
Ⅰ. 福音と律法の対比、そして子となることの意味
ガラテヤ書を読むとき、3章23節から4章7節までは一つの流れとしてつながる長い段落です。パウロはこの箇所で「子と相続」という核心的テーマを扱いながら、「いったい誰が神の相続を受けるのか」という問いを真摯に投げかけます。すでに3章の結論部分(3:29)で「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と明言し、その流れを受けて4章1節以降で子となるアイデンティティと実際の相続に関する説明が本格的に展開されるのです。パウロは福音と律法を鋭く対比し、律法は奴隷の役割を果たし、福音はわたしたちを子にするという点を力強く主張します。
当時のガラテヤ教会では、ユダヤ主義的クリスチャン、つまり偽教師たちが台頭していました。彼らは「福音によってすでに救われたのに、再び教会を律法へと引き戻そう」としていたのです。この動きに対しパウロは「いったいあなたがたは今、教会をどこへ連れて行こうとしているのか」と声を上げ、わたしたちが受けた福音がどれほど驚くべき自由をもたらすかを強調しました。
張ダビデ牧師は、さまざまな説教や講義を通してガラテヤ書のこの流れに注目し、福音と律法の対比がなぜこれほど重要なのかを繰り返し説き明かしてきました。福音はわたしたちを子にし、律法は奴隷として仕えさせるという表現は、福音がもたらす自由とアイデンティティの回復の核心をよく示しています。奴隷は拘束の下にあり、自分の思いどおりに生きられませんが、子は自由を享受し、相続の権利を持ちます。パウロはこの事実を単なる理論として語るのではなく、自身が直接体験した福音の力に基づいて力説するのです。律法中心に戻ることは「くびき」を再び負うのと同じであり、ガラテヤ書5章1節で「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由の身にしてくださったのですから、また奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」(新改訳を参照)と明確に結論づけています。
この論理は単に「ユダヤ教 vs. キリスト教」という宗教的対立構図にとどまらず、人間の本質的な救いの問題が何によって解決されるのかという焦点を持ちます。人が「子」となるのか、それとも「奴隷」の状態にとどまるのかという分岐点が、「福音」と「律法」という二つの道によって分かれるのです。福音はイエス・キリストを信じるとき、わたしたちを子として回復させる特別な力を備えています。それにもかかわらず、人々はしばしばこの自由と子となる身分をしっかりと握れず、再び律法的・宗教的なくびきの中へと入ってしまうのです。
パウロはガラテヤ書3章の終わりで「もしあなたがたがキリストに属する者なら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(3:29)と宣言し、まさにそのアブラハムに約束された救いの豊かさが誰によって継承されるのかを示しています。それは単に血統や律法遵守の有無ではなく、キリストとの連合によって成し遂げられる歴史的・霊的な相続であることを、はっきりと打ち出す場面なのです。
わたしたちも日常生活のなかで、このアイデンティティを見失うときがあります。「わたしは神の子だ」という自覚が揺らぐとき、まるで相撲や柔道の試合で重心が崩れるように、わたしたちの人生全体も崩れてしまいます。パウロがガラテヤ書で力強く叫ぶように、わたしたちはすでに子とされたのですから、もはや奴隷のくびきを負う必要はありません。キリストの十字架によって自由を得たのに、再び律法や功績にもどろうとするなら、それはせっかく得た自由を捨て去るも同然です。パウロはこれを非常に深刻な問題として捉え、教会を分裂へ導く偽教師たちに対抗し、福音の真理を守るため熱心に論争を繰り広げます。
張ダビデ牧師はガラテヤ書の講解の中でこの部分をとりわけ強調し、わたしたちの内に「子とされた」確固たるアイデンティティがあるとき、霊的成長と自由、そして実際的な力が流れ出ると教えています。「わたしは神の子だ」という自覚が揺るがなければ、どんなに闇の勢力が揺さぶろうとしても決して倒れないのです。ちょうどイエス様が「もしお前が神の子なら」という悪魔の試みにも動じずに勝利されたように、わたしたちが自分が子であることを自覚し、それにふさわしく生きるとき、主の内にある自由と力を体験できます。イエス様は試みに遭われたとき、一貫して底流に「わたしは神の子だ。だからただのパンだけで生きる存在ではなく、むしろ神の言葉によって生きる」という確信をお持ちでした。このような自覚と霊的確信をわたしたちも持つべきだということが、パウロのガラテヤ書全体の文脈とも緊密にかかわっているのです。
