神の子どもとなる - 張ダビデ牧師

Ⅰ. 聖霊のうちにある者に罪に定められることはなく、自由がある

ローマ8章は福音の核心を最も荘厳かつ美しく描き出した章であり、多くの神学者や牧会者、そして数多くの信徒たちに長きにわたり深い霊感を与えてきた御言葉として知られています。特に「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)という冒頭の一節は、私たちの救いの土台となる驚くべき真理を力強く宣言しています。張ダビデ牧師もこの箇所が与える恵みを繰り返し強調し、聖化の過程で依然として罪と格闘し、試行錯誤をくり返す者にも、確信と自由があるのだと説いてきました。

ここで「こういうわけで(그러므로)」という言葉から始まるローマ8章の導入は、決して軽く通り過ぎてよい表現ではありません。これは直前のローマ7章と緊密に結びついているからです。7章の末尾でパウロは「こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)と告白しています。これは、救われたキリスト者であっても、依然として罪の誘惑と戦い、罪に簡単に屈してしまう自分自身の姿を目の当たりにするという事実を如実に示しています。パウロ自身も律法と罪の律法のあいだで苦悶しつつ「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。だれがこの死のからだからわたしを救い出してくれるでしょうか」(ローマ7:24)と嘆きました。しかしパウロはその嘆きで終わりません。一方では「しかし今やキリスト・イエスにある者は決して罪に定められることはない」と大胆に宣言します。多くの人にとっては「しかし(그러나)」という逆接の表現のほうが自然に思えるかもしれませんが、パウロが選んだ語は「こういうわけで(그러므로)」です。これは、「罪との戦いでつまずくたびに、あなたがすでに救われ、義とされているという事実を忘れないように。その確固たる土台の上に立って、聖化を進めていきなさい」という意味合いを含んでいるのです。

「今や(이제)決して罪に定められない」という宣言は、一度きりの出来事だけを指すのではなく、時間の流れの中で継続的に適用される真理を語っています。救いの門を初めてくぐったときだけでなく、聖化の過程全体において、時には罪によって倒れてしまう瞬間でさえ、変わることなく適用される。これこそが福音なのです。ヨハネの福音書8章で、姦淫の現場で捕まった女性がイエスのもとに連れて来られたとき、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からはもう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と語られました。このように神は罪人に向かって、断罪の鞭を振り下ろすお方ではなく、御子を通して赦しと愛を注がれるお方です。もちろん、だからといって罪を軽んじよという意味では決してありません。罪に対して敏感に反応し、戦い続けるべきですが、それでも罪に負けてしまったときさえ「こういうわけで、今やキリストにある者に罪に定められることはない」という福音の確信を手放してはならないのです。張ダビデ牧師もまた、罪との格闘のただ中で、福音の本質を固く握るよう勧めてきました。そして人間の力では不可能なことを「神はなしてくださる」という、パウロの告白を共に黙想するよう導いています。

パウロは「キリスト・イエスにある者」という表現を用いています。「キリストのうちに(In Christ)」にあるということこそ、私たちの罪の赦しと自由、新しい命のすべての秘密が詰まった言葉です。イエスがヨハネの福音書15章で「わたしのうちにとどまりなさい。そうすればわたしもあなたがたのうちにとどまります」(ヨハネ15:4)と語られたように、これは「愛による結合」を意味します。キリストにつながることによって、私たちは罪から解放され、自由と喜びを享受します。ローマ8章でパウロはこれをさらに具体的に説明しています。「いのちの御霊の原理(法)は、罪と死の原理からあなたを解放したのです」(ローマ8:2)。十字架の上で私たちのために流されたイエス・キリストの尊い血、そしてキリストの復活の後に私たちのうちに臨まれる聖霊の力が、罪と死の原理から私たちを救い出したのです。こうして私たちは、以前の罪と死に囚われた身分から解き放たれ、まったく違う存在となりました。「罪に定められることがない」というこの神の宣言は、罪に満ちた世で、罪に従って生きざるを得なかった弱い人間に対し、まったく新しい道が開かれたことを意味しています。

