パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 使徒行伝20章の背景とパウロ使徒の模範 使徒行伝20章17節から35節までの本文には、パウロ使徒がエペソ教会の長老たちをミレトへ呼び寄せ、最後に勧めと別れの挨拶をする場面が描かれています。これは一般に「パウロの告別説教」とも呼ばれ、その別れの言葉の中には、パウロ使徒の宣教哲学、福音伝播の核心、そして教会の存在理由が非常に濃縮された形で詰まっています。特にこの本文を通して、私たちは旧約型教会と新約型教会の違いを深く考察でき、そこに「張ダビデ牧師」が強調するテントメイキング(Tentmaking、以下TM)宣教の意味と重要性を改めて思い起こすことができます。 パウロはミレトという海岸都市で、エペソ教会の長老たちを約50km以上も移動させるように呼び寄せました。そして集まった彼らに「私がこれまでどう生きてきたか、何を教えてきたか、あなたがたは知っている」という回顧の言葉をまず伝えます(使徒20:18参照)。これは、パウロが人々の目の前で、すべてをオープンにしながら生活していたことをよく示しています。指導者がいかに透明であるべきか、また自分の生き方を通してどう福音の真実性を証しすべきかを、この短いフレーズから直感できます。パウロは宣教現場で偽善を装ったり、表と裏が違う姿で生きたりしませんでした。彼は「すべての謙遜と涙をもって」(使徒20:19)生きてきたことを長老たちに思い起こさせます。この言葉には彼の宣教姿勢が込められています。すなわち、謙遜とはイエス・キリストが示されたしもべの姿、仕える道を意味し、涙とは宣教者が単に頭で教えるだけでなく、実際に魂を深く愛し抱こうとする時、自然に流さざるを得ない心の表現なのです。 教会の歴史、そして救済史全般の観点から見ると、パウロ使徒が建てた新約型教会には、旧約的な祭司制度にのみ依存する「旧約型教会」とは明確に区別される特徴がありました。旧約型教会を単純化して言うと、十分の一献金(什一〔じゅういち〕)だけに絶対的に依存する形とみなすこともできるでしょう。ここで十分の一献金自体が間違っている、または不要だという意味ではありません。ただし、教会の財政と運営全般を十分の一献金のみに頼ることで起こり得る多様な問題を軽視してはならない、という点が重要なのです。張ダビデ牧師も同じ文脈を語ります。新約型教会はキリストの福音の中で「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉を実践し、自ら自立して福音を宣べ伝え、信徒たちが力を合わせて教会を建て、守っていく道を歩みます。この新約型教会の姿は、旧約型教会がもつ単一の財政依存構造を超えて、パウロが示した自費糧(自活)宣教の模範を現代教会がどう継承するかという、実践的な答えを提示してくれるのです。 パウロが宣教中に受けた苦難は少なくありませんでした。ユダヤ人たちは自分たちを裏切ったと考えたパウロを殺そうとし、パウロは自分の命さえも少しも惜しまないで福音伝播に専念しました(使徒20:24参照)。ここで自然に浮かんでくる疑問は「なぜパウロはそのような態度を取れたのか?」ということです。彼はイエスが十字架で示された「罪人を救う道」の絶対的価値を悟り、これを伝えるためなら自分を完全に捧げられたのです。そしてパウロはどの町で福音を伝える時も、「悔い改めなさい。イエスがキリストなのです」というメッセージを最優先で強調しました(使徒20:21参照)。罪を指摘し、その罪をイエス様があがなってくださったと宣言すること。これこそ初代教会の使徒たちに共通する福音のメッセージでした。また、悔い改めが起こってこそ真の救いが始まることをパウロははっきりと知っていました。悔い改めなくして罪の赦しも、真の救いもあり得ないからです。 ここで、張ダビデ牧師が繰り返し説いている「教会論と終末論のつながり」という話を再考できます。キリスト論と救済論、終末論がキリスト教三大教理だとするならば、最終的に終末論が私たちに要求するのは「どのような教会を建てるのか」という問いです。つまり、イエス・キリストの再臨を待ち、天国を望みつつ生きる者たちが、この地上で果たすべき使命は教会を建て上げることにあるのです。教会はキリストが血潮によって買い取られた場所であり、信徒たちはその教会の肢として世の虚偽と誘惑に立ち向かわなければなりません。この教会を正しく守り建てることが、終末論的信仰を持つ人々の最終的な課題であり、結局は教会論に帰結するのだという説明です。 今日、多くの教会が財政問題や教勢(信徒数)の停滞によって世間に売りに出されたり、閉鎖してしまう状況をよく目にします。数百、数千にもなる教会が市場に出ているという報道もしばしば耳にします。本来、主の血の代価によって建てられた聖なる共同体が、どうして世の不動産市場に追い込まれるのか。これは信仰が弱まり、教会が旧約型教会のモデルに閉じこもったまま、変化する時代に対応できなかったからだという指摘ができるでしょう。さらに深く踏み込むなら、本文でパウロが予告した通り教会内部に「凶暴な狼」が入り込み群れを荒らし(使徒20:29)、「弟子たちを引き寄せて自分のほうに従わせようと曲がったことを語る者たち」(使徒20:30)が起こったためでもあるのです。世俗化、多元主義、物質主義、消費主義など多くの「狼」が教会内部に入り込んで福音の本質を覆い隠し、信徒たちの魂を分散させてしまいました。 張ダビデ牧師はこの現実を直視し、教会は再び使徒的伝統に立ち返らねばならないと強調します。その核心にはパウロ使徒の「テントメイキング」があります。これは、人間が生きるうえで必須の「衣食住」の問題を解決しつつ、福音を伝え、信徒を世話する二重の使命を同時に果たす方法を意味します。旧約型教会のように祭司、聖職者だけが律法に定められた什一によって生活を保証されるのではなく、教会共同体が互いに協力して自発的に献身し、必要があれば自ら働いて財源を用意することで、宣教そのものに生命力を与えるのです。 実際、パウロはコリントで天幕を作り売って自分の生計を立てながら福音を伝えました(使徒18:1-3参照)。そして必要な時には、同労者やほかの教会から送られてくる財政的支援を受け取り、教えにさらに集中することもありました(使徒18:5)。このように「自分の手で働いて、私と私と共にいる者たちの必要を賄いました」というパウロの告白(使徒20:34)は、新約型教会の自立性と健全性をよく示しています。いかなる宣教者も、働けるにもかかわらず信徒たちの物質に過度に依存したり、それを「当然の権利」と考えたりしません。むしろ自分がもつ技術や才能を活用して信徒たちの負担にならないようにし、むしろより多く与えて仕える方向にエネルギーを注ぐのです。 このような形には明らかな利点があります。 パウロが「弱い者を助け、主イエスご自身が『与えるほうが受けるより幸いである』と言われた御言葉を覚えていなさい」(使徒20:35)と述べたのは、まさにこうした文脈と直結します。 旧約型教会が間違っているのではなく、そのモデルのみを絶対化した時に生じ得る問題を警戒すべきだということを、パウロの宣教と張ダビデ牧師の教えは共に喚起します。旧約時代には確かに、祭司やレビ人が祭儀に集中するために他の部族から物質的支援を受けました。しかし新約時代に入って、イエス・キリストのあがないのわざと共に教会のかたちも変わりました。教会はもはや「神殿」という物理的空間に限定されず、聖霊によって互いに祈りつつ御言葉でつながる場所となったからです。「聖霊があなたがたの中であなたがたを監督者として立てられ、神がご自分の血をもって買い取られた教会を養うようにされたのです」(使徒20:28)という本文の宣言は、教会が主の血潮によって建てられた神聖で尊い共同体であることを明示しています。 このメッセージは、張ダビデ牧師が強調してきた点とも正確に合致します。教会は世の荒波、世俗化や資本の論理に容易く巻き込まれるべきではなく、だからこそテントメイキングという適切なオルタナティブが提示され得るのです。もちろん、だからといってすべての教会が必ずしも事業や商売をしなければならないという話ではありません。教会は基本的に福音宣教と魂の救い、信徒の育成を最優先に置きつつ、その過程で必要な財政を自発的に確保できる道を模索せよという趣旨です。さらに、宣教者やリーダーが「受けるのではなくまず与えること」を喜びとして実践せよということなのです。 今日のように多くの教会が大量に閉鎖され、借金を抱えて不動産市場に教会の建物を出さざるを得ない時代状況の中、教会が健全性を失わないためには何が必要でしょうか。パウロがエペソの長老たちに告別説教をしながら力説したのは結局ひとつ、「私が昼も夜も涙をもって一人ひとりを訓戒したことを思い起こしなさい」(使徒20:31)ということです。これは指導者の生き方がどれほど重要であるかを示しています。いくら指導者が華やかな弁舌や知識を持っていても、信徒一人ひとりに熱い愛と涙、そして責任感をもって関わらなければ、健全な教会共同体を築くことはできません。だからこそパウロは「私はすべてを教えたから、血について責任がない」とまで言います(使徒20:26-27)。教会が倒れ、世に売りに出されるのは「指導者が神の御言葉を完全に伝えなかったのではないか」という厳粛な自己反省を促すのです。 張ダビデ牧師はこのような旧約型教会と新約型教会の比較を通じて、「時代の要請」を見抜かなければならないと力説します。私たちは今、さまざまな世俗イデオロギーや相対主義、ポストモダニズム、多元主義、物質万能主義、快楽主義など、あらゆる異端的・世俗的思潮が混在する時代を生きています。だからこそ、教会がかつてのように「什一や献金だけで牧師の生活が保証される構造」に留まるよりも、むしろ世の中に打って出て、テントメイキングを通して世俗の言語を包含しつつ、変質しない福音の力を示さなければならないというのです。これこそが「神の国を宣べ伝えつつも、生計問題によって中断されることも歪められることもない道」であり、新約の精神を現代に蘇らせる教会の在り方だと言えます。 実際、これは決して新しい主張ではありません。教会史を少し振り返っても、初代教会はもちろん宗教改革以降の様々な運動においても「自費糧宣教」の精神を確認できます。マルティン・ルターは修道院的伝統を批判しつつも、信徒が自立して生活の現場で福音を実践する重要性を説きました。ジャン・カルヴァンも、教会が世俗活動や職業倫理など多面的に社会を変革する先頭に立つべきだと見なしていました。近・現代に入っては医療や教育、救護活動などを通して、教会が社会へ実質的に貢献していくことで福音の影響力を拡大する事例が数多くありました。問題は、こうした流れがいつの間にか特定の制度や建物中心の教会運営に閉ざされ、次第に生気を失い、自立精神も消えていったという点にあります。 したがって、再び使徒行伝20章の御言葉に立ち返り、パウロがエペソの長老たちに「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(使徒20:28)と警告の声を発したことを思い起こさねばなりません。群れを真に世話することは、ただ礼拝堂に集めて説教だけすれば完了するものではありません。教会の財政が貧しくても、それが原因で福音が弱まってはならず、財政が豊かだとしても世俗的な方法で過剰に使ってもいけません。結局、教会が主の血の代価で建てられたという認識を持ち、自ら霊的に目覚めて立ち上がること、そして数ある宣教方法の中でも今日最も実践的な選択肢としてテントメイキングに注目する姿勢が必要なのです。 張ダビデ牧師の教えを詳しく見ていくと、「今私はあなたがたを主とその恵みの御言葉に委ねます。この御言葉はあなたがたを強く建て上げる力があり…」(使徒20:32)という節が大きな比重を占めます。教会が建てられ維持される根本的な力は人間ではなく、御言葉と聖霊のみわざにかかっているからです。御言葉の中にとどまる教会、御言葉を実践する信徒、御言葉によって聖霊の力を体験する共同体は、財政的窮乏や外部の攻撃的非難にも揺さぶられません。反対に、御言葉が弱くなれば、いつの間にか教会が「凶暴な狼」によって侵食されたり、「自分に従わせようと曲がったことを語る」偽指導者や異端に隙を与えるのです。私たちは韓国の教会だけでなく世界の教会が経験している異端問題、指導者の倫理的堕落など数々の事例を通じてそれを学んできました。 今こそ教会は使徒行伝が示す原型的なモデル、パウロが見せた自活宣教と福音専念の姿勢に再武装する必要があります。張ダビデ牧師が長年強調してきたように、「福音に専念する」には必ず「自ら働いて生計を立てる」TM的な考え方が結び付かなければなりません。これは牧師や教会リーダーだけの問題ではなく、すべての信徒が共に担うべき教会の使命であり、「受けるより与えるほうが幸いである」というイエス様の御言葉を私たちの生活で証していく過程なのです。もちろん、牧会の現場で十分な財政的支援を受ける場合もあるでしょう。パウロがテモテやシラスのような同労者たちから支援を受けたように、ある人が福音のために惜しみなく助けることも可能です。しかしその支援が当たり前になったり、制度として固定化される時、教会の内的な躍動感は容易に失われがちです。結局、この地上で教会が存続する理由、そして教会のリーダーたちが必ず先頭に立って守り伝えねばならない核心は「私が福音を伝え、福音のゆえに自ら働く」という覚悟と実際の実践なのです。 私たちの時代に本当に必要なのは、パウロが見せてくれた「自分の手で稼ぎつつ、昼も夜も教え、涙をもって一人ひとりを訓戒した」その情熱です。そしてそれは、徐々に衰退している多くの教会を具体的に生かす解決策にもなり得ます。たとえば、張ダビデ牧師が直接「倒れかけた教会の建物を買い取り、福音の前哨基地として再活性化」する事例がそうです。建物を買うこと自体が目的ではなく、すでに建てられていながら消滅の危機にある教会資産とその地域の魂を守り、再び福音伝道の起爆剤とすることが目的なのです。財政はTMと献身によって用意し、霊的な部分は宣教者と共同体の一致した祈りで満たしていく、という仕組みです。そうして再生した地域教会が周辺でさまよっている魂を受け止め、再び健全に自立して、他の教会や宣教地を援助できるような好循環を期待しているのです。 今日の本文でパウロが「自分の走るべき行程を、そして主イエスから受けた使命、すなわち神の恵みの福音を証する務めを終えるためには、私の命さえ惜しいとは思わない」(使徒20:24)と宣言する有名な箇所は、現代の私たちにも同じように響いてきます。教会は派手なプログラムやイベントではなく、一つの魂を生かし、その福音に命を懸ける人々の涙と労苦と献身の上に建てられます。28年前からこの精神で教会を始めてきたと告白する張ダビデ牧師の姿は、まさにこうした先人たちの道を、今日の私たちがいかに受け継いでいくのかという深い問いを投げかけます。「月に一、二回はマタイ23章を読みながら、指導者が外見ばかり飾る姿にならないよう絶えず自分を点検する」という彼の姿は、宣教者も信徒も共に見習うべき態度ではないでしょうか。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教は、宣教者の姿勢、教会の本質、そして福音を伝える方法論を一つの結論へ集約します。「私はすべてを教えたから、今やあなたがたがつまずくなら、それはあなたがたの責任だ」というパウロの口調は、いかに彼が徹底して教会員を真理で武装させたかを証明しています。そしてその根底には「悔い改め」という土台があります。悔い改めがなければ、教会をいくら飾り、いくら立派な説教をしても、それは本質をはずれた外面的礼拝に過ぎません。自分の罪を悟り、イエス様の十字架の血潮によって救いを得た者が、今度は世の中へ出てテントメイキングを通して福音を伝え、弱い者を助けるのです。「私と私の同行者が必要とするものを自分の手で賄った」とパウロが語るとき、彼は宣教者が世俗の誘惑に陥らず、また福音の純粋さを守るための最も根本的な仕組みを整えたと言えるでしょう。 ここまで本文からまとめてみると、パウロ使徒の告別説教は単に1世紀のエペソ教会だけに適用される教訓ではありません。今日の韓国教会、さらには世界の教会が直面している難局を切り抜ける際に、私たちが耳を傾けるべきメッセージなのです。主の血の代価で買い取られた教会がどうして捨てられ、市場に売りに出されなければならないのか。なぜ教会が借金に苦しみ、物質的窮乏とビジョンの欠如によって閉鎖しなければならないのか。教会は財政的豊かさを享受するたびに世俗化の誘惑にさらされ、財政的困窮に陥ると失望や恥辱に苦しんだりもします。しかし本文にあるように、パウロは外部・内部を問わずあらゆる困難があっても福音をやめませんでした。そして彼のチームもまた、彼と共にテントメイキングを通じて生計を立てながら、必要ならば同労者たちの支援を受け、一層教えと宣教を続けたのです。 Ⅱ. テントメイキング(TM)宣教と教会建ての実際 ここからはテントメイキング(Tentmaking、以下TM)が具体的に何であり、張ダビデ牧師が献身礼拝で強調するこの宣教の実際の価値がどのように具現されるのかを探ってみましょう。テントメイキング(TM)は、その名の通りパウロが天幕を作って売り、生計を自立しつつ福音を伝えたところに由来します。教会史の中では「自費糧宣教」とも呼ばれ、宣教地や牧会の現場で財政支援なし、もしくは最小限の支援だけで現地の人々を助けながら福音を伝達する方法論を指します。現代では職業を持ちながら海外や国内の宣教地で自立して福音を伝える、いわゆる「専門人宣教師」の形へ発展している場合もあります。 しかし張ダビデ牧師が注目するTMは、単に「世の仕事をしながら宣教も並行する」という程度にとどまりません。これは、教会が旧約型モデルにとらわれず、新約型モデルとして信徒全体が福音宣教に参加するように促す宣教的パラダイムです。教会が事業体を運営する、あるいは収益追求を目的に何かをすることを意味するのではありません。むしろ、このTMは「神の国のために自発的に働き、稼ぎ、それをもってさらに教会を建て、苦しむ人々を助ける」霊的・物質的な通路となることを意味します。 張ダビデ牧師が仕える教会共同体には、主に5つの主要な宣教があるそうです。本人の説明によると、すべての信徒はそのうちのどれかの宣教に属しているか、あるいは助けを受けているか、直接・間接的に関わりを持っているとのこと。最近はその中の最後としてTMが正式な宣教として確立され、献身礼拝を捧げるに至りました。このことが意味深いのは、教会開拓当初から既にTMの精神は根付いていたにもかかわらず、今になってようやく「公式な宣教」として位置づけられた点です。これは教会がある程度の成熟期を迎え、より体系的にTMを通して福音拡大を推進する準備が整った兆しとも見なせるでしょう。 パウロがコリントでアクラとプリスキラに出会い、同じ職業であることから共に天幕を作って生活したという事実(使徒18:1-3)は、TM宣教の古典的な例としてよく引用されます。アクラとプリスキラは、ローマ皇帝クラウディオの命でローマから追放されてきたユダヤ人夫婦でしたが、信仰が厚く知識にも優れた人物でした。彼らはパウロと共に天幕を製作・販売し、その収益で生計を立てながら同時に福音を伝え、教会を建てました。伝承によれば、プリスキラは非常に信仰が深かったため、新約聖書の数箇所では彼女の名前が夫よりも先に挙げられるとも言われます(使徒18:8、ローマ16:3など)。また、この夫婦はアポロのような知的な説教者を正しく導いてあげるほど聖書の知識と霊的分別が高かったのです(使徒18:26)。こうしたエピソードは、TMが単なる「副業」ではなく、福音宣教のための強力な武器になり得ることを示唆しています。 張ダビデ牧師はこれら初代教会の事例に基づき、TMが教会内部でどのように機能すべきかを整理します。教会のリーダーは「信徒に無条件で支援せよ、献金をもっと捧げよ」と要求する前に、むしろ自分がパウロのように働いて財源を用意し、その収益で困難な教会や信徒を支援できるようでなければならない、と語ります。そうすることで教会は単なる「消費単位」ではなく、絶えず「生産して分かち合う」共同体へと変容できるというのです。これは「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉と直接結びつき、旧約型教会の一方的な什一依存体制を超越する、新約型教会のモデルを示していると言えます。 すべての牧師、すべての信徒が必ずTMをしなければならないわけではありません。中には生活が十分に豊かで、専ら福音宣教にだけ専念しても差し支えない人もいるでしょう。また、歴史も規模も大きな教会で財政が潤沢ならば、牧師が特別に生業を持たなくても済むかもしれません。しかし問題は、こうした「支援」や「供給」に全面的に依存してしまうことで、福音伝播の本質が曖昧になったり、教会内部の霊的緊張感が緩んでしまう現象が起こりがちだという点にあります。パウロはテモテやシラスのような同労者が持ってきてくれる献金を受け取る際、一層励んで御言葉を教えました。つまり、誰から支援を受ければそれを受けていっそう福音のために献身し、その支援が途絶えれば再び自力で天幕を作って働いたのです。こうした霊的な躍動こそがパウロ宣教の実を豊かにした要素であり、彼が再びエペソの長老たちに会った時に「私はだれの銀や金、あるいは衣服を欲しがったことはなかった」と胸を張って言えた秘訣でもありました。 張ダビデ牧師が長年牧会の現場で実践してきたTM宣教も、大きな枠組みではそれと変わりません。教会が事業体を直接運営する場合もあれば、信徒たちがそれぞれの職場で収益を上げて、それを合わせて倒れかかっている教会を再建したり、宣教地を支援する方法もあります。要は「教会が借金を抱える構造」ではなく「教会が他者の借金を免除し、助ける構造」を作り上げることがポイントです。牧師が教会から給料をもらうことを全面的に否定するのではなく、「もらって当然だ」という考え方から抜け出そうという教えなのです。張ダビデ牧師は実際に、アメリカ各地はもちろん海外のあちこちで閉鎖される教会を「買い取り」、福音の前哨基地として蘇らせています。そしてこの過程でTMによる財源、信徒たちが汗水流して稼いだお金、自発的な献金などを合わせて宣教と救済、教会の運営に用いています。これは「一人の魂でも多く救いたい」という新約教会の精神と正に軌を一にするのです。 こうして教会が神の国拡張のために歩むとき、その方向を決めて実行に移す過程で、教会のリーダーシップとすべての信徒が共に熟考し祈らねばなりません。本文でパウロがエペソ教会を去った後に起こる危険—「凶暴な狼が教会に入り込み、群れを顧みないだろう」(使徒20:29)、「曲がったことを語って弟子たちを自分のほうに引き寄せようとする者が出てくる」(使徒20:30)—を事前に警告したように、教会が外へ出て宣教しようとする際には、世俗の流れや様々な異端が必ず入り込もうとします。ゆえに教会はいつも目を覚まして、「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して訓戒した」パウロの心を受け継ぐべきなのです。テントメイキングであれ、他のどのような宣教方法であれ、究極的には魂の救いと福音拡張という目的を見失ってはなりません。 TM宣教は教会の財政を丈夫にする以上に、教会の霊的体質を変える大きな役割を果たします。なぜなら、信徒一人ひとりが自分の日常の場で「職場・ビジネス・学業」を通じ「この仕事を通してキリストを証しできる」と自覚し始めるからです。