パウロはこの福音の中で、わたしたちが奴隷ではなく子であることを、論理的・歴史的・神学的に証明していきます。ガラテヤ書4章1~2節では「相続人であっても、まだ幼い間は奴隷と変わらず、後見人や家令の下にある」と説明します。これは、律法のもとにあったユダヤ教全体の歴史を想起させるものです。彼らは奴隷として、子どもを導く「家庭教師(モンハクセンセイ)」のような役割をする律法を通して成長し、やがて時が満ちたときに子として自由に立つことができるようになりました。しかしガラテヤ教会の中で問題を起こしたユダヤ主義的クリスチャンたちは、律法のくびきへと戻ることを強要していたのです。パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と憤慨し、それは福音を根本的に損なう行為だと指摘します。
張ダビデ牧師は、この箇所で「宗教の習性」がわたしたちの自由をいかに蝕むかを説きます。律法的・宗教的な思考は見かけは敬虔そうに見えながらも、実際には人間を束縛し霊的な力を消滅させる傾向が強いのです。そうして宗教的行為や義務に縛られ疲弊し、「子としての自由」を失ってしまうと、結局、教会の中で分裂や互いの罪定めが起こってしまいます。パウロはガラテヤ書で、このような状況を「どうして再び弱くて貧しいelemental spirits(初歩的教え)に戻り、奴隷になろうとするのか」と叱責し、福音がもたらす自由がいかに尊いものであるかを覚えさせるのです。ガラテヤ書5章1節に至るこの宣言――「キリストは自由を得させるためにわたしたちを自由にしてくださったのです。だからもう一度奴隷のくびきを負わされないようにしっかり立っていなさい」――は、当時のガラテヤ教会だけでなく、すべての時代の教会に向けた力強い勧告であり警告でもあります。
わたしたちが奴隷ではなく子であることをしっかりと把握するとき、自分を「罪の奴隷」とは定義せず、「キリストにあってすでに義と認められた者」として確立していけます。教会がほかのくびきや規則にこだわり始めると、子としての自由と力が覆い隠されてしまうのです。ガラテヤ人たちが律法的な重荷に囚われ、日や月、季節や年を守ることに気を取られている様子は、結局のところ初歩的教えに縛られ、宗教的義務を果たす生活形態に逆戻りしたのと同じです。しかし福音は、神の御子イエス・キリストが「律法の下に生まれ、わたしたちをあがない、子としての身分を得させてくださった」(ガラテヤ4:4-5)と語ります。パウロは「わたしたちのために律法の呪いとなってくださった」(ガラテヤ3:13)イエスの恵みによって、わたしたちはもはや罪の奴隷としてとどまるのではなく、子として大胆に生きられるのだと宣言しているのです。
張ダビデ牧師が強調するように、福音の本質は「奴隷を子に変える力」にあります。人の心にある罪悪感や恐れを打ち破り、子としての自由を回復させることこそ福音の力なのです。イエスがへりくだってこの地に来られた受肉(インカーネーション)は、神がどれほどわたしたちを愛し、救おうとしてくださるかを最も劇的に示す出来事です。神と等しくあられる方がご自分を空しくして十字架の死にまで従順になられたことは、人間の理性では到底理解し難い「神の愚かさ」(コリント第一1:25)といえます。しかし、この「愚かな方法」こそ「死によって死に打ち勝たれた」贖いの道であり、キリストがローマ書5章の代表論で示されるように、わたしたちの代表として罪と死の力を打ち砕いてくださいました。
このように受肉と十字架の出来事によって完成された救いは、子に与えられる驚くべき特権をわたしたちに贈り届けます。それがすなわち相続のことであり、子の御霊(キリストの霊)がわたしたちの内に住んで「アバ、父よ」と叫ばせるのです(ガラテヤ4:6)。かつては奴隷の身分で、とても神の前に出る勇気など持てなかったわたしたちが、イエスの血潮によって聖所に入ることを許されました(ヘブル10:19)。このようにガラテヤ書のメッセージは、人類の歴史・神学、そして実際の生活を貫く最も根本的な恵みの核心と言えます。福音がわたしたちの内に「わたしは神の子だ」という揺るぎないアイデンティティを植えつけるとき、もはや初歩的教えや律法のくびきに縛られずに生きられるのです。
