パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 使徒行伝20章の背景とパウロ使徒の模範 使徒行伝20章17節から35節までの本文には、パウロ使徒がエペソ教会の長老たちをミレトへ呼び寄せ、最後に勧めと別れの挨拶をする場面が描かれています。これは一般に「パウロの告別説教」とも呼ばれ、その別れの言葉の中には、パウロ使徒の宣教哲学、福音伝播の核心、そして教会の存在理由が非常に濃縮された形で詰まっています。特にこの本文を通して、私たちは旧約型教会と新約型教会の違いを深く考察でき、そこに「張ダビデ牧師」が強調するテントメイキング(Tentmaking、以下TM)宣教の意味と重要性を改めて思い起こすことができます。 パウロはミレトという海岸都市で、エペソ教会の長老たちを約50km以上も移動させるように呼び寄せました。そして集まった彼らに「私がこれまでどう生きてきたか、何を教えてきたか、あなたがたは知っている」という回顧の言葉をまず伝えます(使徒20:18参照)。これは、パウロが人々の目の前で、すべてをオープンにしながら生活していたことをよく示しています。指導者がいかに透明であるべきか、また自分の生き方を通してどう福音の真実性を証しすべきかを、この短いフレーズから直感できます。パウロは宣教現場で偽善を装ったり、表と裏が違う姿で生きたりしませんでした。彼は「すべての謙遜と涙をもって」(使徒20:19)生きてきたことを長老たちに思い起こさせます。この言葉には彼の宣教姿勢が込められています。すなわち、謙遜とはイエス・キリストが示されたしもべの姿、仕える道を意味し、涙とは宣教者が単に頭で教えるだけでなく、実際に魂を深く愛し抱こうとする時、自然に流さざるを得ない心の表現なのです。 教会の歴史、そして救済史全般の観点から見ると、パウロ使徒が建てた新約型教会には、旧約的な祭司制度にのみ依存する「旧約型教会」とは明確に区別される特徴がありました。旧約型教会を単純化して言うと、十分の一献金(什一〔じゅういち〕)だけに絶対的に依存する形とみなすこともできるでしょう。ここで十分の一献金自体が間違っている、または不要だという意味ではありません。ただし、教会の財政と運営全般を十分の一献金のみに頼ることで起こり得る多様な問題を軽視してはならない、という点が重要なのです。張ダビデ牧師も同じ文脈を語ります。新約型教会はキリストの福音の中で「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉を実践し、自ら自立して福音を宣べ伝え、信徒たちが力を合わせて教会を建て、守っていく道を歩みます。この新約型教会の姿は、旧約型教会がもつ単一の財政依存構造を超えて、パウロが示した自費糧(自活)宣教の模範を現代教会がどう継承するかという、実践的な答えを提示してくれるのです。 パウロが宣教中に受けた苦難は少なくありませんでした。ユダヤ人たちは自分たちを裏切ったと考えたパウロを殺そうとし、パウロは自分の命さえも少しも惜しまないで福音伝播に専念しました(使徒20:24参照)。ここで自然に浮かんでくる疑問は「なぜパウロはそのような態度を取れたのか?」ということです。彼はイエスが十字架で示された「罪人を救う道」の絶対的価値を悟り、これを伝えるためなら自分を完全に捧げられたのです。そしてパウロはどの町で福音を伝える時も、「悔い改めなさい。イエスがキリストなのです」というメッセージを最優先で強調しました(使徒20:21参照)。罪を指摘し、その罪をイエス様があがなってくださったと宣言すること。これこそ初代教会の使徒たちに共通する福音のメッセージでした。また、悔い改めが起こってこそ真の救いが始まることをパウロははっきりと知っていました。悔い改めなくして罪の赦しも、真の救いもあり得ないからです。 