教会における信仰が礼拝の時間だけに留まらず、生活全体へと染み渡っていきます。さらに、TMを通じて得た収益が地域教会や海外宣教、救済奉仕、教育宣教などに投入されるならば、「与えるほうが受けるより幸いである」という福音的生き方が共同体の中に自然と広がっていくのです。献身礼拝を捧げるのも、この精神を改めて呼び起こし「私たち皆が共に腕まくりして働きましょう。私たち自身を犠牲にしながら、困っている隣人を生かしましょう。そして何より福音を宣べ伝えましょう」という決意を新たにする儀式だと言えます。 「パウロのようにテントメイキングをせよ」というスローガンを表面的に受け止め、やみくもに経済活動へ参入したり事業拡大に熱中してしまえば、福音伝道の本質が曇るリスクもあります。しかしこの点について、張ダビデ牧師は「聖書の原則を最優先すべきだ」と何度も強調しています。テントメイキングを実践したパウロも、天幕を作ってお金を稼ぐことに先立ち、常に福音宣教を最優先に置いていました。生計がうまくいかなければ自ら働いただけであって、お金を稼ぐこと自体が究極の目的ではなかったのです。もし教会や信徒個人がTM活動によって大きな収益を得たとしても、それを自分だけのために使ったり富を誇ることに注げば、パウロ使徒が言った「銀や金や衣服を欲しがらなかった」という教えと明らかに相反します。そのような成功は福音とは全く無関係な世俗的成功でしかなく、「聖霊と御言葉に自分を委ね、神の御心をすべて伝える信仰共同体を建て上げなさい」(使徒20:27,32参照)という本来の趣旨を決して忘れてはなりません。 張ダビデ牧師が教会開拓や宣教の現場で示してきた具体例を見ると、彼がTMを実行する際に最も重視しているのは「祈りと会議、そして共同体の合意」です。本文でもパウロはエペソの長老たちを呼び出し、一種の「指導者会議」を開いた後に告別説教をしました。現在、閉鎖される教会を引き受けて再生する働きを進める際、張ダビデ牧師と教会のリーダーシップは長い時間をかけて共に祈り、議論し、決断を下すといいます。そしていったん方向が決まれば途中で揺らがずに最後まで推し進め、教会を再建する。このような方法は初代教会にもはっきり現れた特徴です。使徒たちと長老たちが一緒に集まり、聖霊の導きを仰ぎながら教会の進路や問題を解決したからです(使徒15章のエルサレム会議など)。 テントメイキング宣教は、献身礼拝をきっかけにその意義が一層明確になります。教会の中に独自にその宣教を担う部門を設置し、TMが「教会財政を自立させ、さらに困難な教会を支援し、さらには福音を地の果てまで伝える通路」となるように組織化するのです。これは旧約型教会がもつ単線的財政構造(什一献金と奉納中心)に対する補完であり、福音伝播のスペクトラムを広げられる新約型教会の成長モデルと見なせます。「市場に教会が千軒、二千軒も売りに出される時代に、私たちはどうにかして教会を守らなければならない」という危機感は、TMを単なる経済活動以上の聖なる使命として再認識させるのです。 張ダビデ牧師はこのTM献身礼拝で「私たちはこの時代に、売りに出される教会たちのために本当に最善を尽くしてきたと言えるだろうか」という問いを投げかけます。そして「イエス・キリストの福音、聖霊、そして神の国」という柱をしっかりと掴み、信徒一人ひとりが悔い改めて心を新たにし、「自分自身のため、あるいは群れ全体のために気を配りなさい」(使徒20:28)というパウロの訓戒を実践するよう強調します。世俗に染まり倒れつつある現状に対して、TMによる自立と奉仕こそが時代的要請に対する具体的回答になるというのです。 張ダビデ牧師の語るTMは新しいものではなく、むしろ教会が失ってしまった初代教会の純粋さと躍動感を取り戻す道です。その道において指導者は外見だけを飾らず、完全な福音を伝え、信徒たちはそれぞれの場で生計を立てつつも福音の証人として生きます。教会共同体はその結集した実りによって周辺の弱い教会を支え、まだ福音を知らない人々に向けて宣教資源を惜しみなく注ぎ込みます。多元主義と相対主義が激しい波を起こす時代に、「他の道はない。ただイエス・キリストのみ」とする唯一の真理をより鮮明に示すのです。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教に示される新約型教会の核心は、「テントメイキングの精神」と密接に絡み合っています。イエスが私たちに残された言葉—「与えるほうが受けるより幸いである」「道と真理はただ一つ」など—は、教会の存在様式と方向性に対して常に厳しく挑戦します。そして張ダビデ牧師もまた、この使徒的伝統を再発見し、今日の旧約型教会が直面する現実的な危機を克服するための代案としてテントメイキング宣教を強調するのです。これは教会を「万人祭司」という新約の原理に合うよう再編し、信徒一人ひとりが生活の現場で福音を実践するよう促す具体的手段でもあります。 教会の基本精神は「自ら稼いで弱い人を助け、福音のために自分の生涯を捧げよう」という決意にあります。パウロのように言えるべきです。「皆さん、私は自分の命を少しも惜しいとは思わないからこそ、神の恵みの福音を証する務めを終えるまで走り抜くことができたのです」。張ダビデ牧師はこのパウロ使徒の告白を継承しつつ、教会が建てられ宣教が拡張されても、決して物質や名誉に酔ったり、世俗的な達成感に振り回される道に陥らないよう注意を喚起します。むしろ主の血の代価で建てられた教会を守り、市場に売りに出されるしかなかった教会を再生させ、福音をさらに広く伝えるために仕えることを促すのです。 この献身礼拝でTMが正式に立ち上げられたというのは、教会が宣教の範囲をさらに拡大し、これから本格的に「与える生き方」によって「地域社会や世界の宣教現場に大きな影響力」を及ぼそうとする意思表示です。同時に「私はだれの銀や金や衣服も欲しがらなかった」というパウロの態度のように、教会の財源であれ信徒の献身であれ、そのすべてはあくまで「福音を伝え、弱き者を助ける」ための通路であるべきだということを改めて心に刻む場でもあります。つまり、TM宣教を通じて「天の商人」として正直と誠実、そして熱い愛と涙をもって働き、その収益を喜んで福音へ再投資することによって、イエス・キリストの道—すなわち「自己否定と犠牲の道」を実践していくのです。 今日、多くの教会が揺らぎ、崩れていく現実の中で、テントメイキングは単なる「一つの代案」ではなく、本質的な原理として再び注目されるようになりました。聖書が証するパウロ使徒の生涯が、すでにその道筋を示しており、張ダビデ牧師は教会開拓と世界の宣教現場でこれを現代に適用してきました。教会が旧約型パラダイムから抜け出し、新約型教会の活気と躍動感を回復したければ、パウロが言った「自分の手で働き、弱い者を助け、福音を伝える」という姿勢へ立ち返る必要があります。そして、それを教会全体が共有し体系化することで、私たちが生きる時代の魂たちに「生きた福音」を届けなければなりません。「目を覚ましていなさい」(使徒20:31)というパウロの終末論的な訴えは、テントメイキングという具体的な宣教手段を通じて現実に実を結ぶ道にほかならないのです。これこそが張ダビデ牧師が説き、テントメイキング献身礼拝の場で宣言する新約型教会のビジョンであり、教会の将来にとって最も重要な出発点となるでしょう。 www.davidjang.org

アンナスのもとへ連行される―張ダビデ牧師

ヨハネの福音書18章12節から22節は、イエス様が捕縛され、縛られたまま大祭司アンナスのもとへまず連れて行かれる場面を非常に生々しく描写しています。本福音書全体の中でも、イエス様の受難と十字架の出来事に決定的な準備をもたらす重要な瞬間です。特にヨハネの福音書の記者は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では比較的あっさり扱われているアンナスの存在を明確に際立たせることで、当時の宗教的権力の腐敗と陰謀がいかにイエス様に向かって動いていたかを告発しています。ここには、大祭司職の世襲と堕落した宗教権力の実態がはっきりと示され、イエス様が既得権を守ろうとする者たちの偽りと暴力によっていかに陥れられ、犠牲になったのかが証明されます。この箇所に触れるたびに、私たちは当時の歴史を超えて、現代においても繰り返され得る宗教的・社会的権力の腐敗を省みるよう促されるのです。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かす中で、特に「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という事実に着目し、その不当性と逆説を詳しく指摘します。そして本文を中心とした深い黙想を通じ、イエス様がどのような状況下でも神の国の真理を証しし、ついには贖いの道を開いてくださったことを再認識したいと説いています。 1. アンナスへ「まず」連れて行かれたイエス様 聖書本文(ヨハネ18:12-14)によると、イエス様を捕らえに来た者たちは、兵隊と千夫長、そしてユダヤ人の下役たちで構成されていました。彼らはゲッセマネの園でイエス様を逮捕した直後、すぐにイエス様を縛り、まずアンナスのもとへ連行します。アンナスは現職大祭司カヤパのしゅうとで、すでに相当な影響力と財産、そして強力な背後権力を誇る人物でした。ヨハネ18章13節は簡潔に「アンナスはその年の大祭司カヤパのしゅうとであった」と記すだけですが、そのひと言の背後には、当時のユダヤ教の宗教制度がいかにアンナス一族を中心として腐敗し、深く絡み合っていたかが暗示されています。 本来、大祭司の職分はレビ記の規定により終身職であるべきで、何より聖く純潔に保たれるべき位置づけでした。ところが実際にはそうではありませんでした。アンナスは紀元6年から15年まで、実に9年にわたって公式に大祭司を務め、その後は彼の5人の息子たちが次々と大祭司の座を継承しました。そしてその合間に娘婿であるカヤパを大祭司として据えたのです。これは正当な手続きをまったく踏まない、極度に堕落した宗教権力の世襲体制でした。 こうした腐敗した構造を背景に、ヨハネの福音書の記者は、主が捕縛された直後に「まずアンナスのもとへ」引き立てられたことを明確に記録します(ヨハネ18:13)。法的観点から言えば、現職の大祭司カヤパの前でも裁判が行われるべきでしたし、正式な宗教裁判は日の出を待って、必ず神殿の庭、すなわちサンヘドリンが集まる場所で行うのが本来の手順でした。ユダヤ教の最高意思決定機関であるサンヘドリンの裁判手続きは極めて厳格で、最低でも二人以上の証人が必要であり、偽証が発覚した場合その証言は無効となりました。さらに死刑判決を即執行する権限はユダヤ当局にはなく、ローマの承認を経る必要がありました。つまりイエス様を十字架刑に処するためには、ローマ総督による公の裁きが付け加わらねばなりません。 にもかかわらず、彼らは「律法を厳守している」と自称しつつ、実際は自分たちの既得権を守るために夜中にイエス様をこっそり捕らえ、アンナスのもとへ最初に引っ立てて行きました。これは明らかに律法違反であり、不法な裁判の進め方でした。 2. なぜアンナスだったのか? なぜわざわざアンナスのもとへ行ったのでしょうか。ただカヤパのしゅうとだからという理由だけで訪れたのでしょうか。それともあらゆる権力と陰謀の背後で実際の影響力を行使していた“実力者”こそアンナスだったのでしょうか。多くの学者や牧師、そして張ダビデ牧師のような人々も、アンナスという存在を単なる「前職の大祭司」と見るのではなく、実際にイエス様の逮捕および処刑の過程で決定的な影響力を行使した中心人物と捉えます。 アンナスはすでにローマと結託し、大祭司職を売買しながら莫大な富を蓄え、神殿で売られる捧げ物(「神殿商売」)を事実上独占していました。その結果、神殿は「強盗の巣」であり、商人たちの貪欲を実現する場所と化してしまいます(ヨハネ2:13-16、マタイ21:13など)。イエス様は公生涯の初期と最後に二度も神殿を清められ、この腐敗した構造を正面から批判されました。 当時、神殿で捧げ物を買う際は、本来なら傷のない生贄を選ばなければなりませんでした。しかし「神殿内部」で売られている捧げ物は、大祭司側の検査官が自動的に“合格”を出し、「神殿の外」から持ち込まれた生贄は、いくら欠点が全くないように見えても、意図的に傷物と判定されがちでした。結局、巡礼者や礼拝者は高価で不当な値段を払ってでも、神殿内で公式に認められた捧げ物を買わざるを得ませんでした。鳩のような貧しい人々向けの捧げ物でさえ、神殿内では数倍以上の高額で販売されていたのです。このようにして蓄積された莫大な利益は、アンナス一族と結びついたサドカイ派の指導層に還元されました。さらに彼らはローマの権力者とも緊密に結びついていたため、宗教的特権と政治力を利用し、安定的に既得権を保持できたのです。 こうして宗教権力の腐敗を象徴するアンナスが「まず」イエス様を尋問したことは、単なる手続き上のハプニングではなく、本格的な「イエス抹殺」陰謀の始まりだったのです。ヨハネ18章19節以下でアンナスはイエス様に「その弟子たちや教えについて」問いただします。これは非常に策略的な問いで、イエス様にどれほど多くの弟子がいるのか、あるいはイエス様がユダヤ教の伝統とは全く違う革命的教えを密かに広めているのではないか、といった追及の仕方でした。ヨハネの福音書の記者は、「私はひそかに何も語りませんでした」と仰せになるイエス様の答え(ヨハネ18:20)を伝えています。実際イエス様は公の場所である会堂や神殿でいつも教えを述べられ、大勢の人々の前でも大胆に神の国を宣べ伝えられました。しかも神殿を清められた事件も公開の場で行なわれていますから、「秘密結社」のようなイメージをかぶせようとするアンナスの意図がいかに空虚なものであるかが示されています。 イエス様はアンナスの直接の尋問に対して、「なぜ私に尋ねるのか。私の話を聞いた人々に尋ねてみなさい。彼らは私が話してきたことを知っています」(ヨハネ18:21)と答えられます。これはユダヤの裁判慣習にも適った、極めて合法的で正当な返答です。なぜなら、誰かを正式に告発しようとするなら、二人以上の証人が必要であり、もしイエス様が本当に危険で悪質な教えを広めていたならば、その「被害者」や「目撃者」が当然名乗り出るはずだからです。それでもアンナスはイエス様に自ら罪を自白させようとする、一種の自白強要的尋問を試みます。この箇所で不正な裁判の実態が一層はっきりと示されます。イエス様が合理的で正当な弁明を述べられたにもかかわらず、そばにいた下役の一人はイエス様の頬を打ち、「大祭司にそのような答え方があるか」(ヨハネ18:22)と侮辱するのです。裁判というより、暴力が横行する不義の場であることが明らかになる瞬間です。 3. イエス様の沈黙と真理の証言 この部分を深く黙想するとき、私たちは主が不当な暴力の前にも黙々とその道を歩まれる姿を見出します。罪のない方が罪人扱いをされ、縛られたまま、夜中に行なわれる違法な尋問の場に立たされている。それでもイエス様は最後まで真理の言葉を守られます。裁判の手続きや律法本来の精神を正面から無視するアンナスは、イエス様を神の権威への挑戦者として追い詰めようとしますが、実際は神を冒涜し神の御名を汚したのはアンナス自身でした。堕落した宗教権力は自らを防衛するためなら、いくらでも偽りや暴力を用います。その結果、神殿は商人であふれた場所となり、大祭司の座は金と結びついた世襲職に堕落してしまいます。 張ダビデ牧師はこの本文を黙想しながら、イエス様の受難が単なる個人的な苦痛の問題ではなく、巨大な宗教的・政治的腐敗構造と衝突した事件であることを強調します。当時の大祭司職がいかに親ローマ派の者たちによって買収や裏取引によって独占されていたのか、すなわち神に捧げるはずの礼拝が権力維持の手段に変質していたのか、改めて振り返るのです。そして張ダビデ牧師は、これを現代にも適用し得る洞察として提示します。今日の教会やいかなる信仰共同体も、自分たちを絶えず省みなければ、いつでも「アンナス化」してしまう可能性があるからです。つまり神の御名を掲げながら、実際には富や権力をむさぼる歪んだ姿を示しかねないということです。かつてイエス様が神殿を清められたときの憤りと御言葉を思い起こすなら、教会が世の中でどのような姿勢をとるべきか、一層明確になるはずです。 4. ベドロと「もう一人の弟子」の物語 ここでもう一つ注目すべき点は、ベドロと「もう一人の弟子」の話です(ヨハネ18:15-18)。ヨハネの福音書は、すべての弟子が散り散りに逃げた状況でも、ベドロともう一人の弟子が最後までイエス様について大祭司の屋敷の庭に入ったと伝えます。その際、「大祭司に顔見知り」であったこのもう一人の弟子が、ベドロを連れて門を通れるように取り計らいました。本書の文脈や教会史的・伝統的解釈において、この人物を使徒ヨハネと推測する説が多いですが、中にはユダだった可能性を唱える者もいます。もし彼がユダであれば、大祭司側と内通していたため、ベドロを通せたのかもしれません。とはいえ伝統的には、ヨハネが大祭司の家系と何らかの縁があったと見なすことが多いでしょう。 重要なのは、ともかくベドロがイエス様を最後まで追いかけてきたという事実です。彼は失敗が多く、つまずきやすい性格だったものの、誰よりもイエス様を愛していましたし、裏切るつもりもありませんでした。むしろイエス様を守ろうとして剣を抜くほど熱心だったのです(ヨハネ18:10)。 ところが大祭司の屋敷で焚火にあたっていたベドロは、とうとうイエス様を三度否認してしまいます(ヨハネ18:17-18、25-27)。これはイエス様がすでに予告しておられた(ヨハネ13:38)とおりの成り行きでした。もしかするとこの瞬間、ベドロが本当にすべきだったのは、その不法な裁判の現場でイエス様を弁護することだったかもしれません。アンナス側がイエス様の教えを歪曲し、弟子の集まりを反体制的陰謀集団に仕立て上げようとする中で、もしベドロが立ち上がり「主がお語りになったのは神の国の福音であり、ユダヤ律法を破壊しようとなさったことはない。神殿を壊せと仰ったこともなく、むしろ真の礼拝の回復を説かれたのだ」と証言していたらどうなったでしょうか。しかしその場は命の危険が伴う状況だったため、ベドロは恐れに震えざるを得なかったのです。 とはいえ、この場面はベドロの否認を通して、人間の弱さがどこまで極まるかを示すと同時に、主の愛と赦しがいかに大きいかを対比させます。後に復活されたイエス様はティベリアの湖畔でベドロを探し求め(ヨハネ21章)、「あなたは私を愛するか」と三度問いかけて彼を回復させました。 5. 十字架への道と真理の証し イエス様への尋問の場面は、その後ピラトへ移される裁判手続き(ヨハネ18:28以降)へと続き、十字架刑が最終的に決定されていきます。この過程を通じてヨハネの福音書は、イエス様が単に「権力に屈して捕えられた悲劇的犠牲者」ではなく、むしろ「真理を証しするために世に来られたお方」であることを示そうとしているのです(ヨハネ18:37)。すなわちイエス様は力ある神であられ、いくらでも自分を守ることがおできになったにもかかわらず、私たち人類の罪を代わりに背負うため、自ら苦難と恥辱を引き受けられました。宗教権力と政治権力が結託するこの暗闇の中で、イエス様は黙々と父なる神の御旨を成就する道を選ばれたのです。その道こそが十字架の道でした。 張ダビデ牧師は、この箇所を解釈する際、今日の教会が置かれている状況と非常に似通っている点を指摘します。当時の人々も「律法を守っている」「神の御名を高く掲げる」と口で言いながら、実際は夜中にこっそりと裁判を開き、無実のイエス様を捕縛する不正が行なわれていました。自分たちを聖なる集団と装いつつ、実際には武力と陰謀、そして不当な拘束でイエス様を押さえつけようとしたのです。決して白昼に堂々と裁判をせず、大祭司の屋敷の内で密かに悪事を行う姿こそ、偽善と独善の典型です。 教会の歴史の中でも、不正な権力がキリスト教信仰と結託し、多くの暴力を振るった事例が存在します。中世の宗教裁判や、教権が王権と結びついて権勢を誇った様々な歴史的状況には、当時のユダヤ教権者たちと大差ない堕落と誤りがありました。 6. 不正な権力と教会の在り方 では、どのようにして私たちはこの腐敗を食い止め、イエス様が示してくださった真の礼拝の精神を回復できるのでしょうか。張ダビデ牧師は次のような原則を強調します。 第一に、教会はいつもイエス様を中心に据え、イエス様の御言葉に聴く共同体として立たねばならないこと。 いかに「律法を守る」「教会の伝統を重んじる」と言っても、その本質にイエス様の教えと愛がなければ不義や腐敗に陥り得ます。イエス様は常に真理をはっきりと語り、神殿を「商売の家」にしてはならないと仰せられました(ヨハネ2:16)。教会もまた、物質的利益や世俗的権威を追求する場所ではなく、礼拝と祈り、そして信徒の交わりが行われる共同体であるべきです。 第二に、神殿や教会が、巨大な建物や制度そのものとしての権威を主張してはならないこと。 イエス様は「この神殿を壊してみよ。私は三日でこれを建て直す」(ヨハネ2:19)と仰せられましたが、これはご自身の体、すなわち復活を指し示す宣言でした(ヨハネ2:21)。もし建物や組織が腐敗しているなら、それを壊して、真の礼拝と御言葉中心の共同体として再建すべきだという霊的原則がここに示唆されています。既得権を守るために神殿を悪用したアンナスと大祭司たちは、神の御子であるイエス様を自分たちの敵と見なしました。しかし教会共同体は常に自らの腐敗を省み、真の礼拝に立ち返る必要があります。もしも私たちが現代社会で、教会という枠に閉じこもり、独自の既得権を守ろうとしながらイエス様の真理から遠ざかった行動をとるならば、それはアンナスの道を踏襲するのと変わりありません。 第三に、弟子たちの弱さとその回復過程を忘れてはならないこと。 ベドロはイエス様の筆頭弟子でありながら、最も悲惨な形で主を否認しました。しかし主は再び彼を訪ね、使徒として回復されました。今日の教会でも、自分が長く信仰生活をしているとか、リーダーだからという理由で高ぶったり、あるいは罪悪感や失敗感に囚われて自暴自棄に陥る者がいます。しかしイエス様は私たち一人ひとりの弱さにもかかわらず、いつでも回復を与えてくださる方です。大切なのはイエス様のもとへ立ち返ることです。ベドロのように涙をもって悔い改め、再び主に心を開くとき、私たちの失敗や恥は神の恵みの道具へと変えられます。張ダビデ牧師はこれを「十字架の道において人間の弱さがことごとく露呈するが、主の血潮によって完全に新しく建て直されるのが福音の力である」と解釈しています。 第四に、教権的暴力は常に隠密に行われることを忘れないこと。 イエス様を尋問したアンナスの姿勢は、表向きは合法的な手続きに見せかけ、実際にはでたらめな証言や暴力でイエス様を追い詰めるものでした。この手の不義は往々にして「公共の善」や「宗教の純潔」といった名目で行われます。古代イスラエルのサンヘドリン裁判や、中世の宗教裁判、近現代史における政治権力と教権の癒着など、いずれも同じことを物語ります。私たちが教会内外を問わず、権力を持つ者、指導者たちの決定過程とその進め方に常に目を光らせる必要があるのはこのためです。権力を持つ者が自分の既得権を守るため、水面下で陰謀を企てたり、表向きもっともらしい大義名分を掲げて暴力性を覆い隠すことは、いつでも起こり得るからです。 第五に、イエス様はこうした不当な暴力の前でも、偽りで対抗したり暴力で報復したりされなかったこと。 