Ⅱ. ガラテヤ書4章における子と相続の核心メッセージ
パウロはガラテヤ書4章1~7節で展開する論理構造を見てみましょう。「相続人がすべてのものの主人であっても、子どもの間は奴隷と変わらず、後見人や管理人の下にある」(ガラテヤ4:1-2)というのは、先に3章23節以下で述べたように、律法の時代を「一時的保護者あるいは後見人」にたとえたものです。律法は不完全ながらも、キリストが来られるまで一時的に必要な役割を担いました。ところが「時が満ちた」(ガラテヤ4:4)、すなわち神が定められた時に、神の御子がこの地に来られてわたしたちを律法の下から贖い出されました。この「贖い」は「代価を支払って買い戻す」ことを意味し、イエス様がわたしたちの代表としてすべての罪の代価を負い、十字架で死なれることで成就されたのです。
張ダビデ牧師は、この「時が満ちた」というパウロの表現に注目し、救いの歴史における重要な転換点がイエス・キリストの受肉と十字架の出来事であることを強調します。神が人として生まれ、女性から生まれさせた(ガラテヤ4:4)のは、イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」という予言の成就であり、旧約のすべての約束がイエス・キリストの十字架と復活において完結したのです。その目的は「わたしたちに子としての身分を得させるため」(ガラテヤ4:5)でした。つまり、人間はどれほど律法を守ろうとしても弱さゆえに罪から完全に自由にはなれませんが、イエスが律法を全うし、わたしたちの身代わりとして死んでくださったことによって律法の呪いから解放してくださった、ということです。
パウロはさらに一歩進んで、わたしたちには単に罪の赦しが与えられただけでなく、神の子となるという身分の変化が贈られたのだと言います。「あなたがたが子であるゆえに、神はその御子の霊をわたしたちの心に遣わして、『アバ、父よ』と叫ばせてくださるのです」(ガラテヤ4:6)という言葉は、聖霊(キリストの御霊)の臨在によって神の子となったことを証する場面です。奴隷は主人を恐れ、遠くから仰ぎ見るだけですが、子は「お父さん」と親しく呼びかけられます。これこそが子と奴隷を決定的に分ける点です。奴隷は常に「律法を守らなければ」という緊張と恐怖に囚われていますが、子は愛の絆の中で親のすべてを享受できる自由を持ちます。
パウロはガラテヤ書全体を通して、律法を守ることで得られる「奴隷としての義」ではなく、イエス・キリストを信じることによって転嫁される「神の義」を掴むべきだと力説します。これはガラテヤ書2章16節「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのです」という言葉と直接結びつきます。そして今、4章でも同様に、奴隷であった者に子としての身分を与えたのはわたしたちの力ではなく、全面的に神の恵みであることを再確認させています。その子となることが具体的にどういう意味を持つか――すなわち神が御子の御霊を送ってわたしたちと共にいてくださることで可能になる実際的な交わりの関係――を補足説明しているのです。これは単なる宗教的地位の上昇や呼称の変化ではなく、関係そのものの回復なのです。
一方、ガラテヤ書4章7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく子です。そして子であるなら、神によって相続人でもあるのです」という宣言は救いの完成点を示しています。子である以上、神が用意されたすべての霊的・歴史的祝福を継承することができる。それが福音が主張する驚くべき急進性なのです。律法のもとでは、ユダヤ人と異邦人が同等になりえなかった時代が終わり、キリスト・イエスにあって「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女もなく、あなたがたは皆ひとつなのです」(ガラテヤ3:28)という状態になりました。その子としての権威は、伝統的社会秩序が当然視してきた主人と奴隷の区別、男女の区別、ユダヤ人と異邦人の区別などを打ち壊し、教会を新しい共同体として生まれ変わらせる原動力となったのです。