ここで、張ダビデ牧師が繰り返し説いている「教会論と終末論のつながり」という話を再考できます。キリスト論と救済論、終末論がキリスト教三大教理だとするならば、最終的に終末論が私たちに要求するのは「どのような教会を建てるのか」という問いです。つまり、イエス・キリストの再臨を待ち、天国を望みつつ生きる者たちが、この地上で果たすべき使命は教会を建て上げることにあるのです。教会はキリストが血潮によって買い取られた場所であり、信徒たちはその教会の肢として世の虚偽と誘惑に立ち向かわなければなりません。この教会を正しく守り建てることが、終末論的信仰を持つ人々の最終的な課題であり、結局は教会論に帰結するのだという説明です。 今日、多くの教会が財政問題や教勢(信徒数)の停滞によって世間に売りに出されたり、閉鎖してしまう状況をよく目にします。数百、数千にもなる教会が市場に出ているという報道もしばしば耳にします。本来、主の血の代価によって建てられた聖なる共同体が、どうして世の不動産市場に追い込まれるのか。これは信仰が弱まり、教会が旧約型教会のモデルに閉じこもったまま、変化する時代に対応できなかったからだという指摘ができるでしょう。さらに深く踏み込むなら、本文でパウロが予告した通り教会内部に「凶暴な狼」が入り込み群れを荒らし(使徒20:29)、「弟子たちを引き寄せて自分のほうに従わせようと曲がったことを語る者たち」(使徒20:30)が起こったためでもあるのです。世俗化、多元主義、物質主義、消費主義など多くの「狼」が教会内部に入り込んで福音の本質を覆い隠し、信徒たちの魂を分散させてしまいました。 張ダビデ牧師はこの現実を直視し、教会は再び使徒的伝統に立ち返らねばならないと強調します。その核心にはパウロ使徒の「テントメイキング」があります。これは、人間が生きるうえで必須の「衣食住」の問題を解決しつつ、福音を伝え、信徒を世話する二重の使命を同時に果たす方法を意味します。旧約型教会のように祭司、聖職者だけが律法に定められた什一によって生活を保証されるのではなく、教会共同体が互いに協力して自発的に献身し、必要があれば自ら働いて財源を用意することで、宣教そのものに生命力を与えるのです。 実際、パウロはコリントで天幕を作り売って自分の生計を立てながら福音を伝えました(使徒18:1-3参照)。そして必要な時には、同労者やほかの教会から送られてくる財政的支援を受け取り、教えにさらに集中することもありました(使徒18:5)。このように「自分の手で働いて、私と私と共にいる者たちの必要を賄いました」というパウロの告白(使徒20:34)は、新約型教会の自立性と健全性をよく示しています。いかなる宣教者も、働けるにもかかわらず信徒たちの物質に過度に依存したり、それを「当然の権利」と考えたりしません。むしろ自分がもつ技術や才能を活用して信徒たちの負担にならないようにし、むしろより多く与えて仕える方向にエネルギーを注ぐのです。 このような形には明らかな利点があります。 パウロが「弱い者を助け、主イエスご自身が『与えるほうが受けるより幸いである』と言われた御言葉を覚えていなさい」(使徒20:35)と述べたのは、まさにこうした文脈と直結します。 旧約型教会が間違っているのではなく、そのモデルのみを絶対化した時に生じ得る問題を警戒すべきだということを、パウロの宣教と張ダビデ牧師の教えは共に喚起します。旧約時代には確かに、祭司やレビ人が祭儀に集中するために他の部族から物質的支援を受けました。しかし新約時代に入って、イエス・キリストのあがないのわざと共に教会のかたちも変わりました。教会はもはや「神殿」という物理的空間に限定されず、聖霊によって互いに祈りつつ御言葉でつながる場所となったからです。「聖霊があなたがたの中であなたがたを監督者として立てられ、神がご自分の血をもって買い取られた教会を養うようにされたのです」(使徒20:28)という本文の宣言は、教会が主の血潮によって建てられた神聖で尊い共同体であることを明示しています。 