涙と真理のはざまで ― 張ダビデ牧師

序論:コリント人への第二の手紙をむ視点と張ダビデ牧師の神
張ダビデ牧師は数十年にわたる牧会活動と神学研究を通し、しばしば複雑で理解しにくいとされるコリント人への第二の手紙(以下、コリント後書)を、現代のキリスト者へと深く説き明かしてきた牧者である。この手紙は1世紀のコリント教会という特定の歴史的状況の中で生まれた文書であるが、彼はこれを、今日の教会と信徒が依然として学び、実践すべき真理の宝庫として捉えている。コリント後書は、単にパウロが対立する教会に宛てて書いた手紙ではない。むしろ、真理と恵みの福音を守るため全力を尽くした使徒の内面の苦闘、教会への切なる愛、そして苦難の中で得た神の慰めが詰まっている。

張牧師は、コリント後書にある難解さや激情を、むしろ真実な牧会的告白として解釈する。そこには、理想的な神学体系を提示するのではなく、目の前の現実問題――教会内の紛争、偽りの教え、エルサレム教会の貧困、宣教現場の苦難――に対処しようとするパウロの熱い心がある。この観点から張牧師は、コリント後書を通して教会指導者と信徒が共に、真理の上に堅く立ち、苦難の中で神の慰めを経験し、共同体的責任と分かち合いを実践し、偽教師との霊的戦いをいとわない信仰の歩みを発見するのである。

本論では、コリント後書の多面的な教えを6つの小テーマに整理し、その核心的メッセージが張ダビデ牧師の牧会哲学と信仰共同体にいかなる意義を持つかを深く考察する。


1. コリント教会の背景とパウロの牧
コリント後書を正しく理解するためには、1世紀地中海世界、とりわけヘレニズム文化が蔓延していたコリント市の背景を把握することが不可欠である。ヘレニズム的風潮とローマ帝国の狭間にあったコリントは、貿易で繁栄する港湾都市として、多様な宗教・哲学・文化が混在する多元主義的環境であった。そのような土壌で成立したコリント教会は、当然のごとく複雑な問題に直面し、パウロがエペソを拠点に宣教する際にも絶えず彼を悩ませていた。

張牧師はパウロの宣教経路を辿り、コリント、エペソ、マケドニア、エルサレムを結ぶ複雑な教会ネットワークを分析する。パウロはコリント教会が福音の真理の上に確固として立つことを願い、彼らの問いに答えるべくコリント前書を通して教義を正そうとした。しかし教会内部に割拠する割礼派、偽教師の侵入によって状況はさらに複雑化し、パウロはテモテやテトスといった同労者を派遣し、書簡をもって彼らの反応を見守った。

こうした文脈の中で、コリント後書は機械的な神学論文ではなく、「生きた」牧会書簡として登場する。張牧師はこの点に注目する。すなわち、パウロはコリント教会という具体的現実の中で真理を守り教会を建て上げるために奮闘した。その生々しい奮闘は、今日の牧会者にとっても模範となる。福音を伝える者、教会指導者、信徒は皆、自らの歴史的文脈を認識し、複雑な状況の中でも真理を打ち立てるための努力を続けなければならない。


2. 福音理の守護とみに基づく救論の核心
パウロがコリント後書で絶対に譲らなかった核心は「福音の真理」である。福音とは、イエス・キリストの死と復活による救いであり、行いや律法遵守によらず、ただ恵みと信仰によって与えられる神からの一方的な賜物である。ところがコリント教会にはエルサレムから来た割礼派教師が侵入し、この単純で純粋な福音に条件を付けようとしていた。彼らは異邦人信徒も割礼を受け、律法を守らなければ完全な救いに達しないと主張したのである。

張牧師はこの点でパウロの断固たる態度を強調する。パウロは律法的義務によって福音を歪めようとする試みに毅然と立ち向かった。この問題はガラテヤ書とも類似する背景を持つが、コリント後書でも暗示的に示されている。福音の真理はあらゆる民族と文化に普遍的であり、民族的・文化的障壁や律法的条件を付すことは福音を霞ませる行為となる。

ここで張牧師は、今日の教会と信徒が反芻すべき問いを投げかける。我々は本当に福音中心なのか。習慣、制度、文化的要素を福音真理より優先したり混同したりしていないか。パウロが命懸けで守ろうとした福音の純粋性を、我々も守り抜くべきである。これによって、教会は真理に根ざした共同体として成長し、信徒は救いの本質に対して確固たる確信を得ることができる。


3. 苦難と慰めの神、そして共同体的責任
コリント後書の冒頭(1:3-11)でパウロは「すべての慰めの神」を賛美し、自身がアジアで受けた苦難について言及する。パウロは生きる望みを失うほどの過酷な苦しみを通じて「死者をよみがえらせる神」への完全な依存を学んだ。つまり、極限状態の中で、人間的よりどころから離れ、唯一神のみを頼みとする信仰の真髄を悟ったのである。

張牧師は、この「苦難と慰め」というコリント後書の中心テーマが現代にも生きた意味を持つと説く。教会は常に挑戦に直面している。財政的困難、宣教の停滞、社会的反発、信仰の揺らぎなど、様々な「苦難」がある。だがその苦難は、神が教会を練り鍛え、主だけに頼る信仰へと導く過程である。苦難の中で信徒と教会は真の慰めと勇気、すなわち「存在の勇気」を得る。