しかしガラテヤ教会の内部では、律法主義者が「日や月、季節や年をうかがって守る」という古いやり方に戻るように人々を誘惑していました(ガラテヤ4:10)。パウロはそれについて「どうしてまた弱くて貧しい初歩的教えに戻って奴隷になろうとするのか」と叱責します。初歩的教えとは、人間が自力の功績や努力によって何かを成し遂げようとする宗教的・哲学的試みをすべて指すともいえます。しかしパウロにとって福音は、イエスの十字架と復活によってすでに完全に成し遂げられた救いであり、そこに人間的な条件を付け足す必要はまったくない恵みの世界です。律法的要求や義務を加えれば加えるほど、かえって福音の恵みは無力化され、子が享受するはずの自由が損なわれてしまうのだ、とパウロは主張するのです。
この文脈で張ダビデ牧師は、ガラテヤ書が示す福音の核心精神を「わたしたちに与えられた子としてのアイデンティティを最後まで握りしめよ」という一言でまとめます。いかに教会が組織的・文化的に成熟したとしても、もし教会員の心の中に「子としてのアイデンティティ」が薄れてしまえば、最終的には律法的な習慣や世俗的価値観が入り込んで教会が混乱してしまうからです。ガラテヤ書4章後半(ガラテヤ4:19-20)でパウロはそのことを痛切に吐露しています。「あなたがたのうちにキリストのかたちができるまで再び産みの苦しみをしよう」と言うほど、パウロは教会の中で福音が完全に体現され、子としての自由が回復されるまで、絶えず熱い思いで尽力するのだと強調します。
ガラテヤ書4章の中ほどで示されるパウロの個人的な告白(ガラテヤ4:13-15)は、パウロがいかに肉体的に弱かったのか、それでもガラテヤ人が彼を愛をもって受け入れた恵みの時代があったことを回想させます。ガラテヤの人々はパウロを神の使いのように、あるいはキリスト・イエスのように迎え入れ、目でさえも与えかねないほど犠牲的な愛を示しました。それは福音の中で彼らがいかに自由で、熱い愛に満ち溢れていたかを物語る歴史的な場面です。なのに、どうして今は互いに仲違いし、律法主義の偽教師に惑わされて分裂し、憎しみ合っているのか。パウロにとってこれほど悲痛なことはなく、だからこそ激しい口調で彼らを戒めているのです。
結局ガラテヤ書4章のメッセージは、単に「律法はいらないから完全に捨ててしまえ」という表面的な話ではありません。むしろ律法が本来持っていた目的――わたしたちに罪を自覚させ、キリストへと導く保護者的役割――が成し遂げられたあとは、それに束縛される必要がなくなるという大いなる自由の宣言なのです。人間は律法を通して罪を悟る段階には至りますが、その罪を解決して子となるのは、律法をもっと守ることによってではなく、キリストの贖いの働きによってのみ可能です。そして子となった後は、本質的に宗教の垣根を越えて神の心を自由に享受する者となり、「互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒めのうちに、律法の完成が何であるかを体験していくのです。律法を守って生きるのではなく、愛によって御霊に従って歩む生き方こそ、子にふさわしい歩みです。
張ダビデ牧師は、こうした点を繰り返し強調し、キリスト者のアイデンティティは「律法を満たす宗教人」ではなく「福音によって自由にされた子」であることを忘れないようにと訴え続けます。子としての自由を味わった人なら、どこにあっても神の愛を伝え、「わたしは子を知り、子であるわたしを神もご存じだ」という親密さのもと、この世の中を生き抜くのです。そうなるとき、はじめて教会は生命力あふれる共同体となり、世に対して光と塩の役割を果たせる――これが福音のダイナミックな力です。
Ⅲ. 奴隷から子へと転換する自由とアイデンティティ、そして生活への適用
パウロの個人的体験とガラテヤ教会の状況が複合的に示されるガラテヤ書4章は、今日の教会と聖徒たちが「自由」と「アイデンティティ」の問題をどう理解すべきかをよく教えてくれます。律法と福音、奴隷と子、束縛と自由、そしてそれを妨げる偽教師の問題などが生々しく絡み合っているからです。特に「あなたがたが子であるなら、相続人でもある」という驚くべき宣言は、人間の運命を根底から変える偉大なメッセージと言えます。罪の奴隷にすぎなかった人間が、どうして全能の神の相続人となれるでしょうか。それはただキリストにあってのみ可能な奇跡であり、福音がもたらす衝撃的な恵みです。