ゲッセマネの園で剣を抜いたベドロに対しても、「剣をさやに納めなさい」(ヨハネ18:11)と命じられました。そしてアンナスの下役に頬を打たれる場面でも(ヨハネ18:22)、主は不義に沈黙しきったわけではありませんが(ヨハネ18:23)、暴力による応酬はなさらなかったのです。むしろ「もしわたしが悪いことを言ったなら、その悪いところを証明しなさい」(ヨハネ18:23)とおっしゃり、真理の光によって闇を暴く道を選ばれました。結局イエス様は十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と宣言され、悪の最終的な終わりを決定づけられたのです。このようにイエス様の応答の仕方は、暴力の悪循環を断ち切り、真理と愛の力によって世界を贖われる神の方法を示しています。張ダビデ牧師はここに注目し、「イエス様は世の論理とは全く異なるやり方で勝利なさった。これこそ十字架の道であり、私たちにも求められる聖なる従順の道なのである」と強調しています。 7. 「アンナスのもとへ最初に連れて行かれた」という意味 結局、ヨハネ18章12-22節、とりわけ「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という箇所は、イエス様の受難が単にユダヤ教指導者たちの誤解や嫉妬の産物ではなく、彼らの根深い腐敗した宗教権力構造の中で必然的に起こった出来事であることを私たちに思い起こさせます。またイエス様がそのただ中に進まれ、罪なきにもかかわらず恥辱を受け、十字架を負い始められたことを示すのです。アンナスの屋敷の庭でイエス様が取られた態度、不法な裁判と暴力に対抗する方法、弟子たちの失敗と弱さ、そして最終的には救いへの道を歩まれるキリストの足取りが、現代の私たちに投げかける教訓はきわめて大きいといえます。 この本文を通じ、張ダビデ牧師は、教会とキリスト者たちが世の中でどのような姿勢で存在すべきか、より深く考えようと提案しています。一方では、世の論理と手を結んだ堕落した宗教権力の様子が、私たちの内側にも潜んでいないかを日々点検しなければなりません。物質的利益や名誉、権力に対する欲望が神殿を「商人の巣」へと変えてしまわないよう、警戒すべきです。他方、イエス様が示された真理と愛の力を学ばねばなりません。不当な攻撃や誣告に直面しても、偽りを暴きながら、最終的には暴力で返さず、自らのいのちを差し出す犠牲によって罪人を救われるイエス様の道を私たちも選ぶべきだからです。 特に「わたしはひそかに語ったことはない」と宣言されるイエス様の姿は、教会の宣教と生き方が常に透明かつ公開された形で行われるべきことを教えています。イエス様の福音は光そのものであって、闇の中でこっそり広める危険思想ではありません。したがって教会は福音を公然と宣べ伝えねばなりません。説教にせよ、奉仕にせよ、宣教にせよ、あらゆる行為において不純な動機や陰謀があってはなりません。教会内の意思決定も公開の場で、公正な手続きを踏んで進められるべきです。アンナスが密かに謀り、夜に裁判を開き、証人の証言もなくイエス様を追い詰めたようなことは、断じて教会の中で繰り返されてはならない闇のやり方です。 さらに、ベドロの否認事件は、私たちにどんな絶望の淵に陥ろうとも、再び立ち上がる希望があることを示唆します。ベドロはイエス様の前で「たとえ死ぬとしても主を否むことはあり得ない」(マタイ26:35)とまで誓った人物でした。ところが危険に直面すると三度主を知らないと言い、さらには呪いさえ口にした(マルコ14:71)。これは非常につらい敗北でしたが、主は彼を見捨てませんでした。後に復活されたイエス様が弟子たちをガリラヤへ呼び寄せられたとき(マタイ28:10、ヨハネ21章)、ベドロに向かって「あなたはわたしを愛するか」と三度尋ね、彼を回復に導かれたのです。この出来事は、イエス様を心から愛する者がいかにして使徒として生まれ変われるのかを示しています。張ダビデ牧師は、これについて「ベドロが主を否認したその場所からキリストの教会が復活したのであり、彼の回復こそすべての失敗した者への救いの約束となる」と語り、神の憐れみは最も深い恥の場にこそ臨むのだという福音の神秘を強調します。 8. 神殿の清めと「新しい神殿」の宣言 さらにヨハネ2章でイエス様が神殿を清められた際、ユダヤ人たちは「あなたはどんな権威でこれらのことをするのか」(ヨハネ2:18)と反発しました。そこでイエス様は「この神殿を壊してみよ。私は三日でこれを建て直す」(ヨハネ2:19)と答えられます。ヨハネの福音書の記者は、これはイエス様の体、つまり復活を指していると解釈します(ヨハネ2:21)。しかしこの「神殿清め」の出来事こそ、宗教権力層の怒りを買い、彼らがイエス様を排除すべき対象と見なす決定打となりました。結局アンナスが主導した陰謀の本質は、イエス様が「古い神殿を壊せ」と仰せになったことで、既得権を失うことを恐れた点にありました。このようにイエス様の福音は、古い制度や罪の構造を打ち砕き、新しい創造と救いの道を開くものなのです。その道は既得権者にとってしばしば不愉快であり、脅威となることもあります。しかしイエス様はためらわれず、ついに十字架を通して新たな救いの神殿を建て直してくださいました。教会はこの事実を忘れず、常に「新天新地」を見据え、不義と妥協しない純粋な信仰を守るべきなのです。 この本文を通して私たちがさらに深く悟るべき教訓の一つは、人間の歴史の中で最も醜く不当な陰謀でさえ、神の救済計画を阻むことはできないという点です。アンナスとカヤパ、そして彼らと手を組んだユダヤ教指導者たちが、どれほど多くの謀略や偽証を駆使してイエス様を十字架へ追いやったとしても、神のご計画はむしろこの十字架を通して完成しました。つまり罪人である私たちが赦され、永遠のいのちを得る出来事がそこで成し遂げられたのです。この事実は、今日の教会が苦難を受けたり世の憎しみや陰謀と対峙するときも、決して挫けずに信仰をもって歩み続ける根拠となります。十字架の後には復活があり、その復活を通して神の勝利が全宇宙に宣言されたのです。たとえ「まずアンナスのもとへ連れて行かれる」状況が起ころうとも、キリストの内にある者は神の摂理を信頼し、最後まで信仰を守り抜くことができます。 このようにヨハネ18章12-22節は、イエス様の逮捕と違法な尋問の場面を通して、腐敗した宗教権力と真理なるイエス様との対立を鮮やかに示しています。そして私たちみんなに「腐敗と偽りの罪悪を遠ざけ、イエス様の道を恐れずに追い求めよ」と促しているのです。張ダビデ牧師は現実の教会にこれを適用する説教や教えの中で、特に「神殿の中の商人」にならないよう目を覚ましていなければならないと何度も説いてきました。教会が世の物質的野心や権力争いに巻き込まれれば、アンナスの屋敷の庭で頬を打たれるイエス様を再び侮辱することになりかねません。教会の指導者たちは自分の権威のためにイエス様を利用したり、密かな利益を得つつも表向きは聖なる姿を取り繕う二重の態度を、極度に警戒すべきです。同時に、既に失敗した弟子であっても、真実に悔い改め主のもとに戻れば、ベドロのように使徒として回復される希望をもたねばなりません。 9. 十字架の道とイエス様の招き 結局、「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という本文が示唆する核心は、十字架の道とは、腐敗した世の不義や暴力の前でも屈せず、真理と犠牲をもって全うする道であるということです。イエス様はその道を一人で歩まれ、私たちにも「自分の十字架を負ってついて来るように」と招かれます。現実的に教会が世の権力と対決し、不利益を被ることは容易ではないでしょう。しかし主が既に歩まれた道、一見矛盾と暗闇だらけの場所でも神の計画を成し遂げられるその道を握るとき、私たちは初めて真の自由と救いの力を体験するのです。 このメッセージは、すべての時代の信徒たちに有効です。宗教的名分で覆われた不義が横行するとき、私たちは「本当にこれがイエス様の望まれる姿なのか」と深く問いかける必要があります。もし教会が世俗の権力と癒着し、富と権勢を謳歌するうちに、いつのまにかイエス様の教えとは全く別の道を歩んでいるのを見ても、そこに絶望したり諦観したりしてはなりません。イエス様はすでにアンナスの屋敷の庭で、そしてピラトの官邸で、そして残酷な十字架上で勝利を宣言されたのです。ゆえに教会はどんな状況下でもイエス・キリストの福音を守り、真理を証言すべきです。たとえ暴力が渦巻く現場であっても、イエス様のように光の中であらゆることを明るみに出し、密かな悪に立ち向かい、赦しと犠牲の道を選ばねばなりません。 この全体の流れの中で、張ダビデ牧師は今日の教会と信徒たちが改めてヨハネ18章の現場に入り込んでみるべきだと勧めます。捕らえられたイエス様のそばで、あるいはベドロの立場で、または堕落した大祭司体制を見ている傍観者の立場で、私たちはいったいどのような態度を取るのか、と問うのです。もし私たちがイエス様を裏切り、虚偽の証言をする人々の側に立つなら、それは教会が本来いるべき場所ではありません。一方、人間的恐怖や弱さから失敗してしまうことがあっても、ベドロのように主のもとへ帰り、悔い改めと赦しを願うなら、主は私たちを新たに用いてくださいます。それでも陰謀と不正、偽善と暴力の側に立ち続けるなら、いつか神の正しい裁きを免れられないでしょう。 「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」と記したヨハネの福音書の微妙な表現には、記者ヨハネの意図が隠されています。つまり、イエス様の捕縛から尋問に至る全過程にわたって、アンナスがどれほど決定的かつ否定的な役割を果たしたのかを読者にはっきり印象づけようとしたのです。実際に現職大祭司はカヤパでしたが、その背後で全てを主導していたのはアンナスであり、イエス様をここへ「先に」連れ込ませて尋問させました。こうして神殿権力と世襲された宗教カルテルは法手続きを無視し、自分たちの既得権を守るため、容赦ない暴力を振るったのです。イエス様はその前で宗教的・司法的・政治的「違法性」をことごとく明るみに出され、決して沈黙だけで終わらず、しかしご自身が背負うべき救いの十字架を拒まれませんでした。そしてまさにこの点で、私たちはイエス様の従順とへりくだり、そして自らをささげる愛にもう一度感動させられます。 張ダビデ牧師はヨハネ18章の説教をする際、「教権主義の極み」を見せたアンナスと、「自己卑下の極み」を示されたイエス様とが鮮やかに対照を成していると語ります。教権主義者アンナスは、金と権力を利用して神殿を私物化し、神の御名を悪用して富と名声を追い求めました。一方、イエス様は神であられながらご自分を低くして人々のただ中に来られ、弟子たちの足を洗い、罪人たちの手に渡されて十字架にかかり、全人類の救いを成し遂げられました。この対比を通じ、福音書が最終的に伝えたいメッセージはいっそう明確になります。神の国は世の権力や富を志向する精神ではなく、下り下りと仕える姿勢、そして犠牲を通してあらわされるのだということです。教会がこの真理を堅く握らなければ、アンナスが見せた腐敗を繰り返すだけで、世の人々から非難と嘲笑を浴びることになるでしょう。 … Read more

パウロの回心 – 張ダビデ牧師

1. パウロの回心 張ダビデ牧師は、現代の教会において使徒的な情熱と宣教的ビジョンを強調し、福音の本質を堅く掴むことに専念してきた人物として広く知られています。教会に対する熱い情熱、そして世界各地に福音を伝えようとする挑戦精神は、まさに使徒パウロの足跡を思い起こさせる側面があります。もともとパウロの名前はサウロで、キリスト教を迫害していた熱心なユダヤ教の学者であり、律法に精通した人物でした。エルサレムからダマスコに至る長い道のりをいとわず、「その道を歩む人」、すなわちイエスを主と告白する者たちを捕らえるための公文まで受け取って出発するほどに、サウロは自分の信念に徹底していました。サウロの人生には「自分が正しいと信じる道には命すら懸ける」という情熱がありました。ところが神は、そのような“独特な執念”を持つ人物を選び、異邦人の使徒として立てられたのです。聖書は、神の摂理がどれほど奥妙で驚くべきかを、このサウロの出来事を通してありありと示しています。 張ダビデ牧師の宣教・牧会の特徴は、まさにこの「神が壊れた枠をひっくり返し、跳躍をもたらす選び」を積極的に理解し、説き明かす点にあります。彼は、「福音は単に『優しく穏やかな人』だけのための物語ではなく、ときには荒々しい魂や、まるでオオカミのようにしつこい性格を持つ者さえも変容させる力を持つ」という事実を、繰り返し強調してきました。教会の歴史を振り返っても、初期キリスト教を最も激しく迫害していた人物が世界宣教の主役へと変わったという事件こそ、その代表的な例でしょう。そこから私たちは、「神は、最も憎んでいた敵すらご自分の証人にされる」という福音の逆説的メッセージを見出すのです。 サウロからパウロへと変わるきっかけとなった瞬間、すなわちダマスコへ向かう途中で光の中から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた瞬間は、まさに人生の大転換でした。そしてこの出来事は、現代のクリスチャン、さらには現代の韓国教会の指導者たちにも深いメッセージを投げかけます。張ダビデ牧師は、人間の意志を超越して歴史を動かされる主の召命に対するこの聖書的パターンを深く受け止めつつ、「福音宣教の主導権はいつも神にあるのだ」ということを説教を通じて繰り返し強調してきました。 とりわけ彼のメッセージには、「積極的な従順」と「不可抗力的な恵み」が調和して示されています。サウロが光の中で倒れ、目が見えなくなった状態で3日間飲食を断った場面は、神の能動的な働きの前に人間がどれほど無力になり得るかをまざまざと表しています。しかし同時に、その「無力な状態」に至って初めて、神の声に正しく耳を傾けることができるということも示しています。張ダビデ牧師は、この過程を単に「受動的な敗北」と見るのではなく、「力強い恵みへの招き」であると強調します。逃げられる道があるならどこまでも逃げたいヨナのような人であろうと、あるいは教会を憎む感情に囚われて、信徒たちを捕らえて殺そうとしたサウロのような人であろうと、結局は神の御手の下で用いられる存在へと変えられるのです。 張ダビデ牧師が牧会現場で説く「召命の神学」は、「主は私たちを救うためだけではなく、私たちを召して共に働くために救われた」という点に強調があります。彼は信徒たちに「祈りと御言葉の黙想を通じて、あなたを呼ばれる声を聞きなさい」と絶えず勧めています。その声は人生のどんなタイミングで不意に訪れるかもしれません。人生の絶頂期であれ、どん底の時期であれ、神の召しは私たちの予測や説明を超えたかたちで臨むことがあるのです。ダマスコ途上で光がサウロを完全に包み込んだように、ときには人間の理解を超える方法で神の呼びかけが与えられます。 しかし、その呼びかけに応じて歩んでいくためには必ず「従順の歩み」が必要であると、張ダビデ牧師は繰り返し教えています。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と問い、「主」と呼んだ瞬間、すでに疑いようのない体験を通してイエスの主権を認めたも同然でした。そして彼の目が見えなくなると、サウロは主の声のとおりダマスコの町へ入り、神が備えておられた別の弟子アナニアに出会わなければなりませんでした。それこそがサウロの「へりくだり」であり、従順の核心です。張ダビデ牧師は、この点について次のように語ります。「主が私たちを召されるとき、どんなに抵抗しようとしても結局は苦しむだけなのです。『突き棒を蹴れば自分が痛い』という御言葉のように、神の目的のための召しは人間の才覚や計略で避けられる問題ではありません。」 こうして神が「独特な執念を持つ人」をも捕らえてお用いになるということは、穏やかで善良そうに見える人だけでなく、ときに非常に荒々しく、世の欲望や怒りでいっぱいの人までも変える福音の力を示しています。張ダビデ牧師のメッセージにおいて、ここはとても重要な部分です。教会は、ある意味「羊のようにおとなしい人」にだけ門が開かれているように見えがちです。しかし、むしろこの時代に私たちが目を留めるべき対象は、いまだイエスを知らず、教会に敵意を抱く者たち、世俗の欲望を追い求めて疾走する者たち、さらには教会を倒そうとさえ考える者たちかもしれないのです。そういった人々こそ、神に捕らえられれば新たな開拓の時代を切り拓く「オオカミのような人」になり得るのだ、と張ダビデ牧師は強調しています。 張ダビデ牧師は、この教えを実践するためにも「教会が社会の様々な領域へ直接出て行くべきだ」と力説します。彼が宣教の範囲を教会の内部だけにとどめず、多様な文化宣教やメディア活動、さらには国際的なボランティア団体との協力などを通じて広げようとしているのは、「教会を迫害する者たちでさえ受け入れるべきだ」という本文の適用が生み出す、実際的な行動だと言えます。ダマスコまで走って行って教会の者たちを捕縛しようとしたサウロにさえ、イエス・キリストの光が降り注いだのですから、教会も喜んで「ダマスコへの道」まで赴くべきだというのです。 つまり、神の呼びかけは人間の意志や状況を超越します。張ダビデ牧師の牧会や説教はこれをはっきりと示し、「私たちの限界を定められるのは神であり、恵みによって始まった宣教は決して人間の束縛や環境によって中断されることはない」というメッセージを宣言しているのです。そしてこれこそが、パウロの回心の物語が今なお有効である理由なのです。 2. 敵を「兄弟」と呼ぶ愛 パウロの劇的な回心は、単にサウロ個人だけに起こった特別な出来事ではありませんでした。この回心には忘れてはならない助演者が存在します。それはダマスコに住んでいた弟子アナニアです。神は幻の中でアナニアを呼び、「アナニアよ。まっすぐという通りへ行き、ユダの家にいるタルソ出身のサウロを探しなさい。彼は祈っているのだ」と命じられました。そのときアナニアは即座に反発しました。「主よ、この人がどれほど多くの者に危害をもたらしたか、すでに聞いています。エルサレムではあなたの聖徒たちに少なからぬ害を与え、ここでもあなたの御名を呼ぶすべての者を縛る権限を持って来ています。」と。 この反発は、人間としてごく自然な感情でしょう。サウロがどれほど暴力的にクリスチャンを迫害してきたのか、噂で十分に知っていたはずです。しかし神は、「この人は、異邦人や王たち、イスラエルの子らの前で、わたしの名を伝えるために選ばれた器だ。彼がわたしの名のためにどれほど多くの苦しみを受けなければならないか、わたしは彼に示そう」と再び明確に語られました。結局アナニアは従順し、家の中に入って「兄弟サウロよ」と呼びながら彼の上に手を置きました。 この場面から私たちは、福音の逆説的な恵みがどのような性質を帯びているかを確かめることができます。張ダビデ牧師は、この出来事を「迫害者であった敵に、兄弟の手を差し伸べる福音の真の価値」と強調します。主は迫害者サウロを選ばれただけでなく、すでに信仰の中にあったアナニアを通して、サウロに「兄弟の手」を差し伸べるように命じられました。もしアナニアが「嫌です。あの人だけは無理です」と最後まで拒んでいたなら、サウロの回心の道のりはより複雑で困難になったかもしれません。しかしアナニアは主の命令を受け入れ、その即時にサウロを「兄弟」と受け入れたのです。 ここで張ダビデ牧師は、現代の教会が肝に銘じるべき重要な問いを投げかけます。「教会は果たして、不信者や敵対的な人々に向かって、素直に『兄弟(あるいは姉妹)』という言葉をかける心の準備ができているだろうか?」と。教会の中にもときに派閥や排他的な態度が見受けられます。「すでに福音を受け、羊のようにおとなしい人」とだけ付き合い、荒々しく教会に反対する人々を遠ざけたり拒んだりする姿は、決して珍しいことではありません。しかし、この聖書箇所は「迫害者でさえ神が選ばれる可能性がある」ということを私たちに警告のように教え、さらにすでに信じる者たちの態度がどれほど大事かを示しているのです。 ここで私たちは、サウロの「内面的な回心」とアナニアの「従順と歓迎」という二つの柱を同時に見ることになります。サウロが心の中で回心を経験したのなら、アナニアは教会共同体としての歓迎のパイプ役となりました。張ダビデ牧師は、この出来事を「恵みが恵みを生む」と表現します。神から直接的に与えられる恵みだけでなく、教会共同体による手の差し伸べと歓迎によって完成されていく恵みもあるということです。 特に韓国教会においては、強力な恩恵体験を重視する伝統がある一方で、ときに教会内部の共同体意識が閉鎖的になる場合もあります。しかし使徒の働き9章に登場するアナニアの働きは、「教会は恵みを体験した個人を受けとめなければ、真の福音共同体にはなれない」というメッセージを伝えています。そして張ダビデ牧師は牧会を通じ、この原理を実際に適用しようと努めてきました。 張ダビデ牧師が導く共同体や、彼が教える育成システムでは、さまよっている人やかつて教会を敵視していた人たちが入ってこれるよう、門戸を大きく開いています。彼の教えの根底には常に、「最も憎んでいた者を神の証人に立てられる神」を覚えよ、という呼びかけがあります。それは「わざわざ厄介な人を探そう」という意味ではなく、福音の視点から見れば誰も排除されるべきではない、ということなのです。 さらに張ダビデ牧師は、この場面から「人間の目には最悪に見える人にも、神は恵みを注ぐことがおできになる」ということを学ぶよう勧めています。アナニアがサウロに「兄弟」という呼びかけをした瞬間、サウロの目からうろこが落ち、再び見えるようになったように、私たちが誰かを敵と見なして遠ざけるとき、その人の魂はさらに長いあいだ目を閉じたまま彷徨うことになるかもしれません。最終的には、私たちの従順と歓迎こそが、他者の回心や回復の決定的な鍵となることもあり得るのだ、とこの聖書箇所は驚くべき教訓を示しているのです。 張ダビデ牧師は、説教やセミナーなどでしばしば「殺気だった眼差しでやってくる人を、教会は本当に受け止める準備ができているのか?」と問いかけ、「彼が最終的に『兄弟サウロ』になれるように、アナニアの心を持つべきだ」と力説します。そしてそれこそが福音の力であり、神が望んでおられる愛だというのです。 3. パウロの宣教的使命 パウロの回心物語で見逃せないもう一つのポイントは、サウロがパウロとなり、ついには地の果てにまで福音を伝える使徒へと変えられたという事実です。エルサレムから始まり、アンティオキア教会に至ってパウロとバルナバが共に働く場面、また小アジアやヨーロッパへと福音の領域を広げていく場面などは、使徒の働きの後半の核心となります。パウロの書簡を通じても、彼がどれほど熱心に福音を伝え、多くの伝道旅行の中で数えきれない苦難を経験したのかを、生々しく知ることができます。 パウロが生涯で味わった苦難は、実に波乱万丈なものでした。鞭打たれ、牢に入れられ、石打ちで殺されかけ、船が難破して漂流したこともありました。また同胞からの反対や、異邦の都市での迫害など、絶え間ない障害に襲われました。しかし皮肉にも、これほど多くの障害がありながら、福音は絶えず広がり続けたという点こそ、初代教会宣教の最大の「アイロニーであり奇跡」なのです。張ダビデ牧師はパウロの生涯を黙想しながら、「福音宣教は全面的に人間的な条件や環境の有利さによって成し遂げられるのではなく、神が遣わし、神がなされる御業であることを痛感する」と語ります。 