はすべてを教えたから、血について責任がない」とまで言います(使徒20:26-27)。教会が倒れ、世に売りに出されるのは「指導者が神の御言葉を完全に伝えなかったのではないか」という厳粛な自己反省を促すのです。 張ダビデ牧師はこのような旧約型教会と新約型教会の比較を通じて、「時代の要請」を見抜かなければならないと力説します。私たちは今、さまざまな世俗イデオロギーや相対主義、ポストモダニズム、多元主義、物質万能主義、快楽主義など、あらゆる異端的・世俗的思潮が混在する時代を生きています。だからこそ、教会がかつてのように「什一や献金だけで牧師の生活が保証される構造」に留まるよりも、むしろ世の中に打って出て、テントメイキングを通して世俗の言語を包含しつつ、変質しない福音の力を示さなければならないというのです。これこそが「神の国を宣べ伝えつつも、生計問題によって中断されることも歪められることもない道」であり、新約の精神を現代に蘇らせる教会の在り方だと言えます。 実際、これは決して新しい主張ではありません。教会史を少し振り返っても、初代教会はもちろん宗教改革以降の様々な運動においても「自費糧宣教」の精神を確認できます。マルティン・ルターは修道院的伝統を批判しつつも、信徒が自立して生活の現場で福音を実践する重要性を説きました。ジャン・カルヴァンも、教会が世俗活動や職業倫理など多面的に社会を変革する先頭に立つべきだと見なしていました。近・現代に入っては医療や教育、救護活動などを通して、教会が社会へ実質的に貢献していくことで福音の影響力を拡大する事例が数多くありました。問題は、こうした流れがいつの間にか特定の制度や建物中心の教会運営に閉ざされ、次第に生気を失い、自立精神も消えていったという点にあります。 したがって、再び使徒行伝20章の御言葉に立ち返り、パウロがエペソの長老たちに「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(使徒20:28)と警告の声を発したことを思い起こさねばなりません。群れを真に世話することは、ただ礼拝堂に集めて説教だけすれば完了するものではありません。教会の財政が貧しくても、それが原因で福音が弱まってはならず、財政が豊かだとしても世俗的な方法で過剰に使ってもいけません。結局、教会が主の血の代価で建てられたという認識を持ち、自ら霊的に目覚めて立ち上がること、そして数ある宣教方法の中でも今日最も実践的な選択肢としてテントメイキングに注目する姿勢が必要なのです。 張ダビデ牧師の教えを詳しく見ていくと、「今私はあなたがたを主とその恵みの御言葉に委ねます。この御言葉はあなたがたを強く建て上げる力があり…」(使徒20:32)という節が大きな比重を占めます。教会が建てられ維持される根本的な力は人間ではなく、御言葉と聖霊のみわざにかかっているからです。御言葉の中にとどまる教会、御言葉を実践する信徒、御言葉によって聖霊の力を体験する共同体は、財政的窮乏や外部の攻撃的非難にも揺さぶられません。反対に、御言葉が弱くなれば、いつの間にか教会が「凶暴な狼」によって侵食されたり、「自分に従わせようと曲がったことを語る」偽指導者や異端に隙を与えるのです。私たちは韓国の教会だけでなく世界の教会が経験している異端問題、指導者の倫理的堕落など数々の事例を通じてそれを学んできました。 今こそ教会は使徒行伝が示す原型的なモデル、パウロが見せた自活宣教と福音専念の姿勢に再武装する必要があります。張ダビデ牧師が長年強調してきたように、「福音に専念する」には必ず「自ら働いて生計を立てる」TM的な考え方が結び付かなければなりません。これは牧師や教会リーダーだけの問題ではなく、すべての信徒が共に担うべき教会の使命であり、「受けるより与えるほうが幸いである」というイエス様の御言葉を私たちの生活で証していく過程なのです。もちろん、牧会の現場で十分な財政的支援を受ける場合もあるでしょう。パウロがテモテやシラスのような同労者たちから支援を受けたように、ある人が福音のために惜しみなく助けることも可能です。しかしその支援が当たり前になったり、制度として固定化される時、教会の内的な躍動感は容易に失われがちです。結局、この地上で教会が存続する理由、そして教会のリーダーたちが必ず先頭に立って守り伝えねばならない核心は「私が福音を伝え、福音のゆえに自ら働く」という覚悟と実際の実践なのです。 私たちの時代に本当に必要なのは、パウロが見せてくれた「自分の手で稼ぎつつ、昼も夜も教え、涙をもって一人ひとりを訓戒した」その情熱です。