肉の弱さゆえに律法は私たちを救うことができず、むしろ罪をいっそう際立たせて、私たちに大きな苦痛をもたらしました(ローマ8:3)。しかし神は、罪を取り除くために御子を罪ある肉の形で送られ、キリストが罪を処断されたことによって、私たちは罪のわなから解放されました。これは「義認(justification)」「贖い(redemption)」「贖罪(atonement)」という概念で説明されます。本来なら罪によって死ぬしかなかった私たちの状態を、イエスが代わりの犠牲のいけにえとなられ、代価を支払って罪の鎖から私たちを救い出されたのです。張ダビデ牧師も多くの説教や講義で、この救いの偉大さを十分に認識するためには、まず罪の重みと絶望を十分に悟る過程が必要だと語っています。罪人が自分の罪の深淵を自覚するとき、神の愛の深さを初めて体験しやすいからです。その愛こそ、罪人である私たちを最後まで見捨てずに救い出してくださるキリストの十字架の愛にほかなりません。

このように十字架によって罪と死の原理が断ち切られ、聖霊の原理が私たちを新しく治めるようになります。パウロはこのことを二つの「原理(法)」の対比によって説明します。肉に従う者は肉のことを考え、霊に従う者は霊のことを考えるようになる(ローマ8:5)。そして肉の思いは死であり、霊の思いはいのちと平安だ(ローマ8:6)。パウロが言う「肉(flesh, sarx)」とは単に物質的な身体を指すのではなく、罪に汚染された人間の堕落した本性を示しています。ゆえに肉に従う生き方は本質的に神に逆らうことであり(ローマ8:7)、そうした姿では決して神を喜ばせることはできません(ローマ8:8)。しかし聖霊が私たちのうちに住まわれるなら、私たちはもはや肉に属する者ではなく、霊に属する者になる(ローマ8:9)。キリストの霊、すなわち聖霊が私たちのうちにおられなければ、その人は真のキリスト者ではないというパウロの言葉は、やや厳しく聞こえるかもしれませんが、それほどまでに「聖霊の内住」が重要であることを強調しているのです。

私たちが聖霊を受けてキリストと結ばれるとき、罪のゆえに死んでいたからだも新しく生かされます(ローマ8:10-11)。これは将来、私たちにも与えられる「復活」の希望を含んでいます。イエスが復活の初穂となられたように、私たちの朽ちる身体も復活の力によって新しい命へと変えられるという希望です。聖霊は死者を生かされる父なる神の御霊ですから、その聖霊をいただいた者はすでに「復活のいのち」の希望を抱いて生きるのです。パウロは続けて「したがって、兄弟たち、わたしたちは借りがある者ですが、肉に従って生きる義務を負っているのではありません」(ローマ8:12)と言います。私たちは神の御子の尊い血によって買い取られた者ですから、もはや罪の奴隷として生きる必要はありません。「もし肉の行いを霊によって殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ローマ8:13)という宣言は、聖化の核心的な原理を示しています。敬虔で聖なる生き方は、人間的な決心や律法主義的な努力だけでは不可能です。ただ聖霊の力によって罪の道を思い切って断ち切り、悔い改めるとき、私たちは次第に聖なる姿へ変えられていくのです。

聖書は私たちに、罪に対して鋭敏であれ、そしてその芽を摘み取れ、と繰り返し勧めています。罪の報酬は死であるため、それを軽く流してはならないのです。同時に「霊によって」この戦いを戦わなければならないとも教えています。重ねて言いますが、これは徹底的に「上から来る力」、すなわち聖霊の力によってのみ可能です。他の宗教は、多くの場合、人間が自己修養や道徳的実践を通じて清くなり、悟りや解脱に至れると教えます。しかしキリスト教は、人間の罪の本性を人間の努力だけで克服することはできないと明確に言います。私たちのうちにある古い本性がどれほど強力なのか、そして神の恵みがどれほど絶対的に必要なのかを教えています。ですからパウロは「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも力のある方です」(Ⅰヨハネ4:4)という御言葉によって、信徒が世や罪の勢力に勝る大いなる力を持っていることを確信しなさいと勧めるのです。張ダビデ牧師もまた、罪に対する恐れや自己嫌悪によって無力化されるより、聖霊の力のうちに大胆に戦うようにと、何度も説教で語ってきました。それが「聖霊のうちにある者の自由」であり、「決して罪に定められることはない」という宣言を可能にする力なのです。