ガラテヤ書4章で注目したいのは、パウロが「どうすれば子になれるのか」を語るとき、徹底的に「キリストがわたしたちのためになさったこと」に基づいているという点です。「あがなってくださり、子としての身分を得させ、子の御霊を注いでくださった」のは神ご自身です。わたしたちがしたことといえば、それを信仰によって受け取るだけです。ここにわたしたちの功績や律法的行いが介入する余地はありません。子として生きるとは、キリストの御霊によって可能となる能動的な歩みです。つまり、子だからといって好き勝手に放縦に生きるのではなく、「御霊に従って歩むこと」によって子としての聖さと愛を実践するのです。パウロはガラテヤ書5章でこの適用点を詳しく解き明かします。御霊の実を結ぶ生き方、すなわち愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制があふれる人には、律法に反するものなど何もないのだ、と宣言します。
張ダビデ牧師は、この点をさらに現場の牧会において繰り返し強調します。「福音はわたしたちの生き方を根本から変える力を備えており、その変化は本質的に『わたしは神の子だ』というアイデンティティから始まる」というのです。教会の中で信徒同士が対立し、互いを罪定めしたり、あるいは自分自身が罪定めされて恐れに陥ってしまう理由の多くは、「自分が子である」ことを忘れてしまうからです。「宗教的な務めを果たしていればこそ安心だ」という思いが強まると、神や他者への愛よりも規則遵守や形式が先行してしまいます。そうなると自然に互いを比較し合い、裁き合い、さらには別のくびきを作り出してしまいがちです。まさにガラテヤ教会が直面していた問題がこれでした。
しかし「わたしは神の子だ」と確信するとき、イエスが悪魔の試みの前でもご自分の身分を決して揺るがなかったように、わたしたちも人生のさまざまな圧迫や誘惑に対して堂々と立ち向かえます。子であるアイデンティティが中心をしっかりと支えてくれるからです。子どもは父の豊かさを知っており、父の愛を疑いません。さらに子の御霊がわたしたちの内におられることを知るとき、罪と戦うときにも聖霊が働かれるという確信を持って力強く生きられます。目の前の状況がどれほど苦しく弱く見えても、「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)というパウロの告白のように、かえってわたしたちの弱さのなかで神の栄光が示されるのです。
張ダビデ牧師はガラテヤ書4章を説教するとき、パウロが自分の肉体的弱さをさらけ出し、それでもガラテヤの信徒たちから大きな愛を受けた場面(ガラテヤ4:13-15)をしばしば引き合いに出します。パウロがあれほど弱々しく見えた存在であったにもかかわらず、ガラテヤの人々は目さえも与えたいと思うほど熱く歓迎してくれました。それは律法的義務ではなく、福音的愛に基づく態度でした。その美しい姿が後に律法主義者たちの侵入によって失われてしまったのですから、パウロの胸中はどれほど痛んだことでしょう。わたしたちも教会生活の中で、ある兄弟と初めて出会ったころには福音の中で熱い愛を分かち合っていたのに、時が経つにつれ互いを罪定めし、分裂してしまう姿を目にすることがあります。まさにそのような状況で、再びガラテヤ書のメッセージに立ち戻り、「ほんとうにわたしたちは神の子としての自由を味わっているのか?」と自問する必要があるのです。
パウロは「どうして再び奴隷に逆戻りしようとするのか」と必死に訴えます。これは単に旧い律法制度に戻る話だけでなく、人間の本性の弱点とも深く関わります。わたしたちは心のどこかに常に「善くあらねば、正しくあらねば、律法を守らねば」という強迫観念を抱えて生きています。しかしそれが究極的にわたしたちを義とすることはできない、という事実を福音がはっきり示しているのです。義はイエス・キリストにあって信仰によって与えられるのであって、その信仰は「子としての関係」の中で花開きます。子は父の望まれる心を知り、それを従順によって実践しつつも、律法的抑圧ではなく愛の動力によって動きます。この微妙な違いこそが、宗教的生活と福音的生活を分けるのです。