そしてそれは、徐々に衰退している多くの教会を具体的に生かす解決策にもなり得ます。たとえば、張ダビデ牧師が直接「倒れかけた教会の建物を買い取り、福音の前哨基地として再活性化」する事例がそうです。建物を買うこと自体が目的ではなく、すでに建てられていながら消滅の危機にある教会資産とその地域の魂を守り、再び福音伝道の起爆剤とすることが目的なのです。財政はTMと献身によって用意し、霊的な部分は宣教者と共同体の一致した祈りで満たしていく、という仕組みです。そうして再生した地域教会が周辺でさまよっている魂を受け止め、再び健全に自立して、他の教会や宣教地を援助できるような好循環を期待しているのです。 今日の本文でパウロが「自分の走るべき行程を、そして主イエスから受けた使命、すなわち神の恵みの福音を証する務めを終えるためには、私の命さえ惜しいとは思わない」(使徒20:24)と宣言する有名な箇所は、現代の私たちにも同じように響いてきます。教会は派手なプログラムやイベントではなく、一つの魂を生かし、その福音に命を懸ける人々の涙と労苦と献身の上に建てられます。28年前からこの精神で教会を始めてきたと告白する張ダビデ牧師の姿は、まさにこうした先人たちの道を、今日の私たちがいかに受け継いでいくのかという深い問いを投げかけます。「月に一、二回はマタイ23章を読みながら、指導者が外見ばかり飾る姿にならないよう絶えず自分を点検する」という彼の姿は、宣教者も信徒も共に見習うべき態度ではないでしょうか。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教は、宣教者の姿勢、教会の本質、そして福音を伝える方法論を一つの結論へ集約します。「私はすべてを教えたから、今やあなたがたがつまずくなら、それはあなたがたの責任だ」というパウロの口調は、いかに彼が徹底して教会員を真理で武装させたかを証明しています。そしてその根底には「悔い改め」という土台があります。悔い改めがなければ、教会をいくら飾り、いくら立派な説教をしても、それは本質をはずれた外面的礼拝に過ぎません。自分の罪を悟り、イエス様の十字架の血潮によって救いを得た者が、今度は世の中へ出てテントメイキングを通して福音を伝え、弱い者を助けるのです。「私と私の同行者が必要とするものを自分の手で賄った」とパウロが語るとき、彼は宣教者が世俗の誘惑に陥らず、また福音の純粋さを守るための最も根本的な仕組みを整えたと言えるでしょう。 ここまで本文からまとめてみると、パウロ使徒の告別説教は単に1世紀のエペソ教会だけに適用される教訓ではありません。今日の韓国教会、さらには世界の教会が直面している難局を切り抜ける際に、私たちが耳を傾けるべきメッセージなのです。主の血の代価で買い取られた教会がどうして捨てられ、市場に売りに出されなければならないのか。なぜ教会が借金に苦しみ、物質的窮乏とビジョンの欠如によって閉鎖しなければならないのか。教会は財政的豊かさを享受するたびに世俗化の誘惑にさらされ、財政的困窮に陥ると失望や恥辱に苦しんだりもします。しかし本文にあるように、パウロは外部・内部を問わずあらゆる困難があっても福音をやめませんでした。そして彼のチームもまた、彼と共にテントメイキングを通じて生計を立てながら、必要ならば同労者たちの支援を受け、一層教えと宣教を続けたのです。 Ⅱ. テントメイキング(TM)宣教と教会建ての実際 ここからはテントメイキング(Tentmaking、以下TM)が具体的に何であり、張ダビデ牧師が献身礼拝で強調するこの宣教の実際の価値がどのように具現されるのかを探ってみましょう。テントメイキング(TM)は、その名の通りパウロが天幕を作って売り、生計を自立しつつ福音を伝えたところに由来します。教会史の中では「自費糧宣教」とも呼ばれ、宣教地や牧会の現場で財政支援なし、もしくは最小限の支援だけで現地の人々を助けながら福音を伝達する方法論を指します。現代では職業を持ちながら海外や国内の宣教地で自立して福音を伝える、いわゆる「専門人宣教師」の形へ発展している場合もあります。 しかし張ダビデ牧師が注目するTMは、単に「世の仕事をしながら宣教も並行する」という程度にとどまりません。これは、教会が旧約型モデルにとらわれず、新約型モデルとして信徒全体が福音宣教に参加するように促す宣教的パラダイムです。教会が事業体を運営する、あるいは収益追求を目的に何かをすることを意味するのではありません。むしろ、このTMは「神の国のために自発的に働き、稼ぎ、それをもってさらに教会を建て、苦しむ人々を助ける」霊的・物質的な通路となることを意味します。 