Ⅱ. 養子となること、救い、そして神の子ども

ローマ8章の第二の大きな流れ(ローマ8:14-17)は、「神の子とされた者たち」という主題を扱っています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)とあるとき、パウロははっきりと宣言します。聖霊の導きが臨むならば、私たちはもはや罪の子や肉の奴隷ではなく、神の家族に組み入れられる。イエスがヨハネ10章で「わたしは良い牧者」であると語り、「わたしの羊はわたしの声を聞く」と言われたように、羊は牧者の導きを受ける存在です。同様に私たちは、聖霊の導きに従う生き方へと招かれたのです。

この真理は、救いの核心において「身分の変化」を含意します。救いは、単に罪の赦しを受けるだけにとどまらず、本来罪と死に属していた私たちが「神の子となる特権」を得る出来事です(ヨハネ1:12参照)。ローマ書は、イエス・キリストを通して明らかにされた神の義が、どのように罪人を義とし、さらには「養子」として迎え入れてくださるのかを論理的に説き明かします。ここでパウロは「養子」という概念を非常に重視しています。ローマ帝国には厳密な養子制度が存在し、一度養子縁組が成立すると、実子と同じ法的・社会的・経済的な権利がすべて与えられました。張ダビデ牧師も、ローマの養子制度を背景知識として聖書本文を理解すると、パウロが語る救いの確かさと、私たちが神の相続を受け継ぐという言明がいっそう鮮明になると説明しています。

実際、ローマの養子縁組の儀式は非常に厳格な手続きを踏み、いったん完了すると絶対に取り消すことができませんでした。三度の象徴的な売買行為(mancipatio)を経ることで、養子に迎えられた息子は以前のすべての法的権利と債務が断絶され、新しい父の家系に完全に属し、「まったく新しい人生」を生きることができるようになるのです。パウロは「あなたがたは以前、罪のとりことして、悪魔の奴隷であったが、イエス・キリストの贖いによって今や神の養子とされた」と宣言します。その結果、私たちが以前、罪の家系に属して負っていたあらゆる借金や責務は無効になりました。今や私たちは神なる父の絶対的保護と愛のもとに置かれるようになったのです。そこでパウロはローマ8章15節で「あなたがたはまた恐れに陥る奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。それによってわたしたちは“アッバ、父よ”と呼ぶのです」と宣言します。

ここで注目すべきは「再び恐れに陥る奴隷の霊」という表現です。罪のもとにあったとき、人々は常に不安と恐れの中を生きていました。なぜなら「罪の報酬は死」(ローマ6:23)であり、律法と裁きの影が常に立ちこめていたからです。けれどもイエスの十字架の贖いによって、私たちはそうした恐れから解放されました。そして聖霊はこの事実を内的に証ししてくださいます。パウロは「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:16)と言います。この証しは単なる感情的な揺らぎではなく、永遠にして確実な法的証拠でもあります。ローマの養子縁組に複数の証人がいたように、私たちの霊的養子縁組には「神の御霊」ご自身が直接の証人となってくださるのです。これ以上に確実な保証がどこにあるでしょうか。

神の子どもとされることは驚くべき特権であると同時に、それに伴う大きな責任も含みます。パウロは17節で「子どもである以上、相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共同の相続人です」と語ります。私たちが神の相続人であるということは、父なる神のすべての財産・遺産を継承する権利を与えられていることを意味します。第一コリント3章22節でもパウロは「世界も、いのちも、死も、現在のものも、未来のものも、すべてあなたがたのものです」と堂々と宣言しています。信仰によって神の家系に加えられた者たちに与えられた天の相続は、本当に無限で栄光に満ちたものなのです。