このメッセージは、張ダビデ牧師が強調してきた点とも正確に合致します。教会は世の荒波、世俗化や資本の論理に容易く巻き込まれるべきではなく、だからこそテントメイキングという適切なオルタナティブが提示され得るのです。もちろん、だからといってすべての教会が必ずしも事業や商売をしなければならないという話ではありません。教会は基本的に福音宣教と魂の救い、信徒の育成を最優先に置きつつ、その過程で必要な財政を自発的に確保できる道を模索せよという趣旨です。さらに、宣教者やリーダーが「受けるのではなくまず与えること」を喜びとして実践せよということなのです。 今日のように多くの教会が大量に閉鎖され、借金を抱えて不動産市場に教会の建物を出さざるを得ない時代状況の中、教会が健全性を失わないためには何が必要でしょうか。パウロがエペソの長老たちに告別説教をしながら力説したのは結局ひとつ、「私が昼も夜も涙をもって一人ひとりを訓戒したことを思い起こしなさい」(使徒20:31)ということです。これは指導者の生き方がどれほど重要であるかを示しています。いくら指導者が華やかな弁舌や知識を持っていても、信徒一人ひとりに熱い愛と涙、そして責任感をもって関わらなければ、健全な教会共同体を築くことはできません。だからこそパウロは「私はすべてを教えたから、血について責任がない」とまで言います(使徒20:26-27)。教会が倒れ、世に売りに出されるのは「指導者が神の御言葉を完全に伝えなかったのではないか」という厳粛な自己反省を促すのです。 張ダビデ牧師はこのような旧約型教会と新約型教会の比較を通じて、「時代の要請」を見抜かなければならないと力説します。私たちは今、さまざまな世俗イデオロギーや相対主義、ポストモダニズム、多元主義、物質万能主義、快楽主義など、あらゆる異端的・世俗的思潮が混在する時代を生きています。だからこそ、教会がかつてのように「什一や献金だけで牧師の生活が保証される構造」に留まるよりも、むしろ世の中に打って出て、テントメイキングを通して世俗の言語を包含しつつ、変質しない福音の力を示さなければならないというのです。これこそが「神の国を宣べ伝えつつも、生計問題によって中断されることも歪められることもない道」であり、新約の精神を現代に蘇らせる教会の在り方だと言えます。 実際、これは決して新しい主張ではありません。教会史を少し振り返っても、初代教会はもちろん宗教改革以降の様々な運動においても「自費糧宣教」の精神を確認できます。マルティン・ルターは修道院的伝統を批判しつつも、信徒が自立して生活の現場で福音を実践する重要性を説きました。ジャン・カルヴァンも、教会が世俗活動や職業倫理など多面的に社会を変革する先頭に立つべきだと見なしていました。近・現代に入っては医療や教育、救護活動などを通して、教会が社会へ実質的に貢献していくことで福音の影響力を拡大する事例が数多くありました。問題は、こうした流れがいつの間にか特定の制度や建物中心の教会運営に閉ざされ、次第に生気を失い、自立精神も消えていったという点にあります。 したがって、再び使徒行伝20章の御言葉に立ち返り、パウロがエペソの長老たちに「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(使徒20:28)と警告の声を発したことを思い起こさねばなりません。群れを真に世話することは、ただ礼拝堂に集めて説教だけすれば完了するものではありません。教会の財政が貧しくても、それが原因で福音が弱まってはならず、財政が豊かだとしても世俗的な方法で過剰に使ってもいけません。結局、教会が主の血の代価で建てられたという認識を持ち、自ら霊的に目覚めて立ち上がること、そして数ある宣教方法の中でも今日最も実践的な選択肢としてテントメイキングに注目する姿勢が必要なのです。 