さらにコリント後書8-9章でパウロはエルサレム教会への献金について詳述している。これは苦難にある兄弟姉妹を助ける具体的な愛の実践である。張牧師はこのエピソードから共同体的責任と分かち合いの重要性を強調する。福音を受けた共同体は、実際の行為によってその福音を証明しなければならず、それは貧しい兄弟姉妹を顧みる献身的な愛として顕現する。

このように、苦難を通して慰めを経験した教会は、その慰めを他者へと伝える通路となるべきである。それは共同体が孤立せず、互いに励まし合い仕え合うことで、豊かな霊的生態系を形成する道である。張牧師は、このような連帯と責任を回復することが、今日の教会に求められると主張する。


4. 偽教師への対処と使徒的威の確立
コリント後書後半部(10-13章)でパウロは使徒としての自らの権威を強く弁護する。彼は「光の天使」を装う偽教師たちが福音を損なおうとすることを容認しない。その偽教師たちへの断固たる態度は、真理を守るために不可避な構えである。愛や忍耐という牧会的徳目は必要だが、真理を揺るがす混乱に対しては譲歩しない。

張牧師はここに、牧会者や教会指導者が学ぶべき原則を見出す。福音を歪める勢力、異端や偽りの教え、世俗的価値観が教会内部に忍び込むとき、指導者はパウロのように声を上げ、これを排除せねばならない。それは単なる個人の信仰傾向ではなく、共同体全体を真理の上に立たせる責任である。

使徒的権威は権力乱用や統制ではなく、福音を守り、教会が正しき道へ向かうよう導く霊的リーダーシップである。張牧師は、現代のリーダーシップモデルをコリント後書に見いだす。指導者は真理にしっかり立ち、必要なときは決然と対処して偽りを識別・除去する。それが教会を建て上げ、福音本来の力を保持する礎となる。


5. 今日の教会と信徒への実践的適用
張牧師は、コリント後書を単なる古代文献として留めず、今日の教会共同体と信徒に直接適用する。パウロの激情と苦悩、涙と嘆きが込められたこの書簡は、牧会者の心構えと宣教パラダイムに深い影響を与える。

まず、牧会者にとってコリント後書は「福音中心性」という旗印を新たに立て直す。教会運営、宣教戦略、財政管理、人間関係、どの領域にも福音より優先されるべきものはない。張牧師はあらゆる決断が真理に基づいてなされねばならないことを強調する。

また、慰めとケアの牧会原理は、信徒一人ひとりの生活にも応用される。信徒たちは苦難にある隣人を見捨てず、与えられた慰めを分かち合い、互いを建て上げる責任がある。かくして教会は、単なる宗教団体でなく、霊的家族として、一つの身体で結ばれた共同体であることをコリント後書は重ねて思い起こさせる。

さらに教会は財政的・物質的な分かち合いによって、福音の実践的な結実を示さねばならない。張牧師は、教会が地域社会や世界中に点在する困窮した兄弟姉妹を顧み、宣教地を支援し、文化と境界を超えた愛を実践するとき、コリント後書の精神を体現すると説く。このような実践は、信徒個々人にとっても信仰成熟の重要な契機となる。

究極的に、信徒はコリント後書から「分別ある信仰」を学ぶ。偽りの教えや世俗的誘惑の前で揺らがず、福音真理に根付くこと、苦難の中でも神への依頼と希望を失わないこと、そして愛と分かち合いによって福音を生活化することを習得するのである。張牧師は、このプロセスを通じて現代の教会が真の福音共同体へと成長できると確信している。


6. 結論:冬越えする教会的成長への道
張牧師は、コリント後書を読むたびに、パウロがテモテへ「マルコを伴い、革袋に入った書物を持って来てほしい」と頼んだ言葉(Ⅱテモテ4:11-13)を思い起こす。それは長い冬に備え、御言葉によって越冬し、霊的糧を蓄える象徴的意味をもつ。コリント後書はまさに、その冬越えのための御言葉の糧である。教会と信徒は、過酷な冬のような苦難に遭遇することがあるが、そのたびに福音真理を懐に抱き、神の慰めと勇気を魂に刻んで耐え抜くことができる。

それは単なる個人的な慰めにとどまらず、教会共同体が互いを建て上げ、真理の上に立ち、偽教師を退け、苦難の中でもエルサレムの兄弟たち(現代で言えば苦しむ隣人)に喜んで分かち合う過程を経て獲得される霊的成長である。コリント後書は、パウロが痛みと混乱に満ちた状況下でも決して真理を手放さず、むしろ苦難を通して魂の深みを増していった歴史的手本なのだ。

張牧師は、教会がこの手本に倣うべきだと訴える。信仰共同体は、福音に根差した苦難克服の経験を通して、ますます強固になり、最終的には神の慰めを世界へ伝える器となりうる。コリント後書は、真理、苦難、慰め、愛の実践が一体となり、教会を成熟へと導く羅針盤であり、張牧師は、この羅針盤に従って教会と信徒が堅実に歩むよう勧める。

今、長い冬に備えるかのように、コリント後書を深く黙想し、福音の真理に己を照らし、苦難の中でも希望を握りしめ、分かち合う生を実践する教会と信徒となることを張牧師は願っている。そうすることで、我々はパウロの切なる思いが宿るこの書簡を通して、より豊かな霊的季節へと進んでいくことができるのである。

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