それでは、この特権を与えられた者たちの生き方はどのようなものでしょうか。ローマ8章17節の後半でパウロは「もし私たちがキリストとともに栄光を受けるために苦難をともに受けるのなら、私たちは共同の相続人です」と述べています。つまり私たちはキリストの苦難にも参与する道を歩むということです。世の宗教の多くは、人間がいかに苦痛から解放されるかに焦点を当てがちです。しかし福音はそこで終わりません。むしろイエス・キリストが歩まれた道、すなわち十字架の道を私たちも共に辿ることによって、神の子としての人生を全うするように招いているのです。イエスが「アッバ、父よ」(マルコ14:36)という呼びかけをなさったのは、ゲッセマネの園で十字架を目前にして血の汗を流しながら嘆き祈られた、最も苦しい瞬間でした。そのとき主は苦難の前で恐れを抱かれつつも、最後まで父の御心に従われ、その従順を通して復活と栄光に至られました。同様に神の子どもとされるとは、ただ世的な権勢や栄光だけを約束されるのではなく、御子が歩まれた苦難の道すらも共に担うことなのです。

とはいえ、その道は決して悲惨な破滅へと至るものではありません。私たちの苦難は、いのちを与えてくださる神の御霊のうちで意味づけられ、最終的には神の栄光にあずかる道へと導かれます。教会史を振り返ると、多くの聖徒たちが福音のゆえに世からの迫害や痛みを甘受してきました。しかし彼らは自分が「神の子」であり「キリストとともに相続人」であるというアイデンティティによって、その苦難を「比べものにならない栄光の保証」として受け止めたのです。張ダビデ牧師も「私たちが本当に父の子どもであるならば、世の患難や誘惑に直面するときにも、キリストにある自分のアイデンティティを決して忘れてはならない」と強調しています。奴隷から子どもへと養子とされた者が、かつての奴隷の状態に戻る必要はまったくありません。法的・霊的効力はすでに完全に新しくされているからです。

要するに、イエス・キリストを信じるということは、単に信仰的な感性をもつようになるというレベルの話ではありません。それは、罪と死という具体的な鎖から解放され、神の子どもとして完全に身分が切り替わる出来事なのです。キリストの御霊である聖霊が私たちのうちに住んでくださり、「あなたは神の子どもだ」と共に証ししてくださる。この驚くべき事実を握ることこそ、聖化の過程で私たちを支え続ける原動力になります。罪と戦うたびに何度も倒れるかもしれませんが、「罪に定められることは決してない」という福音の真理を握って再び立ち上がる力は、そこから生まれます。そして神の御霊、すなわち聖霊をいよいよ慕い求めることで、私たちは徐々に罪に打ち勝ち、「聖なる者へと変えられて」いきます。愛の関係のうちに、十字架によって示されたキリストの愛を味わいながらこそ、私たちは真の養子、神の子どもとしての歩みをするのです。

Ⅲ. 苦難への同伴と栄光の希望

パウロはローマ書8章を通して、罪から解放され、神の子どもとされた者たちが最終的に目指すべきゴールについて語ります。それは「栄光」です。言い換えれば、聖霊のうちで私たちはすでに救われ(義認)、今も救いを得つつあり(聖化)、やがては完全なる救い(栄化)に至るのです。「苦難をも共に受けるなら、栄光をも共に受ける」(ローマ8:17)という御言葉は、この道のりが険しくとも、同時にもっとも祝福され栄光に満ちた道であることを思い起こさせます。実際、8章の後半(ローマ8:18-39)では、宇宙的回復と復活の希望、そして聖徒の堅忍と永遠の愛が非常に荘厳に描かれます。今私たちは8章1~17節の冒頭部分を注視していますが、そこで早くも「子どもであるなら、相続人、神の相続人であり、キリストと共同の相続人」と告げた直後に、「ともに栄光を受けるために苦難をも共に受けなければならない」と教えている点が重要です。