張ダビデ牧師の教えを詳しく見ていくと、「今私はあなたがたを主とその恵みの御言葉に委ねます。この御言葉はあなたがたを強く建て上げる力があり…」(使徒20:32)という節が大きな比重を占めます。教会が建てられ維持される根本的な力は人間ではなく、御言葉と聖霊のみわざにかかっているからです。御言葉の中にとどまる教会、御言葉を実践する信徒、御言葉によって聖霊の力を体験する共同体は、財政的窮乏や外部の攻撃的非難にも揺さぶられません。反対に、御言葉が弱くなれば、いつの間にか教会が「凶暴な狼」によって侵食されたり、「自分に従わせようと曲がったことを語る」偽指導者や異端に隙を与えるのです。私たちは韓国の教会だけでなく世界の教会が経験している異端問題、指導者の倫理的堕落など数々の事例を通じてそれを学んできました。 今こそ教会は使徒行伝が示す原型的なモデル、パウロが見せた自活宣教と福音専念の姿勢に再武装する必要があります。張ダビデ牧師が長年強調してきたように、「福音に専念する」には必ず「自ら働いて生計を立てる」TM的な考え方が結び付かなければなりません。これは牧師や教会リーダーだけの問題ではなく、すべての信徒が共に担うべき教会の使命であり、「受けるより与えるほうが幸いである」というイエス様の御言葉を私たちの生活で証していく過程なのです。もちろん、牧会の現場で十分な財政的支援を受ける場合もあるでしょう。パウロがテモテやシラスのような同労者たちから支援を受けたように、ある人が福音のために惜しみなく助けることも可能です。しかしその支援が当たり前になったり、制度として固定化される時、教会の内的な躍動感は容易に失われがちです。結局、この地上で教会が存続する理由、そして教会のリーダーたちが必ず先頭に立って守り伝えねばならない核心は「私が福音を伝え、福音のゆえに自ら働く」という覚悟と実際の実践なのです。 私たちの時代に本当に必要なのは、パウロが見せてくれた「自分の手で稼ぎつつ、昼も夜も教え、涙をもって一人ひとりを訓戒した」その情熱です。そしてそれは、徐々に衰退している多くの教会を具体的に生かす解決策にもなり得ます。たとえば、張ダビデ牧師が直接「倒れかけた教会の建物を買い取り、福音の前哨基地として再活性化」する事例がそうです。建物を買うこと自体が目的ではなく、すでに建てられていながら消滅の危機にある教会資産とその地域の魂を守り、再び福音伝道の起爆剤とすることが目的なのです。財政はTMと献身によって用意し、霊的な部分は宣教者と共同体の一致した祈りで満たしていく、という仕組みです。そうして再生した地域教会が周辺でさまよっている魂を受け止め、再び健全に自立して、他の教会や宣教地を援助できるような好循環を期待しているのです。 今日の本文でパウロが「自分の走るべき行程を、そして主イエスから受けた使命、すなわち神の恵みの福音を証する務めを終えるためには、私の命さえ惜しいとは思わない」(使徒20:24)と宣言する有名な箇所は、現代の私たちにも同じように響いてきます。教会は派手なプログラムやイベントではなく、一つの魂を生かし、その福音に命を懸ける人々の涙と労苦と献身の上に建てられます。28年前からこの精神で教会を始めてきたと告白する張ダビデ牧師の姿は、まさにこうした先人たちの道を、今日の私たちがいかに受け継いでいくのかという深い問いを投げかけます。「月に一、二回はマタイ23章を読みながら、指導者が外見ばかり飾る姿にならないよう絶えず自分を点検する」という彼の姿は、宣教者も信徒も共に見習うべき態度ではないでしょうか。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教は、宣教者の姿勢、教会の本質、そして福音を伝える方法論を一つの結論へ集約します。「私はすべてを教えたから、今やあなたがたがつまずくなら、それはあなたがたの責任だ」というパウロの口調は、いかに彼が徹底して教会員を真理で武装させたかを証明しています。