張ダビデ牧師が強調する宣教神学の柱の一つは、「迫害や苦難が、かえって福音の領域を広げる通路となる」というものです。これは使徒の働き8章以降、迫害が激しくなるとエルサレムから散らされた信徒たちが各地で福音を伝えた「ディアスポラ効果」とも通じるところがあります。そして何より、パウロ自身が非常に激しい迫害者でしたが、彼が回心して世界中に福音を広めたように、「世に敵対していた勢力が主に向き直って福音を証しするとき、そのシナジー効果は想像を絶する」ということです。 現代の教会が学ぶべき点は、「この時代に福音を拒む環境や敵対的な情勢を恐れるのではなく、むしろその真っ只中に飛び込み、福音を伝える道を模索しなければならない」ということです。張ダビデ牧師は、社会が教会を批判したり、教会の外側からキリスト教を否定的に見るときこそ萎縮するのではなく、積極的にコミュニケーションをはかり、文化的障壁を乗り越えようとする努力が必要だと力説します。これは、パウロがディアスポラのユダヤ人やギリシア人、そしてローマ市民に対して、それぞれ異なるアプローチを用いて福音を伝えた姿勢を継承する道だからです。 たとえば、張ダビデ牧師はメディアを通じた福音伝達や、教育機関および文化宣教、さらには奉仕や救済活動など、多様なルートを用いて社会と接点を広げることを提案しています。「各地に会堂が散在していたように、私たちが福音を伝えるべき現場も多様に存在する。だからこそ教会は様々な文化的接点を探究すべきであり、ときにはインターネットやメディアを含むあらゆる手段を活用すべきだ」というのが彼の持論です。サウロがダマスコの各会堂に入る許可を得て教会を迫害しようとしたように、今度は逆説的に教会が世の至る所へ入り込み、福音を証する必要があるというのです。 もう一つの核心は、パウロが伝道旅行をする際、必ず同行していた協力者たちの存在です。バルナバ、シラス、テモテ、ルカ、プリスキラとアクラなど、多くの人々が共にし、彼らの献身と協力が福音伝達の実をともに結びました。張ダビデ牧師は、この「同労(どうろう)」と「チームとしての働き」を非常に重視しています。福音は決して一人の力だけでは拡大しません。神の時と、共に働く同労者たちが一つの身体のように動くときにこそ、効率的に広がっていくのです。これは現代の教会が組織を運営する上でも非常に重要な原理だと言えます。 張ダビデ牧師は、「教会が一部の有名なリーダーだけにすべてを依存するのではなく、信徒全員が責任を分かち合い、連携して働くときにこそ、使徒の働きに描かれた初代教会の力が再び回復される」と力説します。そしてこの原理は、「パウロの使徒的情熱とアナニアの従順、バルナバの励まし」が互いに噛み合って回っていたという事実に現れています。彼の説教でしばしば登場するフレーズは「互いの賜物を尊重し、神の召しの前に誰も取り残されないようにしよう」というものです。 4. 恵みの実際 パウロの回心物語が持つクライマックスの一つは、「神がどのように人を召し、またその人を通して何を成し遂げられるのか」を、一瞬のうちに劇的に示しているという点です。あれほど福音に敵対していたサウロが、福音の宣教者へと変わるなど、一見不可能に思えることです。しかし聖書も教会の歴史も、その“不可能”が十分に可能であることを繰り返し証言してきました。 現代においても、「果たしてあんな人でも救われるのだろうか? あれほど教会を嫌っている人が悔い改めるなんて本当にあるのだろうか?」という疑いや不信が、教会の内外で存在します。しかしそんなときこそ、私たちはサウロの物語を振り返る必要があるでしょう。彼の中にあった敵意や憎しみ、殺意、脅迫は、決して小さなものではありませんでした。石打ちで殺されたステパノの死にもサウロは賛成しており、「なおも脅迫と殺意に燃えて」エルサレムから遠いダマスコまで足を運んででも、イエスを信じる者たちをことごとく捕らえようと決意していたのです。 しかしそのような執念を持つサウロに、神は直接現れ、力ずくで召されました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」そして彼を目が見えなくさせ、3日間飲食ができない状態に置かれました。この3日間の間に、サウロの魂は言葉では言い表せない混乱と悟りを経験したに違いありません。復活したイエス、つまり自分が徹底的に拒否し排斥していたイエスこそ真の「主」であることを、身をもって認めざるを得なくなったのです。 こうして、自分の思いとはまるで逆の地点で打ちのめされたサウロの体験は、張ダビデ牧師が説く「ただ恵みによる」という視点と正確に交わります。張ダビデ牧師は、「神の選びは私たちの経歴や、どれほど高尚な信仰教育を受けたか、あるいは自分の人格がどれほど清く善良であるかには左右されない」と言います。むしろ「自分が最も弱く、醜く、執念深い状態にあったときでさえ、神はその人生を用いて驚くべき業を成し遂げられる」という聖書的メッセージを伝えるのです。 このメッセージは、張ダビデ牧師が重点を置いて築いてきた多様な宣教ビジョンとも結びついています。たとえば、教会の外にいる若者たちや、様々な痛みや傷を抱えさまよっている人々へ手を差し伸べる働き、社会的・文化的な活動を通じて福音を明かしすることを強調するのは、「神が彼らを神の器として立てられ得る」という信念からきています。それは単なる理想主義ではなく、パウロの出来事によって確証される福音の現実でもあるのです。 張ダビデ牧師は説教の中で、「パウロは最初から使徒だったわけではなく、むしろキリストを最も憎んでいた人間だったことを思い出そう」としばしば語ります。これを単に「パウロにはすごい証しがあるんだね」程度で片付けるのではなく、「今日においても同じように神はそういう人を立てられる可能性がある」という信仰として適用すべきだ、ということです。つまり「私たちから見て、どう見ても可能性がなさそうな人さえも選び用いられる神」を認めるべきだというわけです。 さらに、「神の召しを受けた者は、逆にそれだけ大きな苦難や迫害を負わなければならないこともある」という点も見落としてはいけません。神がアナニアに「この人は異邦人や王たち、イスラエルの子らの前でわたしの名を伝えるために選ばれた器である」と語られたあとすぐ、「彼がわたしの名のためにどれほど多くの苦しみを受けなければならないかを、わたしは彼に示そう」と仰せられた箇所から、そのことが確認できます。 張ダビデ牧師は、この部分で信徒に対して「キリストを真に従おうとするなら、世が私たちを好まないこともあり、ときに迫害や嘲笑、軽蔑を受けるかもしれない」とはっきり教えます。パウロが経験した出来事や、殉教の歴史を見れば、神の民となったからといって人生が平坦になるわけでは決してないことがわかるでしょう。しかしその道は決して無駄ではないことを、パウロが身をもって示しました。これこそ、張ダビデ牧師が絶えず強調する「患難の中にあっても揺るがされない福音の力」と言えます。 結局パウロは、自分があれほど迫害したイエスの名を、今度は命がけで伝える者になり、今日私たちが読んでいる新約聖書の多くを記した人物となりました。教会を破壊しようとした者が、教会を建て上げる最も重要な柱の一つとなったのです。張ダビデ牧師はこれについて、「福音は日常の常識や論理を超越する。私たちの基準では到底納得できないことを、神は開いてお見せになる」と説明し、さらに「私たち自身の人生にも同じように超自然的な恵みが働いたからこそ、今こうして神を礼拝し仕えているのだ」と結論づけます。 そして張ダビデ牧師は「パウロだけではなく、実は私たちもかつては神の敵も同然だったが、キリストの恵みによって救われたのだ」という教理的真理を牧会現場で実践します。それは「私も過去には神に敵対する者であり、いまなお私の内面の罪性が神に逆らおうとすることが多々ある」という事実を忘れない姿勢として具体化されます。ゆえに私たちは、ただ福音を受け取る受け手の位置にとどまるのではなく、「主の御心のとおりに、私たちも福音を伝え、愛を実行していく方向へ進みましょう」という勧めが自然に続くのです。 一方、「どうして『しつこい人』にそんなに注目するのか?」という質問を受けることもありますが、張ダビデ牧師はその際に「まさにその人の中からパウロが再び生まれる可能性があるからです」と答えます。福音は無秩序な状況や暴力的な状況、さらには敵意で満ちた現実の中であっても神の御業を導き出します。これこそ、張ダビデ牧師が語る牧会的方向性の本質でもあります。 結論として、張ダビデ牧師の神学的・牧会的メッセージは、パウロの回心ストーリーを基盤に構成されているといっても過言ではありません。「最も憎んでいた敵すら、福音の証人に立てられる神」を信じるからこそ、教会はどんな魂に対しても福音の門を開いておくべきであり、どんな状況においても神が働かれることを信じなければならないのです。結局パウロが残した宣教の軌跡は世界宣教へとつながり、今なおキリスト教史に刻まれる揺るぎない信仰のモニュメントとなっています。 張ダビデ牧師はこの聖書的原理を現代の教会と信徒たちに繰り返し想起させ、「私たちの安逸や排他性に注意せよ」と警鐘を鳴らします。福音はけっして安住するものではなく、行けるところすべてに広がっていく拡張性を持っています。もし教会が内部に閉じこもって互いの安泰を図るだけで満足しているなら、決して『使徒の働き』に描かれた教会にはなれません。私たちも時にはダマスコの道へ出向き、サウロという荒々しい人物に出会い、彼を「兄弟」と受け入れるアナニアの従順を実践する必要があるのです。 それは決して楽なことではないでしょう。しかし、パウロが回心した後に「この恵みを伝えずにはいられない」と告白し、生涯をかけて福音を宣べ伝えたように、教会も同じ告白をもって進むべきだと張ダビデ牧師は強調します。もし私たちが本当に神の愛を受け取り、私たち自身が「目からうろこが落ちる」ような体験をしたのなら、今度は私たちの番として、誰かにその恵みを伝えるときがきたのです。そしてその過程で、神は新たなサウロをもう一人呼び起こされることでしょう。 結局、この壮大な恵みのドラマは過去の『使徒の働き』だけで終結した物語ではありません。張ダビデ牧師の牧会と説教は、「今日のこの時代にも同じように神の物語が書き継がれている」と信仰によって宣言しています。パウロを変えられた神は、今も荒々しい魂を探しておられ、アナニアのように従順する人々を呼び集めておられます。私たちもその延長線上に立つ現代の教会として、「主よ、ここに私がおります」と応えるべきなのです。 このように張ダビデ牧師は、パウロの回心を軸に福音の本質を照らし出し、敵を愛し、その愛によって教会が拡大し、まったく予想もしなかった人物が福音伝播の証人となるという恵みの道を積極的に提示しています。それこそが「恵みの神学」の核心であり、今の時代の教会が思い起こすべき本質なのだ、と繰り返し宣言するのです。 そしてこの本質を思い出し、動き始めるとき、私たちの目の前でも「迫害者が証人に生まれ変わる」数多くのパウロたちを目撃することになるでしょう。それこそが福音の力であり、張ダビデ牧師が絶えず伝えようとしている信仰の宣言です。アナニアがサウロを「兄弟」と呼んだとき起こった奇跡が、今日の私たちの現実にも同じように再現されると、私たちは使徒の働きと教会の歴史を通じて確信しています。 結局、すべては神の摂理と計画のもとで成し遂げられます。教会はこの摂理を信頼し、「どんなに手強く見えるあの人ですら、神に用いられ得る」という可能性を捨ててはなりません。だからこそ張ダビデ牧師は宣教と牧会、そして説教の場でたびたび「目を大きく開いて周りを見よう」と促します。世界は広く、まだ福音を知らず、ときには教会に敵対してくる人々もいます。しかしパウロがまさにその『敵』の代表例だったことを忘れてはなりません。 最後に、パウロの物語を通して張ダビデ牧師が発する問いはきわめて明快です。「あなたは誰に向かって『兄弟サウロよ』と呼びかけてあげられますか?」 これこそが現代のキリスト者に与えられた課題であり、福音が私たちに示す具体的な挑戦です。もし私たちが主と深く出会い、その恵みを覚えているなら、そしてその恵みによって私たちの人生が根こそぎ変えられたのなら、今度は別のサウロを探しに行く番です。私たちそれぞれが日常の中で出会うサウロに対して、「兄弟(姉妹)よ、主のもとへ共に行こう」と声をかけるとき、再び神の御業と奇跡が続いていくでしょう。これこそが張ダビデ牧師のいう教会の使命であり、パウロが残した不滅の遺産なのです。 www.davidjang.org

夜だった – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 張ダビデ牧師と「愛を拒んだ裏切りの座」 ヨハネの福音書13章20〜30節で描かれている「ユダがそのパン切れを受け取ってすぐに出て行った。すでに夜であった」という場面は、一見すると単純な歴史的事実のように見えます。しかしその奥には、非常に重要な霊的メッセージが含まれています。張ダビデ牧師は、多くの説教でこの本文を取り上げ、人間の内面に潜む裏切りの心理と神の愛がどのように衝突するのか、そしてその愛が目の前にありながらも最後までつかむことのできない頑なな心が、結局どのような破局をもたらすのかを繰り返し強調してきました。ここで「夜」という言葉は、単に時間的な概念ではなく、闇の世界へ自ら足を踏み入れてしまった人間の霊的状態を意味します。イエス様を裏切る道を選んだユダは、まさにその「夜」の中へと進んでいきましたが、これは教会生活や信仰歴が長い人々にとっても依然として警鐘を鳴らす出来事であり、張ダビデ牧師は「私たちもいつでも裏切りの座に落ちる可能性がある」という点を繰り返し想起させます。 実際にイエス様は、最後の晩餐を共にされながら、すでにユダの裏切りを知っておられました。それにもかかわらずイエス様は彼を弟子として召し、さらには会計係(財布を預かる役目)まで任せ、最後の晩餐の席でもユダを近い位置に座らせられたのです。これはユダに対して最後まで立ち返る機会を与えようとされたイエス様の愛でした。しかしユダは、その愛を「自分の打算と欲望」を克服する原動力とできず、むしろイエス様を取引の対象としてしまうに至ります。その結果、「夜であった」という短い言葉がユダの悲劇的結末を予告することになるのです。張ダビデ牧師はこの場面について「愛は常に私たちの目の前にあるが、その愛を受け入れられない時、人間は見えない闇の中へと入ってしまう」と語ります。 このように、ユダの裏切りは単なる「歴史的事実」や「特別な悪人」の典型ではありません。彼はイエス様を直接その目で見、声を聞き、奇跡の現場を最も近くで体験した人物でした。教会的な表現をするなら、彼は「熱心な信徒」のように見える人であり、ある程度重要な責任を担い、共同体の中心メンバーとして知られていたような存在でした。しかし彼の内面深くには、イエス様と同行しながらも納得できない部分が積み重なっていました。イエス様の歩みが世俗的な成功からは遠いように思えた時、ユダは主を次第に疑うようになり、財政的にも豊かとは言えない働きぶりを非効率的と考え、ついには財布に手を出し、さらには主をお金と引き換える段階にまで至ります。張ダビデ牧師は「裏切りは決して一瞬にして起こる出来事ではない。ささいな不満や貪欲が心の片隅に居座ったまま放置されると、ある瞬間に我々も取り返しのつかない道へと落ちてしまう」と警告します。 ヨハネの福音書13章20節でイエス様は「わたしが遣わす者を受け入れることは、すなわちわたしを受け入れること、そしてわたしを受け入れることは、わたしを遣わされた神を受け入れることだ」と語られます。これは一見すると、イエス様の働き人を良くもてなし、尊重しなさいという勧めにも読めますが、本質的には「神がこの地に直接来られた時、その愛をあなたがたはどう受け止めているのか?」という根源的問いを投げかける御言葉です。ところがこの御言葉の直後、イエス様は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」と言われ、裏切りを予告されます。最も豊かな愛の食卓、すなわち最後の晩餐の場所に、この極端な裏切りが潜んでいたという事実は皮肉であると同時に、人間の心がいかに反転しうるかをはっきりと示しています。張ダビデ牧師は、この場面が「教会共同体の内でも同じように起こり得る」と説明し、どんなに恵み深い礼拝や聖餐を共にしていても、結局ある人にはその愛が十分に伝わらず、むしろ心を閉ざして裏切りの道へ向かう可能性があると指摘します。 ユダが最後まで立ち返らなかったという点も重要な教訓を残します。イエス様はパンを裂いてユダに手渡す行為を通して「最後に立ち返る機会」を与えられましたが、ユダはそのパンを受け取るとすぐに外へ出て行ってしまいました。そしてヨハネは「夜であった」と記すことで、時間的にも暗い夜であっただけでなく、ユダの霊魂も暗闇の中へ沈んでいったことを象徴的に伝えます。張ダビデ牧師は「教会の中で私たちはしばしば聖餐を分かち合い、パンと杯を分かち合い、『主の身体と血』にあずかりますが、実際にはその愛の前で頑なになってしまう人もいる」と語ります。これは、教会の儀式や伝統に従うからといって、自動的に救いと愛を享受できるわけではないことを改めて気付かせる言葉です。 イエス様が弟子たちの中から一人が自分を裏切ると言われた時、他の弟子たちはそれが誰なのかよく分かりませんでした。つまりユダの心の状態がどうであるかは、弟子の共同体内部でも把握していなかったのです。張ダビデ牧師はこの点を「教会の霊的無関心」や「互いを深く察しない態度」が反映された姿と解釈します。表面的には一緒に食事をし、働きを分かち合い、近くにいるように見えても、誰かが内面では疑いや不信、不満や葛藤を育てていても気づけない、ということです。教会が外見だけ親密で熱心そうに見えることに満足してしまうと、ユダのような人が一人で裏切りの道に落ちていく時に誰も助けることができず、放置される危険が大きいのです。そこで張ダビデ牧師は「教会はいつも目覚めて互いの霊的状態を見守り、愛を実際に分かち合わなければならない」と勧めます。 ユダが裏切りへ至る過程は、結局「愛を愛として見られなくなる瞬間から始まる」と言えます。マリアが香油の壺を割ってイエス様の足に塗った時、ユダはその美しい献身を「浪費」と見なしました。主の惜しみない愛の行為を世俗的な価値で裁いてしまったのです。このような態度は現代の教会でも続いています。ある人は主の御言葉に全身で従い、献身の壺を割りますが、また別の人は「こんなことが本当に現実に役立つのか?」という冷笑で応じます。そうなると、愛そのものを一種の理想論として片付け、「自分に実利がない」と判断してしまえば、誰であっても簡単に背を向けられるのです。張ダビデ牧師はまさにこの瞬間が「裏切りの始まる地点」だと繰り返し強調します。 しかもこの裏切りは、一度で終わるものではありません。ユダが師を銀貨三十枚で売る決断に至るまで、その内面では小さな亀裂が次第に大きくなっていったはずです。初めからイエス様を歪んだ目で見る視線、金銭的欲望、世俗的な期待を満たしてくれないイエス様の歩みに対する不満が結びつき、ついには極端な決断へと至りました。これは私たちの日常の信仰生活でも同じことです。ささいな疑いを放置すると不満となり、不満が積もれば教会を批判し、批判が深まると断罪と裏切りへつながります。だからこそ張ダビデ牧師は「教会の中で心の片隅にたまった小さな傷や疑問でも、聖霊の照らしのもとに取り出して早期に解決しなければならない」と促します。放置された否定的感情は、いつか戻れない地点へ人を追いやってしまうからです。 「夜であった」という表現は、このような裏切りを象徴的に示します。光と命を与えられるイエス様を離れて闇へと向かう様は、魂の奥底で起こる絶望と罪の影を表しています。私たちは教会の中でも、信仰の枠の中でも、いくらでもこうした闇の中に自らを閉じ込めてしまう可能性があります。表面的には敬虔に見えながら、内面では世俗的な欲望が渦巻き、心の扉が固く閉ざされて愛の光を拒む状態になり得るのです。結局「夜へ出て行く」というのは、自分なりに「宗教的生活」を送っていると自負しながらも、実際にはイエス様の道を裏切っている状態を意味します。張ダビデ牧師は「夜へ向かう足取りが私たちの内で始まる時、聖霊の助けを求めて立ち止まらなければならない。そうしなければ最終的な瞬間にも立ち返ることができなくなる危険がある」と強く警告します。 このような裏切りが教会共同体の内部で起きた時、その破壊力は一層大きくなります。世の人々の嘲笑や非難は外部からの攻撃なので、ある程度予想ができます。しかし内部で信仰を告白していた人が突然裏切りを選び、しかも教会を破壊することに先頭を切るような事態になると、その共同体は大きな傷を負います。主に最も近く仕えていたユダが裏切りの象徴として残ったという事実は、この現実を劇的に示しています。だからこそ「愛を拒んだ裏切りの座」は決して他人事ではなく、すべての教会とすべての信徒が留意すべき潜在的脅威なのです。張ダビデ牧師はこの警告のメッセージを伝えつつ、同時に「愛を拒んだ裏切り」は闇に向かう道である一方、その道を選ばずに立ち返る道が常に開かれているとも強調します。問題は、人間がその道を最後までつかめない頑固さにあるのです。 では、私たちはどのようにしてこの裏切りの道から自分を守り、共同体を保護できるのでしょうか。張ダビデ牧師はまず「私の心の中にあるイエス様の愛を本当に信じ、受け入れているのか?」を自問せよと言います。イエス様が示される愛が荒削りで、ときに非効率的に見えてしまう瞬間が確かにあるでしょう。ある人には「財政的な浪費」と感じられ、またある人には「世の求める名声や力とは違うので」もどかしく思えるかもしれません。しかしその時に、「愛を愛として受け入れられないと裏切りが始まる」という御言葉が私たちを目覚めさせます。私たちはイエス様の価値観、福音の原理が世の常識と衝突する時、むしろその方の道を選ぶことで闇ではなく光の中にとどまらなければならないのです。そうして主に従うと決断する時、裏切りの種は抜き取られ、愛の根が成長することになります。 結論として、ヨハネの福音書13章20〜30節に登場する「夜であった」という表現は、時間的な暗闇を超えて霊的暗闇、すなわち裏切りと罪に染まった人間の頑なさを示します。ユダは三年間もイエス様と苦楽を共にし、財布を任されるほど信頼され、最後までイエス様のそばにいました。しかしイエス様の愛を単に「自分の利益にならないこと」とみなし、受け入れなかった時、ついには裏切りの道を歩んでしまったのです。今日、長年教会生活を送ってきた信徒や職分者にも同じ危険が潜んでいます。表面的には熱心で敬虔そうに見えても、心の片隅に「この道は本当に益があるのだろうか?」という疑いと貪欲を抱えているなら、いつか「夜」へ出て行ってしまうかもしれません。張ダビデ牧師はこれを防ぐためには、常に御言葉と祈りで自分を点検し、小さな罪や不信感でも放置しないことが大事だと訴えます。結局「愛を拒んだ裏切りの座」は思った以上に遠い場所にはなく、誰にでも身近に迫りうる誘惑だからです。 Ⅱ. 張ダビデ牧師と「最後の勧めと人間の頑なさ」 ヨハネの福音書13章27節で、イエス様はパンを受け取ったユダに対して「あなたのしようとしていることを、今すぐしなさい」と仰います。これは単に早く用事を済ませろという促しや嘲りではありません。イエス様はすでにユダが裏切りの決心を固め、その結末が破滅に至ることも知っておられました。しかし自由意志を持つ人間が最後まで立ち返らない時、イエス様はそれを無理に押しとどめることはなさらないという事実を、この一節は示しているのです。