張ダビデ牧師が仕える教会共同体には、主に5つの主要な宣教があるそうです。本人の説明によると、すべての信徒はそのうちのどれかの宣教に属しているか、あるいは助けを受けているか、直接・間接的に関わりを持っているとのこと。最近はその中の最後としてTMが正式な宣教として確立され、献身礼拝を捧げるに至りました。このことが意味深いのは、教会開拓当初から既にTMの精神は根付いていたにもかかわらず、今になってようやく「公式な宣教」として位置づけられた点です。これは教会がある程度の成熟期を迎え、より体系的にTMを通して福音拡大を推進する準備が整った兆しとも見なせるでしょう。 パウロがコリントでアクラとプリスキラに出会い、同じ職業であることから共に天幕を作って生活したという事実(使徒18:1-3)は、TM宣教の古典的な例としてよく引用されます。アクラとプリスキラは、ローマ皇帝クラウディオの命でローマから追放されてきたユダヤ人夫婦でしたが、信仰が厚く知識にも優れた人物でした。彼らはパウロと共に天幕を製作・販売し、その収益で生計を立てながら同時に福音を伝え、教会を建てました。伝承によれば、プリスキラは非常に信仰が深かったため、新約聖書の数箇所では彼女の名前が夫よりも先に挙げられるとも言われます(使徒18:8、ローマ16:3など)。また、この夫婦はアポロのような知的な説教者を正しく導いてあげるほど聖書の知識と霊的分別が高かったのです(使徒18:26)。こうしたエピソードは、TMが単なる「副業」ではなく、福音宣教のための強力な武器になり得ることを示唆しています。 張ダビデ牧師はこれら初代教会の事例に基づき、TMが教会内部でどのように機能すべきかを整理します。教会のリーダーは「信徒に無条件で支援せよ、献金をもっと捧げよ」と要求する前に、むしろ自分がパウロのように働いて財源を用意し、その収益で困難な教会や信徒を支援できるようでなければならない、と語ります。そうすることで教会は単なる「消費単位」ではなく、絶えず「生産して分かち合う」共同体へと変容できるというのです。これは「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉と直接結びつき、旧約型教会の一方的な什一依存体制を超越する、新約型教会のモデルを示していると言えます。 すべての牧師、すべての信徒が必ずTMをしなければならないわけではありません。中には生活が十分に豊かで、専ら福音宣教にだけ専念しても差し支えない人もいるでしょう。また、歴史も規模も大きな教会で財政が潤沢ならば、牧師が特別に生業を持たなくても済むかもしれません。しかし問題は、こうした「支援」や「供給」に全面的に依存してしまうことで、福音伝播の本質が曖昧になったり、教会内部の霊的緊張感が緩んでしまう現象が起こりがちだという点にあります。パウロはテモテやシラスのような同労者が持ってきてくれる献金を受け取る際、一層励んで御言葉を教えました。つまり、誰から支援を受ければそれを受けていっそう福音のために献身し、その支援が途絶えれば再び自力で天幕を作って働いたのです。こうした霊的な躍動こそがパウロ宣教の実を豊かにした要素であり、彼が再びエペソの長老たちに会った時に「私はだれの銀や金、あるいは衣服を欲しがったことはなかった」と胸を張って言えた秘訣でもありました。 張ダビデ牧師が長年牧会の現場で実践してきたTM宣教も、大きな枠組みではそれと変わりません。教会が事業体を直接運営する場合もあれば、信徒たちがそれぞれの職場で収益を上げて、それを合わせて倒れかかっている教会を再建したり、宣教地を支援する方法もあります。要は「教会が借金を抱える構造」ではなく「教会が他者の借金を免除し、助ける構造」を作り上げることがポイントです。牧師が教会から給料をもらうことを全面的に否定するのではなく、「もらって当然だ」という考え方から抜け出そうという教えなのです。張ダビデ牧師は実際に、アメリカ各地はもちろん海外のあちこちで閉鎖される教会を「買い取り」、福音の前哨基地として蘇らせています。そしてこの過程でTMによる財源、信徒たちが汗水流して稼いだお金、自発的な献金などを合わせて宣教と救済、教会の運営に用いています。これは「一人の魂でも多く救いたい」という新約教会の精神と正に軌を一にするのです。 こうして教会が神の国拡張のために歩むとき、その方向を決めて実行に移す過程で、教会のリーダーシップとすべての信徒が共に熟考し祈らねばなりません。