そしてその根底には「悔い改め」という土台があります。悔い改めがなければ、教会をいくら飾り、いくら立派な説教をしても、それは本質をはずれた外面的礼拝に過ぎません。自分の罪を悟り、イエス様の十字架の血潮によって救いを得た者が、今度は世の中へ出てテントメイキングを通して福音を伝え、弱い者を助けるのです。「私と私の同行者が必要とするものを自分の手で賄った」とパウロが語るとき、彼は宣教者が世俗の誘惑に陥らず、また福音の純粋さを守るための最も根本的な仕組みを整えたと言えるでしょう。 ここまで本文からまとめてみると、パウロ使徒の告別説教は単に1世紀のエペソ教会だけに適用される教訓ではありません。今日の韓国教会、さらには世界の教会が直面している難局を切り抜ける際に、私たちが耳を傾けるべきメッセージなのです。主の血の代価で買い取られた教会がどうして捨てられ、市場に売りに出されなければならないのか。なぜ教会が借金に苦しみ、物質的窮乏とビジョンの欠如によって閉鎖しなければならないのか。教会は財政的豊かさを享受するたびに世俗化の誘惑にさらされ、財政的困窮に陥ると失望や恥辱に苦しんだりもします。しかし本文にあるように、パウロは外部・内部を問わずあらゆる困難があっても福音をやめませんでした。そして彼のチームもまた、彼と共にテントメイキングを通じて生計を立てながら、必要ならば同労者たちの支援を受け、一層教えと宣教を続けたのです。 Ⅱ. テントメイキング(TM)宣教と教会建ての実際 ここからはテントメイキング(Tentmaking、以下TM)が具体的に何であり、張ダビデ牧師が献身礼拝で強調するこの宣教の実際の価値がどのように具現されるのかを探ってみましょう。テントメイキング(TM)は、その名の通りパウロが天幕を作って売り、生計を自立しつつ福音を伝えたところに由来します。教会史の中では「自費糧宣教」とも呼ばれ、宣教地や牧会の現場で財政支援なし、もしくは最小限の支援だけで現地の人々を助けながら福音を伝達する方法論を指します。現代では職業を持ちながら海外や国内の宣教地で自立して福音を伝える、いわゆる「専門人宣教師」の形へ発展している場合もあります。 しかし張ダビデ牧師が注目するTMは、単に「世の仕事をしながら宣教も並行する」という程度にとどまりません。これは、教会が旧約型モデルにとらわれず、新約型モデルとして信徒全体が福音宣教に参加するように促す宣教的パラダイムです。教会が事業体を運営する、あるいは収益追求を目的に何かをすることを意味するのではありません。むしろ、このTMは「神の国のために自発的に働き、稼ぎ、それをもってさらに教会を建て、苦しむ人々を助ける」霊的・物質的な通路となることを意味します。 張ダビデ牧師が仕える教会共同体には、主に5つの主要な宣教があるそうです。本人の説明によると、すべての信徒はそのうちのどれかの宣教に属しているか、あるいは助けを受けているか、直接・間接的に関わりを持っているとのこと。最近はその中の最後としてTMが正式な宣教として確立され、献身礼拝を捧げるに至りました。このことが意味深いのは、教会開拓当初から既にTMの精神は根付いていたにもかかわらず、今になってようやく「公式な宣教」として位置づけられた点です。これは教会がある程度の成熟期を迎え、より体系的にTMを通して福音拡大を推進する準備が整った兆しとも見なせるでしょう。 パウロがコリントでアクラとプリスキラに出会い、同じ職業であることから共に天幕を作って生活したという事実(使徒18:1-3)は、TM宣教の古典的な例としてよく引用されます。アクラとプリスキラは、ローマ皇帝クラウディオの命でローマから追放されてきたユダヤ人夫婦でしたが、信仰が厚く知識にも優れた人物でした。彼らはパウロと共に天幕を製作・販売し、その収益で生計を立てながら同時に福音を伝え、教会を建てました。