この「苦難」という言葉は、福音を中心にしなければ容易に理解しがたいものです。世的な基準で考えれば、身分が高められて相続人となったのなら、当然苦しみから解放され、良いところだけを享受すればいいのではないかと思うでしょう。しかしイエス・キリストが歩まれた道自体が十字架の道であり、「人の子がきたのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人のために自分の命をあがないの代価として与えるためなのです」(マルコ10:45)と仰せられた主に私たちが従う以上、その苦難の分をも担うのは当然とも言えます。

パウロは「今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとしている栄光と比べれば取るに足りない」(ローマ8:18)と続けて語ります。この苦しみには迫害や迫害以外の困難、または個人的試練、病気、経済的困窮、人間関係の葛藤、肉体の弱さなど多岐にわたるかもしれません。けれども、それらすべてが「神の子」とされた者にはまったく異なる意味を帯びます。人間は誰しも人生で様々な苦難に直面します。しかしキリスト者にとって苦難は、絶望的な終わりや虚無に終わるのではなく、むしろ栄光へのプロセスへと昇華される可能性を秘めています。この神秘こそ「十字架と復活」という福音の中心的真理です。イエスの十字架が、恥と痛みの場所であると同時に最大の勝利であり神の知恵として示されたように、キリスト者の苦難もまた、最終的には宝石のように輝く栄光へと変えられるのです。

張ダビデ牧師も、大きな苦難や小さな苦難にある信徒に対し、「苦難を回避したり恐れに閉じこもったりするだけでなく、キリストにある自分のアイデンティティを確固として、苦難を通して神に栄光を帰す生き方へと踏み出そう」としばしばチャレンジします。特に「神が私たちの父であるという事実が揺らがないなら、どんな試練にあっても最終的に神が計画された救いの実を見ることができる」とメッセージしてきました。苦難は私たちが故意に選ぶ道ではありませんが、キリストの足跡に従うならば、自然と共に担うことになる道です。そしてそれは「しばしの患難が私たちに格段に勝る重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)というように、永遠の栄光を準備する道でもあるのです。

神が私たちを子としてくださったということは、最終的に「十字架と復活」を通して成就された神の御子イエス・キリストの生き方に私たちが同伴することを意味します。それにもかかわらず、罪が蔓延するこの世で、キリスト者が歩む道は容易ではありません。世はしばしば福音の価値を嘲笑し、十字架の道を愚かとみなし、信徒たちは世との衝突を経験することもあります。さらに教会の内部ですら、人との葛藤や罪に起因する傷を負うことがあるでしょう。しかしそのようなときこそ、私たちは「神の子」という自らの身分を思い出し、聖霊の助けを求める必要があります。私たちが経験するすべての試練や欠乏、涙や悲しみは、聖霊のうちで清められ、一歩ずつイエス・キリストに似た者となる契機となり得るのです。

義認、聖化、栄化という救いの三段階において、私たちはなお罪と戦う途中段階にあるとも言えます。すでに義認は受けましたが、まだ完全なる栄化には至っていないため、罪の習慣が残り、肉の誘惑の前に弱さを感じるときがあります。ローマ7章に描かれる内面的葛藤が、それを端的に表しています。ゆえに私たちは日々の生活の中で聖霊に頼り、御言葉の光で自分を照らし、悔い改めと決断を繰り返す必要があります。同時に、ローマ8章1節が告げる「いかなる罪の宣告も受けることはない」という確信を握らねばなりません。これがなければ、私たちは罪悪感に押しつぶされ、サタンの告発に翻弄されてしまうでしょう。パウロはそれを決して望んでいません。むしろ「こういうわけで」という接続詞によって8章を始めることで、キリスト者の聖化がいかなる救いの土台の上に進んでいくのかを明確に示しているのです。

パウロは最終的に「あなたがたは『養子』とされました」と宣言し、「聖霊ご自身がそれを証ししてくださる」と語ります。どのような法廷の証言よりも高い、神の保証です。その結果、私たちは「アッバ、父よ」と呼び求めることができ、奴隷のように恐れ震える必要はありません。さらに相続人として神の栄光を受け継ぐがゆえに、キリストが歩まれた苦難の道も共に背負うのです。実のところ、これが「十字架の道」であり、キリストにあってあふれる喜びを得る唯一の道でもあります。