本文でパウロがエペソ教会を去った後に起こる危険—「凶暴な狼が教会に入り込み、群れを顧みないだろう」(使徒20:29)、「曲がったことを語って弟子たちを自分のほうに引き寄せようとする者が出てくる」(使徒20:30)—を事前に警告したように、教会が外へ出て宣教しようとする際には、世俗の流れや様々な異端が必ず入り込もうとします。ゆえに教会はいつも目を覚まして、「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して訓戒した」パウロの心を受け継ぐべきなのです。テントメイキングであれ、他のどのような宣教方法であれ、究極的には魂の救いと福音拡張という目的を見失ってはなりません。 TM宣教は教会の財政を丈夫にする以上に、教会の霊的体質を変える大きな役割を果たします。なぜなら、信徒一人ひとりが自分の日常の場で「職場・ビジネス・学業」を通じ「この仕事を通してキリストを証しできる」と自覚し始めるからです。教会における信仰が礼拝の時間だけに留まらず、生活全体へと染み渡っていきます。さらに、TMを通じて得た収益が地域教会や海外宣教、救済奉仕、教育宣教などに投入されるならば、「与えるほうが受けるより幸いである」という福音的生き方が共同体の中に自然と広がっていくのです。献身礼拝を捧げるのも、この精神を改めて呼び起こし「私たち皆が共に腕まくりして働きましょう。私たち自身を犠牲にしながら、困っている隣人を生かしましょう。そして何より福音を宣べ伝えましょう」という決意を新たにする儀式だと言えます。 「パウロのようにテントメイキングをせよ」というスローガンを表面的に受け止め、やみくもに経済活動へ参入したり事業拡大に熱中してしまえば、福音伝道の本質が曇るリスクもあります。しかしこの点について、張ダビデ牧師は「聖書の原則を最優先すべきだ」と何度も強調しています。テントメイキングを実践したパウロも、天幕を作ってお金を稼ぐことに先立ち、常に福音宣教を最優先に置いていました。生計がうまくいかなければ自ら働いただけであって、お金を稼ぐこと自体が究極の目的ではなかったのです。もし教会や信徒個人がTM活動によって大きな収益を得たとしても、それを自分だけのために使ったり富を誇ることに注げば、パウロ使徒が言った「銀や金や衣服を欲しがらなかった」という教えと明らかに相反します。そのような成功は福音とは全く無関係な世俗的成功でしかなく、「聖霊と御言葉に自分を委ね、神の御心をすべて伝える信仰共同体を建て上げなさい」(使徒20:27,32参照)という本来の趣旨を決して忘れてはなりません。 張ダビデ牧師が教会開拓や宣教の現場で示してきた具体例を見ると、彼がTMを実行する際に最も重視しているのは「祈りと会議、そして共同体の合意」です。本文でもパウロはエペソの長老たちを呼び出し、一種の「指導者会議」を開いた後に告別説教をしました。現在、閉鎖される教会を引き受けて再生する働きを進める際、張ダビデ牧師と教会のリーダーシップは長い時間をかけて共に祈り、議論し、決断を下すといいます。そしていったん方向が決まれば途中で揺らがずに最後まで推し進め、教会を再建する。このような方法は初代教会にもはっきり現れた特徴です。使徒たちと長老たちが一緒に集まり、聖霊の導きを仰ぎながら教会の進路や問題を解決したからです(使徒15章のエルサレム会議など)。 テントメイキング宣教は、献身礼拝をきっかけにその意義が一層明確になります。教会の中に独自にその宣教を担う部門を設置し、TMが「教会財政を自立させ、さらに困難な教会を支援し、さらには福音を地の果てまで伝える通路」となるように組織化するのです。これは旧約型教会がもつ単線的財政構造(什一献金と奉納中心)に対する補完であり、福音伝播のスペクトラムを広げられる新約型教会の成長モデルと見なせます。「市場に教会が千軒、二千軒も売りに出される時代に、私たちはどうにかして教会を守らなければならない」という危機感は、TMを単なる経済活動以上の聖なる使命として再認識させるのです。 張ダビデ牧師はこのTM献身礼拝で「私たちはこの時代に、売りに出される教会たちのために本当に最善を尽くしてきたと言えるだろうか」という問いを投げかけます。そして「イエス・キリストの福音、聖霊、そして神の国」という柱をしっかりと掴み、信徒一人ひとりが悔い改めて心を新たにし、「自分自身のため、あるいは群れ全体のために気を配りなさい」(使徒20:28)というパウロの訓戒を実践するよう強調します。世俗に染まり倒れつつある現状に対して、TMによる自立と奉仕こそが時代的要請に対する具体的回答になるというのです。 張ダビデ牧師の語るTMは新しいものではなく、むしろ教会が失ってしまった初代教会の純粋さと躍動感を取り戻す道です。