伝承によれば、プリスキラは非常に信仰が深かったため、新約聖書の数箇所では彼女の名前が夫よりも先に挙げられるとも言われます(使徒18:8、ローマ16:3など)。また、この夫婦はアポロのような知的な説教者を正しく導いてあげるほど聖書の知識と霊的分別が高かったのです(使徒18:26)。こうしたエピソードは、TMが単なる「副業」ではなく、福音宣教のための強力な武器になり得ることを示唆しています。 張ダビデ牧師はこれら初代教会の事例に基づき、TMが教会内部でどのように機能すべきかを整理します。教会のリーダーは「信徒に無条件で支援せよ、献金をもっと捧げよ」と要求する前に、むしろ自分がパウロのように働いて財源を用意し、その収益で困難な教会や信徒を支援できるようでなければならない、と語ります。そうすることで教会は単なる「消費単位」ではなく、絶えず「生産して分かち合う」共同体へと変容できるというのです。これは「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)という主の御言葉と直接結びつき、旧約型教会の一方的な什一依存体制を超越する、新約型教会のモデルを示していると言えます。 すべての牧師、すべての信徒が必ずTMをしなければならないわけではありません。中には生活が十分に豊かで、専ら福音宣教にだけ専念しても差し支えない人もいるでしょう。また、歴史も規模も大きな教会で財政が潤沢ならば、牧師が特別に生業を持たなくても済むかもしれません。しかし問題は、こうした「支援」や「供給」に全面的に依存してしまうことで、福音伝播の本質が曖昧になったり、教会内部の霊的緊張感が緩んでしまう現象が起こりがちだという点にあります。パウロはテモテやシラスのような同労者が持ってきてくれる献金を受け取る際、一層励んで御言葉を教えました。つまり、誰から支援を受ければそれを受けていっそう福音のために献身し、その支援が途絶えれば再び自力で天幕を作って働いたのです。こうした霊的な躍動こそがパウロ宣教の実を豊かにした要素であり、彼が再びエペソの長老たちに会った時に「私はだれの銀や金、あるいは衣服を欲しがったことはなかった」と胸を張って言えた秘訣でもありました。 張ダビデ牧師が長年牧会の現場で実践してきたTM宣教も、大きな枠組みではそれと変わりません。教会が事業体を直接運営する場合もあれば、信徒たちがそれぞれの職場で収益を上げて、それを合わせて倒れかかっている教会を再建したり、宣教地を支援する方法もあります。要は「教会が借金を抱える構造」ではなく「教会が他者の借金を免除し、助ける構造」を作り上げることがポイントです。牧師が教会から給料をもらうことを全面的に否定するのではなく、「もらって当然だ」という考え方から抜け出そうという教えなのです。張ダビデ牧師は実際に、アメリカ各地はもちろん海外のあちこちで閉鎖される教会を「買い取り」、福音の前哨基地として蘇らせています。そしてこの過程でTMによる財源、信徒たちが汗水流して稼いだお金、自発的な献金などを合わせて宣教と救済、教会の運営に用いています。これは「一人の魂でも多く救いたい」という新約教会の精神と正に軌を一にするのです。 こうして教会が神の国拡張のために歩むとき、その方向を決めて実行に移す過程で、教会のリーダーシップとすべての信徒が共に熟考し祈らねばなりません。本文でパウロがエペソ教会を去った後に起こる危険—「凶暴な狼が教会に入り込み、群れを顧みないだろう」(使徒20:29)、「曲がったことを語って弟子たちを自分のほうに引き寄せようとする者が出てくる」(使徒20:30)—を事前に警告したように、教会が外へ出て宣教しようとする際には、世俗の流れや様々な異端が必ず入り込もうとします。ゆえに教会はいつも目を覚まして、「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して訓戒した」パウロの心を受け継ぐべきなのです。