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈しながら「愛は決して強制できるものではなく、イエス様は私たちの心を抑圧して変えようとはなさらない」としばしば語ります。全能の神であるイエス様は、ユダの選択を力づくで止め、立ち返らせることも可能でした。しかしそれは真の愛の関係ではなかったでしょう。 結局ユダは最後の勧めを振り払い、闇へと飛び込んでいきます。「彼がすぐに出て行った。すでに夜であった」という御言葉どおり、その夜は物理的な時間であると同時に霊的実体でもありました。ユダが愛の光を捨てて自分の闇を選んだ時、イエス様はもはや彼を引き止められませんでした。張ダビデ牧師はこの場面が「人間の頑なさ」がいかに恐ろしい結果をもたらすかを痛烈に示していると説きます。教会の中でも同じことが言えます。私たちは良い説教と礼拝、熱い賛美と聖餐を経験しながらも、心を閉ざして「この道は私には合わない」とか「私に得がない」と結論づけてしまうかもしれません。そして最後までその道を貫くなら、主の最後の勧めさえ何の意味もなさなくなるのです。 こうして頑なさが極限に達すると、ついにはサタンがその心に入り込み、さらに深い罪と破滅へと追いやります。ユダはイエス様を裏切った後も後悔を感じましたが、「真の悔い改め」をもって立ち返ることはありませんでした。ただ後悔するだけだったユダは、ついに極端な選択をして生を終えてしまいます。張ダビデ牧師はここで「後悔と悔い改めは違う」と強調します。後悔は、自分が間違ったとぼんやり気づいて苦しむだけですが、実際にその罪から離れて主に立ち返ろうという決断を含みません。一方、悔い改めは罪を認め、方向転換し、もう一度その道には戻らないという意思をもって主のもとに立ち返ることです。ペテロは主を三度否定しながらも悔い改めて赦しを受けましたが、ユダは後悔のままサタンの誘惑に縛られ、絶望へと向かったのです。これは人間の頑なさがいかに自己破滅へとつながりうるかを示す鮮やかな対比と言えます。 また、教会の中で担った職分や働きが、かえって罪の通路になり得る点も見逃せません。ユダは会計係として財布を任されていましたが、それは主が彼を信頼し、同時にその働きを通して成長することを望まれた愛の表れでした。しかしユダはその職分を通して財政的利益を得る機会にしてしまい、イエス様の働き全体を「お金」という観点でしか捉えなくなりました。その結果、「財布を任された者が主を売る」という極端な矛盾が生じたのです。張ダビデ牧師はこの点について「教会が成長し、賜物が豊かになる時こそ、その恵みの道具を世俗的利益にすり替えようとする誘惑が強くなる」としばしば語ります。職分者や働き人が財政や権威を誤用すれば、それが「内部からの裏切り」を引き起こす直接的契機となり得るのです。だからこそ教会はいつも目を覚ましていなければならず、とりわけリーダーたちは、自分に与えられた権限と責任をどう使っているかを常に吟味すべきです。 「最後の勧めと人間の頑なさ」という主題は、受難節(四旬節)に深く黙想すべき核心でもあります。イエス様が十字架の道を歩まれる直前、弟子の共同体の中で最も極端な裏切りが起きたという事実は重大な霊的教訓を与えます。教会がどれほど恵み深い働きをしていても、信徒たちが一つ心に集まっているように見えても、実際にはある人の心は完全に閉ざされているかもしれません。そしてその心の中ですでにサタンが働き始めていることもあり得るのです。張ダビデ牧師は「教会がどんなに聖礼典と御言葉に満たされているように見えても、自ら目を覚ましていなければ、共同体の内部から最も致命的な攻撃を受ける可能性がある」と警告します。外面的には華やかな礼拝や情熱的な奉仕が行われていても、実は誰かが裏切りの心を育てているかもしれません。そしてその心が完全にサタンに明け渡される瞬間、取り返しのつかない破滅が始まるのです。 この時、主は何度も勧めを送られます。御言葉を通して、礼拝と祈りを通して、共に働く信徒たちの愛のこもった忠告を通して、「戻って来なさい、心を開きなさい、私は今もあなたを愛している」という声を絶えず届けてくださいます。問題は、その声を聞きながらも頑なさを捨てず、結局ユダのように「あなたがしようとしていることを早くしなさい」という最後の宣言を聞くしかなくなる場合があるということです。つまり主は愛によって強く迫ってはくださるものの、私たちの自由意志を踏みにじり、強制的に従わせるようなことはなさいません。私たちが最後まで心を閉ざすなら、最終的には立ち去ることを許されるのです。張ダビデ牧師はこれを「愛の痛みであり、神の尊厳性」だと言います。神はロボットのように人間を操作せず、真実な愛の交わりを望まれるがゆえに、私たちが最後まで心を閉ざせば、その選択さえ尊重されるというわけです。 しかし、その結果としてもたらされるものはあまりにも悲劇的です。教会共同体内で起こる内部からの裏切りは、他の信徒たちにも深刻な混乱と傷を与えます。まだ信仰の弱い人たちにとっては「教会とはこんなところだったのか?」という極端な失望をもたらし、場合によっては共同体そのものが分裂して裂かれる痛みを経験することにもなります。張ダビデ牧師は多くの説教で「初代教会の時代にもさまざまな裏切りや分裂の危機があったが、その度に使徒たちが目を覚まして祈り、互いをいたわることで克服した」と述べ、現代の教会もまた裏切りの種が芽生えないように、まずは互いを気遣う愛の実践が必要だと説きます。ただ「熱心に見えるから大丈夫だろう」と流してしまうのではなく、実際には誰かが疑いと不満にとらわれて倒れつつあるのか、あるいは世俗的欲望に陥って教会を利用しているのかを深く確かめなければならないというのです。 結局「最後の勧めと人間の頑なさ」は、私たちすべてが直面し得る現実的な問題です。教会が恵みに満ちていても、ある人はその恵みを「自分の望む形ではない」と言って拒むことができます。そしてその心を固守し続けるなら、いつか主が「あなたのしようとしていることを早くしなさい」と言わざるを得ないほど、もはや引き止められない段階に至るのです。その後に残るのは夜の闇だけです。恵みと愛の招きが確かにあったと知りながら、自分で背を向けた者に待ち受けるのは、実存的な破滅にほかなりません。だからこそ私たちは常に目を覚まして、自分の内に頑なさが育っていないかを点検しなければなりません。一度の礼拝や修養会、あるいは強烈な体験で全てが解決すると信じるのは安易な考えです。心の頑なさは巧みに戻ってきて、絶えず別の形で私たちを揺さぶるので、張ダビデ牧師は「絶えず御言葉と祈りで武装し、心を開いて主の愛を再び受け入れる努力が必要だ」と強調します。 さらに教会共同体の次元でも、私たちは互いに「最後の勧め」となり得る役割を担わなければなりません。疑いや不満を抱いてさまよっている肢体がいるなら、彼が完全に裏切りの道を突き進む前に引き返せるよう手助けすべきです。愛をもって忠告し、祈りによって取りなすだけでなく、実際的な関心を示して、その心がいっそう頑なにならないように気遣わなければなりません。もしこうした配慮や愛の労苦がなければ、結局共同体内部でユダのような悲劇が再び起こりかねません。張ダビデ牧師はこれを「互いの魂を預かる同労者」と呼び、教会は単に同じ建物に集まって礼拝を捧げるだけでなく、互いが互いに責任を負う愛の共同体であるべきだと力説します。 最後に、人間の頑なさの中でも神はみわざをなされるという事実を忘れてはなりません。ユダの裏切りは、確かに恐るべき罪であり、イエス様を苦難へと追いやる直接的要因でした。しかしその裏切りと苦難の中でイエス様は十字架を背負い、人類の救いを完成されたのです。これは、人間の悪すらも善へと変えられる神の主権を示す一方で、だからといって悪を行った個人の責任が消えるわけではありません。ユダは自らの罪の代価を背負い破滅し、その罪の重荷を後悔しながらも悔い改めず、みずから絶望の道を選んでしまいました。張ダビデ牧師は「神の御心はどのような形であれ成し遂げられるが、その御心に従うことで用いられるのか、拒んで裁かれるのかは私たち自身の責任だ」と語ります。これが自由意志にともなう重い責任であり、同時に私たちへの警告でもあるのです。教会はユダの例から学び、最後の勧めの時に心を頑なにしてしまうことがもたらす結果をはっきりと認識し、それ以上放置しないように目を覚ましていなければなりません。 Ⅲ. 張ダビデ牧師と「悔い改めと救いの道」 ユダの裏切りが頂点に達した時、イエス様は十字架の道を進まれます。これは逆説的なアイロニーと言えます。人間は最悪の裏切りを行い、その罪悪が極限に表された状況でしたが、まさにその時に神は救いの門を開かれるみわざをなさるのです。十字架で死なれ、復活されることによって、イエス様は死の権威を打ち破り、人類に永遠の命への道を開いてくださいました。しかし、その「最も偉大な救いの出来事」が目の前で起こっていたにもかかわらず、ユダはその実りにあずかることができませんでした。なぜならユダは裏切りの後、「真の悔い改め」をもって立ち返らなかったからです。張ダビデ牧師はここで「どれほど偉大な救いが目の前にあっても、個人が悔い改めてその道に入らなければ無意味だ」と改めて教えます。 対照的にペテロは主を否定するという大きな罪を犯したものの、泣き叫んで罪を告白し、復活された主の前で再び愛を告白したことで教会の柱へと生まれ変わりました。これは「罪がどれだけ大きくても、真の悔い改めがある時、救いの道が開かれる」という福音の真理を力強く示しています。張ダビデ牧師は悔い改めを「罪の座から立ち返ること」であると同時に「神の愛と赦しを心から受け取ること」だと定義します。つまり「私のような罪人でさえ主が赦してくださる」という事実を信じ、二度とその罪に戻らないという決意が悔い改めに含まれるのです。ペテロはイエス様を否定して絶望しましたが、その絶望を主にぶつけ、愛の中へ戻ってきたがゆえに回復の恵みにあずかりました。一方ユダは自分の罪を認めながらも「立ち返る道はない」と誤った確信に陥り、サタンの声に翻弄されて極端な選択をしてしまったのです。これは人間の頑なさがいかに自滅へつながるかを浮き彫りにする最も鮮明な対比です。 張ダビデ牧師はこの違いについて「後悔と悔い改めは本質的に異なる」と繰り返し強調します。後悔は「こんな失敗をしてしまった、しまった」という感情的反応にとどまることもありますが、悔い改めは実際にその罪から離れ、もう一度主に従うという行動の変化を伴います。したがって悔い改めは涙で終わるのではなく、生き方の方向性を根本的に転換する決断なのです。ペテロは悔い改めた後、自分の命をかけて福音を伝える使徒として生きました。もし単なる後悔だけにとどまっていたなら、「自分はもう主を否定したから弟子の資格はない」と自己嫌悪に陥り、さらに深い闇へ行っていたかもしれません。しかしペテロはイエス様の復活に出会って真の赦しを体験し、聖霊の力によって福音宣教の先頭に立ちました。つまり悔い改めは具体的な献身と従順の歩みへとつながってこそ、本当の意味があります。 教会でよく聞かれる「悔い改めなくして救いはない」という言葉は、決して律法主義的で人を断罪するためのものではなく、福音の核心原理をまとめた表現なのです。イエス様が十字架であらゆる罪の代価を支払ってくださったので、私たちがどれだけ大きな罪を犯していても赦される道は開かれています。しかしその道を実際に通るためには、悔い改めによってイエス様のもとへ行かなければなりません。もし「その愛があることは知っているが、わざわざ立ち返りたくはない」と心を閉ざしてしまうなら、どれほど大きな愛と救いがあっても自分のものにはならないのです。張ダビデ牧師はこの点について「福音は全人類のために開かれた道だが、個人が自由意志によってその扉をくぐらなければ、自分の救いにはならない」と説きます。 受難節(四旬節)はまさにこのような悔い改めのプロセスへと私たちを招く特別な季節です。イエス様の苦難と十字架を黙想する中で、私たちは自分の内に潜む罪性、そしてユダのように裏切る可能性があることを見出すようになります。いくら長く教会生活を送っていても、職分が高くても、本当に主の道をたどっていなければ、裏切りの種が育ち得るのです。しかしその事実を知ると同時に、イエス様がすでに十字架で私のために死に、復活された恵みを仰ぐ時、悔い改めの希望が生まれます。「今からでも立ち返るなら、主は私を受け入れ、再び建て直してくださる」という信仰が芽生えるのです。張ダビデ牧師は受難節に「悔い改めと救いの道」を特に黙想すべき理由がここにあると言います。 悔い改めようとする時、サタンは「もう手遅れだ」とか「お前のような罪人がどうやって戻れるのか」という絶望感を植えつけます。「ただ後悔したまま終わる方がまだ楽ではないか」という巧みなささやきもあります。しかしそれは偽りです。イエス様の十字架は、私たちのあらゆる罪と弱さを覆うのに十分なのです。一方、「悔い改めてもどうせまた罪を犯すだろうに、何の意味があるのか」という思いが湧くかもしれません。ですが悔い改めは一度で完結するものではなく、日々繰り返される信仰の旅路なのです。張ダビデ牧師は「私たちの罪性が完全に消えない限り、毎日の生活の中で悔い改め、再び主に立ち返る運動が必要だ」と語ります。ペテロも一度の悔い改めですべてが完璧になったわけではなく、その後も失敗や成長過程での試行錯誤がありました。しかし彼はその度に主の前にひれ伏し、立ち返り、聖霊の力によって変えられていったのです。 ユダの例が悲劇として残った理由は、彼が最後まで自分を手放さなかったからです。サタンは彼の心を隙に乗じて、絶望と自責の念へと追いやり、実際には悔い改めによる赦しが可能であったにもかかわらず、自分には道がないと断じさせてしまいました。これはサタンの思い通りに、自滅の道を選んだことにほかなりません。教会でも、ある人が大きな罪や失敗を犯した時、「もう帰る場所はない」と思い込んで去ってしまったり、信仰を放棄してしまう場合があります。しかし福音は、どんな罪にも立ち返る道があると語ります。「私に力を下さる方によって、私は何事でもできる」というパウロの告白は、悔い改めを通して新しい道が開かれるという確信の言葉でもあります。張ダビデ牧師は「教会が罪人を断罪して追い出すところになってはならない。むしろ悔い改めを助け、立ち返る機会を与え、赦しの恵みを分かち合う共同体であるべきだ」と力説します。 では私たちは具体的にどのように「悔い改めと救いの道」を歩むことができるでしょうか。まず、自らの罪を正直に認めて告白することが出発点です。ただ「失敗したな」という後悔レベルを超えて、「主よ、私はあなたの御心に逆らい、罪を犯しました。これからはその罪から離れます」という決断を立てなければなりません。次に、イエス様の十字架を仰ぎ、その方がすでに私のために血を流してくださったと信じることです。私の罪責感を永遠に解決できる唯一の道が十字架にあることを受け入れるのです。三つ目に、罪から解放された後は再び同じ罪に戻らないように、御言葉と祈り、共同体の助けを通して聖なる生き方を求めなければなりません。悔い改めは心の決心だけで終わらず、行動の変化を要求するからです。張ダビデ牧師は「悔い改めた人は愛を実践しようとさらに努力するようになる」と述べ、「ペテロが悔い改めた後に福音を伝えるために自分の命さえも差し出したように、真実に悔い改めた人には献身と従順の実が現れる」と言及します。 受難節(四旬節)はまさにこの道を再確認する時期です。私たちは十字架の前で何者でもない存在だと悟ると同時に、キリストの流された血潮によって何でも新しく始めることができるのだと思い起こします。ユダはその境界で自ら引き返してしまいましたが、ペテロはその境界を超えて恵みにすがりました。現代の私たち一人ひとりも、この二人の道のどちらを選ぶのかという分岐点に立っています。すでに教会に通っていて、多くの奉仕をしており、職分を担っているからといっても、内心ではユダのようにイエス様を「理解できない方」あるいは「私に実益をもたらしてくれない方」と見なす思いが育っていないか振り返る必要があります。もしそうした思いがあるなら、今こそ「悔い改めと救いの道」へ踏み出す絶好の機会です。張ダビデ牧師は「受難節に多くの人々が祈りと断食をし、イエス様の苦難を思い起こすが、肝心の自分の罪と貪欲を手放さないなら、それは虚しい宗教行為に終わりかねない」と警告します。 逆に、受難節に真実に自分の罪を認め、主の十字架の愛を深く黙想するなら、私たちは新たに生まれる驚くべき体験をすることができます。主の赦しがどれほど大きく、主の愛がどれほどまことのものであるかを悟る瞬間、ようやくユダの道ではなくペテロの道を歩むことができるようになるのです。「立ち返りなさい、私は今もあなたを愛している」というイエス様の声は、教会を通して、御言葉を通して、聖霊の内なる働きを通して、今日も絶えず響いています。問題は私たちがその声を拒み、夜の中へ行くのか、それともその声に応えて涙ながらに悔い改め、新しい夜明けを迎えるのかにかかっています。 このように、ユダの裏切りから得られる最も決定的な教訓は、人間はいつでも愛の前から背を向けられるが、同時にいつでも悔い改めによって救いにあずかることができるという事実です。張ダビデ牧師はこの真実を強調し、最終的に信仰生活で最も大事なのは「日々主の前に自分の罪を差し出し、その方の恵みを慕い求め、行動で従順を示すかどうか」にかかっていると語ります。教会が目指す福音の働きは、人々が悔い改めと救いの道へ入れるよう助けることにあります。信徒同士が互いに勧め合い、時には痛みを伴ってでも罪を指摘し合い、回復のために共に祈るのです。こうした共同体的な愛が生きている時、ある人が一時的につまずいたり疑いにとらわれても、再び立ち返る道が開かれます。 結局、ヨハネの福音書13章に描かれたこの裏切りのドラマは、私たち全員を試験台に乗せるようなものです。私たちは本当にイエス様の愛を信じているのか。イエス様の語られることが時に重荷に感じられ、世の期待と異なるように見えても、私は主の道を選ぶのか。それともユダのように「この道は自分の利益にならない」という判断を下して背を向けるのか。そしてもしその道で堕落したとしても、ペテロのように再び立ち返って悔い改めるのか、あるいは後悔と絶望にとどまり、さらに深い闇に落ちていくのか。張ダビデ牧師はこの問いを受難節にとりわけ繰り返し思い起こし、「十字架をつかんで悔い改める者には、いつでも救いの道が開かれている」と力を込めて語ります。 人それぞれ置かれている状況や悩み、罪の種類は異なるでしょう。ある人は金銭への欲のために、ある人は名誉や権威への渇望のために、また別の人は教会共同体で受けた傷のために、裏切りの一歩手前に立っているかもしれません。しかしその理由が何であれ、結論は同じです。「主の前に出て罪を告白し、赦しを求め、二度とその道を行かない」との悔い改めがなければ、救いの喜びにあずかることはできません。「救いは神がすでに開いてくださったが、それを実際に享受するかどうかは全面的に私たちの応答にかかっている」という張ダビデ牧師の言葉は、現代にも依然として有効です。 私たちはユダの裏切りを通して霊的警戒心を持ち、ペテロの回復を通して希望を見出します。教会は常にこの二つの道の間に立つ信徒たちを受け入れ、悔い改めを助け、立ち返りの道を指し示すような存在でなければなりません。そして受難節は、これを最も集中して行い得る時期です。イエス様の十字架の死と復活は私たちの信仰の核心であり土台ですから、その出来事を深く黙想する時、私の罪の実態と主の愛の大きさがはっきり見えてきます。その愛にすがって悔い改めの膝を折る人は誰でも、救いの道に加わることができます。張ダビデ牧師は「ユダが最後の瞬間にでも主に戻ってきたなら、ペテロのような恵みを受けただろう」という想定にまで触れ、神の愛がどこまでも尽きないことを強調します。ところがユダは結局その扉を自ら閉ざしてしまいました。私たちはその愚かさを繰り返す理由などどこにもありません。 結論として、裏切りの物語は「愛を拒んだ座」がどれほど身近に潜んでいるかを示し、「最後の勧め」ですら拒みうる人間の頑なさを警告しつつ、同時に「悔い改めと救いの道」がいつでも開かれていることを力強く説きます。張ダビデ牧師は、この三つがヨハネの福音書13章20〜30節に光のように現れていると見ています。イエス様が「わたしが遣わす者を受け入れることは、すなわちわたしを受け入れること」と言われた直後に裏切りの予告があり、実際にユダが夜へと出て行きます。しかしイエス様の十字架が完成すると、悔い改める者たちには新しい命が与えられます。教会がこの福音の真理を握って生きる時、私たちはユダの失敗から教訓を得ると同時に、ペテロの回復から希望を見出すのです。そしてその希望は「悔い改めと従順」という具体的な決断によって実を結びます。これこそ、受難節を迎える教会と信徒に突きつけられる挑戦であり、同時に約束でもあります。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「私たちはいつだってペテロにもなり得るし、ユダにもなり得る。結局どちらの道を歩むのかは、自分自身の選択次第だ」というメッセージを忘れてはなりません。そしてその選択の岐路で「主の愛を受け入れて悔い改め、救いの喜びを味わう」と決断する時、ようやく裏切りの夜ではなく復活の朝に出会うことができるのです。