その道において指導者は外見だけを飾らず、完全な福音を伝え、信徒たちはそれぞれの場で生計を立てつつも福音の証人として生きます。教会共同体はその結集した実りによって周辺の弱い教会を支え、まだ福音を知らない人々に向けて宣教資源を惜しみなく注ぎ込みます。多元主義と相対主義が激しい波を起こす時代に、「他の道はない。ただイエス・キリストのみ」とする唯一の真理をより鮮明に示すのです。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教に示される新約型教会の核心は、「テントメイキングの精神」と密接に絡み合っています。イエスが私たちに残された言葉—「与えるほうが受けるより幸いである」「道と真理はただ一つ」など—は、教会の存在様式と方向性に対して常に厳しく挑戦します。そして張ダビデ牧師もまた、この使徒的伝統を再発見し、今日の旧約型教会が直面する現実的な危機を克服するための代案としてテントメイキング宣教を強調するのです。これは教会を「万人祭司」という新約の原理に合うよう再編し、信徒一人ひとりが生活の現場で福音を実践するよう促す具体的手段でもあります。 教会の基本精神は「自ら稼いで弱い人を助け、福音のために自分の生涯を捧げよう」という決意にあります。パウロのように言えるべきです。「皆さん、私は自分の命を少しも惜しいとは思わないからこそ、神の恵みの福音を証する務めを終えるまで走り抜くことができたのです」。張ダビデ牧師はこのパウロ使徒の告白を継承しつつ、教会が建てられ宣教が拡張されても、決して物質や名誉に酔ったり、世俗的な達成感に振り回される道に陥らないよう注意を喚起します。むしろ主の血の代価で建てられた教会を守り、市場に売りに出されるしかなかった教会を再生させ、福音をさらに広く伝えるために仕えることを促すのです。 この献身礼拝でTMが正式に立ち上げられたというのは、教会が宣教の範囲をさらに拡大し、これから本格的に「与える生き方」によって「地域社会や世界の宣教現場に大きな影響力」を及ぼそうとする意思表示です。同時に「私はだれの銀や金や衣服も欲しがらなかった」というパウロの態度のように、教会の財源であれ信徒の献身であれ、そのすべてはあくまで「福音を伝え、弱き者を助ける」ための通路であるべきだということを改めて心に刻む場でもあります。つまり、TM宣教を通じて「天の商人」として正直と誠実、そして熱い愛と涙をもって働き、その収益を喜んで福音へ再投資することによって、イエス・キリストの道—すなわち「自己否定と犠牲の道」を実践していくのです。 今日、多くの教会が揺らぎ、崩れていく現実の中で、テントメイキングは単なる「一つの代案」ではなく、本質的な原理として再び注目されるようになりました。聖書が証するパウロ使徒の生涯が、すでにその道筋を示しており、張ダビデ牧師は教会開拓と世界の宣教現場でこれを現代に適用してきました。教会が旧約型パラダイムから抜け出し、新約型教会の活気と躍動感を回復したければ、パウロが言った「自分の手で働き、弱い者を助け、福音を伝える」という姿勢へ立ち返る必要があります。そして、それを教会全体が共有し体系化することで、私たちが生きる時代の魂たちに「生きた福音」を届けなければなりません。「目を覚ましていなさい」(使徒20:31)というパウロの終末論的な訴えは、テントメイキングという具体的な宣教手段を通じて現実に実を結ぶ道にほかならないのです。これこそが張ダビデ牧師が説き、テントメイキング献身礼拝の場で宣言する新約型教会のビジョンであり、教会の将来にとって最も重要な出発点となるでしょう。 www.davidjang.org

Paul’s Farewell Sermon – Pastor David Jang

I. The Background of Acts 20 and the Example of the Apostle Paul The passage from Acts 20:17–35 portrays the scene where the Apostle Paul summons the elders of the Ephesian church to Miletus, delivers his final exhortation, and takes leave of them. Commonly referred to as Paul’s “Farewell Sermon,” this address intensely encapsulates Paul’s … Read more