テントメイキングであれ、他のどのような宣教方法であれ、究極的には魂の救いと福音拡張という目的を見失ってはなりません。 TM宣教は教会の財政を丈夫にする以上に、教会の霊的体質を変える大きな役割を果たします。なぜなら、信徒一人ひとりが自分の日常の場で「職場・ビジネス・学業」を通じ「この仕事を通してキリストを証しできる」と自覚し始めるからです。教会における信仰が礼拝の時間だけに留まらず、生活全体へと染み渡っていきます。さらに、TMを通じて得た収益が地域教会や海外宣教、救済奉仕、教育宣教などに投入されるならば、「与えるほうが受けるより幸いである」という福音的生き方が共同体の中に自然と広がっていくのです。献身礼拝を捧げるのも、この精神を改めて呼び起こし「私たち皆が共に腕まくりして働きましょう。私たち自身を犠牲にしながら、困っている隣人を生かしましょう。そして何より福音を宣べ伝えましょう」という決意を新たにする儀式だと言えます。 「パウロのようにテントメイキングをせよ」というスローガンを表面的に受け止め、やみくもに経済活動へ参入したり事業拡大に熱中してしまえば、福音伝道の本質が曇るリスクもあります。しかしこの点について、張ダビデ牧師は「聖書の原則を最優先すべきだ」と何度も強調しています。テントメイキングを実践したパウロも、天幕を作ってお金を稼ぐことに先立ち、常に福音宣教を最優先に置いていました。生計がうまくいかなければ自ら働いただけであって、お金を稼ぐこと自体が究極の目的ではなかったのです。もし教会や信徒個人がTM活動によって大きな収益を得たとしても、それを自分だけのために使ったり富を誇ることに注げば、パウロ使徒が言った「銀や金や衣服を欲しがらなかった」という教えと明らかに相反します。そのような成功は福音とは全く無関係な世俗的成功でしかなく、「聖霊と御言葉に自分を委ね、神の御心をすべて伝える信仰共同体を建て上げなさい」(使徒20:27,32参照)という本来の趣旨を決して忘れてはなりません。 張ダビデ牧師が教会開拓や宣教の現場で示してきた具体例を見ると、彼がTMを実行する際に最も重視しているのは「祈りと会議、そして共同体の合意」です。本文でもパウロはエペソの長老たちを呼び出し、一種の「指導者会議」を開いた後に告別説教をしました。現在、閉鎖される教会を引き受けて再生する働きを進める際、張ダビデ牧師と教会のリーダーシップは長い時間をかけて共に祈り、議論し、決断を下すといいます。そしていったん方向が決まれば途中で揺らがずに最後まで推し進め、教会を再建する。このような方法は初代教会にもはっきり現れた特徴です。使徒たちと長老たちが一緒に集まり、聖霊の導きを仰ぎながら教会の進路や問題を解決したからです(使徒15章のエルサレム会議など)。 テントメイキング宣教は、献身礼拝をきっかけにその意義が一層明確になります。教会の中に独自にその宣教を担う部門を設置し、TMが「教会財政を自立させ、さらに困難な教会を支援し、さらには福音を地の果てまで伝える通路」となるように組織化するのです。これは旧約型教会がもつ単線的財政構造(什一献金と奉納中心)に対する補完であり、福音伝播のスペクトラムを広げられる新約型教会の成長モデルと見なせます。「市場に教会が千軒、二千軒も売りに出される時代に、私たちはどうにかして教会を守らなければならない」という危機感は、TMを単なる経済活動以上の聖なる使命として再認識させるのです。 張ダビデ牧師はこのTM献身礼拝で「私たちはこの時代に、売りに出される教会たちのために本当に最善を尽くしてきたと言えるだろうか」という問いを投げかけます。そして「イエス・キリストの福音、聖霊、そして神の国」という柱をしっかりと掴み、信徒一人ひとりが悔い改めて心を新たにし、「自分自身のため、あるいは群れ全体のために気を配りなさい」(使徒20:28)というパウロの訓戒を実践するよう強調します。