奴隷から子へ – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 福音と律法の対比、そして子となることの意味 ガラテヤ書を読むとき、3章23節から4章7節までは一つの流れとしてつながる長い段落です。パウロはこの箇所で「子と相続」という核心的テーマを扱いながら、「いったい誰が神の相続を受けるのか」という問いを真摯に投げかけます。すでに3章の結論部分(3:29)で「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と明言し、その流れを受けて4章1節以降で子となるアイデンティティと実際の相続に関する説明が本格的に展開されるのです。パウロは福音と律法を鋭く対比し、律法は奴隷の役割を果たし、福音はわたしたちを子にするという点を力強く主張します。 当時のガラテヤ教会では、ユダヤ主義的クリスチャン、つまり偽教師たちが台頭していました。彼らは「福音によってすでに救われたのに、再び教会を律法へと引き戻そう」としていたのです。この動きに対しパウロは「いったいあなたがたは今、教会をどこへ連れて行こうとしているのか」と声を上げ、わたしたちが受けた福音がどれほど驚くべき自由をもたらすかを強調しました。 張ダビデ牧師は、さまざまな説教や講義を通してガラテヤ書のこの流れに注目し、福音と律法の対比がなぜこれほど重要なのかを繰り返し説き明かしてきました。福音はわたしたちを子にし、律法は奴隷として仕えさせるという表現は、福音がもたらす自由とアイデンティティの回復の核心をよく示しています。奴隷は拘束の下にあり、自分の思いどおりに生きられませんが、子は自由を享受し、相続の権利を持ちます。パウロはこの事実を単なる理論として語るのではなく、自身が直接体験した福音の力に基づいて力説するのです。律法中心に戻ることは「くびき」を再び負うのと同じであり、ガラテヤ書5章1節で「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由の身にしてくださったのですから、また奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」(新改訳を参照)と明確に結論づけています。 この論理は単に「ユダヤ教 vs. キリスト教」という宗教的対立構図にとどまらず、人間の本質的な救いの問題が何によって解決されるのかという焦点を持ちます。人が「子」となるのか、それとも「奴隷」の状態にとどまるのかという分岐点が、「福音」と「律法」という二つの道によって分かれるのです。福音はイエス・キリストを信じるとき、わたしたちを子として回復させる特別な力を備えています。それにもかかわらず、人々はしばしばこの自由と子となる身分をしっかりと握れず、再び律法的・宗教的なくびきの中へと入ってしまうのです。 パウロはガラテヤ書3章の終わりで「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(3:29)と宣言し、まさにそのアブラハムに約束された救いの豊かさが誰によって継承されるのかを示しています。それは単に血統や律法遵守の有無ではなく、キリストとの連合によって成し遂げられる歴史的・霊的な相続であることを、はっきりと打ち出す場面なのです。 わたしたちも日常生活のなかで、このアイデンティティを見失うときがあります。「わたしは神の子だ」という自覚が揺らぐとき、まるで相撲や柔道の試合で重心が崩れるように、わたしたちの人生全体も崩れてしまいます。パウロがガラテヤ書で力強く叫ぶように、わたしたちはすでに子とされたのですから、もはや奴隷のくびきを負う必要はありません。キリストの十字架によって自由を得たのに、再び律法や功績にもどろうとするなら、それはせっかく得た自由を捨て去るも同然です。パウロはこれを非常に深刻な問題として捉え、教会を分裂へ導く偽教師たちに対抗し、福音の真理を守るため熱心に論争を繰り広げます。 張ダビデ牧師はガラテヤ書の講解の中でこの部分をとりわけ強調し、わたしたちの内に「子とされた」確固たるアイデンティティがあるとき、霊的成長と自由、そして実際的な力が流れ出ると教えています。「わたしは神の子だ」という自覚が揺るがなければ、どんなに闇の勢力が揺さぶろうとしても決して倒れないのです。ちょうどイエス様が「もしお前が神の子なら」という悪魔の試みにも動じずに勝利されたように、わたしたちが自分が子であることを自覚し、それにふさわしく生きるとき、主の内にある自由と力を体験できます。イエス様は試みに遭われたとき、一貫して底流に「わたしは神の子だ。だからただのパンだけで生きる存在ではなく、むしろ神の言葉によって生きる」という確信をお持ちでした。このような自覚と霊的確信をわたしたちも持つべきだということが、パウロのガラテヤ書全体の文脈とも緊密にかかわっているのです。 パウロはこの福音の中で、わたしたちが奴隷ではなく子であることを、論理的・歴史的・神学的に証明していきます。ガラテヤ書4章1~2節では「相続人であっても、まだ幼い間は奴隷と変わらず、後見人や家令の下にある」と説明します。これは、律法のもとにあったユダヤ教全体の歴史を想起させるものです。彼らは奴隷として、子どもを導く「家庭教師(モンハクセンセイ)」のような役割をする律法を通して成長し、やがて時が満ちたときに子として自由に立つことができるようになりました。しかしガラテヤ教会の中で問題を起こしたユダヤ主義的クリスチャンたちは、律法のくびきへと戻ることを強要していたのです。パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と憤慨し、それは福音を根本的に損なう行為だと指摘します。 張ダビデ牧師は、この箇所で「宗教の習性」がわたしたちの自由をいかに蝕むかを説きます。律法的・宗教的な思考は見かけは敬虔そうに見えながらも、実際には人間を束縛し霊的な力を消滅させる傾向が強いのです。そうして宗教的行為や義務に縛られ疲弊し、「子としての自由」を失ってしまうと、結局、教会の中で分裂や互いの罪定めが起こってしまいます。パウロはガラテヤ書で、このような状況を「どうして再び弱くて貧しいelemental spirits(初歩的教え)に戻り、奴隷になろうとするのか」と叱責し、福音がもたらす自由がいかに尊いものであるかを覚えさせるのです。ガラテヤ書5章1節に至るこの宣言――「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由にしてくださったのです。だからもう一度奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」――は、当時のガラテヤ教会だけでなく、すべての時代の教会に向けた力強い勧告であり警告でもあります。 わたしたちが奴隷ではなく子であることをしっかりと把握するとき、自分を「罪の奴隷」とは定義せず、「キリストにあってすでに義と認められた者」として確立していけます。教会がほかのくびきや規則にこだわり始めると、子としての自由と力が覆い隠されてしまうのです。ガラテヤ人たちが律法的な重荷に囚われ、日や月、季節や年を守ることに気を取られている様子は、結局のところ初歩的教えに縛られ、宗教的義務を果たす生活形態に逆戻りしたのと同じです。しかし福音は、神の御子イエス・キリストが「律法の下に生まれ、わたしたちをあがない、子としての身分を得させてくださった」(ガラテヤ4:4-5)と語ります。パウロは「わたしたちのために律法の呪いとなってくださった」(ガラテヤ3:13)イエスの恵みによって、わたしたちはもはや罪の奴隷としてとどまるのではなく、子として大胆に生きられるのだと宣言しているのです。 張ダビデ牧師が強調するように、福音の本質は「奴隷を子に変える力」にあります。人の心にある罪悪感や恐れを打ち破り、子としての自由を回復させることこそ福音の力なのです。イエスがへりくだってこの地に来られた受肉(インカーネーション)は、神がどれほどわたしたちを愛し、救おうとしてくださるかを最も劇的に示す出来事です。神と等しくあられる方がご自分を空しくして十字架の死にまで従順になられたことは、人間の理性では到底理解し難い「神の愚かさ」(コリント第一1:25)といえます。しかし、この「愚かな方法」こそ「死によって死に打ち勝たれた」贖いの道であり、キリストがローマ書5章の代表論で示されるように、わたしたちの代表として罪と死の力を打ち砕いてくださいました。 このように受肉と十字架の出来事によって完成された救いは、子に与えられる驚くべき特権をわたしたちに贈り届けます。それがすなわち相続のことであり、子の御霊(キリストの霊)がわたしたちの内に住んで「アバ、父よ」と叫ばせるのです(ガラテヤ4:6)。かつては奴隷の身分で、とても神の前に出る勇気など持てなかったわたしたちが、イエスの血潮によって聖所に入ることを許されました(ヘブル10:19)。このようにガラテヤ書のメッセージは、人類の歴史・神学、そして実際の生活を貫く最も根本的な恵みの核心と言えます。福音がわたしたちの内に「わたしは神の子だ」という揺るぎないアイデンティティを植えつけるとき、もはや初歩的教えや律法のくびきに縛られずに生きられるのです。 Ⅱ. ガラテヤ書4章における子と相続の核心メッセージ パウロはガラテヤ書4章1~7節で展開する論理構造を見てみましょう。「相続人がすべてのものの主人であっても、子どもの間は奴隷と変わらず、後見人や管理人の下にある」(ガラテヤ4:1-2)というのは、先に3章23節以下で述べたように、律法の時代を「一時的保護者あるいは後見人」にたとえたものです。律法は不完全ながらも、キリストが来られるまで一時的に必要な役割を担いました。ところが「時が満ちた」(ガラテヤ4:4)、すなわち神が定められた時に、神の御子がこの地に来られてわたしたちを律法の下から贖い出されました。この「贖い」は「代価を支払って買い戻す」ことを意味し、イエス様がわたしたちの代表としてすべての罪の代価を負い、十字架で死なれることで成就されたのです。 張ダビデ牧師は、この「時が満ちた」というパウロの表現に注目し、救いの歴史における重要な転換点がイエス・キリストの受肉と十字架の出来事であることを強調します。神が人として生まれ、女性から生まれさせた(ガラテヤ4:4)のは、イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」という予言の成就であり、旧約のすべての約束がイエス・キリストの十字架と復活において完結したのです。その目的は「わたしたちに子としての身分を得させるため」(ガラテヤ4:5)でした。つまり、人間はどれほど律法を守ろうとしても弱さゆえに罪から完全に自由にはなれませんが、イエスが律法を全うし、わたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって律法の呪いから解放してくださった、ということです。 パウロはさらに一歩進んで、わたしたちには単に罪の赦しが与えられただけでなく、神の子となるという身分の変化が贈られたのだと言います。「あなたがたが子であるゆえに、神はその御子の霊をわたしたちの心に遣わして、『アバ、父よ』と叫ばせてくださるのです」(ガラテヤ4:6)という言葉は、聖霊(キリストの御霊)の臨在によって神の子となったことを証する場面です。奴隷は主人を恐れ、遠くから仰ぎ見るだけですが、子は「お父さん」と親しく呼びかけられます。これこそが子と奴隷を決定的に分ける点です。奴隷は常に「律法を守らなければ」という緊張と恐怖に囚われていますが、子は愛の絆の中で親のすべてを享受できる自由を持ちます。 パウロはガラテヤ書全体を通して、律法を守ることで得られる「奴隷としての義」ではなく、イエス・キリストを信じることによって転嫁される「神の義」を掴むべきだと力説します。これはガラテヤ書2章16節「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのです」という言葉と直接結びつきます。そして今、4章でも同様に、奴隷であった者に子としての身分を与えたのはわたしたちの力ではなく、全面的に神の恵みであることを再確認させています。その子となることが具体的にどういう意味を持つか――すなわち神が御子の御霊を送ってわたしたちと共にいてくださることで可能になる実際的な交わりの関係――を補足説明しているのです。これは単なる宗教的地位の上昇や呼称の変化ではなく、関係そのものの回復なのです。 一方、ガラテヤ書4章7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく子です。そして子であるなら、神によって相続人でもあるのです」という宣言は救いの完成点を示しています。子である以上、神が用意されたすべての霊的・歴史的祝福を継承することができる。それが福音が主張する驚くべき急進性なのです。律法のもとでは、ユダヤ人と異邦人が同等になりえなかった時代が終わり、キリスト・イエスにあって「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女もなく、あなたがたは皆ひとつなのです」(ガラテヤ3:28)という状態になりました。その子としての権威は、伝統的社会秩序が当然視してきた主人と奴隷の区別、男女の区別、ユダヤ人と異邦人の区別などを打ち壊し、教会を新しい共同体として生まれ変わらせる原動力となったのです。 しかしガラテヤ教会の内部では、律法主義者が「日や月、季節や年をうかがって守る」という古いやり方に戻るように人々を誘惑していました(ガラテヤ4:10)。パウロはそれについて「どうしてまた弱くて貧しい初歩的教えに戻って奴隷になろうとするのか」と叱責します。初歩的教えとは、人間が自力の功績や努力によって何かを成し遂げようとする宗教的・哲学的試みをすべて指すともいえます。しかしパウロにとって福音は、イエスの十字架と復活によってすでに完全に成し遂げられた救いであり、そこに人間的な条件を付け足す必要はまったくない恵みの世界です。律法的要求や義務を加えれば加えるほど、かえって福音の恵みは無力化され、子が享受するはずの自由が損なわれてしまうのだ、とパウロは主張するのです。 この文脈で張ダビデ牧師は、ガラテヤ書が示す福音の核心精神を「わたしたちに与えられた子としてのアイデンティティを最後まで握りしめよ」という一言でまとめます。いかに教会が組織的・文化的に成熟したとしても、もし教会員の心の中に「子としてのアイデンティティ」が薄れてしまえば、最終的には律法的な習慣や世俗的価値観が入り込んで教会が混乱してしまうからです。ガラテヤ書4章後半(ガラテヤ4:19-20)でパウロはそのことを痛切に吐露しています。「あなたがたのうちにキリストのかたちができるまで再び産みの苦しみをしよう」と言うほど、パウロは教会の中で福音が完全に体現され、子としての自由が回復されるまで、絶えず熱い思いで尽力するのだと強調します。 ガラテヤ書4章の中ほどで示されるパウロの個人的な告白(ガラテヤ4:13-15)は、パウロがいかに肉体的に弱かったのか、それでもガラテヤ人が彼を愛をもって受け入れた恵みの時代があったことを回想させます。ガラテヤの人々はパウロを神の使いのように、あるいはキリスト・イエスのように迎え入れ、目でさえも与えかねないほど犠牲的な愛を示しました。それは福音の中で彼らがいかに自由で、熱い愛に満ち溢れていたかを物語る歴史的な場面です。なのに、どうして今は互いに仲違いし、律法主義の偽教師に惑わされて分裂し、憎しみ合っているのか。パウロにとってこれほど悲痛なことはなく、だからこそ激しい口調で彼らを戒めているのです。 結局ガラテヤ書4章のメッセージは、単に「律法はいらないから完全に捨ててしまえ」という表面的な話ではありません。むしろ律法が本来持っていた目的――わたしたちに罪を自覚させ、キリストへと導く保護者的役割――が成し遂げられたあとは、それに束縛される必要がなくなるという大いなる自由の宣言なのです。人間は律法を通して罪を悟る段階には至りますが、その罪を解決して子となるのは、律法をもっと守ることによってではなく、キリストの贖いの働きによってのみ可能です。そして子となった後は、本質的に宗教の垣根を越えて神の心を自由に享受する者となり、「互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒めのうちに、律法の完成が何であるかを体験していくのです。律法を守って生きるのではなく、愛によって御霊に従って歩む生き方こそ、子にふさわしい歩みです。 張ダビデ牧師は、こうした点を繰り返し強調し、キリスト者のアイデンティティは「律法を満たす宗教人」ではなく「福音によって自由にされた子」であることを忘れないようにと訴え続けます。子としての自由を味わった人なら、どこにあっても神の愛を伝え、「わたしは子を知り、子であるわたしを神もご存じだ」という親密さのもと、この世の中を生き抜くのです。そうなるとき、はじめて教会は生命力あふれる共同体となり、世に対して光と塩の役割を果たせる――これが福音のダイナミックな力です。 Ⅲ. 奴隷から子へと転換する自由とアイデンティティ、そして生活への適用 パウロの個人的体験とガラテヤ教会の状況が複合的に示されるガラテヤ書4章は、今日の教会と聖徒たちが「自由」と「アイデンティティ」の問題をどう理解すべきかをよく教えてくれます。律法と福音、奴隷と子、束縛と自由、そしてそれを妨げる偽教師の問題などが生々しく絡み合っているからです。特に「あなたがたが子であるなら、相続人でもある」という驚くべき宣言は、人間の運命を根底から変える偉大なメッセージと言えます。罪の奴隷にすぎなかった人間が、どうして全能の神の相続人となれるでしょうか。それはただキリストにあってのみ可能な奇跡であり、福音がもたらす衝撃的な恵みです。 ガラテヤ書4章で注目したいのは、パウロが「どうすれば子になれるのか」を語るとき、徹底的に「キリストがわたしたちのためになさったこと」に基づいているという点です。「あがなってくださり、子としての身分を得させ、子の御霊を注いでくださった」のは神ご自身です。わたしたちがしたことといえば、それを信仰によって受け取るだけです。ここにわたしたちの功績や律法的行いが介入する余地はありません。子として生きるとは、キリストの御霊によって可能となる能動的な歩みです。つまり、子だからといって好き勝手に放縦に生きるのではなく、「御霊に従って歩むこと」によって子としての聖さと愛を実践するのです。パウロはガラテヤ書5章でこの適用点を詳しく解き明かします。御霊の実を結ぶ生き方、すなわち愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制があふれる人には、律法に反するものなど何もないのだ、と宣言します。 張ダビデ牧師は、この点をさらに現場の牧会において繰り返し強調します。「福音はわたしたちの生き方を根本から変える力を備えており、その変化は本質的に『わたしは神の子だ』というアイデンティティから始まる」というのです。教会の中で信徒同士が対立し、互いを罪定めしたり、あるいは自分自身が罪定めされて恐れに陥ってしまう理由の多くは、「自分が子である」ことを忘れてしまうからです。「宗教的な務めを果たしていればこそ安心だ」という思いが強まると、神や他者への愛よりも規則遵守や形式が先行してしまいます。そうなると自然に互いを比較し合い、裁き合い、さらには別のくびきを作り出してしまいがちです。まさにガラテヤ教会が直面していた問題がこれでした。 しかし「わたしは神の子だ」と確信するとき、イエスが悪魔の試みの前でもご自分の身分を決して揺るがなかったように、わたしたちも人生のさまざまな圧迫や誘惑に対して堂々と立ち向かえます。子であるアイデンティティが中心をしっかりと支えてくれるからです。子どもは父の豊かさを知っており、父の愛を疑いません。さらに子の御霊がわたしたちの内におられることを知るとき、罪と戦うときにも聖霊が働かれるという確信を持って力強く生きられます。目の前の状況がどれほど苦しく弱く見えても、「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)というパウロの告白のように、かえってわたしたちの弱さのなかで神の栄光が示されるのです。 張ダビデ牧師はガラテヤ書4章を説教するとき、パウロが自分の肉体的弱さをさらけ出し、それでもガラテヤの信徒たちから大きな愛を受けた場面(ガラテヤ4:13-15)をしばしば引き合いに出します。パウロがあれほど弱々しく見えた存在であったにもかかわらず、ガラテヤの人々は目さえも与えたいと思うほど熱く歓迎してくれました。それは律法的義務ではなく、福音的愛に基づく態度でした。その美しい姿が後に律法主義者たちの侵入によって失われてしまったのですから、パウロの胸中はどれほど痛んだことでしょう。わたしたちも教会生活の中で、ある兄弟と初めて出会ったころには福音の中で熱い愛を分かち合っていたのに、時が経つにつれ互いを罪定めし、分裂してしまう姿を目にすることがあります。まさにそのような状況で、再びガラテヤ書のメッセージに立ち戻り、「ほんとうにわたしたちは神の子としての自由を味わっているのか?」と自問する必要があるのです。 パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と必死に訴えます。これは単に旧い律法制度に戻る話だけでなく、人間の本性の弱点とも深く関わります。わたしたちは心のどこかに常に「善くあらねば、正しくあらねば、律法を守らねば」という強迫観念を抱えて生きています。しかしそれが究極的にわたしたちを義とすることはできない、という事実を福音がはっきり示しているのです。義はイエス・キリストにあって信仰によって与えられるのであって、その信仰は「子としての関係」の中で花開きます。子は父の望まれる心を知り、それを従順によって実践しつつも、律法的抑圧ではなく愛の動力によって動きます。この微妙な違いこそが、宗教的生活と福音的生活を分けるのです。 今日の教会の視点でガラテヤ書4章を読み直せば、教会の中にいかに多くの「初歩的教え」的要素が入り込んでいるかに気づくでしょう。世の方法論や「キリスト教」を名乗る律法主義的な教えでさえ、ときには初歩的教えになりえます。外見上は立派で善良そうに見えても、それが十字架の恵みの福音に立脚しておらず、人間的な義務と達成だけを強調するものならば、それもわたしたちを奴隷にする初歩的教えです。パウロはそうしたものを容赦なく「再び奴隷の身分に逆戻りするのか」と非難し、偽教師たちが信徒たちをそそのかし、憎しみの火種をまき散らす現実を直視します。そそのかしと分裂、偽り、憎悪、罪定めは、福音が目指す愛と自由とは正反対のものだからです。 では具体的に、「わたしは神の子だ」というアイデンティティをどのように守り実践できるでしょうか。まずは、御言葉と祈りを通して絶えず自分が受けた救いを思い起こすことが重要です。イエス・キリストによる贖いがなければ、わたしたちは今なお罪の奴隷であったはずです。にもかかわらず、福音によって神の子とされていることを、頭だけでなく心の底にまで刻み込むのです。次に、聖霊に頼ることが大切です。ガラテヤ書4章で言う「子の御霊」とはまさに聖霊です。わたしたちが御霊にとどまるとき、わたしたちは神を「アバ、父よ」と呼び、親密な交わりの中でこの世に対しても大胆になります。さらに、わたしたちの自由は愛として実践されなければなりません。宗教的義務に従って形式を守るのではなく、十字架の愛がわたしたちのうちに注がれたとおりに隣人を仕え、教会を建て上げるのです。そうするとガラテヤ書5章14節の「律法の全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉に尽きるのです」という御言葉が成就されるのです。 結局、パウロがガラテヤ書4章で「あなたがたのうちにキリストの姿が形造られるまで、再び産みの苦しみをする」と語ったのは、子としての現実が信徒一人ひとりの心の奥深くに刻まれるようにするためでした。パウロが肉体的な弱さを抱えながらも、ガラテヤの人々が彼を「イエス・キリストに対するように」迎え、火のように燃える愛で包んでくれた日々を思い出させるのは、その頃の愛と自由へともう一度帰ってきてほしいという招きでもあります。わたしたちも教会生活をする中で、初心が薄れ、形式と習慣に縛られ、他者を批判したり、自分の義を掲げようとする姿を見せるときがあります。そうしたとき、ガラテヤ書4章のメッセージを再び思い起こすべきです。はたしてわたしは子として自由に生きているのか、それともまた奴隷の道へと逆戻りしているのか、と。 張ダビデ牧師はこの問いを常に胸に刻み、教会の共同体や個人の信仰生活を省みるよう勧めています。福音は一度信じて終わる教理ではなく、日々生き抜くべき力だからです。その力は人間の力で作り出せるものではなく、子の御霊がわたしたちのうちに宿らなければ花開きません。だからこそ、キリストは律法の下に生まれ、わたしたちを贖い出され、わたしたちが福音によって生きるとき、かえって律法のすべての要求は御霊のうちで自然に成就されるのです。これこそパウロ神学の神髄であり、わたしたちがこのことを忘れずに「わたしたちに自由を与えられた理由」を常に省みるとき、教会内の分裂や偽りの教え、人間的な規範への執着ではなく、むしろ愛と御霊の実が満ちる共同体が築かれていくのです。 まとめると、ガラテヤ書3章23節から4章7節に至る本文でパウロは、「奴隷」と「子」の鮮明な対比を通して福音の力を証言します。「あなたがたは子である」「子ならば相続人である」という彼の宣言は、教会が再び奴隷のくびきへ戻ろうとする愚かさを糾弾し、新しく打ち立てられる子としての自己認識を奨励するものです。これは旧約の歴史の中で律法をお与えになった神が、最終的にイエス・キリストを通じて人類が真の子としての身分を回復することを望まれたことを示します。これについて張ダビデ牧師は、ガラテヤ書に込められた福音的エッセンスと恵みの核心を見失わないように、日々自分を省みつつ、信徒たちがこの自由を実際の生活に適用すべきだと強く説いています。子とされたわたしたちは、もはや恐れや義務感に縛られることなく、神をアバ、父よと呼び、そのすべてを相続できる驚くべき特権に立っています。その自由と愛の関係を日々味わい、証しすることこそ、ガラテヤ書4章が現代の教会に突きつける力強い呼びかけであり、喜びの招きなのです。