パウロが言う「栄光」は、世の華やかさや一時的な成功とは決して同じではありません。それは「復活の栄光」、「神との完全な親密さ」、「罪と死がもはや力を振るうことのない新天新地」での永遠のいのちです。ローマ8章の後半で「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょう」(ローマ8:35)と問いかけ、「私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:37)と答えるパウロの確信は、この栄光の実体を知る者の大胆さです。そしてこの確信は、まさに今私たちのうちに与えられた聖霊の「内的証し」と密接にかかわっています。聖霊が私たちの霊とともに「私たちは神の子どもである」と証ししてくださるゆえ、どんな人生の嵐や混乱の中でも「私は神の子であり、キリストとともに相続人である」という真理を失わずにいられるのです。

特に張ダビデ牧師は、ローマ8章をたびたび引用しながら信徒たちに「天国はすでに私たちの相続ですが、今なお成就しつつある神の国に私たちは招かれた存在であることを覚えてください」と強調します。神の子とされたからこそ、この地上の歩みが決して虚しく無意味なものではなく、また苦難が単に私たちを押しつぶす苦しみではなく、聖なる道へ導く手段ともなり得ることを認識してほしいのです。人間の弱さは確かに現実ですが、その上に注がれる神の恵みはさらに強力です。パウロの言う「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも力のある方です」(Ⅰヨハネ4:4)という宣言を心に抱いて生きるとき、私たちは罪や誘惑、絶望に敗北することなく、最終的には勝利の賛歌を歌うことができます。

結局、ローマ8章1~17節は「信仰によって義とされた者が、聖霊のうちで罪に定められることのない自由を得て、神の子どもとされ、苦難を経て栄光に至る」という福音のエッセンスを凝縮して示しています。その中には救いの多面的な要素が緊密に絡み合っています。義認を通してすでに完全な赦しを受けましたが、聖化によって段階的に変えられ、栄化の時に最終的完成を迎える。この壮大な救いの計画の只中で、パウロは私たちに「あなたがたは神の子なのだ」と挑戦し、同時に励ましを与えます。そしてそのすべてを確証するために「聖霊ご自身が私たちの霊とともに証ししてくださる」と断言するのです。

では、私たちの応答はどうあるべきでしょうか。第一に、罪を徹底的に憎み、警戒しつつも、罪に倒れたときには福音が与える「断罪されない」ことと「新たにやり直せる機会」をしっかりとつかむこと。第二に、自分が神の子どもであると常に自覚し、不安が襲ってくるときには「アッバ、父よ」と叫び、祈りと御言葉の黙想へと進むこと。第三に、苦難の中で落胆せず、それを通して品性や人格が磨かれ、私たちのうちにキリストの御姿がいっそう形づくられるよう願い望むこと。結局、これらすべては「上から来る神の力」、すなわち聖霊によって可能とされるのです。

今この瞬間にも、多くのキリスト者がそれぞれの生活の場で、多様かつ苛烈な試練や誘惑に直面しています。ときに信仰が揺れ動き、自分が救われているのかさえ疑う人もいるでしょう。ローマ7章のパウロのように「なんと惨めな人間なのでしょう!」と嘆きながら、「いったいだれがこの死のからだから私を救ってくれるのでしょう」と叫ぶこともあるかもしれません。しかしまさにそうした人々に向かって、パウロは「キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」と語るのです。「こういうわけで」という接続詞を通して、罪悪感と絶望の中にとどまらず、すでに義認を受けたことを思い起こし、聖化の道を歩み続けなさいと励ましているのです。そして「あなたがたは養子の御霊を受けたのだ」と宣言し、奴隷ではなく子どもの人生を享受しなさいと勧めます。

このようにパウロが示す福音は、聖霊のうちで罪の鎖を断ち切り、自由と解放を味わう次元にとどまらず、さらに積極的に聖く豊かな人生へと導きます。私たちは栄光を目指して前進する過程で必ず苦難に遭遇します。しかしその苦難は、新たな命を産み出す産みの苦しみにもたとえられます(ローマ8:22-23)。パウロが「被造物ばかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子とされること、すなわち私たちのからだが贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」(ローマ8:23)と語るとき、彼は宇宙的次元の回復と復活の神秘を見据えているのです。こうして救われた神の子どもの人生は決して受け身ではなく、被造物全体のうめきと回復を共に待ち望みつつ進む、霊的な闘いとも密接につながっています。