世俗に染まり倒れつつある現状に対して、TMによる自立と奉仕こそが時代的要請に対する具体的回答になるというのです。 張ダビデ牧師の語るTMは新しいものではなく、むしろ教会が失ってしまった初代教会の純粋さと躍動感を取り戻す道です。その道において指導者は外見だけを飾らず、完全な福音を伝え、信徒たちはそれぞれの場で生計を立てつつも福音の証人として生きます。教会共同体はその結集した実りによって周辺の弱い教会を支え、まだ福音を知らない人々に向けて宣教資源を惜しみなく注ぎ込みます。多元主義と相対主義が激しい波を起こす時代に、「他の道はない。ただイエス・キリストのみ」とする唯一の真理をより鮮明に示すのです。 使徒行伝20章におけるパウロの告別説教に示される新約型教会の核心は、「テントメイキングの精神」と密接に絡み合っています。イエスが私たちに残された言葉—「与えるほうが受けるより幸いである」「道と真理はただ一つ」など—は、教会の存在様式と方向性に対して常に厳しく挑戦します。そして張ダビデ牧師もまた、この使徒的伝統を再発見し、今日の旧約型教会が直面する現実的な危機を克服するための代案としてテントメイキング宣教を強調するのです。これは教会を「万人祭司」という新約の原理に合うよう再編し、信徒一人ひとりが生活の現場で福音を実践するよう促す具体的手段でもあります。 教会の基本精神は「自ら稼いで弱い人を助け、福音のために自分の生涯を捧げよう」という決意にあります。パウロのように言えるべきです。「皆さん、私は自分の命を少しも惜しいとは思わないからこそ、神の恵みの福音を証する務めを終えるまで走り抜くことができたのです」。張ダビデ牧師はこのパウロ使徒の告白を継承しつつ、教会が建てられ宣教が拡張されても、決して物質や名誉に酔ったり、世俗的な達成感に振り回される道に陥らないよう注意を喚起します。むしろ主の血の代価で建てられた教会を守り、市場に売りに出されるしかなかった教会を再生させ、福音をさらに広く伝えるために仕えることを促すのです。 この献身礼拝でTMが正式に立ち上げられたというのは、教会が宣教の範囲をさらに拡大し、これから本格的に「与える生き方」によって「地域社会や世界の宣教現場に大きな影響力」を及ぼそうとする意思表示です。同時に「私はだれの銀や金や衣服も欲しがらなかった」というパウロの態度のように、教会の財源であれ信徒の献身であれ、そのすべてはあくまで「福音を伝え、弱き者を助ける」ための通路であるべきだということを改めて心に刻む場でもあります。つまり、TM宣教を通じて「天の商人」として正直と誠実、そして熱い愛と涙をもって働き、その収益を喜んで福音へ再投資することによって、イエス・キリストの道—すなわち「自己否定と犠牲の道」を実践していくのです。 今日、多くの教会が揺らぎ、崩れていく現実の中で、テントメイキングは単なる「一つの代案」ではなく、本質的な原理として再び注目されるようになりました。聖書が証するパウロ使徒の生涯が、すでにその道筋を示しており、張ダビデ牧師は教会開拓と世界の宣教現場でこれを現代に適用してきました。教会が旧約型パラダイムから抜け出し、新約型教会の活気と躍動感を回復したければ、パウロが言った「自分の手で働き、弱い者を助け、福音を伝える」という姿勢へ立ち返る必要があります。そして、それを教会全体が共有し体系化することで、私たちが生きる時代の魂たちに「生きた福音」を届けなければなりません。「目を覚ましていなさい」(使徒20:31)というパウロの終末論的な訴えは、テントメイキングという具体的な宣教手段を通じて現実に実を結ぶ道にほかならないのです。これこそが張ダビデ牧師が説き、テントメイキング献身礼拝の場で宣言する新約型教会のビジョンであり、教会の将来にとって最も重要な出発点となるでしょう。 www.davidjang.org