神の子どもとなる - 張ダビデ牧師

Ⅰ. 聖霊のうちにある者に罪に定められることはなく、自由がある ローマ8章は福音の核心を最も荘厳かつ美しく描き出した章であり、多くの神学者や牧会者、そして数多くの信徒たちに長きにわたり深い霊感を与えてきた御言葉として知られています。特に「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)という冒頭の一節は、私たちの救いの土台となる驚くべき真理を力強く宣言しています。張ダビデ牧師もこの箇所が与える恵みを繰り返し強調し、聖化の過程で依然として罪と格闘し、試行錯誤をくり返す者にも、確信と自由があるのだと説いてきました。 ここで「こういうわけで(그러므로)」という言葉から始まるローマ8章の導入は、決して軽く通り過ぎてよい表現ではありません。これは直前のローマ7章と緊密に結びついているからです。7章の末尾でパウロは「こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)と告白しています。これは、救われたキリスト者であっても、依然として罪の誘惑と戦い、罪に簡単に屈してしまう自分自身の姿を目の当たりにするという事実を如実に示しています。パウロ自身も律法と罪の律法のあいだで苦悶しつつ「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。だれがこの死のからだからわたしを救い出してくれるでしょうか」(ローマ7:24)と嘆きました。しかしパウロはその嘆きで終わりません。一方では「しかし今やキリスト・イエスにある者は決して罪に定められることはない」と大胆に宣言します。多くの人にとっては「しかし(그러나)」という逆接の表現のほうが自然に思えるかもしれませんが、パウロが選んだ語は「こういうわけで(그러므로)」です。これは、「罪との戦いでつまずくたびに、あなたがすでに救われ、義とされているという事実を忘れないように。その確固たる土台の上に立って、聖化を進めていきなさい」という意味合いを含んでいるのです。 「今や(이제)決して罪に定められない」という宣言は、一度きりの出来事だけを指すのではなく、時間の流れの中で継続的に適用される真理を語っています。救いの門を初めてくぐったときだけでなく、聖化の過程全体において、時には罪によって倒れてしまう瞬間でさえ、変わることなく適用される。これこそが福音なのです。ヨハネの福音書8章で、姦淫の現場で捕まった女性がイエスのもとに連れて来られたとき、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からはもう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と語られました。このように神は罪人に向かって、断罪の鞭を振り下ろすお方ではなく、御子を通して赦しと愛を注がれるお方です。もちろん、だからといって罪を軽んじよという意味では決してありません。罪に対して敏感に反応し、戦い続けるべきですが、それでも罪に負けてしまったときさえ「こういうわけで、今やキリストにある者に罪に定められることはない」という福音の確信を手放してはならないのです。張ダビデ牧師もまた、罪との格闘のただ中で、福音の本質を固く握るよう勧めてきました。そして人間の力では不可能なことを「神はなしてくださる」という、パウロの告白を共に黙想するよう導いています。 パウロは「キリスト・イエスにある者」という表現を用いています。「キリストのうちに(In Christ)」にあるということこそ、私たちの罪の赦しと自由、新しい命のすべての秘密が詰まった言葉です。イエスがヨハネの福音書15章で「わたしのうちにとどまりなさい。そうすればわたしもあなたがたのうちにとどまります」(ヨハネ15:4)と語られたように、これは「愛による結合」を意味します。キリストにつながることによって、私たちは罪から解放され、自由と喜びを享受します。ローマ8章でパウロはこれをさらに具体的に説明しています。「いのちの御霊の原理(法)は、罪と死の原理からあなたを解放したのです」(ローマ8:2)。十字架の上で私たちのために流されたイエス・キリストの尊い血、そしてキリストの復活の後に私たちのうちに臨まれる聖霊の力が、罪と死の原理から私たちを救い出したのです。こうして私たちは、以前の罪と死に囚われた身分から解き放たれ、まったく違う存在となりました。「罪に定められることがない」というこの神の宣言は、罪に満ちた世で、罪に従って生きざるを得なかった弱い人間に対し、まったく新しい道が開かれたことを意味しています。 肉の弱さゆえに律法は私たちを救うことができず、むしろ罪をいっそう際立たせて、私たちに大きな苦痛をもたらしました(ローマ8:3)。しかし神は、罪を取り除くために御子を罪ある肉の形で送られ、キリストが罪を処断されたことによって、私たちは罪のわなから解放されました。これは「義認(justification)」「贖い(redemption)」「贖罪(atonement)」という概念で説明されます。本来なら罪によって死ぬしかなかった私たちの状態を、イエスが代わりの犠牲のいけにえとなられ、代価を支払って罪の鎖から私たちを救い出されたのです。張ダビデ牧師も多くの説教や講義で、この救いの偉大さを十分に認識するためには、まず罪の重みと絶望を十分に悟る過程が必要だと語っています。罪人が自分の罪の深淵を自覚するとき、神の愛の深さを初めて体験しやすいからです。その愛こそ、罪人である私たちを最後まで見捨てずに救い出してくださるキリストの十字架の愛にほかなりません。 このように十字架によって罪と死の原理が断ち切られ、聖霊の原理が私たちを新しく治めるようになります。パウロはこのことを二つの「原理(法)」の対比によって説明します。肉に従う者は肉のことを考え、霊に従う者は霊のことを考えるようになる(ローマ8:5)。そして肉の思いは死であり、霊の思いはいのちと平安だ(ローマ8:6)。パウロが言う「肉(flesh, sarx)」とは単に物質的な身体を指すのではなく、罪に汚染された人間の堕落した本性を示しています。ゆえに肉に従う生き方は本質的に神に逆らうことであり(ローマ8:7)、そうした姿では決して神を喜ばせることはできません(ローマ8:8)。しかし聖霊が私たちのうちに住まわれるなら、私たちはもはや肉に属する者ではなく、霊に属する者になる(ローマ8:9)。キリストの霊、すなわち聖霊が私たちのうちにおられなければ、その人は真のキリスト者ではないというパウロの言葉は、やや厳しく聞こえるかもしれませんが、それほどまでに「聖霊の内住」が重要であることを強調しているのです。 私たちが聖霊を受けてキリストと結ばれるとき、罪のゆえに死んでいたからだも新しく生かされます(ローマ8:10-11)。これは将来、私たちにも与えられる「復活」の希望を含んでいます。イエスが復活の初穂となられたように、私たちの朽ちる身体も復活の力によって新しい命へと変えられるという希望です。聖霊は死者を生かされる父なる神の御霊ですから、その聖霊をいただいた者はすでに「復活のいのち」の希望を抱いて生きるのです。パウロは続けて「したがって、兄弟たち、わたしたちは借りがある者ですが、肉に従って生きる義務を負っているのではありません」(ローマ8:12)と言います。私たちは神の御子の尊い血によって買い取られた者ですから、もはや罪の奴隷として生きる必要はありません。「もし肉の行いを霊によって殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ローマ8:13)という宣言は、聖化の核心的な原理を示しています。敬虔で聖なる生き方は、人間的な決心や律法主義的な努力だけでは不可能です。ただ聖霊の力によって罪の道を思い切って断ち切り、悔い改めるとき、私たちは次第に聖なる姿へ変えられていくのです。 聖書は私たちに、罪に対して鋭敏であれ、そしてその芽を摘み取れ、と繰り返し勧めています。罪の報酬は死であるため、それを軽く流してはならないのです。同時に「霊によって」この戦いを戦わなければならないとも教えています。重ねて言いますが、これは徹底的に「上から来る力」、すなわち聖霊の力によってのみ可能です。他の宗教は、多くの場合、人間が自己修養や道徳的実践を通じて清くなり、悟りや解脱に至れると教えます。しかしキリスト教は、人間の罪の本性を人間の努力だけで克服することはできないと明確に言います。私たちのうちにある古い本性がどれほど強力なのか、そして神の恵みがどれほど絶対的に必要なのかを教えています。ですからパウロは「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも力のある方です」(Ⅰヨハネ4:4)という御言葉によって、信徒が世や罪の勢力に勝る大いなる力を持っていることを確信しなさいと勧めるのです。張ダビデ牧師もまた、罪に対する恐れや自己嫌悪によって無力化されるより、聖霊の力のうちに大胆に戦うようにと、何度も説教で語ってきました。それが「聖霊のうちにある者の自由」であり、「決して罪に定められることはない」という宣言を可能にする力なのです。 Ⅱ. 養子となること、救い、そして神の子ども ローマ8章の第二の大きな流れ(ローマ8:14-17)は、「神の子とされた者たち」という主題を扱っています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とあるとき、パウロははっきりと宣言します。聖霊の導きが臨むならば、私たちはもはや罪の子や肉の奴隷ではなく、神の家族に組み入れられる。イエスがヨハネ10章で「わたしは良い牧者」であると語り、「わたしの羊はわたしの声を聞く」と言われたように、羊は牧者の導きを受ける存在です。同様に私たちは、聖霊の導きに従う生き方へと招かれたのです。 この真理は、救いの核心において「身分の変化」を含意します。救いは、単に罪の赦しを受けるだけにとどまらず、本来罪と死に属していた私たちが「神の子となる特権」を得る出来事です(ヨハネ1:12参照)。ローマ書は、イエス・キリストを通して明らかにされた神の義が、どのように罪人を義とし、さらには「養子」として迎え入れてくださるのかを論理的に説き明かします。ここでパウロは「養子」という概念を非常に重視しています。ローマ帝国には厳密な養子制度が存在し、一度養子縁組が成立すると、実子と同じ法的・社会的・経済的な権利がすべて与えられました。張ダビデ牧師も、ローマの養子制度を背景知識として聖書本文を理解すると、パウロが語る救いの確かさと、私たちが神の相続を受け継ぐという言明がいっそう鮮明になると説明しています。 実際、ローマの養子縁組の儀式は非常に厳格な手続きを踏み、いったん完了すると絶対に取り消すことができませんでした。三度の象徴的な売買行為(mancipatio)を経ることで、養子に迎えられた息子は以前のすべての法的権利と債務が断絶され、新しい父の家系に完全に属し、「まったく新しい人生」を生きることができるようになるのです。パウロは「あなたがたは以前、罪のとりことして、悪魔の奴隷であったが、イエス・キリストの贖いによって今や神の養子とされた」と宣言します。その結果、私たちが以前、罪の家系に属して負っていたあらゆる借金や責務は無効になりました。今や私たちは神なる父の絶対的保護と愛のもとに置かれるようになったのです。そこでパウロはローマ8章15節で「あなたがたはまた恐れに陥る奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。それによってわたしたちは“アッバ、父よ”と呼ぶのです」と宣言します。 ここで注目すべきは「再び恐れに陥る奴隷の霊」という表現です。罪のもとにあったとき、人々は常に不安と恐れの中を生きていました。なぜなら「罪の報酬は死」(ローマ6:23)であり、律法と裁きの影が常に立ちこめていたからです。けれどもイエスの十字架の贖いによって、私たちはそうした恐れから解放されました。そして聖霊はこの事実を内的に証ししてくださいます。パウロは「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:16)と言います。この証しは単なる感情的な揺らぎではなく、永遠にして確実な法的証拠でもあります。ローマの養子縁組に複数の証人がいたように、私たちの霊的養子縁組には「神の御霊」ご自身が直接の証人となってくださるのです。これ以上に確実な保証がどこにあるでしょうか。 神の子どもとされることは驚くべき特権であると同時に、それに伴う大きな責任も含みます。パウロは17節で「子どもである以上、相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共同の相続人です」と語ります。私たちが神の相続人であるということは、父なる神のすべての財産・遺産を継承する権利を与えられていることを意味します。第一コリント3章22節でもパウロは「世界も、いのちも、死も、現在のものも、未来のものも、すべてあなたがたのものです」と堂々と宣言しています。信仰によって神の家系に加えられた者たちに与えられた天の相続は、本当に無限で栄光に満ちたものなのです。 それでは、この特権を与えられた者たちの生き方はどのようなものでしょうか。ローマ8章17節の後半でパウロは「もし私たちがキリストとともに栄光を受けるために苦難をともに受けるのなら、私たちは共同の相続人です」と述べています。つまり私たちはキリストの苦難にも参与する道を歩むということです。世の宗教の多くは、人間がいかに苦痛から解放されるかに焦点を当てがちです。しかし福音はそこで終わりません。むしろイエス・キリストが歩まれた道、すなわち十字架の道を私たちも共に辿ることによって、神の子としての人生を全うするように招いているのです。イエスが「アッバ、父よ」(マルコ14:36)という呼びかけをなさったのは、ゲッセマネの園で十字架を目前にして血の汗を流しながら嘆き祈られた、最も苦しい瞬間でした。そのとき主は苦難の前で恐れを抱かれつつも、最後まで父の御心に従われ、その従順を通して復活と栄光に至られました。同様に神の子どもとされるとは、ただ世的な権勢や栄光だけを約束されるのではなく、御子が歩まれた苦難の道すらも共に担うことなのです。 とはいえ、その道は決して悲惨な破滅へと至るものではありません。私たちの苦難は、いのちを与えてくださる神の御霊のうちで意味づけられ、最終的には神の栄光にあずかる道へと導かれます。教会史を振り返ると、多くの聖徒たちが福音のゆえに世からの迫害や痛みを甘受してきました。しかし彼らは自分が「神の子」であり「キリストとともに相続人」であるというアイデンティティによって、その苦難を「比べものにならない栄光の保証」として受け止めたのです。張ダビデ牧師も「私たちが本当に父の子どもであるならば、世の患難や誘惑に直面するときにも、キリストにある自分のアイデンティティを決して忘れてはならない」と強調しています。奴隷から子どもへと養子とされた者が、かつての奴隷の状態に戻る必要はまったくありません。法的・霊的効力はすでに完全に新しくされているからです。 要するに、イエス・キリストを信じるということは、単に信仰的な感性をもつようになるというレベルの話ではありません。それは、罪と死という具体的な鎖から解放され、神の子どもとして完全に身分が切り替わる出来事なのです。キリストの御霊である聖霊が私たちのうちに住んでくださり、「あなたは神の子どもだ」と共に証ししてくださる。この驚くべき事実を握ることこそ、聖化の過程で私たちを支え続ける原動力になります。罪と戦うたびに何度も倒れるかもしれませんが、「罪に定められることは決してない」という福音の真理を握って再び立ち上がる力は、そこから生まれます。そして神の御霊、すなわち聖霊をいよいよ慕い求めることで、私たちは徐々に罪に打ち勝ち、「聖なる者へと変えられて」いきます。愛の関係のうちに、十字架によって示されたキリストの愛を味わいながらこそ、私たちは真の養子、神の子どもとしての歩みをするのです。 Ⅲ. 苦難への同伴と栄光の希望 パウロはローマ書8章を通して、罪から解放され、神の子どもとされた者たちが最終的に目指すべきゴールについて語ります。それは「栄光」です。言い換えれば、聖霊のうちで私たちはすでに救われ(義認)、今も救いを得つつあり(聖化)、やがては完全なる救い(栄化)に至るのです。「苦難をも共に受けるなら、栄光をも共に受ける」(ローマ8:17)という御言葉は、この道のりが険しくとも、同時にもっとも祝福され栄光に満ちた道であることを思い起こさせます。実際、8章の後半(ローマ8:18-39)では、宇宙的回復と復活の希望、そして聖徒の堅忍と永遠の愛が非常に荘厳に描かれます。今私たちは8章1~17節の冒頭部分を注視していますが、そこで早くも「子どもであるなら、相続人、神の相続人であり、キリストと共同の相続人」と告げた直後に、「ともに栄光を受けるために苦難をも共に受けなければならない」と教えている点が重要です。 この「苦難」という言葉は、福音を中心にしなければ容易に理解しがたいものです。世的な基準で考えれば、身分が高められて相続人となったのなら、当然苦しみから解放され、良いところだけを享受すればいいのではないかと思うでしょう。しかしイエス・キリストが歩まれた道自体が十字架の道であり、「人の子がきたのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人のために自分の命をあがないの代価として与えるためなのです」(マルコ10:45)と仰せられた主に私たちが従う以上、その苦難の分をも担うのは当然とも言えます。 パウロは「今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとしている栄光と比べれば取るに足りない」(ローマ8:18)と続けて語ります。この苦しみには迫害や迫害以外の困難、または個人的試練、病気、経済的困窮、人間関係の葛藤、肉体の弱さなど多岐にわたるかもしれません。けれども、それらすべてが「神の子」とされた者にはまったく異なる意味を帯びます。人間は誰しも人生で様々な苦難に直面します。しかしキリスト者にとって苦難は、絶望的な終わりや虚無に終わるのではなく、むしろ栄光へのプロセスへと昇華される可能性を秘めています。この神秘こそ「十字架と復活」という福音の中心的真理です。イエスの十字架が、恥と痛みの場所であると同時に最大の勝利であり神の知恵として示されたように、キリスト者の苦難もまた、最終的には宝石のように輝く栄光へと変えられるのです。 張ダビデ牧師も、大きな苦難や小さな苦難にある信徒に対し、「苦難を回避したり恐れに閉じこもったりするだけでなく、キリストにある自分のアイデンティティを確固として、苦難を通して神に栄光を帰す生き方へと踏み出そう」としばしばチャレンジします。特に「神が私たちの父であるという事実が揺らがないなら、どんな試練にあっても最終的に神が計画された救いの実を見ることができる」とメッセージしてきました。苦難は私たちが故意に選ぶ道ではありませんが、キリストの足跡に従うならば、自然と共に担うことになる道です。そしてそれは「しばしの患難が私たちに格段に勝る重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)というように、永遠の栄光を準備する道でもあるのです。 神が私たちを子としてくださったということは、最終的に「十字架と復活」を通して成就された神の御子イエス・キリストの生き方に私たちが同伴することを意味します。それにもかかわらず、罪が蔓延するこの世で、キリスト者が歩む道は容易ではありません。世はしばしば福音の価値を嘲笑し、十字架の道を愚かとみなし、信徒たちは世との衝突を経験することもあります。さらに教会の内部ですら、人との葛藤や罪に起因する傷を負うことがあるでしょう。しかしそのようなときこそ、私たちは「神の子」という自らの身分を思い出し、聖霊の助けを求める必要があります。私たちが経験するすべての試練や欠乏、涙や悲しみは、聖霊のうちで清められ、一歩ずつイエス・キリストに似た者となる契機となり得るのです。 義認、聖化、栄化という救いの三段階において、私たちはなお罪と戦う途中段階にあるとも言えます。すでに義認は受けましたが、まだ完全なる栄化には至っていないため、罪の習慣が残り、肉の誘惑の前に弱さを感じるときがあります。ローマ7章に描かれる内面的葛藤が、それを端的に表しています。ゆえに私たちは日々の生活の中で聖霊に頼り、御言葉の光で自分を照らし、悔い改めと決断を繰り返す必要があります。同時に、ローマ8章1節が告げる「いかなる罪の宣告も受けることはない」という確信を握らねばなりません。これがなければ、私たちは罪悪感に押しつぶされ、サタンの告発に翻弄されてしまうでしょう。パウロはそれを決して望んでいません。むしろ「こういうわけで」という接続詞によって8章を始めることで、キリスト者の聖化がいかなる救いの土台の上に進んでいくのかを明確に示しているのです。 パウロは最終的に「あなたがたは『養子』とされました」と宣言し、「聖霊ご自身がそれを証ししてくださる」と語ります。どのような法廷の証言よりも高い、神の保証です。その結果、私たちは「アッバ、父よ」と呼び求めることができ、奴隷のように恐れ震える必要はありません。さらに相続人として神の栄光を受け継ぐがゆえに、キリストが歩まれた苦難の道も共に背負うのです。実のところ、これが「十字架の道」であり、キリストにあってあふれる喜びを得る唯一の道でもあります。 パウロが言う「栄光」は、世の華やかさや一時的な成功とは決して同じではありません。それは「復活の栄光」、「神との完全な親密さ」、「罪と死がもはや力を振るうことのない新天新地」での永遠のいのちです。ローマ8章の後半で「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょう」(ローマ8:35)と問いかけ、「私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:37)と答えるパウロの確信は、この栄光の実体を知る者の大胆さです。そしてこの確信は、まさに今私たちのうちに与えられた聖霊の「内的証し」と密接にかかわっています。聖霊が私たちの霊とともに「私たちは神の子どもである」と証ししてくださるゆえ、どんな人生の嵐や混乱の中でも「私は神の子であり、キリストとともに相続人である」という真理を失わずにいられるのです。 特に張ダビデ牧師は、ローマ8章をたびたび引用しながら信徒たちに「天国はすでに私たちの相続ですが、今なお成就しつつある神の国に私たちは招かれた存在であることを覚えてください」と強調します。