最終的に私たちは神の家族であり、その家族の父は全知全能の創造主なる神です。イエス・キリストは長子であり、十字架と復活によってこの救いの御業を成し遂げられたお方、そして聖霊はそれらすべての真理を私たちのうちで教え、証しし、私たちを聖なる者へと造り上げてくださるお方です。三位一体の神が一つ心となって私たちの救いを成し遂げておられます。ゆえに、私たちがどんな状況にあっても、「私は神の子だ。キリストと共なる相続人だ。誰も私をキリストの愛から引き離せない」と自分自身に宣言しながら歩むべきなのです。

張ダビデ牧師もまた、日常生活の中にどれほど多くの誘惑と混乱があり、どれほど多くの人が罪悪感や失意の中で立ちすくんでいるかを憂いつつ、このローマ8章のメッセージをいっそう深く握るよう繰り返し励ましています。キリスト者の人生は栄光に満ちたものですが、決して容易ではありません。しかし神の子どもとされた者には、満ちあふれる勝利と喜びが用意されていることを決して忘れてはなりません。聖霊のうちで苦難を通していよいよ強くされる私たちの魂は、究極的にはイエス・キリストの御姿に似せられていき、栄化の日に真の完成を享受するでしょう。

このようにローマ8章1~17節に含まれる核心は、次の三点に要約できます。

聖霊のうちにある者は決して罪に定められることがないという福音の自由。

養子とされることによって神の子どもとなり、そのアイデンティティが法的にも霊的にも完全に確証されたという事実。

それでも世の中にあって苦難を避けられないが、苦難を共に担うことが、キリストと共に栄光を受ける道であるという真理。

そして、この三つの視点を同時に教える核心的根拠は「聖霊の内住」であり、その証しを通して私たちはいつでも「神の子である」ことを知ることができます。パウロは、この点を確固として握るとき、私たちの信仰は揺らぐことなく、罪の誘惑の前に弱く見えたとしても決して完全に崩れ落ちることはないと語っています。

最後に、ローマ8章はパウロが宣言した福音の真髄であると同時に、今日を生きる私たちに「罪・律法・恵み・聖霊・救い・養子・苦難・栄光」といった信仰の全行程をあらためて黙想させる貴い章です。私たち自身や、あるいは周囲の人々に「私は本当に救われているのだろうか」「まだ罪の痕跡を見て絶望しているのに、この道は正しいのか」と疑問が生じるときには、この御言葉に立ち返る必要があります。そして張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、福音の核心を思い起こし、「私は救われている。聖霊のうちにあって、もはや罪に定められない。神の子どもとなり、その相続人とされた。それゆえ苦難さえも主と共に進むことができる」という信仰告白を繰り返すのです。その告白のうちには、罪に対する勝利、人生に対する希望、そして究極的救いに対する確信がすべて含まれています。

聖霊のうちに生きる者に与えられたこの圧倒的特権と恵みは、ただただ神の愛から来ています。キリスト者であれば、ローマ8章の教えを避けることはできません。むしろ人生のさまざまな局面、特に罪との格闘のとき、試みや誘惑のとき、あるいは深い落胆に沈むときこそ、この章に込められた核心の真理を握らなければなりません。その道を通してこそ、私たちは父なる神を「アッバ、父よ」と呼び、イエス・キリストと共なる相続人としての立場を守り、聖霊の力によって回復と復活の希望を力強く歌うことができるのです。そしてすでにこの地上においても、不完全ながら真実で確かな形で、その自由と喜びを味わうことができます。これこそ、キリスト者に許されている「福音の喜び」であり、「こういうわけで」という一語から始まるローマ8章の荘厳なメッセージが、私たちすべてに与えているいのちの宣言なのです。

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