今日の教会の視点でガラテヤ書4章を読み直せば、教会の中にいかに多くの「初歩的教え」的要素が入り込んでいるかに気づくでしょう。世の方法論や「キリスト教」を名乗る律法主義的な教えでさえ、ときには初歩的教えになりえます。外見上は立派で善良そうに見えても、それが十字架の恵みの福音に立脚しておらず、人間的な義務と達成だけを強調するものならば、それもわたしたちを奴隷にする初歩的教えです。パウロはそうしたものを容赦なく「再び奴隷の身分に逆戻りするのか」と非難し、偽教師たちが信徒たちをそそのかし、憎しみの火種をまき散らす現実を直視します。そそのかしと分裂、偽り、憎悪、罪定めは、福音が目指す愛と自由とは正反対のものだからです。
では具体的に、「わたしは神の子だ」というアイデンティティをどのように守り実践できるでしょうか。まずは、御言葉と祈りを通して絶えず自分が受けた救いを思い起こすことが重要です。イエス・キリストによる贖いがなければ、わたしたちは今なお罪の奴隷であったはずです。にもかかわらず、福音によって神の子とされていることを、頭だけでなく心の底にまで刻み込むのです。次に、聖霊に頼ることが大切です。ガラテヤ書4章で言う「子の御霊」とはまさに聖霊です。わたしたちが御霊にとどまるとき、わたしたちは神を「アバ、父よ」と呼び、親密な交わりの中でこの世に対しても大胆になります。さらに、わたしたちの自由は愛として実践されなければなりません。宗教的義務に従って形式を守るのではなく、十字架の愛がわたしたちのうちに注がれたとおりに隣人を仕え、教会を建て上げるのです。そうするとガラテヤ書5章14節の「律法の全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉に尽きるのです」という御言葉が成就されるのです。
結局、パウロがガラテヤ書4章で「あなたがたのうちにキリストの姿が形造られるまで、再び産みの苦しみをする」と語ったのは、子としての現実が信徒一人ひとりの心の奥深くに刻まれるようにするためでした。パウロが肉体的な弱さを抱えながらも、ガラテヤの人々が彼を「イエス・キリストに対するように」迎え、火のように燃える愛で包んでくれた日々を思い出させるのは、その頃の愛と自由へともう一度帰ってきてほしいという招きでもあります。わたしたちも教会生活をする中で、初心が薄れ、形式と習慣に縛られ、他者を批判したり、自分の義を掲げようとする姿を見せるときがあります。そうしたとき、ガラテヤ書4章のメッセージを再び思い起こすべきです。はたしてわたしは子として自由に生きているのか、それともまた奴隷の道へと逆戻りしているのか、と。
張ダビデ牧師はこの問いを常に胸に刻み、教会の共同体や個人の信仰生活を省みるよう勧めています。福音は一度信じて終わる教理ではなく、日々生き抜くべき力だからです。その力は人間の力で作り出せるものではなく、子の御霊がわたしたちのうちに宿らなければ花開きません。だからこそ、キリストは律法の下に生まれ、わたしたちを贖い出され、わたしたちが福音によって生きるとき、かえって律法のすべての要求は御霊のうちで自然に成就されるのです。これこそパウロ神学の神髄であり、わたしたちがこのことを忘れずに「わたしたちに自由を与えられた理由」を常に省みるとき、教会内の分裂や偽りの教え、人間的な規範への執着ではなく、むしろ愛と御霊の実が満ちる共同体が築かれていくのです。
まとめると、ガラテヤ書3章23節から4章7節に至る本文でパウロは、「奴隷」と「子」の鮮明な対比を通して福音の力を証言します。「あなたがたは子である」「子ならば相続人である」という彼の宣言は、教会が再び奴隷のくびきへ戻ろうとする愚かさを糾弾し、新しく打ち立てられる子としての自己認識を奨励するものです。これは旧約の歴史の中で律法をお与えになった神が、最終的にイエス・キリストを通じて人類が真の子としての身分を回復することを望まれたことを示します。これについて張ダビデ牧師は、ガラテヤ書に込められた福音的エッセンスと恵みの核心を見失わないように、日々自分を省みつつ、信徒たちがこの自由を実際の生活に適用すべきだと強く説いています。子とされたわたしたちは、もはや恐れや義務感に縛られることなく、神をアバ、父よと呼び、そのすべてを相続できる驚くべき特権に立っています。その自由と愛の関係を日々味わい、証しすることこそ、ガラテヤ書4章が現代の教会に突きつける力強い呼びかけであり、喜びの招きなのです。