神の子とされたからこそ、この地上の歩みが決して虚しく無意味なものではなく、また苦難が単に私たちを押しつぶす苦しみではなく、聖なる道へ導く手段ともなり得ることを認識してほしいのです。人間の弱さは確かに現実ですが、その上に注がれる神の恵みはさらに強力です。パウロの言う「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも力のある方です」(Ⅰヨハネ4:4)という宣言を心に抱いて生きるとき、私たちは罪や誘惑、絶望に敗北することなく、最終的には勝利の賛歌を歌うことができます。 結局、ローマ8章1~17節は「信仰によって義とされた者が、聖霊のうちで罪に定められることのない自由を得て、神の子どもとされ、苦難を経て栄光に至る」という福音のエッセンスを凝縮して示しています。その中には救いの多面的な要素が緊密に絡み合っています。義認を通してすでに完全な赦しを受けましたが、聖化によって段階的に変えられ、栄化の時に最終的完成を迎える。この壮大な救いの計画の只中で、パウロは私たちに「あなたがたは神の子なのだ」と挑戦し、同時に励ましを与えます。そしてそのすべてを確証するために「聖霊ご自身が私たちの霊とともに証ししてくださる」と断言するのです。 では、私たちの応答はどうあるべきでしょうか。第一に、罪を徹底的に憎み、警戒しつつも、罪に倒れたときには福音が与える「断罪されない」ことと「新たにやり直せる機会」をしっかりとつかむこと。第二に、自分が神の子どもであると常に自覚し、不安が襲ってくるときには「アッバ、父よ」と叫び、祈りと御言葉の黙想へと進むこと。第三に、苦難の中で落胆せず、それを通して品性や人格が磨かれ、私たちのうちにキリストの御姿がいっそう形づくられるよう願い望むこと。結局、これらすべては「上から来る神の力」、すなわち聖霊によって可能とされるのです。 今この瞬間にも、多くのキリスト者がそれぞれの生活の場で、多様かつ苛烈な試練や誘惑に直面しています。ときに信仰が揺れ動き、自分が救われているのかさえ疑う人もいるでしょう。ローマ7章のパウロのように「なんと惨めな人間なのでしょう!」と嘆きながら、「いったいだれがこの死のからだから私を救ってくれるのでしょう」と叫ぶこともあるかもしれません。しかしまさにそうした人々に向かって、パウロは「キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」と語るのです。「こういうわけで」という接続詞を通して、罪悪感と絶望の中にとどまらず、すでに義認を受けたことを思い起こし、聖化の道を歩み続けなさいと励ましているのです。そして「あなたがたは養子の御霊を受けたのだ」と宣言し、奴隷ではなく子どもの人生を享受しなさいと勧めます。 このようにパウロが示す福音は、聖霊のうちで罪の鎖を断ち切り、自由と解放を味わう次元にとどまらず、さらに積極的に聖く豊かな人生へと導きます。私たちは栄光を目指して前進する過程で必ず苦難に遭遇します。しかしその苦難は、新たな命を産み出す産みの苦しみにもたとえられます(ローマ8:22-23)。パウロが「被造物ばかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子とされること、すなわち私たちのからだが贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」(ローマ8:23)と語るとき、彼は宇宙的次元の回復と復活の神秘を見据えているのです。こうして救われた神の子どもの人生は決して受け身ではなく、被造物全体のうめきと回復を共に待ち望みつつ進む、霊的な闘いとも密接につながっています。 最終的に私たちは神の家族であり、その家族の父は全知全能の創造主なる神です。イエス・キリストは長子であり、十字架と復活によってこの救いの御業を成し遂げられたお方、そして聖霊はそれらすべての真理を私たちのうちで教え、証しし、私たちを聖なる者へと造り上げてくださるお方です。三位一体の神が一つ心となって私たちの救いを成し遂げておられます。ゆえに、私たちがどんな状況にあっても、「私は神の子だ。キリストと共なる相続人だ。誰も私をキリストの愛から引き離せない」と自分自身に宣言しながら歩むべきなのです。 張ダビデ牧師もまた、日常生活の中にどれほど多くの誘惑と混乱があり、どれほど多くの人が罪悪感や失意の中で立ちすくんでいるかを憂いつつ、このローマ8章のメッセージをいっそう深く握るよう繰り返し励ましています。キリスト者の人生は栄光に満ちたものですが、決して容易ではありません。しかし神の子どもとされた者には、満ちあふれる勝利と喜びが用意されていることを決して忘れてはなりません。聖霊のうちで苦難を通していよいよ強くされる私たちの魂は、究極的にはイエス・キリストの御姿に似せられていき、栄化の日に真の完成を享受するでしょう。 このようにローマ8章1~17節に含まれる核心は、次の三点に要約できます。 聖霊のうちにある者は決して罪に定められることがないという福音の自由。 養子とされることによって神の子どもとなり、そのアイデンティティが法的にも霊的にも完全に確証されたという事実。 それでも世の中にあって苦難を避けられないが、苦難を共に担うことが、キリストと共に栄光を受ける道であるという真理。 そして、この三つの視点を同時に教える核心的根拠は「聖霊の内住」であり、その証しを通して私たちはいつでも「神の子である」ことを知ることができます。パウロは、この点を確固として握るとき、私たちの信仰は揺らぐことなく、罪の誘惑の前に弱く見えたとしても決して完全に崩れ落ちることはないと語っています。 最後に、ローマ8章はパウロが宣言した福音の真髄であると同時に、今日を生きる私たちに「罪・律法・恵み・聖霊・救い・養子・苦難・栄光」といった信仰の全行程をあらためて黙想させる貴い章です。私たち自身や、あるいは周囲の人々に「私は本当に救われているのだろうか」「まだ罪の痕跡を見て絶望しているのに、この道は正しいのか」と疑問が生じるときには、この御言葉に立ち返る必要があります。そして張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、福音の核心を思い起こし、「私は救われている。聖霊のうちにあって、もはや罪に定められない。神の子どもとなり、その相続人とされた。それゆえ苦難さえも主と共に進むことができる」という信仰告白を繰り返すのです。その告白のうちには、罪に対する勝利、人生に対する希望、そして究極的救いに対する確信がすべて含まれています。 聖霊のうちに生きる者に与えられたこの圧倒的特権と恵みは、ただただ神の愛から来ています。キリスト者であれば、ローマ8章の教えを避けることはできません。むしろ人生のさまざまな局面、特に罪との格闘のとき、試みや誘惑のとき、あるいは深い落胆に沈むときこそ、この章に込められた核心の真理を握らなければなりません。その道を通してこそ、私たちは父なる神を「アッバ、父よ」と呼び、イエス・キリストと共なる相続人としての立場を守り、聖霊の力によって回復と復活の希望を力強く歌うことができるのです。そしてすでにこの地上においても、不完全ながら真実で確かな形で、その自由と喜びを味わうことができます。これこそ、キリスト者に許されている「福音の喜び」であり、「こういうわけで」という一語から始まるローマ8章の荘厳なメッセージが、私たちすべてに与えているいのちの宣言なのです。

エルサレム会議 – 張ダビデ牧師

1.エルサレム会議と教会の伝統 – 「ただ信仰によって」「ただ恵みによって」 使徒の働き15章に描かれているエルサレム会議は、教会史において非常に重要な転換点となった。律法を守らない異邦人信者や、自分たちと異なる文化・伝統を持つ人々も、イエス・キリストを信じれば同じように救われるのかという熱い議論がその核心にあった。この会議で使徒たちは、「救いに至る唯一の道は、ただ信仰によって、ただ恵みによって」という真理を明確に宣言した。これによって教会は普遍性を帯び、地域や伝統的境界を超えて広がる土台を築いたのである。さらにこの決定は、後に世界宣教の基礎として働き、多くの民族・言語・文化の中へ福音が伝わる歴史の道を切り開くことになった。 張ダビデ牧師は、エルサレム会議で使徒たちが下した決定について「教会が信仰と職制という二つの軸を持ち、いかに同じ信仰の上で答えを出したかを示すモデル」だと強調する。教会内で意見の相違が生じた時に、ただ自分の主張や偏見だけを押し通すのではなく、使徒や長老たちの判断とともに、祈りと御言葉を中心とした分別を必ず経て、キリストと使徒たちの土台の上に建て上げられるべきだと力説する。張ダビデ牧師は、これこそが教会の美しい伝統だと見る。すなわち「信仰と恵み」という救いの基本的真理を損なうことはせず、しかし礼拝や奉仕、交わりなどにおいて生じ得る様々な問題は、祈りつつ互いに合意を重ねていく過程を経ることでこそ、教会の一致と拡大が可能になるというのである。 バルナバとパウロは、このエルサレム会議が終わった後、異邦人教会を再び訪れようと出発する(使徒の働き15:36)。彼らは第1次伝道で種をまいた異邦人教会がしっかり育っているかを「訪問」し、彼らの信仰状態を点検するために旅立つことに合意する。エルサレム会議で「異邦人信者にこれ以上重い律法のくびきを負わせない」という結論を得たとしても、それが実際に教会員たちの生活の中でどう適用されているのか確認するためには、必ず再訪問が必要だったのだ。種をまいて終わりではなく、水をやり雑草を抜くように、教会と聖徒を継続的にケアしなければならないという事実を強く想起させるのである。張ダビデ牧師が説教やセミナーで絶えず強調するのも、まさにこの「養育」と「継続的なケア」だ。 張ダビデ牧師が語る「教会成長の秘訣」は、大規模イベントや一時的な熱情だけで成し遂げられるものではなく、イエス・キリストの福音を伝えた後、その魂を最後まで責任をもってケアしようとする粘り強い牧会と霊的な保護にかかっているという考えである。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」与えられる救いを、より実感をもって享受するためには、救いの神秘を聞いた人々が試練や誘惑の中でも揺らがないよう、絶えず御言葉と祈りで育てなければならない。まさに「もう一度訪問しよう」と決意したパウロとバルナバの行動に、現代の教会成長の霊的原理が凝縮されているのだ。 エルサレム会議の核心的結論の一つである「異邦人の兄弟たちに重荷を負わせない」という決定は、教会の普遍性を拡張し、福音そのものの力を示す決定的な契機となった。同時に、この決定が実際の牧会現場で実を結ぶためには、バルナバやパウロのような指導者たちが各教会を回り、その決定内容を教え、定着させる追加のプロセスが必要だった。張ダビデ牧師が日頃から強調することも、この点と軌を一にする。つまり、総会や会議の結論がいかに素晴らしく宣言されたとしても、教会現場にそれが根付き、実を結ぶためには「訪問」と「点検」を通した地道な牧会が不可欠だというのである。 結局、エルサレム会議の意義は、教会共同体が「信仰と恵み」によって集い、教会法的あるいは神学的な問題が生じた時、共に集まって祈りと議論を通じて分別し、合意するという伝統を確立した点にある。そしてこの伝統は教会史を貫き、今日に至るまで教会が互いにつながり、共に成長し、一つの肢体として動く原動力となってきた。張ダビデ牧師は「私たちもそうあるべきだ」と挑戦し、教会が長い宣教の歴史の中で築き上げてきたこの「信仰と職制の健全なバランス」に倣わなければならないと力説する。 2.バルナバとパウロ、そしてマルコの葛藤と和解の霊性 使徒の働き15章後半で描かれる、パウロとバルナバの間に生じた葛藤は非常に興味深い主題である。バルナバは、第1次伝道旅行の途中で離脱したマルコ(ヨハネ)にももう一度チャンスを与えようとし、同行を提案した。しかしパウロは「パンフィリアで私たちを離れ、困難な働きを共にしなかった者(マルコ)を連れて行くのは正しくない」(使徒の働き15:38)と強硬に反対した。その結果、二人は「激しく対立」して別々の道を行くことになり(15:39)、バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを選び小アジア地方を回りながら教会を建てていくことになる。 張ダビデ牧師は、この場面を「教会の大きな視点で見るなら、決して破滅的な分裂ではなく、より大きな働きへ拡張するための合理的な分岐点だった」と解釈する。バルナバはマルコという「気は弱いが大切な素材」をあきらめず、もう一度立ち上がれるように世話しようとした。一方パウロは開拓者としての召命を堅く握りしめ、「臨戦無退」の姿勢で福音伝道の最前線へ突き進もうとした。どちらが正しく、どちらが間違っているという二分法的な基準ではなく、両者とも教会のための真実な熱意を持ち、それぞれ別の働きの方向を選んだと見るのが適切だろう。 その結果、バルナバとマルコはキプロスで引き続き福音伝道を行い、後にマルコはペテロの通訳者であり福音書の筆者として『マルコの福音書』を遺した人物になったと伝えられている。パウロもまた、第2次宣教旅行でシラス、そしてルステラとデルベで出会ったテモテらを同労者として迎え、小アジアを越えてヨーロッパ(マケドニア)まで福音を伝えることに成功する。教会の本質的使命をめぐって両使徒は衝突したが、その後、より広い地域へ福音が広がっていった。そして最終的に、パウロがテモテへの手紙やピレモンへの手紙でマルコを必要としている事実からも分かるように、後には再び回復された同労関係に戻っていくのだ。 張ダビデ牧師は、この出来事から「教会の働きは一様ではあり得るが、それぞれ異なることがある」という点と、「最後まで人を見捨てずに支える心」という二つの重要な教訓を見出す。第一に、パウロとバルナバが別れたことは「神の御心に背く大きな不和」ではなく、神が一方を険しく積極的な開拓現場へ、もう一方を一人の魂を丁寧にケアしながらその賜物を活かす方向へと導く摂理だったという視点である。ある人は一時的に最前線の福音の戦場を担うのが難しい場合もあるし、またある人は戦場に立つに十分な体力や決心、揺るがぬ意志が必要な時期もある。神はこうした多様な人をそれぞれの道へと導き、結局は福音を拡張していく。 第二に、バルナバが示した姿は「落胆した魂を支え続ける牧者らしさ」である。最初にパウロをエルサレム共同体に紹介し、彼を使徒として認めさせるよう助けたのもバルナバだった(使徒の働き9:27)。そして弱々しく見えるマルコを受け入れ、再びチャンスを与えて、後に福音書の筆者として成長する道を開いたのもバルナバである。誰でも長所と短所を持っているが、バルナバは相手の可能性に注目し、最後まであきらめない愛を実践した。張ダビデ牧師は、この点を現場の牧会に適用し、教会内部で葛藤が起こったり誰かが傷ついて去った場合でも、最後までその人に対する教会の責任感を手放してはならないと何度も説く。 最終的に、バルナバとパウロの葛藤を通して見えるのは、教会が「勝者と敗者」という観点で評価されるものではなく、キリストにあって役割は違っても一つの身体として完成していく構造だということだ。教会を脅かすもっと大きな葛藤は、互いの非難や分裂であり、この場面で現れた葛藤はあくまで「働きの路線の分岐」だった。そして結果的には宣教が拡大し、後の和解、さらにはマルコ福音書という驚くべき実りを結んだ。これを指して張ダビデ牧師は「キリストの身体は壊れない。葛藤はあっても、より大きな一致のための過程になり得る」と語る。そしてもし教会が互いに傷しか残さない「破滅的な分裂」へ向かうならば、それは聖霊の実ではないと断言する。結局、教会はイエス・キリストの恵みによって共にある時、どんな葛藤も神のご計画の中で回復と拡張のための通路となり得るのだ。 3.開拓、ケア、そして聖霊の導き – 宣教の未来 パウロ一行は第2次伝道旅行に出発し、シリア・キリキアなど小アジアの各地域を巡りながら教会を「強めて」(使徒の働き15:40-41)、エルサレム会議で決まった教理的・実践的な指針を伝え、信仰の上に堅く立つよう励ましていく。この過程は教会の質的成長をもたらし、日ごとに人数が増えるリバイバルの実を結んだ(使徒の働き16:5)。張ダビデ牧師は「教会が信仰と職制を正しく守るなら、教会は爆発的に成長する」と力説するが、それは初代教会が実際に経験した事実でもある。 ところが興味深いのは、パウロが小アジア(当時のトルコ西部)で御言葉を伝え続けようとしたものの、「聖霊がアジアで御言葉を語ることを許されなかった」(使徒の働き16:6)という箇所だ。さらに続けて「ムシアの辺りに来てビテニアへ行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(16:7)とも証言している。パウロは誰よりも宣教への情熱にあふれた人物だが、聖霊とイエスの御霊が阻まれるならば、そこでは立ち止まるしかなかった。結局、トロアスに下った時、「マケドニア人が渡って来て私たちを助けてくださいと願う」幻(16:9)を見て、パウロはヨーロッパ大陸(マケドニア地方)へ第一歩を踏み出すこととなる。 こうした「聖霊の導き」に従うことこそ、教会開拓と宣教の本質的エネルギーだ。張ダビデ牧師は、パウロ一行のマケドニア進出について「神が、より大きな大陸、より大きな世界へ福音が広がることを望んでおられた」と解釈する。パウロとしては人間的な熱意からいえば小アジア地域をすべて宣教したかったかもしれないが、主はそれ以上に切実な必要を抱えるヨーロッパの地へ早く渡ることを望まれたのだ。そのためパウロを「行き詰まり」という形で導き、最終的には幻を通して明確な指針を与えられた。これは今日の教会にとっても「聖霊の導きと、開かれたり閉ざされたりする扉の神の摂理に敏感に従わなければならない」という手本となる。 張ダビデ牧師はしばしば現代の教会を「使徒の働き29章を書き続けている教会」と呼ぶ。使徒の働きは28章で終わるが、教会史をよく見れば、その後もずっと聖霊が教会を導き、福音が地の果てに至るまで拡張されているからである。事実、今日を生きる教会こそが使徒の働き29章、30章を続けて書いているともいえるのだ。そう考えると、エルサレム会議に象徴される「共同体の合意と決断」、バルナバとパウロの葛藤事件に象徴される「葛藤の中でもさらに大きな拡張へと向かう恵み」、そしてマケドニアの幻に象徴される「聖霊の具体的な導き」は、いずれも使徒の働き29章の教会を建て上げる核心的な原理として作用する。 特に張ダビデ牧師は、教会が開拓の情熱だけを持って動き回るだけでは不十分だと言う。開拓した先々で、その地の信者を最後までケアし育成する計画を立てるべきであり、現地教会が自立できるように共に協力すべきだと強調する。これはパウロが「主の御言葉を伝えたすべての町々へ再び行って、兄弟たちがどうしているか訪問しよう」(使徒の働き15:36)と言ったことと一致している。もし教会を建てておいて放置すれば、親が子を産みっぱなしで世話をしないのと同じく無責任な行為となる。結局、伝道と開拓の後には必然的に「ケア」と「継続的な牧会」が伴わねばならず、そのすべての過程を聖霊が直接主宰されるのだ。 こうして聖霊の導きに従いながら教会を拡張していくと、時に思いがけない葛藤や行き詰まりに直面することがある。パウロが小アジアで道を閉ざされたように、道が閉ざされる瞬間が来るかもしれない。現代的な文脈で見れば、地域の政治的変動、国際情勢の問題、ビザの取得、現地共同体内の対立など、さまざまな要因によって妨げられることがあるだろう。だが、張ダビデ牧師は「行き詰まりがすぐ終わりを意味するのではない」と何度も言及する。そこで閉ざされた場所には、他の人々や他の教会が入っていく準備が進んでいるかもしれないし、神はもっと切実に必要としている地域への門をすでに開いておられるかもしれない。だからこそ教会開拓者たちは、行き詰まりに直面しても落胆するのではなく、どこかで開かれている新たな門を探して「Moving Forward(前進)」し続ける必要がある。 結局、信仰の共同体は「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの真理を中心軸とし、教会内で葛藤が生じた時には祈りと合意を通して互いを立て合い、聖霊の導きに従って歩んでいかなければならない。このすべての過程を通じて教会は成長し、さらに広い地域へと福音を広げる。エルサレム会議の結論に従い救いの本質に集中すれば、律法で人々を縛ることはなくなり、バルナバとパウロの葛藤の中からは、最後まで人を見捨てずに建て上げる愛の姿が現れ、最終的に聖霊に導かれる教会はどんな文化や国境も超えて主の福音を伝え得る。これが使徒の働きが私たちに語るメッセージだ。 張ダビデ牧師はこうした使徒の働き15~16章のメッセージを現代教会に適用し、「エルサレム会議のような教理的・公同教会的な決定と伝統を尊重しつつ、それを実際に実行するためには、バルナバとパウロ、そしてマルコのように多様な人材の役割がすべて必要だ。そこでは葛藤が生じうるが、決して破滅的な分裂に陥ることなく、むしろ福音の領域を広げる恵みがある。その中心には聖霊の導きに従い、従順する霊性があってこそ、教会は使徒の働き29章を書き続けることができるのだ」と力を込めて語る。教会が30周年を迎えようと、50周年を迎えようと、あるいは開拓されたばかりであろうと、この原理は変わらないというわけだ。 結局、教会とは「召された人々の集まり」であると同時に、「召された人々がさらに人々を召しに行く使命共同体」でもある。「ただ信仰によって、ただ恵みによって」救われた者たちが互いをケアしつつ世に出て福音を証しするとき、その中心で聖霊の導きが働く。エルサレム会議の結論、バルナバとパウロの分岐、そしてマケドニアの幻に象徴される使徒の働き15~16章の出来事は、教会が過去の会議や決定にとどまらず、新しい状況の中で「宣教の場を絶えず広げ続ける」よう促している。 張ダビデ牧師は「今、新しい時代が来た。五つの大洋と六つの大陸が私たちの教区となった」と語り、かつてとは比較にならないほど交通や通信手段が発達し、多様な文化交流の機会が開かれている現代こそ、教会が聖霊の導きにさらに敏感になって動く時だと主張する。そして同時に、海外に派遣された多くの宣教師や開拓教会をただ孤立させておいてはならず、エルサレム会議後にバルナバとパウロが各教会を訪ねたように、絶えず訪問し、育成し、励まし合わなければならないと喚起する。そうしてこそ「最後まで愛してくださった」(ヨハネ13:1)主の御姿が教会を通して現れ、どんな場所でもくじけることのない福音の力を証しできるからである。 結局、使徒の働きの歴史と、私たちが直面している現実の間には多くの時空間的な相違があるにもかかわらず、「ただ信仰によって、ただ恵みによって」という救いの本質、「葛藤を通してより大きく拡張していく教会」という霊的原理、「聖霊の具体的な導きに従った開拓とケア」という三つの柱は変わらず有効である。張ダビデ牧師は、これらを私たちの実際の牧会や宣教、そして教会の将来ビジョンに反映させるべきだと挑戦し、「主が再臨されるその日まで、教会は前進をやめない。葛藤があってもより大きな一致へ帰結し、行き詰まっても別の門が開かれ、ついにはすべての国々が主を知る知識で満たされるようになる」と宣言する。こうしてエルサレム会議から始まった初代教会の美しい伝統は21世紀にも受け継がれ、その伝統の上に現代教会が堅く立ち、世界各地の魂へと向かっていける――それこそが、使徒の働きが「オープンエンド(開かれた結末)」のように私たちに提示する「使徒の働き29章の挑戦」なのである。